4-1-③
二人のいる木の下を食事を終えた熊神が悠々と過ぎ去っていく。一瞬樹上を見上げるような仕草を見せ、レイとユーナの心胆を寒からしめたが、程なく視線を下ろし真っ直ぐ元来た途を引き返していった。
ユーナは生きた心地がしなかった。熊神が木陰に消えてその姿を完全に消すと、ユーナの左手の中で何かが動いた。驚いたようにその手を見ると、レイの右手がいつの間にか絡まっていた。どうやら無意識でレイの手を握りしめていたらしい。
「…もう良いな?」
微かな声と共にレイがその手を解いた。レイの手にはユーナの爪が食い込んだ痕があり、血流が阻害され真っ白になっていた。
微かに痺れる右手をゆっくりと引き寄せ、レイは爪痕から薄く滲むその血を舐めた。
口内に鉄錆の味が広がる。今し方目撃した鮮血にまみれた熊神の食事シーンを彷彿とさせるその味に、レイは吐き気を覚える。
それでも我慢して止血を済ませ、ゆっくりと時間を取る。
レイは焦らない。焦ってはならない。
恐怖は大事な感情だが、本能に根付いた感情である。それ故、恐怖に囚われたままだと思考能力を著しく低下させる。そのことをよく理解しているレイは、ゆっくりと時間を使って己の心を落ち着け、平常心を取り戻す。
恐怖に捕らわれたまま追跡を行うことは死を意味する。彼は新兵の時、自身の教育係であったベテラン兵士が為すすべもなくウェンカムイに食い殺されたシーンを思い出す。あの時も突然の出来事で恐慌に陥り、恐怖を御しきれないまま足跡を探していたところを熊神に奇襲された。
その時刻まれた恐怖は、今なお消えず、レイに慎重な行動を取らせる。ミリアがレイの追跡に全幅の信頼を寄せているのは、権能とレイのこの無茶をしない慎重さがあるからだ。
そして積み重ねられたレイの経験は、例え熊神の姿を直接目に捉えなくても、その追跡を可能とした。
足跡、音、巨体が通った道の見分け方、勘…培ってきた全ての知識と経験を頼りに熊神を追えばよい。今は自身とユーナの気を落ち着けるのが先決だ。
そう自分に言い聞かせ、鼻からゆっくり息を吸い、そして倍の時間をかけて口からゆっくりと吐き出す。横隔膜を絞り上げ、肺腑の全ての空気を抜くように…
幾度となく深呼吸を繰り返し、冷静さを取り戻すまでたっぷりと時間を使ったレイは、自身の身体の震えが止まったのを確認する。ゆっくり慎重に身体を持ち上げ、全神経を耳に集中した。
もう熊神の気配を音に聞くことはない。辺りには森の優しい調べが漂うだけだ。そのことを確認すると、レイは音を立てないように楢の木から降り、ゆっくりと
そのまま大地に腹這いになり、苔の窪みを確認する。くっきりついた熊神の足跡を確認すると、一度目を閉じてその痕跡を網膜に焼き付けた。
これでレイの準備は整った。
立ち上がって樹上のユーナを見上げる。彼女はまだ放心していた。
「ユーナ?」
驚かせないように優しく呼びかけ、ユーナの注意を引き戻す。視線を合わせたユーナに手招きし、降りてくるよう促す。コクっと頷いた彼女がまだ震える足で立ち上がり、その手を枝にかけようとした瞬間、ユーナは滑るように木から落ちた。
レイが咄嗟に駆け寄り、ユーナをキャッチ。横抱きに抱え上げ、ゆっくりと彼女を降ろしてやる。
「まずは気付けの呼吸だ。できるだろ?」
パニックを起こしている人間には優しく声をかけなければならない。恐怖に駆られたままパニック行動を取られると、ユーナはもちろんレイも命が危ない。
ゆっくり息を吸い、一度息を詰めて、それからゆっくり吐く。彼女の流派に伝わる独特の呼吸音を聞きながら、彼女の目に力が戻るのを待つ。
白っぽかったユーナの顔色に赤みが戻り、目が意思の光を取り戻したのを見て、レイはホルスターから小瓶を一つ取り出した。
レイが先に口をつけて安心させて見せ、ユーナに手渡す。ユーナは手渡された小瓶を見つめ、レイを見返したが、そのまま一息に煽った。
中はただの水だった。レイの体温でほんのりと温まり、身を引き締めるように冷たくはなかったが、逆にそれが人の温もりを伝えてくれる。
時間をかけて全てを飲み干し、瓶をレイに突き返した瞬間、はっとユーナの頬に朱が注いだ。
「どうした?」
レイの問いかけに、耳まで赤くなったユーナがぼそぼそと呟いた。
「…間接…キス…」
その一言にレイは苦笑を浮かべ、受け取った瓶をホルスターにしまう。
「そんだけ周りが見えてりゃもう大丈夫だな…追うぞ」
苦笑を消し、語気短く発された言葉と共にレイの顔が引き締まる。
ユーナの返事を待つまでもなくレイはギリースーツを纏い直すと、中腰になり、大地の苔の中に身を沈め込んだ。そのままゆっくりと前に進み出す。
ユーナは躊躇うことなく追跡に入ったレイのその姿を見て、戸惑いを隠すことができなかった。あれは初めて見たユーナが、一目で勝てないことがわかった相手だ。ずっと背中を追いかけてきたレイと比較しても、格上の存在なのは間違いないだろう。それなのになぜレイはあれと向き合えるのか…?
前を行くレイを見つめる。このまま引き返すことは出来ないのだろうか?レイに声をかけたい衝動に駆られる。
しかし逃げ出そうと思ってもユーナが逃げ出す事はできない相談だ。彼女には夢があり、そしてその夢のために軍人になることを決めたのは、他ならぬ彼女なのだ。職責を全うしなければならない。
(怖いと思っても、やれることをやるしかない…のよね…)
その言葉を胸で反芻したとき、レイも怯えていた事実をユーナは思い出した。アラーニェの戦闘のときも、そして今し方ウェンカムイとの遭遇のときに手を差し伸べてくれた時も…
怯えることは恥ではない。恐怖と真っ直ぐ向き合って、制御することが大切なのだ。
レイもミリアも大切なことをユーナに教えてくれた。二人ともそうやって戦っているのだ。
それを思い出した途端、ユーナに天啓のような閃きが起こった。
それは、『恐怖を抱えたまま戦っても良いのだ』と言うこと。
その天啓はユーナの心をすっと軽くしてくれた。
ユーナはゆっくりと膝を着いた。
ウェンカムイは恐い。それでも、恐怖に囚われても、逃げ出せないのであれば、恐怖と向き合うためのくすぶって消えない想いがあるならば、ユーナにはできることがある。
レイがしていたように中腰になってギリースーツを薄く覆い直し、苔の大地と一体化する。一つ気付けの息をゆっくり吐いて面を上げてレイを見つめる。
彼女は大きく足を踏み出してレイの後を追い始めた。
先行するレイは時折大地に耳を当て、周囲の音を探る。熊神の足跡はユーナにはよくわからないが、レイにはくっきりと見えているらしい。
彼は足音からその距離を割り出し、離れすぎないよう、近づきすぎないよう、細心の注意を払って追跡を続ける。
そんな彼がしきりに音を探っている。訝しそうに首を傾げ、細心の注意を払って足跡を見つめる。
すぐ側に来たユーナに音を立てないように手で制する。彼の顔は緊張が浮き彫りになっており、額からは汗が滴り落ちていた。
(振動がない…塒に入ったのか…休んだのか…)
普通に考えればそう言うことだろう。ここまでの追跡に落ち度はない。アラーニェと言うトラブルはあったものの、無事回避して見せた。
しかしレイはこの光景に既視感を覚えていた。同時に肌に纏わりつく怖気のような嫌な予感。
レイの直感が警鐘を鳴らす。これは何時だ?過去に見たことがある…それはどのタイミングだ?
思い出そうとするが、思い出せない。
経験を信じ続行するか、直感を信じ一旦身を隠すか…
彼は選択に迫られた。一つ深く息を吐き、彼は決断する。
(進もう!)
ゆっくりと腹這いになり、大地に完全に身を溶かす。ユーナにも最大限の警戒を払って側にいるようハンドサインで指示し、にじるように匍匐前進をはじめた。
コケから伝わる湿り気が装備を濡らし、腹が冷たくなる。視線が下がったことで今まで見えなかった小さき者達が視界に入る。カタツムリ…アリ…毛虫…クモ…
しかしレイの見据える先はただ一つ。熊神の足跡のみ。
その足跡が突然消えた。
レイの脳裏にフラッシュバックしたのは初めての熊神との記憶。それはレイが新兵だったとき、仲間が食われ全滅しかけたあの時の記憶。あの時も突然足跡が消え、浮き足立ったところを背後から急襲され、為すすべもなく壊走したのだ。
『熊の
そして追跡者を待ち伏せ、音もなくその背後をとり、奇襲をかける事がある。
ユーナは突然浮遊感に包まれると、前方の藪めがけて投擲された。藪が急速に近づいてくる。反射的に目を閉じて、腕で防御姿勢を作り、急所を守る。
藪がクッションになり、ユーナの衝撃を受け流してくれた。
突然何が起こったか理解ができず、訳もわからないままユーナは自分が居たはずの場所を見る。
そこには権能の光を纏ったレイが全力で走ってくる姿と、その背後に立ち上がった漆黒のウェンカムイの姿があった。
レイが潜んでいたウェンカムイの気配に気づき、権能を使って、側にいたユーナの装備を掴み全力で前方に投げつけたのだ。
「走れっ!!」
ユーナを掴み上げて無理やり立ち上がらせ、権能を施すとレイは一目散に駆け抜けた。
ユーナも一瞬で状況を理解し、顔面蒼白でレイの後を追う。
追いかけてきたのは、腹の底を振るわせるような獣の雄叫びと、鈍重な地響き。
しかし恐くて後ろを振り返ることなど出来ない。本能が教えてくれる。その一瞬の隙が命取りになると…
レイに授けられた権能をうまく制御することが出来ない。しかしそんなことは関係ない。ユーナは今自分が出せる全力で駆け抜ける。有り得ない速度が出ていた。一気に地響きが遠くなる。しかしユーナの感覚がその速度に付いていけず、彼女は足をもつれさせ、転びそうになった。
突然背中から持ち上げられ、ユーナの身体が担ぎ上げられた。いつぞやの時と同じ。ユーナを担いだレイが死に物狂いで逃避行を開始した。
どれくらい走ったろうか…苔に足を取られながら樹間を駆け抜け、幹を駆け上がり枝を蹴っては木々を渡り歩き、レイは遁走を続けた。
自身が制御できる権能最大の出力。その継続時間およそ五分。どう逃げたかは、レイもわからない。ただ拠点の方角を目指してひたすらに森を駆け抜けた。
地鳴りはまだ聞こえない。しかし確実にレイとユーナを捉えている。だが、レイの足が突然止まった。
ユーナの身体が宙に投げ出された。同時に荒い息を吐きながら、レイが崩れ落ちる。
ユーナは受け身を取ってすぐさま起き上がり、レイに肩を貸そうとするが、レイはユーナを押しやった。
首を振って制し、指を差し、その意思を示す。
それは非情な指示だった。「先に行け。ユティナ村へ逃げろ」。レイの指先が、決死の形相が、レイが何をやろうとしているのかを如実に指し示している。
「できる訳ないじゃないっ!!」
彼女はこの日一番の大きな声を出した。それは悲壮感が混じった悲しい叫び声だった。しかしそんな大声をレイは咎めない。もう熊神に自分達の隠れている場所などバレている。
ヤツは初めから気づいていたのだ。
ヤツに匂いを覚えられた以上、レイはユーナと一緒に行けない。それに足も既に痛み出している。ユティナ村まで保ちそうもない。
灼熱の息を沈めようと、レイは息吹を使って無理やり呼吸を調えた。
何度かの息吹の後、ようやくレイは掠れた声を上げた。
「兵舎に行って…ミリアを…呼んでこい。ミリアがいなけりゃ…勝てねぇ…」
「それなら、レイも一緒に!!」
「あいつは…俺の匂いを覚えた。ユティナ村を危険にさらせない」
「じゃぁどうするつもりなのっ!?レイ囮になるつもりでしょう!?」
レイはそのまま腰を下ろし、ホルスターを漁り、水の入った小瓶と一枚の地図を取り出した。そのまま焼け付く喉を沈めるために、水を一気に飲み干した。
これで状況を説明できる。
地図を広げ、目視で付近を観察し、今いる場所を確認する。
「今ここだ」
その言葉とともに、レイは地図上の一点を指差した。それは拠点から2キロほどの場所。ユティナ村までユーナの足で5~6時間と言ったところか…
「今からじゃ夜になる。夜の森は死の世界だ。絶対歩くな。ベースで夜を明かし、日の出とともに兵舎へ戻れ」
「いやっ!!レイも一緒に付いて来てっ!!」
駄々っ子のようにユーナが首を振る。そんなユーナにレイは優しく微笑むとポンポンと頭を叩く。
彼女はずっとレイの背中を見てきたのだ。レイがもう戦えないと言うことを誰よりもわかっているのだろう。だから必死なのだ。囮になるとはレイの死を意味することだから…
それがわかるレイはユーナを叱るに叱れない。困った顔をして、レイはユーナを見つめる。
「行きたいさ。帰りたいよ、俺だって」
「…なら一緒に!!レイは私が運ぶからっ!!」
「けど俺は軍人だ。やらなくちゃならない」
レイの鉄の意志がその言葉に込められていた。ユーナは説得が無理なことを悟った。それでも諦めきれない思いから、レイに追いすがる。
「死んだら終わりだってレイ言ったじゃない!何よりも死を恐れろって言ったじゃない!!自分で言ったくせにっ!!」
その言葉を聞いてレイは呆気にとられた顔をした。いや、して見せた。
「…死ぬ気はないけど。足止めの罠を張る」
「ウソっ!!もう走れないくらい足痛いくせにっ!!」
ユーナの金切り声を聞いた瞬間、レイが抜剣し、唐突に自身の左手首を傷つけた。
レイの鮮血が滴り落ちるその光景を見た瞬間、ユーナは混乱し、同時にレイの死の覚悟を知った。
「何してるのよっ!!」
レイは自分の血を先ほど飲み干して空にした小瓶に詰める。並々と血を注ぐと、レイは止血を施し、その漏れた血で小さく地図をマーキングした。
「時間がない…手短に行くぞっ!!」
一息に言い切ると、レイは眦を決してユーナを見た。その目に宿った意思の強さにユーナは呑まれた。
「ヤツは自分の塒近くで俺たちを逃した。もう今の塒には戻らない。俺たちを仕留めるために放浪しながら、新しい塒を探すだろう。だから俺は今から血の匂いで、ここにヤツをおびき寄せる」
レイが己の血でしたためた一点を指す。それは現地点から拠点と反対方向に1キロほど先の場所だった。熊神のいる方向に戻ることになる。
「この辺りは高台の岩礁地帯で、崖が多くなっている。木々も少ない。足場も悪い。巨体のヤツは足が鈍る。もう直ぐ夕暮れだ。ヤツが俺を探している間に恐らく夜になる」
レイの気迫に圧されたユーナはだまって頷く。
「ヤツは鼻が利くし、夜目も利くが、あいつらは近眼だ。だから足場の悪い場所なら夜は無理せず、どこかに新しい塒を定めて身を潜め、明るくなるまで待つ。そしてここには、ヤツの巨体を隠せるような場所は数ヶ所しかない」
朧気ながら、ユーナはレイの考えていることがわかった気がした。光明が一筋射し込んできた。
「俺は今夜は生き延びられる。これはほぼ確実だ。そしてヤツの塒を見つけ出す。もう当たりは付けている」
「…うん」
「明日の朝一で兵舎に駆け戻って、ミリアに俺がここに熊神を誘き出したと伝えてくれ。ミリアが来るまで俺はヤツを撒き続ける。そのための知恵と経験は既にある。そして地の利が俺にある」
レイは笑った。その剛毅な笑みにユーナは一瞬安心感を覚えた。何時もの、普段の頼れるレイが戻ってきたのだ。
「だからユーナ。俺は死なない。お前さんも死なない。ここで俺が傷ついたことを知れば、ヤツは俺を仕留めるために躍起になって俺を探す。俺はそれを見張って、常に奴から身を隠す。隠れんぼの鉄則は、鬼を常に見張り続ける事だからな…」
「うん」
「だから行けっ!!お前さんがミリアを連れてきてくれ」
「うんっ!!」
ユーナは頷くと、レイに背を向けた。その背にレイが権能を施す。優しく押し出され、ユーナは振り返ることなく駆け出した。
同時にレイも重い腰を上げた。足は既に歩くのも辛いくらい痛い。しかし長居は無用だ。自分の言葉通り、もうすぐ血の匂いを辿ってウェンカムイがやってくる。
レイは風下に向かって足を引き摺るように歩き出した。このまま大きく迂回しながら目的の場所を目指す。
権能は使えて後一回。時間にして一分弱。それが最後のレイの切り札。恐らくミリアがここに着くのは明日の夕刻前後。およそ一日を自分一人で生き延びねばならない。
できるだろうか…?いや、やってみせる。
レイはこれからのことを思って顔をしかめた。しかし、その顔をすぐさま引き締め、周囲の緑に溶け込んだ。
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