4-1-②

巨大な木々が旺盛な繁殖力を示し、光を求めて枝葉を天へと高く高く突き上げている。そのせいで周囲は薄墨を掃いたように仄暗い。それでも所々朽ちた木が、穴の空いたカーテンのように陽光を大地に届かせる。そんなスポットライトのような陽光の下では、小さな若い木々が、あるいは草本が精一杯葉を広げ、豊かな森の植生を形作っていた。

そしてその大地を埋め尽くす一面の苔。その柔らかい緑の絨毯に己の足音を隠しながら、二人はウェンカムイのねぐらを目指す。


レイはミリアから手渡された地図を頼りに、過去に見つけたウェンカムイの痕跡をゆっくりと辿っていく。その地図には几帳面な字で、ミリアが見つけた熊神の痕跡の情報が仔細に書き込まれていた。

傍らにはユーナがぴったりと寄り添い、周囲の警戒を続けている。

森に入る前にユーナがレイに言われたことは二つ。

一つは周囲の警戒を怠らないこと。もう一つは絶対に音を立てないこと。

地図を眺めるレイに代わって索敵を任され、ユーナの気持ちは張り詰めていた。


熊神ウェンカムイ探索の基本は、彼の堕神の習性を利用することにある。

この堕神は単独で行動するが、その行動半径がひたすらに広い。巣穴からおよそ半径10キロ圏内を縄張りとし、その縄張り内をうろつく生き物をひたすらに狩って食らう。

その獲物は他種の堕神は勿論のこと、ウェンカムイ同士の共食いも普通に起こる。要するにこの堕神、自分以外の動物は何でも食う。

そしてその狩りを支えているのは、鋭敏な嗅覚。ウェンカムイは巣穴に居ながらにして、獲物のおおよその距離と方角を鼻で捉え、その匂いを頼りに獲物を追跡して捉える。

そして食事を終えるとまた巣穴に戻り、また獲物の匂いを嗅ぎ分けながら過ごすのだ。


従ってウェンカムイを狩るためには、まず巣穴を特定しなければならない。ウェンカムイの縄張り内を闇雲に歩き回って遭遇を求めるのは非効率だし、何より急な遭遇戦を仕掛けて勝てる相手ではない。

そのためにはまず彼の堕神の痕跡を探し出し、その縄張りをある程度把握する必要がある。

これについてはミリアが巡回の合間に少しずつ情報を集めており、その作業については大方の目処が立っていた。


今回レイとユーナに課せられた任務は、この熊神を見つけ、追跡してその巣穴を特定すること。

しかしこれが何よりも難しい。

熊神追跡において最も重要なことは、熊神を含めて他の堕神との直接の戦闘を避けなくてはならないこと。

当たり前であるが、熊神との戦闘は絶対に避けねばならない。これは熊神の戦闘能力がけた外れである事は勿論、もう一つ別の理由もある。

ウェンカムイは巣穴の特定を嫌う。そのため、巣穴近くで狩りの獲物を取り逃がした場合、巣穴を変える傾向にある。

巣穴を変えれば同時に縄張りも変わるため、直接戦闘になってしまった場合、例え運良く逃げ出せたとしても、今までの調査が無駄になってしまう恐れがあるのだ。それどころか、移動によって生じた新たな縄張りにユティナ村まで入ってしまったら、目も当てられない。

他の堕神との戦闘を避ける理由も、同様にウェンカムイの習性による。ウェンカムイは血の匂いに過敏に反応する。他の生物の流した血の匂いを嗅ぎ取ることで、弱った相手を仕留め、もしくは何らかの事故で死んだ相手を食する。そのため例え他の堕神であってもなるべく戦闘を避けなければならない。

これらを達成するためには、森に溶け込み、堕神に一切の自分の情報を漏らしてはならない。けして堕神の目に自らの姿を、匂いを、音を感じ取られてはならないのだ。


レイはその権能のお陰で、堕神に発見されて戦闘になったとしても、戦わずに逃げきれる確率が高い。そのためウェンカムイ追跡に幾度も任命され、ひたすらに経験を積んできた。

その経験を信頼され、ユーナにSランク討伐の一端を垣間見せるために課されたのが今回の追跡任務である。


レイはミリアの文字がびっしりと書き込まれた地図を取り出し、立ち止まった。

今目の前にある巨木に深々と刻まれた8本の爪痕は、ウェンカムイのマーキング痕。ミリアの地図には書かれていないこの痕跡は、熊神自らが自身の縄張りを主張して残すもの。刻まれた傷跡はまだ新しい。

(まだいるな…となると予想通りか)

レイは地図の情報を更新すると、痕跡を繋いで歪な円を描いた。

その地図をしばらく眺めた後、レイはこれから目指す場所を決定した。それは繋いだ線の中心にほど近いここから南西方向に山を下った沢。

堕神も授肉している存在である以上、彼らにも水分が必要である。そしてそれはウェンカムイも例外ではない。そのため巣穴に近い水場はウェンカムイの出没率も高い。

そして水流の中に木々は生えないため、沢近辺は深い森の中において見通しがつく数少ないポイントでもある。

過去のウェンカムイ追跡任務の経験から、レイは待ち伏せに網を張るなら沢が良いと結論づけていた。

レイはユーナに地図を見せ、今から向かうそのポイントを指差す。それは現地点からおよそ8キロ以上先の場所。今からたっぷり4時間は歩く事になる。ユーナは深く息を吐くことで了解を表して見せた。

そんなユーナに苦笑を送り、レイは先に立って歩き出した。しかしレイの背を見続けてきたユーナは、レイのその背中に隠しきれないほどの緊張感が漂っているのを見逃すことができなかった。





道中の半分ほど来たとき、ユーナは突然足を掬われるような感覚を覚えた。

その刹那、大地にうつ伏せに引き倒され、ずりずりと後方に引っ張られる。

「…!!」

その擦過音に異常を知ったレイが素早くナイフを抜剣し、権能を纏って駆け出す。一跳躍で引きずられていくユーナに追いつくと、その足を捉えた糸に力任せにナイフを叩きつけ、ユーナの拘束を断ち切った。

そのままユーナが起きあがるのも待たず、レイは迎撃に入る。

その視線の先にいたのは、女性の裸体を思わせる上半身とクモの下半身を持つ堕神「アラーニェ」。

全身を深い緑の色に覆われ、女性の頭部に8つの目とクモの口を持つ森を縄張りとする堕神である。

「シッ!!!」

レイは鋭く息を吐き、アラーニェの眼前に高速で迫ると鋭く小さく腕を振り抜いて、糸を吐き出そうとしていたアラーニェの首を落とした。

頭部を失い、崩れ落ちるアラーニェを後目に、ユーナの方に向き直ると、膝を崩して座り込むユーナと目が合う。

辺りを注意深く観察した後、レイが徐に声をかけた。

「大丈夫か?」

その声音は小さいが、ユーナははっきりと頷いて無事を知らせる。

そんなユーナは小さい声でレイに謝罪を口にした。

「ごめんなさい…全く気づかなかった」

「いや…気にすんな。何事も経験だ。それに…」

レイは言いさすと、ユーナの手を取り、起きあがらせる。

「よく声出さなかったな…良くやった」

それだけ言うとレイはユーナから視線を切って、素早く頭上を見上げた。避けねばならない他の堕神との戦闘。やむを得ずそれを敢行してしまったレイは高速で頭を巡らせる。経験から導き出した結論は、アラーニェの躯を囮にした待ち伏せ。レイは首を振って、目的のものを探し出す。


ユーナは身体についた落ち葉や土を音を立てないように払い落とすと、レイの視線の先を追う。

そこには巨大な楢の木が一本、大地から隆々と根を張り鎮座している姿があった。

レイはその木を指差すと「奴が来るかもしれない。身を隠す…急いで登るぞ」と早口で告げ、枝に手をかけてその幹を登り始めた。ユーナも直ちに後を追う。

樹上にたどり着くと太い枝に抱きつくように背を丸め、レイはギリースーツを深く被り直す。ユーナも見様見真似でそれを真似する。

しかしユーナはレイの今の戦闘に何時になく漠然とした不安を覚えていた。最初はウェンカムイと言う超弩級の堕神を相手にする緊張感だと思っていたが、それだけではない。普段の彼に感じる余裕がないように思えて仕方がなかった。


(何か…何時ものレイと違う…)


ユーナは、レイのことを、細かくヒット&アウェイを重ねてダメージを蓄積し、そのダメージにより動きが鈍った所に留めの一撃を放り込むスピードタイプだと思っていた。

それが権能を最小限に抑えることで自身のダメージ蓄積を抑え、長く戦うために身につけたレイの戦闘スタイルなのだろう。

しかし今のレイの動きは明らかに一撃必殺狙い。権能によって最大限に強化した力を用いて、初手に大技をぶち込む事で決着をつける。

同じ権能を用いるスタイルであっても、レイの普段のスタイルとは正反対のパワー型のスタイル。そのスタイルにユーナは違和感を覚え、同時に不安を感じている。


性格や才能、体格が使える技を決め、その技の積み重ねがその者の戦闘スタイルを決定する。これはレイに限らず、格闘術を修めた場合誰しもが通る途である。

ユーナを例に取った場合、彼女の性格は攻撃的とは言い難い。それは彼女の剣を取った理由が父母を弔うという理由からも伺い知る事ができる。彼女は自分の攻撃本能に基づく欲求から剣を取ったわけではないのだ。

ユーナのように本質的に気立ての優しい人間は、自分から攻勢に出ることが難しい。防衛本能の対となる攻撃本能のスイッチが入りにくいためだ。そのため、彼女の才能は防御の剣として芽吹く事になる。

そしてその芽吹いた才能と反復練習によって手に入れた防御技術を土台とし、その上で防御技術と相性の良いカウンターという攻撃手段を手に入れることで彼女の戦闘スタイルは完成した。

このように、自分の体格や性格に応じてそれぞれ得意とする技が異なり、その得意の技を基軸にして戦い続けることにより、派生する相性の良い技を収得することで戦闘スタイルが確立していく事になる。


今ユーナがレイに感じている違和感の正体は、レイの先ほどの一撃が、出が速いが威力のない手打ちである筈なのに、アラーニェの首を落とした事にある。

先程のレイの一撃は、腰の回転がなく、手だけで振り切っていた。それはつまり、権能により腰の回転がいらないほど腕の筋力を増強してアラーニェの首を断ち切ったことを意味し、同時に権能によって必要以上に自身がダメージを被ったことを意味する。

この腰の回転をいれない手打ちの一振りは、威力を捨てる代わりに速度を重んじるという、いわゆる小技に属する技術であって、けして一撃必殺を狙う大技ではない。

腰の回転を入れ、遠心力を付加して大きく振り抜くことが一撃に威力を乗せる基本であり、一撃必殺を狙う定石なのだ。

今のレイはジャブの単発使用でKOを狙いに行ったようなもの。KOを狙うならストレートを選択すべきである筈なのにも関わらず。

そのちぐはぐさがユーナの目に違和感として映っている。


樹上で身を縮めて身体を横たえるレイに、ユーナが小声で話しかけた。

「レイ…だいじょうぶ?」

その声に、木と同化していたレイがピクリと反応した。

「…今は静かにしてろ…」

低くくぐもったレイの声音を聞いてユーナは確信した。レイは今間違いなく怯えの感情を抱えている。レイが戦闘で怯えを見せたことなどなかった。これは異常事態だ。

怯えの気持ちはチームに伝播する。ユーナは堅く口を引き結び、レイと同様にアラーニェの躯を注視した。ユーナの心に、クイーンと対峙したときの絶望的なまでの恐怖が忍び寄ってきていた。



どれくらい樹上で身を潜めていただろうか。既に優に一時間は潜んでいる。その間、二人は木の一部となったように声も立てず、身じろぎ一つしない。それどころか呼吸するのを忘れたかのように、彼らは音一つ立てない。

辺りには森のざわめきと野鳥の声、彼方から聞こえる小川のせせらぎが響きわたる。自然の奏でる優しい音楽。本来ならばその調べは緊張感をほぐし、人をリラックスさせてくれるはずである。しかしレイの表情は、緊張感でギリギリと音が聞こえるかのように張り詰めていた。

完璧なはずの音楽に混じる不協和音。どこかから微かに地鳴りが聞こえる。それは優しくたおやかな室内楽の演奏中に突如鳴り響いたバスドラムの音に似ていた。

その低い響きはレイの臓物を震わせ、その振動にリンクするように心音が強くビートを刻む。


(来た…!!)


木々の影から黒い影が姿を表す。そのシルエットは巨大な剣山。四肢を生やした巨大な剣山が、キシキシと針を震わせながらゆっくりと近付いてきた。いや剣山と呼ぶには、針が大きい。針というよりはもはや杭と呼ぶ方が相応しい。背中を巨大な杭で覆われたその生き物こそ、熊神『ウェンカムイ』。巨大な熊が投げ槍を思わせる鋭い針を背負ったそのシルエットは、幾度も対峙してきたレイにとって悪夢そのものの姿であった。


(ヤバい…)

ユーナは初めて見るその姿に慄然とした。彼女の想像のウェンカムイは巨大な熊の堕神であった。確かに歩く姿や顔つきは熊の姿を彷彿とさせる。しかしその背中に背負っているのはヤマアラシを思わせる針の山。その硬度は文字通り歯が立たない。その上その針を自由に飛ばしてくる『砲術』という固有能力。

ユーナは一目でレイがウェンカムイを恐れる理由を理解した。彼女は眼下を地響きを立てながらのっそりと歩く堕神と、どう戦えばいいのか全く想像ができない。

不安を打ち消すようにレイを見る。レイの目は針のように細く狭められ、表情がほとんど読み取れない。

突如獣の吐く荒い呼吸音と、骨を噛み砕く不気味な音が響いてきた。ゆっくりとその音の発生地点に視線を戻すと、そこにはアラーニェの生首を一口で噛み砕いたウェンカムイの姿があった。

骨を噛み砕く不気味な音は、生物としての原始的な本能を刺激する。全身を這いずる怖気をこらえ、必死に悲鳴をかみ殺し、身体の震えを無理矢理沈める。

口からアラーニェの体液を滴らせ、一心不乱に咀嚼を繰り返すウェンカムイ。その姿は狩り、殺し、食らうという捕食者として正しき姿の体現そのものであった。

あれは全てを狩る者だ。人も堕神も関係ない。自分以外は皆エサ。ユーナの心に巣くった気を失いそうになるほどの恐怖が、クイーンと対峙したときと比べものにならないその恐怖が、そのことを雄弁に彼女に教えてくれた。


「ユーナ…ユーナ!」

その小さな囁きが、恐怖で頭を真っ白にしたユーナを現実に連れ戻した。

振り返るようにレイを仰ぎ見たユーナの瞳には涙が溜まっていた。レイは何も言わずにユーナに手を伸ばし、彼女の左手を優しく握り、指を絡めた。

レイの手も微かに震えていた。

しかしその手は温かかった。

「大丈夫、ここにいれば見つからない、落ち着け」

そう言われてるような気がして、ユーナはレイの手を強く握りしめた。頭蓋を丸ごと噛み砕いて呑み込んだウェンカムイはその食事を胴体へと移行する。血を吸い上げ、腸を引きちぎり、肺腑を食いちぎり、心臓を食い破るその様は壮絶の一言に尽きる。

骨を砕き、肉をみ、血を啜る不気味な音が響きわたる中、二人は息を潜めて顔を鮮血に染める熊神の凄惨な食事風景を眺め続けた。二人の内心を代弁するかのように、堅く結ばれたその手は強く握られ過ぎて血の気が失せ、真っ白になっていた。

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