4-1-①

「やっぱり…生焼けじゃねぇか…」

レイが釣り上げ、ユーナに調理させた鱒の塩焼きを一口かじり、レイは直ちに火にかけ直す。

川魚は寄生虫が恐いため、火を完全に通して食べなければならない。そう注意した矢先にこれである。

レイの様子をじっと観察していたユーナも、持っていた自分の分をレイに倣って火にかけ直した。どうやらレイは毒味役に当てられたようだ。ユーナもなかなかしたたかである。


そんなユーナを見て、呆れ顔のレイが呟いた。

「お前さん…本当に料理上手くなんないよな…」

「…苦手なのよ!お母さんから教えて貰えなかったんだから仕方ないじゃない!」

ユーナのプリプリ怒り出した様子にレイは肩をすくめると、まだ調理していない小振りの鱒に手を伸ばした。

調理用のナイフで手早くエラと内臓を処理し、持ってきた塩と乾燥したハーブを擦り込んでいく。

慣れた様子のレイの手付きに、怒りで頬を膨らませていた筈のユーナが何時しか興味深げにその手元を眺めていた。

その間も黙々とレイは作業をこなしていく。


「…何してるの?」

遂に興味を抑えられなくなったユーナが口を開いた。

「薫製の下準備。後は乾かしてから燻すんだけど、とりあえずは食えりゃ良しの方向で。なんせウェンカムイ見つけるまで帰れねぇからな…」


「ウェンカムイ…」

事前にレイとミリアに情報を渡されていたユーナは柳眉を顰める。

それは身の丈四メートルを超える熊の堕神。ヤトノカミよりは小柄な堕神である。

しかしその狩りの難易度はヤトノカミがAランクからSランクと幅があるのに対し、ウェンカムイはSランクのみ。

その理由は彼らの防御能力。この堕神は非常に硬い体毛にその身を覆われている。その体毛の硬度は鉄製の剣ですら全く歯が立たず、刃こぼれはおろか、あろう事か剣身すらへし折る。

ではプレートアーマーのように打撃に弱いのかと言うと、基となった熊の特徴を受け継いでおり、皮膚の下にだぶつく程の脂肪を蓄えているため、打撃のエネルギーを分散・吸収してしまう。

いくらレイが権能を用いたとしても、力任せで剣を叩きつけて勝てる相手ではない。

そしてさらに固有能力である『砲術』を用いて、その強靭な体毛を自在に飛ばして遠距離攻撃まで仕掛けてくる。

最硬の防御力を以て敵の攻撃の全てを無効化し、ヤトノカミと互角を誇る膂力を振るい、飛び道具まで備えるこの堕神は、最悪なことに人を好んで食う。たった一頭の個体が村一つ食い尽くした事件など掃いて捨てるほどある。

個体数が少ないことだけが唯一の救いであるが、見つけ次第、最優先で狩らねばならない悪魔の名称「ウェンカムイ」。


ユーナが着任する一月ほど前にミリアが糞を見つけ、ずっと追跡していた個体の調査を命じられたのが、昨日のこと。

昨日一日かけて準備した大荷物を背負って、レイとユーナの二人は今朝早くからメデル山に入った。

ミリアの指示通り、レイは初日を拠点ベースの設営に充てた。同時にユーナに山籠もりの基礎知識を授ける。今は一通りの拠点の設営を終え、食料の調達を実践して見せている最中だ。


下処理を終えて木陰に鱒を干したレイが火の側に戻ってくると、焼けた鱒を手に取ってかぶりついた。しっとりとしたその身がホロホロと崩れると同時に、魚の旨味を含んだ濃いめの塩味が口の中いっぱいに広がる。今度はきちんと焼けたようだ。

その様子を見ていたユーナは自分の分を手に取り、恐る恐る一口かじりついた。初めて口にする料理に戸惑っているのであろう。最初はおっかなびっくりな様子であったが、一口食べるとその美味しさに驚いた様で、後はホクホクした笑顔を浮かべて黙々と食べ続ける。

設営作業に時間をとられ、昼食と言うにはだいぶ遅い夕暮れ前の食事。まだ夜の明けきっていないうちに食べた朝食以来、二人は何も口にしていなかった。

レイはもちろん、特にユーナは空腹の筈だ。何せユーナは成長期の抜けきっていない食べ盛り。夢中で塩焼きにかぶりつくユーナを、レイは微笑ましく眺めていた。


「今のうちに食っとけよ。こっから先、まともな食事はおろか、人間としての生活はないからな…」

ユーナの手が止まる。

「それってどれくらい?」

「早けりゃ明後日には終わる。長くても一週間」

呟くように答えたレイの表情が消える。彼女の目に映ったレイの横顔には、透明な微笑が貼り付いていた。その顔を見た瞬間、ユーナはこの任務が尋常ではないことを悟った。レイが表情を消すほど緊張しているのを、ユーナは一度も見たことがない。

腹の底が雪を抱えたように重く冷たくなっていった。



寒気でユーナが目を覚ますと、既に外は明るくなっていた。

天幕の中で、しかも寝袋で寝たとは言え、河原の冷たい石と山間の冷気はユーナの体温を奪い、身体のあちこちが固くなっている。

寝ぼけ眼で這いだすようにテントの外に出てみると、既にレイは準備作業に入っており、何やら大鍋で湯を沸かしている。

「おはよう…」

挨拶の言葉はなかったが、レイは返事代わりに温かいカップを一つ手渡してくれた。

手渡されたドリンクをぼーっとする頭のまま一口啜る。

火傷するほど熱い湯の中に溶けていたのは、舌に緩く絡まるような優しい甘さと、ピリッと刺激的だが清涼感のある爽やかな辛さ。

「ほんとは紅茶でやるんだけどな…紅茶ないから、お湯割りだ」

そう言うレイも同じものを啜る。

「美味しい…これ何?」

「生姜の蜂蜜漬け、のお湯割り。ミリアが持たせてくれた奴」

「なんか、ホッとする味…あったかい」

ハニージンジャーは冷え切っていたユーナの身体を胃の中から温めてくれる。冷えた身体が少しずつ温まるにつれ、ユーナの脳も少しずつ目を覚ましていく。



昨晩レイと交代しつつ、不寝番を二人で勤めた。

メデル山は悪魔の山。比較的安全な場所に拠点を定めたとは言え、何が起こるかわからない場所で二人とも眠る訳には行かない。これも立派な訓練である。

ユーナは緊張しながらも夕暮れから深夜までの夜警を勤めた。

闇夜浮かんでいる星々の光は、いつもはあんなに優しく美しいのに、今のユーナにはその一つ一つが堕神の目に思え、何故だが落ち着かない。時折吹く風で揺れる木々の音が、ユーナには堕神が森を駆け抜け、焚き火の灯りを目指して駆けてくるようで気が気ではなかった。

レイに何かあったら起こすように言われていたが、何もなくても起こしてしまいそうだ。

交代の時間にレイが出てきてやっと不寝番から解放されたとき、彼女は気疲れでヘトヘトだった。逃げ込むようにテントに潜り込み、寝袋の中で身を丸めてようやく一心地ついたような気がした。

しかし、彼女はこのとき重要な事実に気づいた。来るか来ないかもわからない堕神より、確実に危険な夜這い男レイが側にいることを…

テントに差し込む焚き火の優しい光を頼りに、ユーナは入り口の隙間よりレイの様子を窺う。レイは昼間干していた魚を燻すのに集中しているようで、ユーナの方に気が回っている様子はない。

しかし安心はできない。レイの様子を見続け、異常があれば直ぐに逃げ出せるようにしなければ…

そう思っているうちに、いつの間にかユーナの意識は夢の中に溶けていた。



そして朝になり、今に至る。どうやら昨晩は何もされなかったらしい。その事実にまずユーナはほっと息をもらす。

その息遣いを聞かれたらしい。

「…どったの?」

レイが訝しんでくる。

「ん~ん…レイに襲われなくてほっとしてるだけ」

「あ~…今日からのことを思うと気が滅入ってなぁ。お前さんのご期待に添えなくて申し訳ないが、そんな気も起こらなかった…」

いつもの軽薄な口調ながら、その弱気な言葉を聞いてユーナの目が大きく見開かれた。

「レイが変態行動を慎むなんて…こっちが逆に心配だわ…」

わりかし真面目にレイの様子が気になる。「覗きに来ないと心配になる」と言ったミリアの気持ちが今なら良くわかる。


レイはそんなユーナの失礼な態度に白い目を送るが、諦めたように作業の続きに戻り、大鍋の湯を半分桶に入れた。

「…これお前さんの分…この小川の上流側に淀んで泉みたいになってるところあるから…そこで体きれいにしてきて。俺下流行くから…命に関わるから、念入りに水浴びして来て」

それだけ言うとレイは自分の分の湯を桶に入れ、何も言わずにスタスタと下流に向かって歩いていってしまった。

その様子にユーナは驚きを隠せない。レイらしくない行動の連続にユーナはしばらくフリーズして、大事なことを聞きそびれた。

「命に関わる」。レイは確かにそう言ったのだ。ハニージンジャーを急いで飲み干すと、ユーナは荷物を漁るように準備をして上流へと向かった。


朝の冷気の中の水浴びは辛かった…しかしレイの常とは異なるその様子と、命に関わると言うセリフにユーナは緊張感を漂わせ、いつもより時間をかけて入念に水を浴びた。

長い水浴びですっかり冷えた体を震わせながら拠点に戻ると、レイが小鍋で何かを練っている。

レイの邪魔にならないように火の側に陣取ると、ユーナは毛布にくるまって冷えた身体を温める。


レイが煮ている黒っぽい灰汁の固まりのようなその謎の粘液からは、濃い緑の匂いが漂ってくる。

正直臭い。尋常じゃないくらい臭い。

ユーナは顔をしかめつつ尋ねた。

「…何それ?食べるの?」

「いや…塗るの」

「…どこに?」

「全身。肌が露出してるところ全部…手も腕も顔も髪も…もちろんお前さんも」

「はぁぁぁぁ?ヤダっ!なんでそんなことしなきゃならないのよ!偽装服ギリースーツ着るんでしょ!?」

ユーナの大きな声にレイも負けじと言い返す。

「これは匂い消しだよっ!ウェンカムイは鼻が利く!ライラプスなんざ比じゃねぇ位になっ!あいつら人間の匂い嗅いだら、3キロ先からでも気付くんだぞ?俺だってこれ塗るのイヤなんだからなっ」

そう、熊は犬の7倍鼻が利くと言われている。ウェンカムイも言わずもがな…

これは人の体臭を誤魔化すためのカモフラージュ。メデル山でとれた粘土と薪の灰、ユーナが寝ているうちにレイが摘んでおいた粘りと独特の匂いを持つ実を混ぜ合わせ、煮出したもの。

これで人の体臭をごまかし、ウェンカムイを追跡するのが今回の任務だ。

しかしその独特の青臭い匂いにユーナは心底嫌そうな顔をした。それでも背に腹は変えられない。相手はSランクの堕神。やれることを全てやらねば、太刀打ちどころか戦うステージにすら上がれない。ユーナは腹の底に湧いた嫌悪感を打ち消すために黙り込んだ。

「…気持ちはわかる。俺も嫌いだ…これを塗って今からウェンカムイを追うとか…もう最悪だ…」

レイはユーナの表情に気持ちを見取りながら、小鍋を火から離し、平らな石の上に置いた。

「とりあえず飯食おう。食べ終わる頃には冷めてる…」

表情の消えたユーナに夜の間に燻した鱒を差し出す。

「ありがと」。

小さく言われたユーナの返事を背中で聞いて、レイは自分も燻製を一口かじった。


「あれ…匂いは最悪だけど…美容に良いらしい。髪もしっとりして、肌もツルツルになるってミリアが言ってた…」

その一言にむっつりしていたユーナの瞳がキラリと光った。ユーナは貰ったばかりの燻製を詰め込むように胃の中に押し込むと、立ち上がってレイを急かす。

「レイ!早く塗ろう!早く!急いで!!」

その変わり身の速さにレイは唖然とする。どうやら彼は女性の美にかける執念の凄まじさを知らないらしい。

「…お、おう」

その戸惑いを隠せない返事を聞いて、ユーナがいきり立つ。いや、彼女も騒ぐことで、自分と、何よりレイの緊張感を緩めようとしているのだ。

「どうしてせっかくやる気を出させておいて、そのやる気を殺ぐような態度取るのよっ!!」

「俺まだ飯食ってるから!お前さん早食いするとデブるんだぞ…せっかく良くできたんだから、もうちょっと味わって食えよ!!」

「うるさいのよっ!デブるとか、女の子に言っちゃいけない言葉だってわからないの!?レイってどうしてデリカシーないのっ!?」

静かな山の中に二人の言い争う声が木霊する。

その大きな声に驚いた野鳥の群れが、逃げ出すようにメデル山の頂へ向かって飛び立っていった。



「くっさ~い…でも、利きそう…かも…」

レイをせっつき続けて早々にその食事を切り上げさせたユーナ。彼女は装備の上から特製の匂い消しを浴びるように全身に塗って、偽装服ギリースーツと呼ばれる苔や草、木の枝などを挿したメッシュ状のマントを羽織った。羽織った瞬間の風圧で、ふわっと独特の匂いが拡散し、ユーナはウエっと言う表情をした。しかしその素振りはどこか楽しそうである。

そんな彼女を若干引き気味で見つめながら、レイは匂い消しを手に取った。

しかしレイはなかなかその手のものを塗ろうとしない。

「どうしたの?早く塗って行こうよ!」

手を止めてユーナは急かすが、「ああ…うん…」とどこか煮え切らない様子のレイ。

「これ塗っちまうとなぁ…ウェンカムイ討伐が…今回は追跡だけど…始まっちまうんだな~って。この匂いは俺にとって地獄の匂いなわけよ。だから塗るの躊躇しちまっ…」

言葉の途中で、ユーナは小鍋の残りをレイの頭からぶっかけた。

残りといっても結構な量である。全身を匂い消しまみれにされ、レイは絶句する。

「ごちゃごちゃうるさいのよっ!男らしくさっさと塗っちゃいなさい!ほら早く!」

ユーナは自分の手でレイの全身にその粘液を塗りたくっていく。それから程なく、自分と同じ匂いをその身に染み込ませたレイを見て、ユーナは腰に手をやると、胸を張ってレイを促した。

「はい、できたっ!!さっさと行きましょ!」

そのまま踵を返し、追跡用の道具類をぞんざいにホルスターに突っ込みながらレイを急かす。


「なんつう新兵だ…」

そんな様子を見てレイは一人ごちたが、大人しくユーナの後に従った。しかし彼女のお陰でいよいよレイも腹が決まった。

ユーナは実際の追跡を知らないからこそ元気だが、現実の困難と危険を知っているレイからすると彼女の元気が羨ましい。

しかし今回は、その元気に背中を押され、前に回って手を引かれた格好だ。口にこそ出さないが、レイはユーナに感謝の言葉を心で述べた。

ギリースーツを羽織って装備と道具を改め、レイは眦を決してメデル山の頂を見上げた。

「…行くか…」

その一言にレイの決意が見て取れた。


こうしてレイとユーナによるSランク「ウェンカムイ」の追跡劇の幕が上がった。

しかしユーナはまだ知らなかった。これは命を賭けた隠れんぼハイド&シーク。先に居場所を掴まれたら命を取られるデスゲーム。

レイが覚悟を決めるのに躊躇するほど危険な任務だと言うことを、彼女はこれから骨の髄まで叩き込まれることになる。

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