3-④
白狼が突然何かに反応する素振りを見せた。サークリングするその足を一瞬止め、耳を音のした方向に傾ける。
勿論人間であるユーナにはその音は捉えられなかった。レイやミリアもその音を聞いていない。しかし白狼は確かにその耳で捉えていた。
千載一遇の好機が巡るその音を…
「ウオーン…ウオンウオーーーーーン…ウォーン…」
白狼が天に向かって遠吠えを上げる。その遠吠えを聞いたライラプス達の変化は直ちに起こった。
「レイ!!何か変っ!」
ミリアがいち早く異常を察知し、レイに注意を促す。ミリアのいる西側の通用口の近くに殺到するライラプスが急に増えたのだ。先程まで通用口を目指していた魔狼の一団が次々と転身し、城壁のある一点に向け突撃を仕掛ける。
空堀にいたライラプスの先頭集団は後から来た仲間に踏みつけられ、次々と圧死していく。しかしその屍によって架けられた躯の橋は後続のライラプスのための足場となり、後続達はクイーンが指示した場所を目掛け遮二無二突撃していく。
ミリアは何が起きてるかわからなかった。しかしそれでも懸命に小石を叩きつけ、ライラプス達の行動を妨害する。
レイは自身の持ち場からライラプスが消えたのを見て、焦りながら後方を振り返った。そして目に入ったその場所を見て、ライラプスの狙いを見て取った。
「ヤバいっミリア!崩されるっ!」
ライラプスが殺到していたその場所とは、レイがクイーンへ威嚇のために投げ込んだ石の着弾点。先程爆発音を上げて城壁の一部に食い込んだレイの投石は、あろう事か土台となる石の一つに亀裂を走らせていた。
そこを力任せに突撃され続けたら…
突如城壁の一角が崩れ落ちた。そこから侵入したライラプスの一団。その外では、まだ200以上のライラプスが突入口を目指し我先にと争っている。
「レイっ!!」
ミリアの叫び声を聞くや否や、レイは宙にその身を踊らせた。着地と同時に抜剣し、侵入者に向かってナイフを薙ぐ。
白狼はずっとこの一瞬を待っていた。
突然の出来事に目を奪われていたユーナは、その一撃の起こりを見逃した。
気づいたときにはクイーンの牙が目の前にある。防御も回避も間に合わない。いや、何かを思考することさえ叶わない。
詰みの状況がそこにはあった。
目の前の景色がゆっくりと過ぎる。クイーンのナイフのような牙が己の首筋に迫るのがありありとわかった。
突如カットインするようにクイーンの顔面を群青の疾風が駆け抜けた。
クイーンの顔面を吹き飛ばし、そのコースを変えた疾風はそのまま掻き消えるようにユーナの視界から遠ざかる。
変わりに降ってきたのは、レイの怒声。
「ぼさっとするな!さっさと動け!!」
その声とともに情景が元の速度に戻り、ユーナは命拾いしたことを悟った。必殺の一撃を潰されても素早く態勢を整えて打ち込んで来たクイーンの左の爪撃を、反射的にバックラーで押さえ込む。
乾いた金属の衝突音が反響した。しかしその軽い音に反してその衝撃は重い。ユーナの左腕は大きく宙に弾かれた。それでもユーナはその攻撃を防ぐことに成功した。
立て直したと言っても万全の攻撃態勢が整わないまま敢行されたクイーンの一撃。クイーンは大きくバランスを崩し、身体を泳がせて踏みとどまる。
殺せるはずであったユーナは健在。その事実にクイーンは目を釣り上げて怒りの咆哮を叩きつけた。またしてもあの男にしてやられたのだ。己の分身にレイの足留めを指示し、今度こそユーナを仕留めるべく、クイーンは再びユーナと対峙した。
(…痛い…それより…マズい…)
先ほどの一撃を辛くも凌いだユーナであったが、無傷という訳には行かなかった。左肩の腱を痛めたようだ。動かすと鈍く痛みが走る。しかし動かさねばならない。左手の防御がなければユーナに待つのは死の未来のみ。
レイとミリアによりライラプスの襲撃は抑えられている。視界の端に権能を纏い縦横無尽に戦場を駆け回るレイの姿が映り込む。ただレイの権能は長時間の使用に耐える物ではない。今は抑え込めても、10分後はどうかわからない。長時間の戦闘には向かない代物である以上、現状に甘んじている訳には行かない。
だがそんな現実とは裏腹にユーナの心は闇の中。
ライラプスに怯えていた自分が、クイーンに勝てるはずはない…
今までの一週間、ろくなトレーニングをしていない…
怪我をしてしまった…こんな状態では戦えない…
ありとあらゆるマイナス要素がユーナの膝を折らせようとする。
しかし、ここで膝を折ってしまったら、ユーナの願いは断たれる。
断たれても良いじゃないか…死ぬよりは…
もう叫んでしまおう…レイ助けてって。
そうすればきっと、助けてもらえる。
…でも…でもそれじゃ、お父さんとお母さんは永遠に浮かばれない…私を実の娘だと言ってくれた二人は永遠に浮かばれない!!
葛藤するユーナにできたこと。それはただ構えることだけだった。自分から動く訳でも、相手の動きを見定めるでもない。ただ構えて、現状維持を選択しただけ。
それでもユーナは剣をクイーンに向け、戦うポーズを崩さなかった。
(上等…!それでいい!!)
レイは迫るライラプスを切り刻みながら、ユーナを視界の端に捉えてその表情を盗んだ。
今のレイの一番の懸念。それはユーナに見切りをつけられ、クイーンの矛先が彼に向くこと。この数のライラプスを捌きながらクイーンの攻撃を捌くのはいかにレイといえども不可能だ。
クイーン攻略においてクイーンとライラプスを同時に相手取ってはならないのは鉄則である。この禁を破った者は、その命によって罪を贖うことになる。
今は城壁が破られ、本来ミリアとレイで一方的に殲滅するはずだったライラプスの侵入を許しているイレギュラーの事態だ。
状況の見えていないユーナはわかっていないが、想定外のこの事態において、もはやユーナのリハビリがどうこう言っている場合ではなくなっている。
そんなイレギュラーの事態になんとか対処できているのはひとえにレイとミリアの働きによる。
レイの固定砲台役をミリアが一手に引き受け、レイがライラプス達の防波堤としての役割に専念する。
二人掛かりでライラプスとクイーンの合流を食い止めることで、戦況を維持しているように装っているだけなのだ。
咄嗟に仕掛けた先ほどのレイの一撃…欲を言えばあれでクイーンを仕留めてしまいたかった。しかし蹴りでクイーンの攻撃を逸らすだけで精一杯だった。
それでもユーナの危難を救い、ユーナが戦う意思を見せたことでその行為に意味が出て来る。それはクイーンの意識にレイがフォローに来ることを刷り込めたこと。
実際レイがライラプスを相手取る以上、ユーナのフォローに入れる確率は激減しているが、白狼の注意を散らせる効果は大きい。
レイにターゲットを定める可能性を有する危険な行動ではあったが、ユーナが第二撃を防いでみせたことで、クイーンはユーナに釘付けになった。加えて、ライラプス達はユーナに向かうことなく、レイの足止めとして彼に殺到している。
戦況は様々な不確定な要因の上で成り立ち、嵐に浮かぶ小舟のように危うく維持されている。
今はビビっていようがなんであろうが、ユーナが立ってクイーンを食い止めてくれなければレイは身動きが取れない。それほど事態は切迫している。
なにせ数が多い。城壁の上からはミリアの投げる散弾が降り注ぎ、その侵入者の数を減らしてはいるが、ミリアも手一杯だ。これこそ飽和攻撃の神髄、数の暴力の恐ろしさである。
危うい均衡を保ち続け、その上で勝利を手繰り寄せるには、ユーナのクイーン打倒は必須の一手である。
しかし彼はユーナを信じていた。ユーナはあの人の娘なのだ。ここで折れるわけがない。事実、彼女は今、怯えながらも立っている。
(信じてるぜ…ユーナ!!絶対に折れるなよ!!)
クイーンにその背を晒したレイは、肩にナイフを担ぎライラプス達を睥睨する。崩れた城壁の一角に陣取って仁王立ちしたレイは、口の端を吊り上げて不敵に笑って見せた。そのまま見せつけるように血塗れの双刃を煌めかせる。そうする事でライラプス達の視線を一身に集めたレイは、己を、そしてユーナを奮い立たせるため咆哮した。
「ここを通りたけりゃぁ俺を抜いて見やがれ…犬畜生がぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
その声を皮切りに、レイに灰色の奔流がなだれ込んだ。
ミリアは腕を振り続け、敵を一匹でも減らすべく散弾を降らせ続ける。彼女は窮地に陥っても、その冷静さを失わない。いや、指揮官として失う訳には行かない。
指揮官の役割は窮地を嘆く事ではない。状況を分析し、目的遂行のための一手を考え、その一手を実行すること。
レイの気合いの一声からその士気の高さを読み取った彼女は一瞬だけ投石の手を止め、即座にユーナに短く指示を飛ばす。
「ユーナ!昨日言ったことを思い出してっ!!あなたならできるっ!!」
叫ぶように指示を出し、矢継ぎ早に戦況を見て取る。
(旗色は悪い…有利な点はクイーンがレイを気にしていることと、レイの士気の高さ。けど時間が経つほど不利が大きくなる。鍵はユーナ…!)
ミリアの声を聞いたユーナは即座に昨日のミリアの言葉を反芻する。
それは『恐怖を抱えたままできることをやること』、もう一つは『レイを信じること』。
しかしライラプスの群れに飲み込まれたレイを当てにできるかはわからない。恐怖に竦んで、身体は動きそうにない。
もう限界だ、叫んでしまおう。もう戦場には出ないから、助けてって!!
そうすれば、レイならきっと濁流からその身を引き上げ、ユーナを助けてくれる筈。
ユーナの心は悲鳴をあげていた。
しかし何故か喉はその言葉を声にすることを拒否する。
こんな時、どうしたらいいんだっけ…
先生はなんて言ってたっけ…
そうだ、息を一瞬止めて、深く吐いてから吸うんだ…
師の教えを実行する。それでも何も変わらない。恐怖は心に巣くったまま去ってくれない。
しかしその呼吸がもたらした僅かな時間が、新鮮な酸素が、ユーナの脳に一瞬思考を呼び覚ます。
突如、先ほどのミリアの言葉でユーナが認識出来ていなかった言葉が一つ、ユーナの胸の中に落ちてきた。
ミリアは確かに言ったのだ。『ユーナならできる』、と。
その言葉が折れそうなユーナの心をほんの僅かに前に押す。
ちょっとだけ…ほんの少しだけ…頑張ってみよう…
恐怖を抱えたままでできること…
ユーナは必死に考える。
一つだけある。恐いけど…できるかもしれないことが…
それは徹底的な専守防衛。カウンターを捨て、相手の攻撃をひたすら捌き、かわしきること。
問題は、腱を痛めたらしい左肩。
けどミリアは出来ると言ったのだ。それなら、一回…一回だけ…やってみよう。
恐怖に囚われた後ろ向きな気持ちが導き出した解答であるが、果たしてそれは正しい。
ユーナがクイーンに唯一挑む価値のある戦いは防衛戦。卓越した防御技術を持ち、臆病なユーナだからこそ挑める土俵がそこにある。
ユーナの身体が小刻みに震える。カチカチと歯の根が鳴り、その音がうるさい。それでも彼女はこの戦いで初めて、なすべき目標を見据えてクイーンと対峙した。
ジリっジリっと微かではあるが、ユーナは初めて自分からサークルを描いて動きはじめた。
それはジャイアントキリングへの小さな、あまりに小さな一歩であった。
ユーナの一歩は小さかったが、クイーンに与えた衝撃は大きかった。震える獲物が、初めて刃向かう意志を見せたのだ。
にじるように白狼の左側面に向かうユーナは、クイーンが正対しようと身体を傾けた瞬間に、不意に一歩大きく踏み込んだ。
瞬間、ユーナを迎撃すべく、白狼の右の爪がユーナに振り下ろされる。ユーナは踏み込んだ足を踏ん張ると、右手のレイピアでその爪を弾いた。
レイピアは刺突用の剣であるため、斬撃の切れ味は鋭くない。浅く白狼の手を傷つけただけに留まるが、驚いた白狼は大きく下がった。
ダメージなど皆無に等しい。それでもこの意味は果てしなく大きい。
カウンターは本来相手の攻撃に合わせて発動する。従って、理論上先手は常に相手にある。ではカウンター使いが先手をとる場合どうするのか?
答えは単純。相手に打たせてカウンターを取る。しかしその実行は難しい。
相手の技を絞り、相手に絞った技を仕掛けさせ、万全の迎撃体制で反撃を叩き込む。この三点を成立させなければ、カウンターによる先手はとれないのだ。
ユーナはクイーンが身体を傾けた瞬間に動いた。これにより、クイーンは重心の残った左の爪は使うことができなくなる。
次いでユーナは大きく踏み込んで見せることで相手の攻撃を誘った。打ち気に逸る白狼は釣られて攻撃を敢行する。
そのタイミングを見計らって切り落としたのが、クイーンを傷つけたユーナの剣技の正体。
尤もユーナはただ痛めた左肩に負担をかける防御を避けようとしただけであり、深い考えがあったわけではない。ただ右のレイピアでの切りつけによる防御を確実に実行するには、相手に打たせることでタイミングを抑える必要があったために踏み込んだだけだ。
しかしこの一撃は、この戦いにおいて初めてユーナが自ら先手を取り、主導権を奪ったと言う重大な意味を有する。
そしてこの一撃こそが、ユーナとクイーンの戦いを一気に加速させる引き金となった。
白狼はその顔を歪ませて、ユーナを睨んだ。一度低く唸ると、腹の底から沸き上がる不快な感情をぶちまけるようにユーナにラッシュを仕掛けた。
餌と侮っていたユーナから傷を負わされたことは、ライラプスの女王のプライドを刺激し、彼女に怒りの突撃を敢行させた。
迎え打つユーナは縮こまる。けれども彼女はこの展開を十分予期していた。
迫る攻撃が何かはわからない。
それでもクイーンがラッシュを仕掛けてくることはわかっていた。
何故ならこの突撃はユーナが自ら呼び込んだものだから。一回だけと言いながら、その一回は絶対に開けてはならない
彼女はこうなることを何よりも恐れていたから、今まで自分から動けなかった。
しかしミリアの声によって芽吹いた熱に浮かされて、ユーナは自ら戦いの幕を切って落とした。
その突撃を目の当たりにしたとき、ユーナに沸き上がったのは激しい後悔。
動き出した事態は止まらない。もはや背を向け逃げることは死を意味する。
(ヤダ…ヤメトケバヨカッタ…イタイ…コワイ…タスケテ…)
様々な負の感情がユーナの心を一気に駆け巡る。
それでもユーナを殺すためにクイーンは迫ってくる。圧倒的に。無慈悲に。
己の何倍もある体躯が飛びかかってくる。なんとかかわしたその矢先、全体重を載せて振り下ろされる爪の一撃。それを骨を軋ませながらも滑らせるように弾く。流れるように繰り出された頭蓋骨を噛み砕く牙の一撃を、大きく跳び退ける事で離脱する。
恐怖に喘ぐユーナの身体に染み付いた防御の
師からその全てを叩き込まれたユーナの身体が反射的に反応し、その攻撃を防ぐ。
ユーナは刀身でその爪を弾き、牙を潜り込んでかわし、体当たりをフィンガーガードでかち上げて力の向きを変え、角の一撃を側面をバックラーで押しのけてずらす。怒涛の攻撃をユーナは必死の形相で捌ききる。
(もうヤメて…イタい…コワいよ…おネガい…ハヤくタスケて…)
左肩が鈍く痛んでユーナを休ませたがっている。それでもバックラーは動いて攻撃を弾く。
煉獄の炎の如く吐く息が熱い。肺も休みたがっている。心臓も爆音を奏でて休ませてくれとユーナに迫る。それでもユーナの足は動いて攻撃を避ける。
しかしそこには一方的に蹂躙されるはずであった少女の姿はなかった。変わりにそこで展開されていたのは紛う事なき防衛戦…
そもそも恐怖の正体とは自分が傷つくことを避けるための防衛本能。それ故、自分が傷つくことを避けるための反応、即ち、防御行動については身体は反射的な反応を示す。けして動けなくなる訳ではない。
故に恐怖に囚われてその手が縮こまった状態であっても、相手と向き合う意思さえ示すのであれば、そこに戦いは成立する。
そして防御技術を磨くと言うことは、恐怖に囚われたこの場面でこそ生きる。何千、何万と繰り返すことで染み付いた最も合理的な攻撃処理を、身体が反射と言う最速の反応で起こすからだ。
ユーナは全ての攻撃を捌ききる。カウンターを捨て、白狼の怒涛の攻撃を、持てる技術の全てを注いで防ぎきる。恐怖に竦んで動けなかったはずの身体が、ユーナの命を繋ぐため、最高最速の防御の技を放ち続ける。
白狼は焦り始めていた。恐怖に竦んで動けなかったはずのユーナに攻撃が当たらない。怒りにまかせた力業の悉くが届かない。今の全力を込めた爪の双撃も防がれた。己より矮小なこの獲物に、自分の攻撃が通らない。
そこに芽吹いたのは、小さな小さな迷い。そして不安。
どうする?どうすればこの小娘に攻撃を通すことができる?どうすればこの小娘は攻撃を食らってくれる?
その迷いがクイーンの攻撃の手を鈍らせる。
クイーンは不安を打ち消し、消耗した体力を回復するため、下がった。
いや、退けられた。
この瞬間ユーナが主導権を完全に握ったのだ。しかしユーナが意図的にしたことではない。怯えた気持ちのまま、傷つけられたくない一心で攻撃を捌いただけに過ぎない。それでも彼女は恐怖に命じられるまま、防御の構えを取り続ける。
結果としてそれは、ユーナが、握った主導権を離さないと言う鉄の意思をクイーンに見せつける事になる。
その構えを見たとき、白狼にある疑念が浮かぶ。もしかしたら、この小娘に自分の攻撃は一切通用しないのではないか…?
それは戦闘において絶対に思っては行けない禁断の迷い。自分の武に対する疑心暗鬼。一度これを思ってしまうと、畳みかけるようにやってくるものがある。
音もなく忍び寄り、いつの間にか纏わりついた重油のように重たい疲労感と、攻撃の失敗によって負った無数の細かな傷の刺すような痛み。
その二つを意識してしまった白狼は闘志が急速に萎んでいくのを感じる。
そして、萎えた闘志に変わって膨れ上がったのは、絶望的な無力感。
この無力感は敗北を連れてくる。その正体は何をやっても通用しないと言う諦観。この諦観に囚われたとき、勝敗は決する。
捨て鉢になった白狼は破れかぶれの体当たりを敢行した。しかしユーナは瞬間的に反応し、飛び交うように白狼の横を通り抜け、再び白狼に向かって構えた。
防衛戦の本質は消耗戦。そこで行われるのは互いの全てを出し切る戦い。そして最後の最後、勝負を決めるために行われるのは精神力の削り合い。けれども
『防御の剣は、臆病であるが故に強い』。
再び構えたユーナを見たとき、白狼は遂に攻撃の手を諦めた。一瞬ではあったが確かに抗う心を折られた。
しかしクイーンの相手はユーナであってユーナではない。アルキメディア国最強と謳われる「87班」が相手である。
心を折られ攻め手を諦めた瞬間に生じたその隙を、その空白の一瞬を、勝敗を決するその刹那を、彼らが絶対に見逃すことはない。
生きるか死ぬかのギリギリのせめぎ合いにおいて、その刹那を嗅ぎ分ける嗅覚に長けているからこそ、彼らは最強を名乗れるのである。
「レイっ!!」
鋭く叫んだミリアがレイに決着の一手を指示する。
レイは灰色の濁流の中で目まぐるしく暴れていた。呑み込まれぬように必死に手足を動かし、迫る無数のライラプスの命を刈り取り続ける。そんなレイが双刃を振り抜いて眼前の二頭を叩き伏せると、権能の勢いを駆ったまま、振り向きざまにクイーンに向かって右手のナイフを投擲した。
そのナイフはクイーンに当たることはなかった。もともと狙いが甘く、加えてレイに再三横やりを入れられて命まで脅かされていた白狼がその注意を切ることがなかったからだ。
飛び退くように一歩横にずれると、狙いを逸れたナイフはクイーンの足元に着弾した。
しかしそれはレイが権能を用いて全力で投擲したナイフ…
その着弾の瞬間、クイーンの足下で大地が爆ぜた。土塊が吹き上がり、クイーンの身体を礫となって襲う。もうもうと立ち込める砂煙が、視界を、そして鼻の機能を奪う。鈍重な衝突音が一時的に鼓膜を鈍らせる。
「いけぇぇぇユーナぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!!」
その声を聞いたとき、『レイを信じて』いたユーナは弾かれたように真っ直ぐに駆け出した。
彼女の心にあったのは恐怖とミリアから貰った二つのアドバイス。『恐怖を抱えたまま戦うこと』と『レイを信じること』。
ミリアはユーナにできると言った。事実一つ目はできた。
では二つ目は?
死域での戦いにおいて『信じる』と言う言葉は美辞麗句に過ぎる。現実はもっと切実で、もっと泥臭い。
恐怖に抗うために、ユーナは常に光明を求めて、レイの助けに縋っていた。ただずっとひたすら耐えて、レイの助けを待っていた。
必ず来ると縋らなければ、戦い続ける事自体ができなかった。
その助けは唐突にやって来た。
絶望的で、来るとは思えない状況であっても…
それでもミリアの言葉通りやってきた。
待って待って待って待って待って…
やっとやっとやっとやっとやっと…
長い長い時間だった。苦しい苦しい時間だった。
終わりを求めて、ユーナは疾駆する。
砂埃はユーナの視界をも奪う。見えない状況で、正確な的はわからない。それでも闇夜に輝く北極星のようにレイのフォローを盲信し、その希望に縋っていたユーナは、愚直なまでに真っ直ぐにレイピアを撃ち込んだ。
何万回と振るわれ、もはや染み付いたその動きは、流れるように最速で最短距離を走る。
直後にその右手に微かな抵抗感が伝わる。それでもレイピアは止まらない。深々と刃先が埋め込まれていく。
この感覚をユーナは知っている。この衝撃は勝負がついた時の一手の重さ。会心の一手の手触り。
舞い上がった砂埃が晴れたとき、驚愕を全身こびりつかせ微動だにしない少女と、左目からレイピアを生やした白い巨狼が身体を震わせながら立っていた。
よろめくように白い狼が二歩歩みを進めると、その身体を糸が切れたように大地になげうった。そのまま大きく身を震わせ、白い獣はピクリとも動かなくなった。
獣の絶命の瞬間を目で追っていたユーナは、表情の抜け落ちたまま腰が抜けて尻餅をついた。
「ユーナ、よくやったわ!レイっ!!押し返すわよっ!」
「ミリア!こっち頼むっ!ナイフ一本しかないっ!」
ミリアが飛び降りて、両手に拳銃を構えた。耳をつんざくような銃声が立て続けに木霊する。
大きな物音も、近くで繰り広げられる鬼神のごとき上官の戦闘も、何もかもが自分とは違う世界のできごとのように思えて…
極限の恐怖から解放されたことを悟ったユーナは、そのまま意識を手放した。
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