3-③
ユーナは背後を振り返ることなく、石が織りなす不安定な河辺の足場を駆け抜ける。
背後から迫る獣の咆哮は獲物を見つけた喜びの叫びか、あるいは塒を犯した不届き者に対する怒りの猛りか…
レイに施された権能の光を四肢に宿し、目的の断崖をわき目もふらず駆け上がる。
後ろには気配を絶ってレイも追従しているはずだ。しかしそれを確認することは叶わない。
一瞬でも振り向けば殺られる…
背を見せ逃げると言うことは、初撃を相手に譲ることと同義である。特に堕神のように初撃が即死をもたらす相手からその必殺の一撃かわすには、常に速度で上回り、絶対に相手の射程に入ってはならない。
レイの権能による強化がなければ絶対に捕まる状況であるが、慣れない自身の感覚を必死にコントロールしてユーナは疾走し、攻撃射程外の距離を維持する。
事前にレイに注意された二つのこと。
一つは他人に付与した権能は、かけ直さない限りすぐ切れること。レイ曰く二倍の筋力で走り続けた場合およそ10分で切れる。
二つ目は、権能による強化によって、筋肉や骨は勿論、心肺機能に多大な負荷がかかること。筋力が強化されると言っても、心肺機能まで強化される訳ではない。そして筋肉が普段以上の力を出すには、それ相応の酸素とエネルギーが必要なのだ。
事実、喉が焼けるように熱い。それでもユーナは崖を登りきる。ここから砦まであと500メートルほど。しかし山道の500メートルは舗装されたトラックの500メートルとはものが違う。それでもユーナは止まらない。止まれない。
ユーナは恐怖に追い立てられていた。背後に迫る死の恐怖…そして試験に落ちて願いを絶たれる恐怖…恐怖から逃げおおせるためには、足を動かし続けるしかない。
心臓が爆発している。吐く息が炎の如く熱い。
しかしそれでも前へ…一歩でも前へ…
ユーナは必死に足を動かし続けた。
産毛を震えさせる獰猛な獣の咆哮と木々の枝をへし折る音がだんだん近づいてくる。ミリアはやってくるであろうユーナを砦の城壁から待ちわびていた。
その手には滑車に繋がれたロープが一筋。
森の中から灰色の髪の少女が飛び出してきた。次いで現れた純白の狼。両者の距離は20メートルほど。
両者の体躯は大きくかけ離れているが、それでもその距離が詰まることはない。レイの権能をその身に纏ったユーナは、その力を存分に活用して決死の逃走を続ける。ユーナの必死の形相がわかるほどまで砦に近づいたのと同時に、ミリアもその背中の聖痕を明滅させ、準備に入った。
レイの
時を遡らせることで跳ね橋が閉じた状態を一瞬にして再現した結果、轟音とともに跳ね橋は巨大な城門と化して城壁の入り口を塞ぎ、飛び込んできた白狼の退路を絶った。
腹に響くようなその重い音に驚いた白狼が後方を振り返り、状況を把握する。
出来上がっていたのは自身を取り囲む巨大な石の壁。それは石の牢獄。そこに居るのは、今、己と獲物のみ。今まで必死に逃走を続けた獲物が、この時初めて白狼と正面から対峙した。
白狼は理解した。「誘い込まれた」というその事実を。
しかし白狼に焦りはない。向き合った目の前の獲物は怯えていた。最低限の矜持を保って向き合ってはいるが、その目に力はない。
子猫のように震えるその姿を見て、白狼の口角がニタリと吊り上がる。
「ユーナ!」
突然頭上から降ってきた声と共に、獲物に向かって何かが投げ込まれた。それはユーナが愛用しているレイピアとバックラー。それを獲物は掴むなり素早く装着してみせた。そのまま染み付いた動きを見せ、左手を顎の横に、右手の剣を鋭く突き出すように構えて見せた。
その姿を見て、白狼は以前の記憶を思い出す。あの時は邪魔が入ったが、第二幕と言うことか…
以前の覇気はなくまるで別人のようであるが、この獲物は今、この特注のリングに己と二人きり。あの時の決着をつける良い機会である。獲物自らが用意した舞台に上がるのは癪ではあるが、あえてのってやるとしよう…
逃走をやめて怯えながらも闘争を選択したユーナに向かって、あの時とは逆にその左半身に回り込むようサークリングを開始した。
「どんな具合よ?」
外から一気に跳躍して城壁に登ってきたレイは、ミリアに走りよりざま訊ねる。
「今様子見ね」
そう言いながらも油断なく拳銃を構えているミリアに緊張の色が伺える。サークリングをする白狼の頭部にその銃口がぴたりと狙いをつけていた。
これが普段のクイーンライラプス討伐であるならば、この時点でミリアが引き金を引くことで勝負がつく。
囮役がクイーンを誘き出して砦内に閉じ込め、射手がライラプスに邪魔をされないように討伐。同時にクイーンの下に殺到するライラプスを城壁の上から一方的に殲滅する。
事前準備と分断までの段取りが難しいことに加えて、相手の数が多いからこそのランクBであるが、事前準備の下、クイーンとライラプスを各個撃破すらならばそれぞれCランクと言ったところであろう。
もっとも砦を使ったこの作戦が確立する前は、クイーンライラプス討伐は、複数の班で連携を取った上で狩ることが前提のAランクに置かれていた。
クイーンを守るライラプスの数の暴力はやはり圧倒的。加えてその死兵の如き動きは驚異であった。そこに加えて、クイーン本体が暴れ回る。犠牲者が毎回出る、危険な狩りの代名詞であったのだ。
そんな経緯もあり、ミリアはこのまま引き金を引いて狩りを終わらせたい衝動に駆られる。
しかし今回は単なる討伐が目的ではない。ミリアが終わらせては意味がない。ユーナに勇気の意味を問い、ユーナの今後を占う事が目的である。
そうであっても、いつもと違う流れに添うことは、何か思いもよらぬ事態を引き起こすことを、ミリアは経験則として理解している。そのため彼女の表情はどことなく硬い。
ミリアが万全のフォローに入っていることを確認すると、レイはすぐさま足元に用意されていた大量の小石が入った袋を弄る。
そこからやや大振りのものを一つ選び出すと、その重さを確かめるように、ポンポンと二回宙に放った。
「…んじゃ、始めるぜ!」
その一言と共に、レイは足腰、右肩から右手にかけて暁闇の光を纏う。その群青に光る右手から放たれたのは、戦場を切り裂く砲弾と化した一つの小石。
甲高い大気を切り裂く音を立てて、白狼の鼻先を掠めるように飛来した投石は、爆発音を上げて城壁を形作る石の一つに食い込んだ。
突然の出来事に驚いた白狼がすぐさまその場から離れ、その鋭い眼差しをレイに向けた。
そのまま威嚇の咆哮を叩きつける。
その返礼に不敵な笑みを浮かべて睨み返したレイは、次弾を袋から掴み出す。
「人間様の投石の恐ろしさを思い知れっ!犬っころ!!」
言葉と共に投げられたその石は、音速に迫る速度で白狼めがけて飛んでいく。
白狼はレイが石を掴み取って投擲体制に入った途端、危険を感じその場を離脱。次弾の着弾を免れる。
しかしその顔に先ほどのような余裕を示す笑みがない。獲物だと思っていた人間のメスは、己と戦うに当たって、己を殺すそれ相応の準備をしていたのだ。間髪入れず白狼は天を向き、一声短く吠えた。
「オン!!!!!!!!!!!!」
その声は天を渡り、野を駆け、山を越え、辺り一帯に響き渡った。同時に同じような幾つもの短い吼え声が遠くから響き渡った。
クイーンが発した勅命を受け取ったライラプス達が、クイーンの窮地を救うべくこの場を目指して走り出した。
弱肉強食と言う過酷な自然環境において、ヒトという生物種が今まで生き残ることができた最大の要因とは何か。
四足歩行を捨て道具を生み出し使いこなした手?発達した大脳によりもたらされた知恵?ヒトだけが任意で起こすことができた火?
考えられる要因はいくつもあり、それらがヒトの生存率向上に大いに役立ったことは疑いようがないが、こと直接的な他種族との戦闘において最も役立った能力は投擲能力である。
もちろん、他の霊長類や羆、象などの大型哺乳類において、物を投げることができる生物は存在する。水族館におけるアシカやイルカのキャッチボールも良い例であろう。
それはさておき、先に挙げたような陸上の大型哺乳類は人間には持ち上げるようなことすらできない重いものを持ち上げ、放り投げることができる。
しかしヒトという生物種の投擲能力で最も優れているのは、重いものを放り投げる能力ではない。その投擲能力の驚異的な点は、物体を速く投げる能力とその正確性。
チンパンジーやゴリラなどの霊長類も物を投げることができるが、ヒトより筋力に優れる彼らですら、ヒトが物を投げる速度には遠く及ばない。
物を速く投げるについては、筋力よりもっと大切な要素がある。
それは骨格の形状による腰と肩の可動域。可動域が大きいとは、捻った際に発生する反発力がより大きいことを意味する。結果、ヒトは全身の捻転により溜め込んだエネルギーを一気に解放することができ、カタパルトの要領で速く物を投げることができる。
そして筋肉の量は個体差があるが、骨格の形状は種の特徴として保持される。つまり骨格の形状自体が、投擲物の速度という要素で比較した場合、ヒトは他の霊長類に比べて優れていることを意味する。
加えて発達した大脳により得られた膨大な記憶容量とそれに基づく予測。即ち知能。これによりヒトは高いコントロール能力を得た。
これらが合わさることにより、ヒトは陸上動物において最大級の攻撃射程を手に入れた。攻撃射程が長いと言うことは、安全圏からの一方的な攻勢を意味する。それはつまり直接的な外敵との戦闘における生存率の向上に他ならない。
レイがヒトの最大の武器を使用する以上、それに対応するにはライラプスの種としての最大の武器を使うしかない。ライラプスの最大の武器は、群れによる蹂躙。圧倒的な数による飽和攻撃。
最も近くにいたのであろうグループが複数、砦を目指し駆け寄ってくるのが見えた。
「…来たわよ!」
いち早くそれを察したミリアが大声を上げる。
白狼とにらみ合っていたレイはその声に反応する。レイが視線を切ったその隙を埋めるように、ユーナが精一杯の虚勢を張って白狼に剣を叩きつけた。
白狼はもとよりユーナに対しての警戒を怠ってはいない。すぐさまその一撃を己の双角で打ち払い、ユーナに対峙する。
レイはその様を横目で伺うと、素早く持ち場に向けて移動した。同時にミリアも配置に陣取る。二人の持ち場は東西に伸びる通用口の真上。
レイとミリアはあらかじめ用意しておいた袋から、小指の爪ほどの大きさの小石を掬い取ると、クイーンを目指し通用口から砦内部への侵入を目指す一団を待ち構える。
ライラプス達がクイーンの場所を認識する主な感覚器は、目と耳、そして鼻。鉄格子の扉の隙間から見える風景と、そこから漏れ出る匂いを頼りに、彼らは対峙するクイーンの怨敵、つまりはユーナを排さんと殺到する。
そんな魔狼の群れは長い石畳の中を一列になって駆け抜ける。
しかし城壁とは人間が拠点防衛の為に作り上げた戦術兵器である。拠点防衛の最高の結果とは攻めくる敵を殲滅すること。その殲滅を実行すべく知恵を絞り、研究を重ねた悪意の結晶が城壁である。
レイは強化した右手を振るい、手に握った数多の小石を向かってくる一団に向かって叩きつけた。放たれた小石は全てを射抜く散弾となり、ライラプス達に突き刺さる。
射抜かれた狼の魔獣は血煙をあげて即死する。
ミリアも同様に、小石を雨の如く撒き散らしながら血の華を咲かせる。
彼女はレイと違って己の筋力を強化することはできない。しかし彼女は己の権能を用いて、レイとは違った方法で弾丸の雨を降らせる。
それは『対象の状態を巻き戻す』と言うことを逆手に取ったミリアだけにしか許されない手法。彼女は放った小石を、手から離れた直後の運動エネルギーが最大である状態に巻き戻し続けることによって、擬似的に永久に運動する物体を作り出す。
勿論、ミリアの手から離れてしまえばその権能が永遠に機能するわけではない。時間にしてわずか5秒に届くかどうかというところ。
しかしその僅かの時間であっても、5秒間は絶対に運動をやめない弾丸は、ライラプスの肉を引きちぎり、骨を打ち砕く。
それを指し示すように、ミリアが白光と共に腕を振るう度夥しい魔獣の血が流れた。
レイとミリアが腕を振るう度、ライラプス達はその数を減らす。
辺りに響くのは魔獣の断末魔。漂うのは濃密な血の香り。
それでもライラプス達は止まらない、止まれない。
女王を害する敵を葬り去るまでは、その命が燃え尽きようとも死ぬことは許されない。しかしその命を賭けた使命すらもヒトは研究によって完封する。
それは空堀と、城壁の高さと厚さ。ライラプスの身体能力ではこの高さの壁を超えることは不可能。また突撃で壁を破ることも不可能。そうなると固定砲台となったミリアとレイを瞬間的に攻略する術を彼らは持たない。
結果空堀を避けて、クイーンの下へひた走ることになる。
彼らが殺到するのは通用口にある鉄格子の扉。押し寄せる百を越えるライラプスを相手にすれば、ミリアやレイの権能を以てしても討ち漏らしが出てくる。
散弾の雨を幸運にも潜り抜けた個体が鉄格子に突撃する。時間が経つにつれその数は増える。しかし、それすらも罠…
己とクイーンを隔てる鉄の柵を前に、死の雨を潜り抜けたライラプス達は考える。この扉は開かない。しかし一度ではダメでも、二度ぶつかれば破れるかもしれない。己の骨が折れようとも、牙が砕けようとも、クイーンの下に馳せ参じる為にはそんなものにかまってはいられない。
クイーンの勅命を受け、それ以外目に入らないライラプス達は自分の身体ごと押しつぶすように次々に扉に飛びかかる。その圧力に耐えきれず、鉄格子にかじり付いていた先頭のライラプスは寸断されて肉塊となった。
この扉はもともと開かない。石の中にきっちり埋め込まれたその鉄の格子は、圧力によりライラプス達を引き裂くための刃として機能する。
ヒトの悪意の塊が、ライラプス達に牙を剥く。降りしきる散弾の雨、倒れ伏した仲間の躯、血でぬかるんだ大地…
吐き気を催すほどの死臭の中、レイとミリアは淡々と駆逐作業を続けていく。
一方城壁の内側、砦の内部では、外の動乱が嘘のように静かな探り合いが展開されていた。
クイーンは己の同朋の死臭を嗅いでも、一切の反応を見せない。いや、反応する事ができない。
縮こまるだけの怯える眼前の獲物はどうでも良い。しかし城壁に陣取り、時折視線の牽制を入れてくる男の存在がちらつく。あれは目の前の獲物を食い破る瞬間、己の体躯を撃ち抜く力を持っている。
今は攻め上がる自分の分身達にその手を煩わせているが、それでも目の前の女に噛みついた瞬間、あの男は躊躇なくクイーンに石を撃ち込んでくる。
そんな予感がクイーンを襲い、慎重に動かざるを得ない。
しかしクイーンは焦らない。敵は少数。必ずその手に余る事態が起こる。その事態を引き起こすのは、他ではない数の力。即ちライラプスとしての種の力。今はただ、この探り合いを長引かせ、目の前の女を牽制してやり過ごせばいい。
雌伏の時にありながらも、確かな足取りでゆっくりとサークルを描く白狼。クイーンは来るべきその時を待っていた。
ユーナは笑う膝を踏みしめ、なんとか構えを維持している。ユーナとしても、クイーンが攻め倦ねる理由がレイの投石にあることはわかっている。
先ほど切りかかって双角に触れて以来、両者に接触はない。しかしユーナは動けない。格上の堕神に挑むと言うことは、『死』と同義であることを心に刻み込まれた彼女は動けない。
先ほどなけなしの勇気を振り絞って一撃加えることができたのは、レイとミリアの確実なフォローが期待できたからだ。
今レイはその目を外のライラプス達に奪われている。ミリアも然り。こんな状況の中、自分から仕掛けるのは自殺行為である。ユーナはただじっとサークルの中心から白狼を凝視する。
白狼もサークリングをするだけでユーナに仕掛けてこない。束の間の膠着とはわかっているが、この時間が続いている間は、それだけユーナに死の時間は訪れない。睨み合いの緊張感に晒されながら、ユーナは無意識に安堵を覚えていた。
しかしユーナは大切なことを見落としていた。初日には意識できていたにも関わらず、彼女は致命的ともいえるミスを犯していることに気づけていなかった。そのミスとは、今のこの状況。つまりユーナを中心に白狼が回っているこのシチュエーション。
地力に勝る格上から格下が戦況の有利を取るにはセオリーがある。その要諦は、自分が勝てる土俵でのみ戦い、局地戦を挑むこと。奇襲も策謀もそれを実現するための手段に過ぎない。そしてジャイアントキリングを実現する為には常に先手を取り続け、主導権を相手に渡さない事が必須である。
もう一つ、サークリングとは戦闘技術として確立した動きである。その意図は動き続けることで相手の狙いを外し、常に相手の側面へ移動し続けることで、その隙を見つけて飛び込むこと。
今このシチュエーションでサークリングを行っているのは格上のクイーンライラプス。一方のユーナは白狼の描くサークルの中心にいる。
これはクイーンが先手を仕掛け、それをユーナが迎え撃つ構図。即ち初手の主導権を相手に渡していることに他ならない。
ジャイアントキリングの本道を大きく外したこのシチュエーションは、事態が動けばユーナの不利に一気に傾く危険な状況であることを、恐怖に囚われたユーナは見落としていた。
そしてその時は、刻一刻と近づいて来ていた。
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