ep2.5 幕間

2.5-①

「やっぱり…だめ…レイ…無理…」

それを目にしたユーナが不安げな目で懇願した。

「まだまだ…こっからが本番だけど?」

静かに立ち上がったレイは黒い笑みを浮かべてユーナを見やった。

レイは着ていた上着を脱ぎ捨て薄いタンクトップ一枚になる。

「あ…う…」

汗で張り付いたタンクトップは透けており、レイの引き締まった体躯を隠しきれてはいない。正面から堂々と雄の肉体を見せつけられ、ユーナは目を逸らした。しかしユーナの視線は盗み見るようにちらちらとレイの身体を走る。

「でも…」

「つべこべ言わない。やるって決めたらその日が吉日!」

そうは言うもののあれを見せつけられたユーナは恐怖を覚えた。なにせ初めてなのだ。しかし憧れが無いわけではない。胸のうずきと未知への恐怖がせめぎ合っているユーナは俯いたまま呟いた。

「…最初は…痛い…のよね…」

「ああ…初めの頃は痛いけど、慣れれば痛みも消える。そのうち気持ちよくなるんだ…大丈夫、最初はゆっくりやるから、心配せずに力を抜いて身を任せろ」

「うん…頑張る…レイ…優しく…して…ね…」

ユーナはそのまま口ごもる。それを察したレイは一息に言い切った。

「いくぞユーナ…仰向けに寝るんだ」


彼女が寝そべるとレイはその足元に移動した。そのままユーナの膝を立てる。

彼女は力を抜いてレイのなすがまま…その瞳は潤んでいた。


「蹴りの基本は股割りだ。骨盤意識して股関節の稼働域を広げる。けして無理するな。ゆっくりでいい。急な柔軟は怪我のもとだ」

そう言うとレイは立てたユーナの膝を左右に無理矢理押し倒し始めた。

「でもいきなり股割りは無理だからまずユーナはこのまま左右に足を広げて地面につける運動から~」

そう言うとレイはユーナの足に荷重をかけ、無理矢理押し広げ始めた。

「痛い…イタい!痛いってば!!」

ユーナの悲鳴があがるが、レイは一向に無視。

その目は何故か血走っており、鼻息は荒い。レイの視線が自身の股割りの中心点に向けられている事に気づいたユーナは…

「…どこ見てるのよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」

レイの手をふりほどいた足が鞭のようにしなり、レイの顔面に電光石火の蹴りが炸裂する。

「ぶほっ!?」

不意打ちで顎を痛打されたレイはそのまま白目を向いて倒れ伏す。スリッピングアウェイを使う暇もなく、彼は煩悩ごと大地に叩きつけられた。



「いてぇ…お前さんマジで手加減知らねぇんだな…てかあれだけ蹴れるなら蹴りの練習とかいらねぇだろ…」

ユーナに頬を踏みにじられて起き上がったレイが怨めしげな声を漏らす…

「あんな目をしてるあなたが悪いんでしょ!!汚らわしい!」

「別に良いじゃねぇかよ~!そもそもレギンスで見えないんだし!減るもんでもないし!」

「あなたの想像の餌食になるのがイヤだって言ってるの!!気持ち悪い!ウジ虫並よっ!」

「なんだとっ!!バカな…ユーナが俺を生き物扱いしてる…だとっ!?」

「どこまで卑屈なのよっあなたは!!て言うかどういう目で私を見てるのよっ!?頭おかしいんじゃないの!?」


いつもの調子でいつもと同じ様なやりとりが、傾き始めた陽光に照らされる兵舎の裏庭に響いていた。

レイ達の騒がしい様子に一切気を止めることなく、ユーナの愛馬が厩舎でのんびりと草を噛んでいる。



レイが死の淵から舞い戻っておよそ一週間。ミリアは彼に休養を命じ、しばらくは兵舎でリハビリを目的としたトレーニングに専念するよう指示を出しており、レイは大人しくそれに従っている。

一方のユーナは三日ほど休養を取った後、ミリアと一緒に巡回業務へ連れ出されている。


今日はたまたま帰ってきた際に彼女はレイが体術のトレーニングをしているのを見つけた。どうやらユーナはミリアとの巡回業務中に思うところがあったらしい。蹴りを覚えたいとレイに相談した結果、柔軟性の大切さを説かれ、レイのV字開脚と股割りが披露された。それを見せられた後に展開されたのが先ほどのやり取りである。

未だ止まない痴話喧嘩もといレイとユーナの口論に、ミリアが裏口から顔を出し仲裁に入る。

「二人とも…近所迷惑だからそろそろやめてもらえないかしら?」

その額に浮いた青筋を見て、二人はばつが悪そうに目を伏せて押し黙った。


ミリアはそれを見て一つ頷くと、レイに目を向け話を切り出した。

「レイ、あなたの体調を見たいから、今から買い物つきあってくれない?荷物持ちよ」

「はぁ…?それなら今ここで組み手すりゃ良いだろ…荷物持ちなんてやりたくねぇ!!」

「…ここ最近何故かベーコンやチーズの減りが異様に早いのよね~…死にかけたばかりのレイに食欲があるのは良いことだから大目に見ていたけど、さすがにこれだと私やユーナの食べる分がなくなっちゃうわね~…」


「う…」

レイは目を逸らして押し黙る。彼は調理ができる。しかも人並み以上に。しかし彼は根っからのものぐさである。従って彼一人の場合、ろくに調理しなくても食べられるものだけを食することになる。

ミリアが毎朝手ずから焼くパン。これは主食だから問題ないが、レイの主菜はベーコンとチーズのみ。一人で兵舎にいる間レイは徹底的にこの2つを食べ尽くすのだ。


ちなみにミリアがレイに完全に調理場を預けず自分の手で食事を作るのも、このレイのものぐさが原因となっている。完全にレイに台所を任せると、焼いたベーコンをパンにのせただけのものと、パンの上にチーズを切ってのせただけのものが交互に出てくる。そして極々たまに思い出したように野菜を千切っただけのサラダが出てくるのだ。しかもこれはミリアやユーナなど女性陣が居るときだけの特別料理。レイは自分一人だと、パンを切り、チーズを切り、ベーコンを切って焼く以外の調理を絶対にしない。


「食べちゃったものは仕方ないから、その補充のお手伝いをお願いね。レイ」

そう言われるとレイも断ることはできない。ミリアの買い出しに付き合うために重い腰を上げ、放り投げた上着を取ると兵舎の中に入って行った。どうやら着替えるようだ。


「ユーナ、あなたはお留守番をよろしく。できたら簡単な夕飯作っておいてくれると助かるわ」

「えっ!!私がですかっ!?」

「ええ…考えてみたらここに来てからユーナの料理を食べたこと無いわ…これから山に籠もって狩りをすることもあるのだから、あなたの料理の腕前も見てみたいのよ」

それを聞いたユーナは表情を曇らせ、引きつった笑みを浮かべた。

「…でも…私…」

「できるものだけでいいわ。料理が苦手なら、簡単なものだけでいいから」

ユーナの変答を遮るようにミリアは慈母のような笑みを浮かべ優しく声をかける。

「…はい」

しょんぼりしたユーナがその笑顔に押し切られて首を縦に振った。

ミリアはそんな彼女の様子を見て取ると、おもむろに耳に顔を寄せて小声で呟いた。

「…私が下準備した魚が氷冷庫に入っているわ…それをバターで焼くだけでムニエルができるから…」

それを聞いたユーナの顔にみるみる生気が戻った。


氷冷庫とはこの地方独特の風習・文化である。

まず村中総出で春先に積もった雪を切り出し、村のすぐ近くの洞窟に保存しておく。

その雪を各家庭ごとに備え付けてある、底に穴を開け栓で止められるように細工した石づくりの箱に積め、その中に生鮮食品を埋めて保冷するのである。この雪を詰める石箱を氷冷庫と呼ぶ。

雪深いこの地方の特色を逆手に取った保存システムであった。


ユーナのやる気になった顔を見て一安心すると、着替えを終えて戻ってきたレイを見やってミリアは声を投げた。

「では行きましょう。レイ、よろしくね!」

「…へーい」

レイの気のない返事を背中で聞きながら、ミリアは先に立って歩き出した。



道すがらレイは頭の後ろに手を組みながらミリアの後を追う。着替えた彼の装いはパーカーにジャケットにカーゴパンツと言う至ってラフな格好。その装いは彼の無邪気さと精悍さを同時に体現させており、前を歩くミリアも悪い気がしない。

もとよりミリアがレイをここまで教育したのであるが…

男の子のファッションセンスは異性の目を意識して初めて養われる。そしてそのファッションセンスを方向付けるのは周囲にいる女性なのもまた事実。

立ち止まって振り返ったミリアがレイの成長に目を細めた。


「…なんだよ?」

「だいぶ様になってきたんじゃない?」

それを聞いたレイが苦々しげに口を歪めた。

「そりゃここ二年で都市に行く度に服買ってきて着せ替え人形にされればね…」

「ふふ…レイは物が良いからね~…着飾るとより光るのよ~」

そう言って微笑むミリア。やはり古今東西を問わず、女性は自分だけでなく他人をも着飾りたい生き物のようだ。


「そう言えばさ、あれの件どうなった…?」

「あれ…?ああ、あれね!…まだ寄ってきてないけど、少しずつ近づいてきてるわね。まだすぐにはこっち来そうにないから、時間はありそう」

それを聞いたレイが眉をしかめる。

「どうする?狩るのはわかってるけど、いつやる?」

「巣穴を見つけ次第…かな?どんなに遅くとも冬ごもりの準備をはじめる前には仕留めたいわね…秋口にあれがここに村があることを知ったら一晩で食い尽くされるわ」

「まぁ人食い墜神の代表格だからな…」

「その時は頼むわよ!」

「…ああ」

一瞬だけレイの顔が曇った。


他愛もない話に混じった物騒な会話を続けながらも、ミリアとレイは歩みを止めない。そして兵舎からだいぶ離れたところで、徐にレイは本題に切り込んだ。

「んで…わざわざ俺を外に連れ出してなんの話?」

その言葉を聞いたミリアから笑顔が消えてレイに真剣な目を向けた。

「…ユーナの狩りのことよ…」

その陰った口調からレイは話の内容が薄々想像できた。

「ははぁ…思ったよりビビっちゃった?」

「ええ…ライラプスを見て完全に怯えていたわ。戦っても縮こまって防御ばかり。両手を完全に防御に回していたわ」

ミリアも稀代の武人である。戦闘におけるユーナの一挙手一投足の意味を見誤る筈はない。

「…なるほどね…だから急に蹴りを使いたいなんて言い出したわけだ…」

そう言いながらもレイはどこ吹く風だ。頭に手を組んだままミリアを追い越し歩みを止めない。

「思惑通り墜神の恐怖を刻み込めたんだから良いじゃない!まぁその相手にヤトノカミが混じってるのは想定外だけどさ…」

「そうね…けど彼女本当に超えられると思う?私が心配になってきちゃったのだけど…」

「…超えなくて良いと思う。このまま引退して…普通に恋して結婚して…そう言う未来をあの人は望む。俺もそっちの方がいいと思う」

レイの思わぬ答えにミリアは言葉が出なかった。しかしレイはため息一つ吐くと自身の言葉を否定した。

「けどそうはならない。ユーナの剣の土台は防御の剣。…臆病者だからこそ活きる剣だよ。ユーナのお師匠さんはユーナをよく見てたってわけだ…あいつの本質に気づいてたんだろうな…」

そこでレイは一言区切ると、断言するように言葉を続けた。

「それにあの人の娘だぜ?…超えるよ…超えちゃうよ、きっと。ミリアも見たろ?あいつがここに来たときに見せた目を。あの目はあの人そっくりだ。誰よりも恐がりなくせに、誰よりも勇敢だったあの人の目の輝きと同じだよ…」

ミリアも「そうね…」と相づちをうち、迷いを断ち切るように宣言した。

「また明日からあなたに任せるわ。ユーナのことをちゃんと導いてあげて。期待してるわよ、レイ…」

その声に向かってレイは飄々と答える。

「…前にも言っただろ?一発やるまでユーナは死なせないってな!」

振り返っておどけてそう答えるレイを、この時ばかりはミリアも張り倒すことはしなかった。

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