2-⑤

…どこかから声が聞こえる。自分を呼ぶ声が聞こえてくる。一体誰のものなのか…この聞き慣れない、それでも懐かしく感じるこの声は…

突如レイは誰かに突き落とされた。落ちた先は暗い水の中。重力に導かれるまま深い深い水底まで落ちたレイは、酸素を求めて懸命に浮上を試みる。

しかし一片の光も差し込まない暗い水の中では、自分がどこにいるかわからない。あとどれだけ手を動かせば水面にたどり着くのだろうか…

もう限界だ…

その瞬間、レイは水面を突き破る。そのまま大きく息を吸い込んだ。


「…イ…レイ…聞こえる?わかる?」

ぼんやりとした意識に音と光がゆっくりと世界を形作る。頬に感じる涼やかな風と、嗅ぎなれた木の匂いが加わることでレイは自分が生きている事を理解した。

同時に彼は喉がヒリつく強烈な渇きを意識する。

「…み…ず…」

その声と同時に水挿しが彼の口にあてがわれる。本能の欲するまま水を貪ろうとするが、未だに喉の機能は低下中。うまく嚥下ができない。咽せて口に含んだ水を吐き出してしまう。

「ほら…ゆっくり少しずつ飲むの」

レイが吐き出した水を拭き取りながら、優しい声音が降ってきた。

レイは大人しくその忠告に従い、舌で転がすようにゆっくりと水を二口飲んだ。

濁っていた視界がゆっくりと鮮明になっていく。先ほどから聞こえてくる安心感をくれる声…その声の持ち主をレイは一人しか知らない。

「ミ…リア?」


光があふれた世界の中で、レイの目の前にいたのはユーナであった。

「ミリアさんは今いないわ。私でごめんね…」

レイの瞳がユーナの姿をはっきりと捉えると、倒れる前の死闘の記憶が蘇ってくる。

「ユーナ…無事だったか…」

「うん…レイがヤトノカミを倒してくれたお陰…ありがとう、レイ!」

面と向かって礼を述べるユーナのその瞳が潤んでいる。余りにも素直で、大輪のひまわりのようなその笑顔に、レイはなんだか気恥ずかしくなって目を逸らした。そのまま周囲を確認する振りをしてユーナと目を合わせないようにする。


「ここは、俺の部屋か…てことはミリアが治してくれたのか…」

「そう!あのときレイは体中の骨がバラバラで、血をダラダラ吐いてて…おまけに右腕無くて、足はぐちゃぐちゃだったの。でもミリアさんが治してくれて…ミリアさんの治療がもう少し遅かったらレイ死んでたよ!」

「…そっか…だろうなぁ…」

自分の瀕死の状態の凄まじさを聞かされたレイであったが、彼は無感動に呟いただけだった。

その呟きに違和感を覚えたユーナが小首を傾げて、その真意を問う。

「だろうなぁ…って、どういうこと?」

「いや…前に黄泉から連れ戻された時に見た夢と似てたから…」

「それって…」

顔をしかめるユーナに水挿しを取ってもらい、水を一口飲んでレイは目を閉じた。今度は咽せること無く普通に飲み下すことができた。

「ここに来てから10回以上死にかけてる…その度にミリアに呼び戻されて、あの手の夢は見飽きるぐらいに見た。水の中でもがく夢だ」

「10回…以上…」

レイの何とはなしに呟いたその返事を聞いて、ユーナは腹の底から冷えるような戦慄を覚えた。レイほどの手練れですら幾度も死域に踏み込むこの山の現実に、改めてユーナは打ちのめされた。


そんなユーナの不安を言葉の響きに感じ取り、レイは話題を変える。

「ミリアはどこ行ったんだ?」

その問いに表情を強ばらせていたユーナは我に返った。

「ミリアさんはもう直ぐレイが目を覚ますからって言って、買い物に出掛けてる。今日は消化に良いもの作るからって…」

「そっか…」

そう呟くと、レイは目を開けて一つ深呼吸する。そのまま思い切って上体を起こしてみた。急な体位の変化で、軽く眩暈を覚える。そんなレイを気遣ってユーナがレイを支えようとするが、レイはそれを手で制して自力で体位を安定させた。

レイの若い身体は直ぐにその姿勢に順応して見せた。眩暈も消え、吐き気も起こらない。

そのことを確認すると、レイは右手に目を移し指を開いたり握り込んだりしてみる。一頻り手を動かした後、今度は肩を回してみた。違和感などどこにも感じない。

確認作業が済むと、レイはベットに勢いよく倒れ込んだ。

「あ~~~~あ…ミリアの権能卑怯すぎだろ…また後遺症なしかよ…夢の負傷除隊からの年金生活がおじゃんじゃねぇか…」

それを聞いたユーナがビシッとレイにチョップを打つ。

「なんてこと言うの!!後遺症もなく完璧に治してくれたミリアさんに申し訳ないと思わないの!?」

「でもねぇぞ…?ここ2年で10回以上死にかけるって早々ないだろ…そろそろ引退しないと本当に死んじまうよ…」

「それは確かに…そうだけど…」

勿論レイに引退する気など更々ないのではあるが、レイと離れることを想像するユーナの胸中に切なさが溢れて来る。


そんなユーナの微妙な表情を伺いながら、レイは先程からずっと疑問であったことを問いかけることにした。

「なぁ、ユーナ…」

レイに呼びかけられ、ユーナはハッと面をあげる。そこには不思議そうな顔をしてユーナを見つめるレイの姿があった。

「お前さん、いつから俺を呼び捨てにしてたんだ?少尉を呼び捨てにする新兵って聞いたことないぞ…?」


そう言えば自分はいつからレイを呼び捨てにしていたのだろうか…レイのその問いにユーナは息が詰まった。

レイは少尉としての威厳も自覚も持ち合わせていない最低のエロガキであるが、ユーナはそれでも敬意を払って「少尉」と呼んでいたはずだ。

しかしあの時の死線を共有した経験は、ユーナにとって余りにも大きかった。なにせユーナ自身も死の間際にありながら、レイの今際の際を本気で看取ろうと思っていたくらいなのだから。それが無意識に出た故の結果なのだろう。

しかし軍の指揮系統の統率の上で、上官に非礼を働くことは許されない。レイの言い分は絶対的に正しい。

ユーナは表情を消してレイに謝罪した。

「大変失礼いたしました、少尉。どのような処分でも…」

その言葉を吐き出した途端、ユーナはレイが遠くに行ってしまったような奇妙な錯覚を覚えた。同時に何故か胸が苦しくなったような気がした。それでもこの現実だけは受け入れなければならない。


「そっか…んじゃ、ここにいる間は俺をレイと呼べ!!」

そんなユーナの胸中を知ってか知らずか、レイはめんどくさそうに処分を決定した。その言葉を聞いた途端、ユーナにひまわりのような大輪の笑顔が戻ってくる。

「いいのっ!?」

「いいもダメも…こんな下らないことで処分なんかされてたら俺今頃クビだっつうの。俺ここでミリアのこと大佐って呼んだことないし」

「…確かに」

ここにいると忘れそうになるが、ミリアは国家的英雄である。そんなミリアに対し敬意の欠片も払おうとしない普段のレイの行いを思い出すと、レイを見るユーナの目がだんだん険しくなっていく。

ユーナはまだ87班の毒に染まりきっていない常識人としての心を持ち合わせていた。しかしそれがいつまで保つのか、甚だ疑問ではある。なにせ実はレイも国家的英雄の一人であることに思慮が及んでいないのだから。


そんなユーナの非難の眼差しに耐えきれなくなったレイは、その視線から逃げるように寝返りを打った。ユーナに背を向け話題を逸らす。

「俺さ、何日寝てた?」

「丸三日かな…あ、その間の看病はミリアさんが全部やってくれたよ!着替えとか清拭とかおむつの替えとか…私も手伝うって言ったんだけど、ミリアさんがレイのプライドの為に私がやるって…」

「お…おむつ…」

ユーナはミリアと違ってナチュラルにレイを殺しに来るようである。成人を超えてなお、他人にシモの世話をされていたという事実は心に来るものがある。いかに意識を失っている自分にはどうしようもない生理現象の結果であったとしても…

ユーナに見えないように静かに涙を流す彼だが、持ち前の切り替えの早さは彼の数少ない美点の一つ。

考えようによっては、ユーナに見られなかったのは僥倖なのだ。そもそもミリアに10回以上蘇生されているし、ミリアに世話をされるのは今更なのである。

「…ま、いっか。ミリアに裸見られるのは今更だし…」

「えっ…レイとミリアさんてそういう関係なの!?」

「いや…ガキの頃の話…て訳でもないか。最近一緒に風呂入ったし…」

「…そんな…まさか…」

ユーナがこの世の終わりのような顔をする。

振り返ってその顔を不思議そうに眺めるレイは怪訝な口調で答えた。

「あん?お前さん、ここの共同浴場行ったことないの?あそこ混浴だから普通にみんな風呂入ってるけど…」

「そっかぁ…良かった!!……それって良かったのかしら?」

「なんなら今度連れて行ってやろうか?村はずれだからちょっと歩くけどな…」

さり気なくそう提案するレイの顔を伺うと、案の定その鼻の下は伸びに伸びきっている。

「本当に…連れて行ってくれるの…?レイ覗かない?」

まさかの反応にレイは赤ベコの如く首を振り続ける。

しかしそれも束の間のこと。口からヨダレを垂らしながら恍惚とした表情を浮かべ、手をワキワキさせながら妄想の世界へ旅立ったレイ。

それを見たユーナは絶対零度のオーラを纏い、断固とした拒絶の意志を示す。

「だが断るっ!!」

こうなってしまってはユーナにとりつく島はない。トリップから無理やり連れ戻され、これ以上は何を言っても藪蛇なことを悟ったレイは、別の機会にユーナとの混浴を譲ることにした。


「なぁ…うっすら覚えてるんだけど、俺がヤトノカミ倒した後さ、お前さん俺の手を握ってくれたか?」

その言葉を聞いたとき、ユーナの氷の表情が溶け、春に咲き誇る満開の花のような笑みが広がった。

あの時の決死の思いは無駄ではなかった。今際の際のレイに確かに届いていたのだ。その事実がユーナには嬉しくてたまらない。

「うん…あの時レイの最後を看取れるのは私しか居なかったから…だから側に行って手を握ろうって…」

「そっかぁ…すっげぇ…」

「…?…すっげぇ…なに?」

「すっっっっっっげぇ痛かった!ヤトノカミに拳叩き込むまでの記憶はあるんだからなっ!!あの時左手グチャグチャだったのは憶えてるんだぞ!それを握り込む奴いるか、普通…」

レイの口から出たのは、ユーナの期待する言葉とは正反対のものだった。その言葉がユーナの脳裏に染み込むにつれ、彼女の怒りのボルテージもぐんぐんと上昇していく。ユーナも顔を真っ赤にして怒りだした。

「なによっ!!人が死にそうなときにわざわざ這いずってまでレイが寂しくないように側に行ったのに!素直にお礼言えないわけっ!?」

レイも負けてはいない。

「あれで意識保てたらしいからな、礼は言うべきなのかもな!!ありがとよっ!!次は俺がやってやるからな!」


こうしていつもの他愛もない二人の口喧嘩が始まる。その喧々囂々なやり取りは、風に乗って階下へと響き渡る。そこにはいつの間にか戻ってきていたミリアがいて、二人のやり取りに耳をそばだてながら、可笑しそうに頬を緩めていた。

「ユーナはもうちょっと素直になればいいのに…レイはレイで女心がちっともわかってないわね…はぁ…清純・潔癖の処女多感な乙女拗らせちゃった童貞盛りのついたサルの組合せは大変そうね…」

笑い声をかみ殺しながら微笑むミリアは、二人の微妙な距離感を推し量っていた。ユーナのレイに対する好意的な意識の変化は吊り橋効果による恋の萌芽…ミリアはそう見て取っていた。だからこそ彼女はレイの目覚めをユーナに託したのだ。

しかしそれはまだ蕾ですらない。ただ種から芽を出した状態に過ぎない。今はまだユーナ自身も恋をしていることに気づかないくらい、小さな小さな始まりなのだ。この先花を咲かせるか、それともこのまま枯れ逝くかは誰にもわからない。

それでもミリアは二人の今後に発展があることを願う。からかうネタが増えることは良いことだ。


「いずれにせよ、レイの童貞生活はまだまだ続きそうね…」

ふわりと肩の髪を払うと、レイのために買い求めてきた米を手に取りそのままキッチンへと向かう。彼女は腕をまくり上げると、慣れた手付きで米を研ぎ始めた。

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