2-④

爆炎の向こうから何かが近づいてくる。

もうもうと立ち上る煙の中から現れたのは全身に血をかぶったような真っ赤な体躯だった。

10メートルを越そうかという巨大な蛇の尾を持ち、もたげられた鎌首からは丸太を思わせる二本の太い腕。

その腕を辿ると、肩の付け根の上に鎮座していたのは禍々しい双角を有する牛の顔。

ユーナにはそれが何かわからなかったが、最早そんな事は些細な事にすぎない。

彼女の脳は既に思考を停止していた。


一方ユーナをここまで追い詰めたツチグモの変化は劇的だった。

先ほどまでユーナを威嚇していたその堕神はキチキチと激しく牙をふるわせ、その化け物を威嚇している。

しかしその化け物は全くそれに意を介さず、威嚇を続けるツチグモに向かってその蛇の尾をくねらせ近づいてきた。

両者が間合いに入った刹那、ツチグモが弓弦に弾かれた矢のごとく化け物に躍り掛かった。

瞬間、化け物が片手でツチグモを叩き落とした。

その衝撃で洞窟が震える。

ぽっかりと開いたクレーター状の穴の底からツチグモを取り出すと、化け物は緑の体液を滴らせ瀕死に喘ぐツチグモを食い始めた。

ごりっ…ごりっ…と言う硬いものをすり潰す不快な音が辺りに響き渡る。

食事を取り始めた化け物は一心不乱にツチグモを食いちぎっては咀嚼する。


その空白の時間がユーナの停止していた思考を呼び戻す。

(…あれはなに?)

推測できることはレイはあれにやられたと言うこと。

レイに目をやる。

驚くべき事にレイは血溜まりの中で微かに動いていた。

肩が振れて呼吸している事がわかる。

(…生きてる!!)

しかしあれだけの出血だ。ユーナと同じくらいか、下手したらもっと重傷だろう。


不意に化け物の食事の音がとぎれた。

ユーナは虚ろながらも淡く光が戻った瞳で化け物を見る。

先ほどまで気づかなかったが化け物は全身切り傷塗れだった。

特に胸の傷は深く、夥しい量の血を吐き出していた。

恐らくレイと切り結んで、その致命傷に等しい傷を負ったに違いない。

その傷が肉が盛り上がることで少しずつ塞がっていく。

(…ツチグモを食べて…再生した…?)

ユーナにはあれが何かわからないが、あれはそう言った特殊能力を有するようだ。

不意に化け物が地を轟かさんばかりに吼えた。

「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」

そのまま血溜まりに沈むレイに殺意の籠もった目を向ける。

化け物の射殺さんばかりの視線を一身に浴びるレイは…

なんと…動いた。

「…そん…なに…デカい声、…出すんじゃ…ねぇよ」

レイはユーナから見てはっきりわかるほど全身を震わせている。

出血が酷く、既に手足に力が入らないことは明白だ。

しかし、それでもレイは立ち上がった。


(立たなくて良い!お願い、立たないで!レイ死んじゃう!)

内心でそう叫んでも、それはもう声にならない。

それでもレイはユーナを見つけた。

二人の視線が噛み合った。

「ユーナ…そこに…いたのか…」

ユーナは涙を流す。そしてレイに首を振って応じる。

(レイ!立っちゃだめ!死んじゃう!死んじゃうよ!)

「ちょっと…待ってろ…今…ミリア…の…ところ…連れてくから…」

息も絶え絶え、声音は小さい。しかしその意思は決して折れない。

その瀕死のレイを見続けていた化け物が再び吼えた。

「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」

それはまるで自分を無視するなと言わんばかりの大音声。

「ウラァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!」

一方、幽鬼のごとく立ち上がったレイの口からも半死人とは思えない雄叫びがあがる。

その雄叫びに突き動かされるように、暁闇の光を纏ったレイがゆっくりと歩き出す。

一歩一歩踏みしめるように…だんだんとそれは早足になり…やがて疾走へと変わる。

両の手にあるナイフは既に血に染まっている。それは化け物の流したものなのか、レイの流したものなのか…

暁闇の光はやがて一陣の風になり、高さ10メートルは優に越える鍾乳洞の天井付近まで舞い上がった。

咆哮と雄叫びが再びぶつかる。

片方はたった今手に入れた死神の鎌を思わせる鋭い爪の横薙ぎ。もう片方はナイフによる裂帛の突き。

両者の必殺の一撃が真っ向から噛み合い、立ち上る炎を背景に血飛沫が舞った。

レイの一手が死神の鎌をかいくぐり、その左の手首を深く深く貫いた。

しかしそれでも化け物の膨大な膂力を殺すことなどできない。

レイは爪の一撃こそかわしたものの、激烈な掌打を叩きつけられ吹き飛ばされた。

決河の勢いで大気を切り裂きながらも、身を丸め防御姿勢を取れるのは、経験の結果か修練の賜物か…

それでも壁面に叩きつけられ、その中にめり込んだレイは、激突の瞬間に盛大に血を吐いた。

左肩は外れ、左手の手首が砕け、折れたあばらが肺に突き刺さり、頭蓋にもひびが入った。

しかし、なんとか辛うじてダメージを最小限に抑えることに成功したようだ。

即死しなかっただけで致命傷を負わされたことに変わりはないが…


(レイぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!)

ユーナは絶叫を上げたつもりだが、もう彼女は息を吐くことさえままならない。

一方の化け物もその手から夥しい出血を迸らせている。

先ほどのレイの一手はどうやら動脈を切り裂いたようだ。

呻吟が漏れ、牛頭が苦悶に歪む。

それでも牛頭は決着を着けるべく、大きく息を吸い込む仕草を見せた。


ユーナは唐突に叫んだ。

もう彼女の肺に空気はほとんどない。それでも渾身の力を持って叫ばずにいられなかった。

「レイぃぃぃぃぃ!!避けてぇぇぇぇぇぇ!!」

ユーナは絶叫とともに再び吐血した。

この一声は彼女の残り少ない命を縮めるまさに命を懸けたもの。

それを受けたレイは、朦朧とする意識の中、ふらりと足を踏み出した。権能を使おうとしているのか、レイの真っ赤な左肩の奥で聖痕が明滅する。

そんなレイに向かって、牛頭の胸部が大きく膨らみ、豪火の息吹が吐き出された。

先ほどの爆炎の正体。

そしてこの化け物の切り札。

真っ赤に染まる洞窟の中で、その眩い光に照らされたレイの目は…



手放しそうになる意識をつなぎ止め、強く意思の力を持って輝いた。

その意志は生き残る意志。

ユーナを助けると言う意志。

レイは最後の力を振り絞って高く飛ぶ。

それでも先ほどの大跳躍には遠く及ばない。

瞬間、轟音と共にレイの足元が爆ぜた。

吹き上がる爆風がレイを高く高く押し上げる。

しかし同時に立ち上る劫火の渦は確実にレイの両足を灼き、その血を沸かせ、肉を溶かし、骨を真っ黒く焦がす。

痛みは既に飽和しており、最早全身全てが激痛の悲鳴をあげている。

もうレイの全身でまともに動く場所はない。

否。ある。

落下運動に入ったレイは唯一まだ動く自分のパーツに、すべての権能の光を集約させた。



豪火の息吹を吐いて硬直している化け物の頭上からレイが迫る。

そこに意思による運動はなく、ただ物理法則に従った自由落下があるのみ。

牛頭の目に頭上から迫るレイの姿は映らない。

仕留めたと思っているのか、渾身の一撃を放ち最早立っているだけで精一杯なのか。

レイは動かぬ体を無理に動かして、自由落下の着地点を見定める。

狙うは左目。目的はその眼窩の奥にある脳の破壊。

「く…ぁぁ…」

もう声もかすれて蚊の鳴くような声しか出ない。

それでもレイは右手を振りかぶる。

腰の回転はない。

蹴り足による大地の援護もない。

あるのは落下運動によるエネルギーとレイ自身の重さと、権能により強化した突き出す筋力のエネルギーのみ。

それらを全てまとめ上げ、レイは文字通り己の全てを右手にこめた。


舞い上がった異物のか細い声を拾い、苦しげな息を吐いていた牛頭の首が上がる。

その瞳に落下運動の終わりが見えたレイの姿が映る。

(気づいてくれて…ありがとよ…的がでかくなった…)

突如現れたレイに牛頭は反応できなかった。

レイは牛頭の左目に映り込んだ自分の姿に向かって、眩い暁闇の光を纏った右手を叩き込んだ。




パンっと言う破裂音がした。

先ほどの豪火の爆発音に比べるとその音量は小さい。

風船が割れたような乾いた破裂音だった。

レイの一撃を受け、牛頭の体が仰け反るように後方に倒れる。

その体に抱き留められるように、レイの体が腹部に落ちた。

牛頭の頭蓋は半壊して今や左目から上が完全に消失しており、傷口からは砕けた脳の残滓が見えていた。

禍々しかった角はもう一本しか残っていない。

一方腹に埋もれているレイの右腕は肩から千切れて消失していた。

生物の骨の中で最も堅い頭蓋骨を素手で吹き飛ばすと言う荒技の代償は果てしなく大きい。

レイは身をよじる。動かぬその身を懸命に。

結果葉から落ちる芋虫のように化け物の腹からずり落ちた。

しかし鍾乳石の床の冷たい感触を彼は感じ取ることはなかった。

もう彼の意識は混濁していた。


地に横たわったレイを見つめるユーナには、彼に息があるとは思えなかった。

(相…討ち…)

彼女ももう長くはない。

胸は苦しいのではなく痛みが勝つようになってきた。身体が熱を失っていくのが自分でもわかる。

けれども彼女の死出の旅路にはレイという連れがいるようだ。その道中はきっと賑やかなものだろう。

そう思うと心が少し穏やかになった。


そんな時、横たわったまま身じろぎ一つせぬレイの口から微かに何かを呼ぶ声が聞こえた。

「…ぃ…ぁ…」

ユーナの表情に驚愕が張り付いた。しかしそれも一瞬のこと。

ユーナはレイの最後の声に耳を澄ます。しかしその声はとても弱々しくて、ここからでは何を言ってるのかわからない。

この瞬間、レイの最後の言葉を聞けるのはユーナしかいない。

(…レイの…隣に…行かなくちゃ…)

自分の人生の最後にレイを看取る。それが自分の運命だったのだろう。

そしてそれは最後までユーナを逃がすために戦ってくれたレイに対する返礼でもある。

彼女は震える足を叱咤し、激痛をこらえてその身を起こそうとした。

しかし腰を浮かせようと力を入れた瞬間、口から大量の血が吹き出た。

立ち上がることは叶わなかった。

それでもユーナはゆっくりゆっくり無様に這って移動する。

レイの所まで移動すると、彼女は腰から砕け落ちた。

彼女は震える両手でボロボロのレイの左手を握ってその胸に抱き寄せた。

彼女の美しい顔は自身の血で汚れていた。しかしその顔は静謐さを讃え神々しかった。

(だいじょうぶ、あなたは一人じゃない…すぐに私も…)

一瞬レイがユーナの手を強く握った気がした。


「ミ…リ…ア…ミ…リア…」

それは母を呼ぶ幼い子どものような不安げで切ない声だった。

だんだんその声が薄れていく。

レイが最後に繰り返して呼んでいたのは相棒の名前。

それがユーナには何故だかちょっとだけ悲しくて羨ましかった。


「ミ…リ…ア…」

レイの呟くようなか細い声が消え入るとき、それは唐突に聞こえた。

「ここにいるわよ、レイ」

その声にレイの濁った瞳が一瞬だけ反応する。

そしてその口から漏れた本当の最後の言葉は…

「ユ…ナを…た…の…」

「わかったわ。ユーナは助ける。あなたと一緒に」

薄暗い洞窟の闇の中から姿を現したのは、豪奢な金髪を持つ翡翠色の瞳の美しい女性。

白銀の甲冑を豪火の光に照らされたその姿は、まさに戦場に現れた教導の女神ヴェルタ。

そこに居たのはまぎれもなくミリア=ベルゼル。第87班の班長にして、レイの相棒。


何故彼女がここにいるのか…

レイの最後の言葉を叶えさせたのは天の慈悲か。

ユーナは神の奇跡を見た気がした。

否。ユーナはこれから神の奇跡を目撃する。


「あなたが呼ぶなら私は必ずそこへ行くわ。あなたは私の半身なのよ。だから…私が呼んだらあなたも必ず還ってくるのよ」

背から朝日を思わせる白光を立ち上らせ、光のヴェールを全身に纏ったミリアがユーナからレイの左手を受け取り、その身にレイの身体を抱き寄せた。

瞬間、白光がひときわ強く放たれ、ユーナは目が眩んだ。

光が収まると、レイの体が日溜まりのような優しい光に包まれ、その身の傷がみるみるうちに再生していく。

焼けただれた足も、割れた頭部の傷も、爆ぜて消失したはずの右腕も…

時間が巻き戻すかのように全てが元に戻り、何事も無かったことになっていく。


(なに…これ…これが権能…なの?)


ミリアは現役軍人で唯一のオリジナルキラー。屠りし堕神の名はメザイア。授かりし力は、物体の時を巻き戻しその状態を再現する権能。

ミリアの光が集束したとき、レイの体は五体満足。その身にかすり傷一つなくなっていた。

それを確認したミリアは静かに自分の膝にレイの頭を落とし、ゆっくりと横たえた。

その顔は出立前に見たいつものいたずら小僧のような顔そのままだ。

そして浅いが確実に呼吸を繰り返すその体は、ユーナにレイが生きていることをこの上なく如実に教えてくれる。

その事実にユーナは涙を流した。


ミリアが再び白光を纏うと、両手を広げ、感涙を流すユーナをその胸に強く強く抱きしめる。

鎧越しでもわかるミリアの体温はとてつもなく温かくて、失われつつあった生のエネルギーがユーナの体に沸き上がってくる。

「こんなに冷たくなるまで…ユーナ…よく頑張ったわね…」

日溜まりに居るようなうららかで温かな幸福感に包まれると、ユーナの胸の痛みも息苦しさも、背中の痛みも嘘のように消えていく。

「ミリア…さん…ミリアさん!!ミリアさんっ!!!!」

ユーナの子供のように泣きじゃくる声が洞窟中に響き渡った。

ミリアは何も言わずにユーナを抱きしめながら彼女の頭を右手で優しく撫でた。

同時にミリアは己の膝で安心したように眠りこけるレイの髪を左手で撫でていた。

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