2-③

「ユゥゥゥゥゥゥゥゥナァァァァァァ!!逃げろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」

突然響いたレイの大音声を聞いても、ユーナは逃げられない。

目の前でキチキチと耳障りな音を立てながら威嚇して来るツチグモはユーナを逃がしてくれなどしない。

左手のバックラーを顎の前に置き、右手のレイピアを突き出すように構える。

(基本に…忠実に…)

胸に刻み込まれた師の教えを反芻し、ユーナはツチグモと相対する。


ツチグモはユーナの構えを無視し、なんの策もなく突っ込んでくる。

そのままユーナの側頭部を狙って横薙ぎに振るわれるツチグモの前肢。鋭い爪を持つその前肢の一撃は、さながら死神の鎌。水風船を割るがごとく頭蓋を破壊し、ユーナの命を刈り取るであろうその一撃。

ユーナは反射的にバックラーを掲げてガードする。

ガキンと言う金属が噛み合う鈍重な音が響き合うと、力負けしたユーナはたたらを踏んだ。


(重い…)

何時もなら盾の表面を滑らせるようにして攻撃をいなし、死角に潜り込んでカウンターを放つユーナだが、相手の膂力が強すぎてそれができない。

結果として力と力が正面衝突し、ユーナは肩がもげるような衝撃をその身に受けてガードを崩される。

その状況でありながら続くツチグモの攻撃を喰らわずになんとか命を繋いでいるのは、ツチグモが単調な攻撃を仕掛けてくることと、先ほどの戦闘でユーナが学んだ側面へ回り込む動きのおかげであった。


間髪入れず姿勢を制御し、直ちに飛び抜けるように側面へ移動する。

ツチグモはその場での旋回運動に難があるようで旋回速度自体は遅い。

加えて敵を正面に捉えていないと攻撃できない。

これがユーナが見つけたツチグモ攻略の鍵であった。

しかし飛び込んでくる速さ、前肢の膂力、それらはユーナの想定外だ。


ユーナに正対しようと長い脚を折り曲げるようにして旋回するツチグモが隙を晒す。

(今!)

心は叱咤するが足が出ない。

この相手を前にして、一歩踏み込む勇気がどうしても出てこない。

『失敗したら死ぬかもしれない』。

その思いに囚われているユーナは再び構えを取り直す。

(基本に…忠実に…)

もう何度目ともわからないその教えを暗唱し、ユーナは目の前にぶら下がっている恐怖を必死に押し殺す。

彼女は師の教えに縋っていた。


「キシャーーーーーーーーーーーーー」

突如今までとは違う鳴き声を上げると、ツチグモは自分の腹を抱え込むようにしてその腹部の先端をユーナに向けた。

「くっ!!」

ユーナは呻くと素早くバックステップで距離をとる。

次の瞬間、ユーナが今まで立っていた場所めがけて真っ白い糸が射出された。

あの糸に絡め捕られればユーナの未来はツチグモのエサだ。

ほっと一息吐きかけたその一瞬…

狙い澄ましたようにツチグモが鋭い跳躍を見せ、前肢の一撃を持ってユーナに襲いかかった。

最早脊髄反射と言っても過言ではない流れるような動作でバックラーを掲げ、死神の鎌を防いだユーナであるが、今までと違ってその足はバックステップ後の不安定な荷重のままである。

(ヤバい!!)

そう思ってももう遅い。

彼女はその衝撃を殺しきれず、決河の如く吹き飛ばされてその身を鍾乳洞の壁面に叩きつけられた。


「か…はっ…」

衝撃によって肺の中の全ての空気が無理矢理に押し出された。

酸素を求める脳の指令により必死に息を吸おうとするが、横隔膜が痙攣してうまく息が吸えない。

壁面から体を離しなんとか構えようとするも、膝から崩れ落ちたユーナは両手をついて頭を垂れた。

「はっ…はっ…はっ…」

浅い呼吸を繰り返しても息苦しさは解消できない。

酸素が足りない身体は当然反応しない。

しかし残酷なことに思考はクリア、感覚は鋭敏…

その視線の先では、吹き飛ばされてその場から消えたユーナを探してツチグモが旋回行動をとっている。


(…立たなきゃ…)

体内の少ない酸素を無理矢理燃やして、ユーナはふらつく足に力を込めて立ち上がる。

赤い八つの目がユーナのその姿を捉えた。

数瞬見つめ合う両者。

ユーナは指先の震えを押さえ込み、無理矢理構えた。

力が入らない。

左手は顎まで上がってこず、脇腹を抑えるように添えられただけ。

辛うじて手首を返して刃先を向けることができても、だらりと垂れた右腕ではレイピアを相手に向かって突き出す様には構えられない。

そんな不格好な構えであっても、ユーナは構えた。


何故か恐怖はなかった。

自分は先ほどまで無様に逃げ回り、相手の攻撃を受け止め続けただけではないか。

カウンターと言う自分の最大の一撃を一度も相手に試していないではないか。

この一撃を手に入れるためにどれだけの期間自分が剣を振ったと思っているのだ。

それを使いもしないうちに朽ち果てることなど許されない。

(カウンターは…捌いてから取るだけじゃない…!!)


死神の吐息が自身のすぐ側にあることを感知した生存本能が、ユーナの恐怖を取っ払い、逆転を賭けた攻勢の狼煙を上げさせた。

ユーナの目に強い光が宿った。


ユーナの不格好な構えを見て、キチキチキチとツチグモが威嚇の鳴き声を上げる。

ユーナにはそれが嘲笑に聞こえた。



満身創痍のユーナを視界に捉えると、ツチグモは大きく跳躍した。小手先の技術など必要ない、種として隔絶した力による圧倒的な攻勢。

受けるユーナには最早余力はない。必要最小限の動きで、繰り出された前肢の一撃をかい潜る。

目の前に迫ったユーナの視線と、ツチグモの視線が噛み合う。

そこは死地。即ちツチグモの一咬みの間合い。

ユーナはその毒牙を恐れ、この一手を避けてきた。しかし攻撃を捌こうにも捌くことは叶わなかった。かくなる上は回避して隙を見つけるのみ。ここを乗り越えなければユーナに活路はない。

ユーナの全霊を込めた乾坤一擲の一刺しと、ツチグモの絶命必至の牙がせめぎ合う。


ガキン…


金属が奏でる硬質な音が洞窟に響いた。

後に続くのはキチキチ…キチキチと言う耳障りな声。

ユーナの一撃は…無情にもツチグモの牙に受け止められた。


直後に見舞われた前肢の一撃はなんとか挟み込んだバックラーにより直撃こそ免れたが、自身の十八番である完璧なカウンターで繰り出されたその一撃は、ユーナを再び洞窟の壁面に叩きつけた。


爆砕音が洞窟に轟く。鍾乳石の壁面はユーナの衝突を無傷で受けきることができず、大きくひび割れる事でその衝撃を殺した。

壁面に背を預けたままずり落ちるように崩れ落ちたユーナに、頭上から鍾乳石の欠片が降り注ぐ。

アッシュブラウンの美しいユーナの髪は文字通り灰色の瓦礫にまみれた。

「ひぐぅ…」

背中から激烈な痛みが走る。どうやら肩胛骨が割れたらしい。

あまりの痛みに飛びそうだった意識が引き戻される。

喉の奥が熱く、苦しい。苦しさのあまり吐き出したのは血の塊。どうやら肺まで損傷を負ったようだ。


今の一合ではっきりとユーナは認識した。

いや、はじめに対峙したときから既に理解はしていたし、事実恐怖としてそれはあった。

しかし今の今までユーナは無意識にその理解を受け入れることを拒んでいた。

自分は強いと信じていたから。危なくなったらレイが助けてくれると信じていたから。

それでも、今無様に吹き飛ばされ、もう立つこともできなくなって、いかに自分が甘かったか悟らざるをえない。

骨を砕かれ、肺を破られ、手足に力が入らなくなったこの瞬間に、遅すぎる認識としてそれはやってきた。


『死ぬかもしれない』のではなく『死ぬ』のだと。


『攻撃は最大の防御』と言うが、こと心を折る戦いにおいて必要なのは、防御技術であったりする。

自分の攻撃が通用すると信じられる間は、人は戦える。しかし通用しないとわかった瞬間、その手が止まる。

そのとき人は抗う心を折られる。

ユーナは自身の最強の一手を防がれ、完全に心を折られた。


『お前さんは、ヤツらに殺される。今日か明日か…いずれにしろそう遠くないうちに』

予言めいたレイの言葉がユーナの脳裏でリフレインしていた。



人は死ぬ直前に、今までの人生をフラッシュバックする事がある。所謂走馬燈と呼ばれるこの現象は、死の恐怖から逃れるために脳が行う乖離と呼ばれる活動の結果だという。

ユーナは走馬燈を見なかった。

変わりに見たのは幼い日々の故郷の記憶。

優しい父母にいつまでもいつまでも甘えられていたあのころの記憶。

虚ろになったユーナの目から涙が零れ落ちる。

それは死の恐怖を和らげるために脳が見せる幸福な思い出なのだろうか?

キチキチ…キチキチと言う蜘蛛の嘲笑が迫ってくる。

もうすぐあの蜘蛛が現れて…

ああ…そうなったら毒牙を撃たれて食われるのだ…

そう思っても不思議と恐怖はなかった。

あったのは無念だった。


ユーナ=シエルニカには夢があった。いや、夢と表現してよいのだろうか…

夢とはそうありたいと言う願望であるが、ユーナのものはそうならねばならないと言う脅迫観念じみた義務感である。

あえて言うならば渇望、切望、悲願…

彼女にはそう言った類の目的があった。

その目的を達するため、ユーナは軍に入る前から剣を振るってきた。

ユーナは恵まれたことに才能と言う物があったのだろう。

そして目的のために真摯に剣を振るった。

雨の日も、風の日も…それこそ休んだ日などなく。

その結果才能は芽を出しやがて実を結び、師匠から待ちの剣ならユーナの右にでる者は居ない…と評され、その噂を聞きつけた軍にスカウトされた。

軍からの使者がやってきた日、ユーナは自分の目的に一歩近づけた感慨から一晩中眠れなかった。

このまま武功を重ねやがて目的に至る。

第87班に辞令が出たときは、天が自分を後押ししてくれるのだと思った。


そんなユーナの剣術はたった今、目の前の堕神に赤子の手をひねるように簡単にあしらわれた。

それは今までユーナのやってきたことを全否定するものであり、目的への道が如何に遠いのかを指し示すものだった。

否、ユーナには目的を達する力などないと言う現実を叩きつけるものだった。

一体何をすればこの化け物に通用するというのだ。

一体何をしてきたらこの化け物に通用したというのだ。

あまりの理不尽にユーナは涙が止まらない。


涙で霞んだユーナの視界に、赤い八つの目が映る。

その時が迫り、半紙に垂らした墨汁の如き暗黒の絶望がユーナの心に広がっていく。


これが私の最後か…

こんな所で終わるのか…

叶えねばならない目的があるのに…

それを待ってる人がいるのに…

イヤだ…死にたくない…

死にたくない…死にたくない…

死ねない…


「…たずけで…」


ユーナは血に曇った声にならない声を上げた。

それがどんなにみっともなくて、情けなくても、声に出さずにはいられなかった。

獲物の最後の悪あがきを見て、ツチグモがキチキチキチキチと威嚇の声を上げる。

ユーナは潰れた肺から絞り出すように絶叫を上げた。

「レイぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」



瞬間、ツチグモの後方で爆炎が立ち上った。

反響する爆発音が洞窟中が震わせ、砕けた鍾乳石が舞い上がり、数瞬後雨の如く舞い落ちる。

何事が起こったのだろうか、慌てたツチグモはもっさりした動作で後方を振り返る。


そこにあったのは、暗い青の頭髪の長身痩躯の男が血溜まりで俯せに倒れている光景だった。

ツチグモと同じ光景を見たユーナはその男が誰であるか知っている。

レイ=クロムウェル。アルキメディア軍の少尉にして、最強と謳われる第87班の一員。タマモノオンマエレア種ソロ討伐の実績を持ち、その権能を授かった者。そしてユーナの上官であり、現在ユーナと共にここにいる最高戦力。

ユーナの最後の心の支えは、今目の前で血溜まりの中倒れ伏している。

それが意味することは唯一つ。

ユーナの一縷の望みはここに潰えた。

彼女の心は遂に絶望によって真っ黒に塗り潰された。

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