第8話

この夏休みの間、鉄雄は、毎日のように奈美と美香を連れて、森や河で遊んで過ごした。少年の頃のように泥だらけになって遊ぶのが楽しかった。釣りや木登り、山菜取り、昆虫採集。豊かな自然と地球の重力を確かめる為に、野や山を走り回った。大の大人が何をやっているの、と静子は咎めたが鉄雄は耳を貸さなかった。折角の夏休みなのだから、地球の恩恵に感謝して、思いきり自然を満喫してやろうと鉄雄は心に決めていた。

 十四年振りの夏休みらしい夏休み。本当の夏休み。忘れていた幸せな時間が蘇る。何の欲望も見栄もてらいも無く、大地と共に心から笑って過ごす。この時間を、人間は大切にしなければいけない、と鉄雄は実感していた。

 今までは、受験や仕事で忙しくて、また土や水で服が汚れるのが嫌で、自然と戯れることを疎かにし過ぎていた。

 人間は自然と共に生き、自然の恵みに感謝して生きなければ、人生の楽しみは半減してしまう。今や鉄雄は、そう確信できた。

 鉄雄は、いつも奈美と美香の三人で行動したが、たまに美香と二人きりでデートすることも忘れなかった。殆ど夕方から出かけるのだが、車で町に繰り出し、映画を見たり、ショッピングをしたり、美味しいディナーを楽しんだ。

 美香としては、もっと鉄雄を独占したかったが、鉄雄のシスコン振りは嫌という程知っていたので、嫉妬はしてもそれを顔に出したり、口に出したりすることはなかった。そもそも美香は妹想いの優しい鉄雄が好きなのであって、妹をなおざりにするような鉄雄を好きになる筈が無いのは自分でも重々自覚していた。

 幾ら、奈美といる時間が自分といる時間より長くても、鉄雄は自分だけを女として愛してくれているのだから、それで充分だ、と彼女は自分に言い聞かせていた。時々、発作のように起こる不安も、鉄雄の胸に抱かれているとストーブの上の氷のように熔けて無くなった。


 ある朝、鉄雄が食後のコーヒーを飲んでいると、洗い物をしていた静子が、今日近くの河原で花火大会があると教えてくれた。

「花火大会か…」

 鉄雄は幼い頃、父に連れて行かれた花火大会を思い出した。

 押し合い、へし合う人の波、あちこちの屋台から弾け飛ぶ笑い声、リンゴ飴や綿飴の甘い香り、人の森の間から突然聞こえるヨーヨーを叩く水音、人混みにもみくちゃにされながら父に手を引かれて歩いたものだった。

 父に買って貰った薄荷パイプをくわえながら、父の大きな手をしっかり掴み、祭りの喧噪の中に導かれた。喧噪の中は提灯やぼんぼりに照らされて幻想的な夜が広がっていた。

 突然心の中に甦った懐かしい想い出に、鉄雄は一人眉をひそめた。色褪せて音のぼんやりした想い出が次々と湧き出してきた。まるで失われた過去が鉄雄を手招きしているように。

 その日の午後、鉄雄は美香と奈美を誘って花火大会に出かけた。

 二人は箪笥から浴衣を引っぱり出してきて、子供のようにはしゃいで喜んだ。

 だが、そんな二人に失笑していた鉄雄も彼女たちの浴衣姿を見ると、その艶やかさに驚いてしまった。

 二人とも髪を結い上げ、後れ毛のそよぐ、細くて白いうなじが涼しげな柄の浴衣によく似合う。二人とも、まるで天使のように美しかった。

「ちょっと、美香、やめてよ」

「駄目よ、ほら、これ付けてあげるから」

 はしゃぎすぎる二人を静子が、いい加減にしなさい、と窘めているのを見て、鉄雄は二人を母から救い出すように、花火大会へと連れ出した。

 外に出たのは6時過ぎだったが、夏の日のこの時間はまだ日が高く、夕日が砂利道を照らしていた。

 茜色に色付き始めた太陽を背に三つの影法師を見つめて3人は花火大会に向かった。その道はかつて幼い頃、鉄雄が父親とよく散歩に使った道だった。

 父親はいつも仕事でどこかに行っていた。鉄雄は殆ど父親と話したことがなかったが、夏休みの時期になると毎年一日か二日鉄雄と遊んでくれた。年に一度か二度の事なので鉄雄も父親もお互いにどう接して佳いか分からずにろくに口も聞かなかったが、鉄雄はそれでも父親と遊べるのが嬉しかった。

 父親との想い出が夏のイメージばかりなのは、父親がお盆休みしか取れなかったからなのだろう。

 花火大会、夏祭り、そして炎天下の散歩。

 散歩のルートはいつもお決まりだった。

 国道を越えて、小川の流れる谷へ降り、小さな林を抜けて畑に出る、そしてその先の森を抜けると河原を見下ろす小さな山の頂に神社がある。そこが散歩の終点だった。

 降るような日差しの中、二人は何も語らずに歩いたものだった。音が無くなるような強い日差しを避けるように影を見つけて進んだものだ。

 永遠に続くような皮肉で意地の悪い強烈な太陽、ジィジィという音のイメージ以外はなんの音もない世界。しかし、微かに風がそよぎ、木々の葉が揺れる。虫が飛び交い、清流が流れる。

 幼い頃の断片的で捏造された記憶が鉄雄の中でフラッシュバックしていた。

 記憶の中の二人の散歩はいつも快晴の暑い日で、喉をカラカラにさせて歩いた想い出しかなかった。針葉樹の林はいつも薄気味悪く、畑にはいつも花が咲き、蝶やミツバチが舞っていた。

 森の入り口には冷たい湧き水がいつも湧き出ていて、二人はいつもその水をがぶがぶ飲んで渇いたのどを潤した。鉄雄は今でも、あの森の入り口の湧き水ほど美味しい水はないと信じている。

 その日も鉄雄は森の入り口でその湧き水を飲んだ。美香と奈美も湧き水を飲んだが、父親の想い出と一緒に飲んだのは鉄雄だけだった。

 神社の境内に着くと、敷地の一角に地元の人間が何人か固まっていた。そこは丘陵の崖に面しており、河原を一望する見晴らし台になっていた。

 見晴らし台に近づき、花火の上がる河原を見下ろすと、既に屋台が立ち並び、その回りには黒山の人溜まりが蠢いていた。その大半はスペースコロニーから降りてきた宇宙人の観光客だ。地元の地球人は人混みを嫌い、この神社のように地元の人間しか知らないところからこっそり花火を見るのが普通だ。

 鉄雄の幼い頃は、地元の人間が大勢いたが、今はその頃の10パーセント位のの人間しかいなかった。

 天災を防ぐ建設物の構築が禁止され、地上の建設許可を取るのが異常に難しくなったお陰で、天災に負けた者達は軌道上の施設に入ることを余儀なくされていた。また、マーケティングも軌道上に移り、地上で職を探すのは難しくなっていた。

 今、鉄雄達が見下ろす河原で楽しそうに群れているのは、大金を叩いて地上に降り、バカンスを楽しむ軌道上で成功した金持ち達だ。

 しかし、鉄雄が生まれる前は、この何百倍もの人だかりが祭りに集まったという。日本の一都市集中型経済は人口を爆発的に増やし、集団精神病に冒される寸前だったそうだ。

 それを救ったのが彼の父だった。

 彼の父は、せめて自分が子供だった頃の人口密度と自然環境を取り戻そうと、必死になって働いた。その結果が今鉄雄達の前に広がる風景だった。

 いま彼等がいる世界は、鉄雄の父親が幼い頃の世界と瓜二つだと母の静子は言った。

 鉄雄の父親は、自分の幼い頃の世界を理想とし、その世界を取り戻した。疾風怒濤に進化する世界は時を止め、二つの、或いはもっと多くの世代を同じ時代に留めた。

 父とその仲間達は、最も偉大なプレゼンターとして世界中から賞賛された。鉄雄も今はそれを誇りに思っている。しかし、まだ小さい時は、そんな名誉よりもただ自分のそばにいてくれる方がずっとよかった。

 西に聳える山に向こうに夕日が沈み、辺りが漸く薄暗くなると早々に花火が打ち上げられた。

 鉄雄達は見晴らし台の欄干にしがみついて河原を見下ろした。

 河原の土手には屋台の明かりが無数に広がり、花火大会のために特別に設えられた水銀灯の大型ライトが人々の行き交う道路を照らしている。

 遠くからその光景を見ていると、その群衆の中に幼い頃の自分と若い父が紛れているような気がした。

 まるで過去を眺めているようだ、と鉄雄は思った。

 その郷愁をかき消すかのように、空の高みでは色とりどりの花火が鳴り響いた。まるで巨大な爆竹のように。

 花火大会が終わったのは、午後の十時過ぎだった。その頃になると河原の連中も大半が帰っていた。

 3人は静まり返った森の中を歩いていった。森の中からは夏虫の声が聞こえ、遠く河原の方からは蛙の声が波の音のように共鳴していた。

 大音響のあとの静寂はやけに寂しく、やけに冷たく感じた。

「ちょっと怖いね」奈美が言った。

「なんか、神秘的」美香は虫の声に聞き惚れていた。

 やがて、鬱蒼と茂った森の終わりに近づいた。前方に星明かりに照らされた森の出口が近付いてきた。

 鉄雄は森を出る時、なにげに道の脇にある湧き水の泉に目をやった。

 すると、その小さな泉は宝石箱のように煌めいていた。

 鉄雄は反射的に空を見上げた。

「うわっ!」

 満天の空には輝くミルクを流したような天の川が天を分かち、空一面の星明かりは満月の月光のように眩しく輝いていた。

 星空の光が泉に反射していたのだ。

 鉄雄の身体は硬直し、天空を見つめた。

 見上げる空が星で一杯だった。

「うわぁっ、凄い」

 今まで速射砲のように打ち上げられていた花火の光と水銀灯の所為で、星が見えなかったが、祭りが終わって本当の闇空が現れた。

 それは鉄雄も見たことのない、澄通った星空だった。火星に行っていたときも何度か天の川を見たことがあったが、これほど美しい天の川を見たことはなかった。

 青白く輝くプレアデス星団、東から昇るオリオン星団、ミルキーウエイを構成する無数の星々、四等星や五等星まではっきり見える星の海。

 まさに、神々のこさえた芸術だった。

 そして、その神々の空の彼方にスペースコロニーの認識灯がゆっくりと渡っていた。

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