第7話

美香はその日の朝、早めに朝食を済ませると、急いで鉄雄の家へ向かった。その日は朝から鉄雄と奈美と三人で近くの河で釣りをする予定だった。

「おはよー」美香は元気な声を上げて玄関のドアを開けた。

「あら、おはよう。美香ちゃん」

 静子が台所から美香を振り返った。

「おはようございます」美香は、お邪魔します、と言う代わりにそう言って玄関で靴を脱いだ。

 美香が家に入ると鉄雄と奈美は居間で釣りの仕掛けを作っていた。無論、奈美は鉄雄が釣り糸と奮闘しているのを横から眺めているだけだったが。

「ああ、おはよう」鉄雄は美香の顔をチラリと見て言った。「ちょっと待ってろよ。今、美香の仕掛けを作ってるからな」

「座りなよ」

 鉄雄の横に座っていた奈美が美香に座布団を勧めた。

「随分、張り切ってるわね」美香は畳の上に胡座をかいて作業に熱中している鉄雄に言った。

「二年振りだからな」鉄雄は顔も上げずに言った。

 美香には解っていた。今日の釣りは、鉄雄と美香のデートに奈美が付いて来るのではなく、鉄雄と奈美のデートに美香が付いて来るのだと。

 時々美香は、鉄雄が妹の奈美に恋愛感情を抱いているのではないかと疑いたくなる時があった。この兄妹は異常なくらい仲が良い。奈美が病気がちでなかなか友達が出来なかったのと、高校入学前に彼女の父親が他界した為に鉄雄が彼女の父親代わりに人一倍大切にしたのは分かっていたが、恋人の美香でさえ、入り込む隙のないくらいの二人の仲に嫉妬を覚えることもあった。

「さあ、出来たぞ。じゃあ、みんなで行こうか」鉄雄は仕掛けを釣りの道具箱に仕舞いながら二人に言った。

「サンドイッチ出来てるわよ」

 静子がバスケットを持って三人の元に来た。

「ありがと」

 鉄雄はバスケットを受け取ると、勢いよく立ち上がり、奈美と美香が立ち上がるのを手伝った。

「奈美ちゃん、水に近付いちゃダメよ。河に落ちて風邪引くといけないからね」静子が心配そうに言った。

「大丈夫だって」鉄雄は胸を張って言った。

「お兄ちゃんがいるから大丈夫」奈美もあっけらかんとしている。

「おばさん、気をつけるから心配しないで。じゃ、行って来ます」

 三人は静子と三匹の猫を残し、藤井家を後にした。

 鉄雄の家は、河川が浸食して造った大きな丘陵の上にあり、河はその丘陵と隣の丘陵の谷間に何世紀にもわたって存在していた。

 その河は鮎釣りで有名な河で、鮎の解禁日になると、大勢の釣り客が日本中はもとより、十二個の日本領軌道居住区のそれぞれからもやってくる。「都市人口分散化計画」と「スペースコロニー移住計画」のお陰で首都圏の人口は二十世紀後半の十分の一以下になってしまったが、それでも鮎の解禁日の河の賑わいは衰えを見せない。二ヶ月前の鮎漁最盛期に地球に帰っていたら、河は釣り人に埋め尽くされていただろう。

 鉄雄の家から河原に降りるには、鬱蒼と木の生い茂った丘陵地の斜面を降らなければならない。斜面には山毛欅や椚や隈笹などの雑木林になっていて、そこに、土の上に直接岩石を置いただけの階段状の小道がジグザグと下まで続いている。小道はいつも、回りの木々に光を遮られ、昼尚暗かった。

 三人は朝露で濡れた石階段に気を付けながら、ゆっくりと下っていった。

 途中で見上げると、緑の葉の隙間から僅かに青空が見える。夏の朝日が湿った土から水蒸気を燻り出し、靄が光の束の中で踊っていた。落ち葉色の蝶が木々を渡り飛び、カナブンのハミングがマーマレード味の空気を運んでくる。

「足許に気を付けろよ」

 鉄雄は先頭に立って不格好な岩で作られた階段を用心深く降りた。

 階段の岩は上面だけが辛うじて露出しており、殆どが赤土に埋もれていた。朝露に濡れた赤土は滑りやすく、岩の露出している所を点々と跳び移るようにして進まなければならなかった。

 斜面の下まで来ると、チョロチョロと水の流れる音が聞こえてきた。水田に水を供給している用水路に水が流れる音だ。やがてその音が大きくなり、雑木林のトンネルを抜けると、水田が視界一杯に広がった。

 河の堤防から丘陵の裾までの五百メートル程の土地は水田になっていて、それは堤防に沿って河上から河下までずっと続いている。水田の稲は丁度青々と実った頃で、あたり一面はまるで巨大な緑の絨毯のように見える。三人の前には水田をかき分けるように、堤防まで一直線に細い農道が続いていた。農耕用の小道で、舗装はされているが、あまり車の走った形跡は無く、非常に綺麗だった。

 鉄雄は小道を中程まで歩くと、ふと、後ろを振り返ってみた。そこには、荒ぶる神のように風に枝葉を揺さぶられ、その先を天高く伸ばしている木々が丘陵の四肢のようにわなないていた。

 まるで今降りてきた丘陵地が神世の代から土地の神々が住まう杜のように見え、底知れぬ畏怖感を覚えた。

 堤防を越えて河原に出ると、十分程で鉄雄がかつてよく来た釣り場のポイントを見つけた。

 奈美と美香は、ぎくしゃくした手つきで釣竿を組み立て、鉄雄は、ブラスチックのバケツに河の水を少し汲んで煉り餌を作った。

「餌は何にするの?」奈美が尋ねた。

「ミミズは嫌よ」リールと格闘しながら美香が言った。

「これだよ。コレ」

 鉄雄は煉り餌をかき混ぜていた柄杓を持ち上げて二人に見せた。

「なあに?変な色」

 奈美が恐る恐る柄杓を覗き込んだ。

「煉り餌だよ。煉り餌」

「これ臭いんだよね」美香が顔をしかめて言った。

「子供の頃、この臭い消す為に、煉り餌にカレー粉やバジルを混ぜた事があったなぁ」鉄雄が言った。

「で、臭い消えたの?」美香が尋ねた。

「消えるどころか、すげー臭いになっちゃってさ。おまけに一匹も釣れなかった」

 鉄雄が口を曲げて戯けてみせると、美香と奈美は大声を上げて笑った。鉄雄もつられて笑ったが、美香と奈美の笑い声に不協和音の様な異質さを感じ、笑顔は控えめになっていった。

 午前中の釣りは最低だった。一匹も釣れなかった。アタリもまるで無し。鉄雄と奈美は根気よく釣りを続けていたが、美香はさっさと諦めて、河原の石で窯を作って、インスタントコーヒーを作り始めた。

 暫くすると、美香がマグカップを片手にヨロヨロと鉄雄の方に近付いてきた。

「はい」と、言って、美香はカップに入ったコーヒーを座って釣りをしている鉄雄に渡すと、自分も彼の横にしゃがんだ。

「ねえ」美香が突然、思い詰めたような口調で言った。

「何?」

「何時まで地上にいられるの?」

 この問題について、鉄雄は火星を発ってからずっと考えていた。来月にはヨーロッパ宇宙開発事業団との契約は切れてしまうが、事業団側は鉄雄の契約更新を希望しているから、鉄雄が願書を出しさえすれば十ヶ月後には再び火星に戻れる。あの、中途半端の仕事を片付けられるのだ。しかし、地球の姿を二年振りに見て、家族に会ってみると鉄雄の考えは変わっていった。

「ずっとだよ」

「ずっと?本当に?」

「ああ、もう一度、俺が願書を書かない限りはね」

「でも、ヨーロッパに行っちゃうんでしょ?」

「いや、九月に契約が切れるが、契約更新しないで日本の大学の研究室に入ることに決めた」

「じゃあ、もう遠くへは行かないのね?」

「ああ、俺は宇宙より地球の方が合っているらしい」

「よかったぁ」

 美香は安堵の溜息をついて鉄雄の肩に頭を凭れ掛けた。

 美香の笑顔を見ていると、これで良かったんだ、と鉄雄は思った。

 二人の下流では奈美が飽きもせずに、流れる浮子を見つめていた。その姿はキラキラ光る川面を背景に、小さなクレーン車が作業している様に見えた。

 昼食を終え、日も傾き始めると、漸く釣れ始めた。鉄雄が最初の一匹をつり上げると、他の二人にも次々とアタリが来た。最終的には、小振りではあるが、まあまあの大きさのヤマメが十二匹釣れた。その場で塩焼きにして食べようという提案もあったが、結局、鉄雄の家で唐揚げにして食べることにした。

 茜色の空を後にして、三人は家路に就いた。稲穂の道を分かつ一本道を抜け、夕刻の山颪のそよ風に揺れ、ヒグラシの蝉時雨を降らせる杜の中に三人は消えていった。

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