第3話 発見者の男

それは空から降りてきた天女に後ろから優しく目隠しされたような、ひどく静かな臭いだった。ただし、その天女の掌は腐りきって溶けているが。


皇大学学術探検部の教授の美作は、岐阜県から


「鍾乳洞内にひどい異臭がたちこめるようになった。原因を突き止めてほしい」


と、調査の依頼を受け、二人の学生を連れて、大和田鍾乳洞へとやってきた。

あまりにもただならぬ悪臭に見学した観光客からの苦情が相次ぎ、この一週間もの間、大和田鍾乳洞は営業を休止しているという。

県の職員に案内され、特に悪臭がひどいという洞窟エリア「シンデレラの靴」に美作達は入った。


予め聞いていた通り、鍾乳洞を出入りするコウモリの死骸や糞のような悪臭の源になるようなものは、洞窟内には見当たらなかった。

臭いの質も、美作が研究の際に嗅ぎなれているそれらとは明らかに違う。


美作は学生たちに梯子とスメルチェッカーを使わせて、 天井に近くなるほどに悪臭の度合いが増すのを確認すると、鍾乳洞の地図と構造断面図を広げた。


悪臭の元はこの「シンデレラの靴」の洞内ではなく、天井上部にある小さな裂け目から上へ繋がる未開洞の一つにあるようだ。

天井部分を壊して探すのは学術的な観点から、とりあえずはしたくない。


美作は地図を一睨みして、それよりも、と呟くと、断面図上の一点をペンで指した。


遠回りになるが、山頂に程近い位置にある地下水が滝状に流れている洞窟エリア「竜宮の都」から捜索を始めた方がいいと判断した。


「竜宮の都」には全長百五十メートルほどの傾斜のついたトンネルのようなものがあって、未開洞と繋がっている。

このトンネルは人間の体が通れる幅は何とかあるものの、コウモリの出入り口専用通路のようなもので、一般の観光客には公開されていない立ち入り禁止ゾーンだった。


そのトンネルを往くための命綱を腰に巻きながら、美作は嫌な感覚がした。


直角とはいかないまでも急角度の縦穴トンネルに人が滑り落ち、その先の広い未開洞に落ちたなら、とても自力では脱出できないと思われた。

鍾乳洞の壁は湿気やコウモリの糞で滑りやすい。

おまけに洞窟内には植物もなく、コウモリやハエ、ゴキブリのようなもの以外、食料になるような生き物もいない。


自分たちを絶えず嘔吐へと誘うこの悪臭からしても、未開洞にはおそらくひどいものがある・・・と美作はごくりと唾を飲み込む。


ヘルメットやつなぎ、腰の命綱で完全装備して、その未開洞に降り立った美作は(ああ、これは・・・)と思わず、後ずさった。


五十メートル四方もあろうかという位、中は広い。


そして未開洞のある場所では、痩せた男が、上半身の服が大きくはだけられた痩せた女を押し倒して、そのわき腹に顔を埋め、歯を剥き、唇をつけていた。


その背中と後頭部が必死に動いている。

性愛行為には見えなかった。美作の気配に気づいて振り返った男の唇に血が染みていた。


コウモリの舞う暗い未開洞の幻想的な雰囲気と、男の端正な顔立ちがあいまって、映画館のスクリーンで俳優の演じるバンパイアでも見ているようだった。


そのすぐ近くには、腹の皮膚がたるんで上着の裾からはみ出している気持ち悪い男が、体操座りのような姿勢で自分の胸元に顔を伏せ、真剣な表情で熱心に胸毛を抜くような奇妙な仕草を繰り返していた。


その時、奥からまた別の男の声がした。


「・・・助けてくれ・・・」


その男はふらふらと鍾乳石の影から転び出て片手を伸ばすようにして、美作に近づいてきた。

けれどその男の指先も服も、ひどい血のしみで黒く禍々しく汚れていた。


美作は震える手で無線機を握ると、「SOS」と叫んだ。

カチカチと鳴る前歯が何度も無線機にぶつかった。




四人の男女が機動隊に保護されて、救急車で病院に搬送された後も、美作は未開洞に残って、鑑識班の人間や学術探検部の学生と共に調査をしていた。


洞内には紙コップ、スポーツバッグ、携帯電話、様々なものが落ちていた。


それにしても、と彼は首をひねった。

この未開洞には、「シンデレラの靴」で嗅いだようなひどい悪臭がほとんどしない。

悪臭の根源はこの未開洞とは違ったのかー?


その時、鍾乳洞の隅に、小動物の骨が無数に落ちていることに気がついた。

おそらくコウモリのものだろうが、それにしては数が多い。

コウモリには墓場を決めて死ぬ習性などないはずだった。

よく見ると、その辺りには白い灰が落ちている。


どうやらあの四人は飢えて、ここでコウモリを焼いて食べたらしい。


日本では五十年以上発症例が出ていないものの、コウモリは狂犬病のウイルスを持っている可能性がある。


発見した時の彼らの狂気を宿した異常な目つきを思い出し、美作は彼らが搬送された病院にそのことを伝えた方がいいと、声をかけるべき警察の人間を探した。


警察らしい制服を着た人間はすぐに見つかり、美作はそちらに歩み寄った。


そこではちょうど、鑑識の一人が女物のトランクを開けようとしていた。


泥のようなものがちらりと見えた瞬間、強い酸臭に顔面を撃たれて、「うっ」と美作は目を瞑った。


しばらくして何が起きたんだと瞼をしばたきながら、覗きこんだトランクの中には、横向きで膝を抱えた姿勢の腐乱死体が詰まっていた。


悪臭に目がガンガンする。


体のラインや足は、人の形をしているが腹部は溶けて真っ黒なスープになっている。

その中をゆうゆうと泳ぐようにウジが動いている。


吐く、という危機感すら感じる間もなく、美作はその場に激しく嘔吐した。


トランクにつけられた「RIONA TERANISI」と書かれたネームプレートまで飛沫は飛び、


「ここで吐くんじゃ ねぇっ」


と、刑事の怒号が美作の背を打った。





・・・その腐乱遺体には、

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