第2話 バス・ストップまで
バスが山道のカーブに車体をとられて、ぐらりと体が揺れた。
その拍子に、佐野茜子は
「あんた、絶対、不幸になるわよ!」
と、昨夜聞いた母、律の暴言を思い出した。
電話越しの母はいつもより苛烈だった。
「オフ会だか何だか知らないけどね、そんな不幸な人間の集まりに行ったって、
いいことなんか何にもありゃしないよ。
他人は他人! 自分は自分、そう思わなきゃやってけないよ。
ハルアキさんのことはすっぱり忘れるしかないじゃないか。
あの男はあんたのこともあたしのことも裏切った、そんな救いようがない
どうしようもない奴だったんだよ? アコ、いいかげん、目を覚ましな!
今、あんたが行かなきゃならないのは、そんな辛気臭い田舎旅行じゃなくて、
病院だろう?
頼むから、このままでいいなんて甘い考えは捨てて、一刻も早く行ってきな!!」
茜子には母の怒りようも理解できた。
ただただ娘である自分のことが心配なのだ。
それにハルアキのことに関しては、母の律もまた手ひどい傷を負わされた犠牲者
だった。
でも、と茜子は近くの座席をぐるりと見渡した。
ハルアキのことを知っている三人の知己の顔。
それだけで車内にハルアキはいなくても、すぐそばに彼の息遣いを感じられる
ような気がした。
茜子はほう、と息をついて長い髪をかき上げた。
母さんも、私たちと同じ仲間なのに、どうしてわかってくれないんだろう―。
私には、この会とメンバーが絶対に必要だってこと。
やがて路線バスが唸りをあげて、一人の客のために停車した。
乗り込んできたのは、このオフ会旅行の幹事である仲原大輔だった。
大輔は、この岐阜県の山深い山間部で農業と昆虫飼育を生業にして暮している。
独身で家族はいない。
「よっこらしょ」
と、大輔が奥の広い座席に座ると、会のメンバー達がいっせいに振り向いた。
「大輔さん、今日は素敵な旅の企画をありがとう」
そう言ったのは、寺西里桜菜だ。
健康関連商品を扱う店のオーナーだという彼女は、落ち着いた大人っぽい女性で、人の心を惹きつける笑顔をする。
他のメンバーも口々に大輔に話しかけてくる。
彼らに快活に答えながら大輔は単純に思う。
やっぱりこいつらって、ボランティアかってくらい、みんな優しいよなと。
若い女性と話すのは久しぶりで、鼓膜がぴくぴくと喜んでいるようだ。
彼の視界には、メンバーの顔と同じ存在感で自分のでっぷりとした腹部が小山の
ように広がっている。
同じ身長の男性の平均体重を二十五キロオーバーして、ちょうど百キロに届いて
いる。
小学生一人分にも等しい脂肪。
自己紹介を求められたら、「高卒。デブ。ブサイク」、その三つの単語だけで大輔は自分の全てを説明できてしまう。
みんながあまりに屈託なく明るく話してくれるので、こいつらだって、こんな団体のメンバーでもなけりゃあ、俺をいじめたり、俺の人生を指差して笑ったりするんだろうな、などとつい妙な妄想を抱いたりする。
「大輔さん、今、看板に『大和田鍾乳洞』って書いてあったけど、この辺に鍾乳洞
があるの?」
そう言ったのは、システムエンジニアの山元磯だ。
背こそ低くて華奢だが、かなりの美形だ。職業柄、頭の方もいいのだろう。
「ああ、この三つ先の停留所が鍾乳洞前じゃなかったかな。
縄文人が住んでいた洞窟があるらしいぞ。
確か『天空世界』やら『地底国』だなんて、名づけられたスポットがあって、
この辺じゃ、わりと観光客を集めているらしい。
・・・って、そういう私も同じ県内に住んでいるのに行ったことはないんだよ」
「お客さん、一番前の座席の背もたれに鍾乳洞のパンフレットが入ってますよ」
二人のやりとりを聞いていたバスの運転手が、信号待ちのタイミングでそう言った。
一番前の座席の近くに座っていた茜子がさっと手を伸ばして、パンフレットを人数分引き抜くと、みなに配った。
磯が唄うように言った。
「へぇ、いいじゃん。神秘的で。
俺、見たいな。なあ、これから途中下車して寄って行かないか?」
「えーっ」
と、いう声を上げたのは、里桜菜だ。
茜子は、すぐに
「さんせーい、あたしも行ってみたーい」
と、無邪気な声を上げた。
大輔は、「鍾乳洞ソフトクリーム」というのが、鍾乳洞の売店で売っているのを
知り、
「いいねえ」
と、答えた。
食べたことのない甘味は、やはり試してみたくなる。
宿でとろけるような飛騨牛のステーキを食べる前に、甘くて冷たいもので喉の通りをよくしておくというのはよさそうだ。
バスを途中下車して鍾乳洞に寄り道しそうな雰囲気になって、里桜菜は慌てた。
「本当に行くの? パンフレットを見ると鍾乳洞は山の中にあるみたいよ。
中には急な勾配なんかもあって疲れるんじゃない?
私はともかく、茜子はさ、靴、大丈夫なの?」
茜子がパンプスやミュールなら危険だと言って、やめさせられることができる、里桜菜はそう思った。
「大丈夫ですよ。
ダイエットに少しでも歩きたいなって、ぺったんこのスニーカーを履いて
きてます。
あたし、行きたい」
「そういえば、ちょっとふっくらしたけど、茜子ちゃんにダイエットなんて全然
必要ないよ」
と、大輔が茜子に言うのと、磯が里桜菜に
「里桜菜さんてば、鍾乳洞に行くの嫌なの? なんか理由があるの?」
と、言うのはほとんど同時だった。
「だって、重いんだもの・・・」
「え、何が?」
「みんなへのお土産にしようと思って、ウチの店の人気商品を人数分持ってきた
のよ。
それがちょっと重くって。
それを持って鍾乳洞に入るなんてちょっとね。
あー、しまったなあ。宅急便で宿に送っておけばよかった。
でも出がけに思いついちゃったんだよね」
舌を出して、里桜菜はそう言ってみた。荷物が重くて途中下車したくないのは本当だが、出がけにお土産にしようと思いついたというのは嘘だ。
本当は経営している店が潰れて、アパートに在庫品を置いておくことも出来ず、なんとか処分しようとトランクに詰めて持ってきたのだ。
宅急便で送るような金銭的な余裕はなかった。
宿の宿泊費は前回のオフ会時に徴収されていたから大丈夫だが、遊興費はなるべく使いたくなかった。
けれど、磯は笑った。
「なんだ、そんなことか。
俺だって、ノートパソコンを持ったまんまだよ。
荷物なら鍾乳洞の入り口で預かってくれんじゃない?
あ、そうだ。なんなら、バスを降りたら、お土産をみんなに配っちゃえば?
一人で五人分全部、持ってたら重いけど、分けちゃえばそうでもないだろ?」
大輔も、女性陣の分は私が持ってあげようと言って、笑った。
「それに私もみんなに宿でのお楽しみな土産を持ってきたよ。期待しててくれよな」
「う、うん、そうね・・・」
結局、里桜菜は
「いやよ、私は鍾乳洞になんて行きたくないのよ」
と、メンバーに言えなかった。
自分にとって家族よりも大事な彼らを傷つけたくなかった。
言葉を失くした里桜菜は、こんな風に人にはっきり物が言えず、外面ばかりがいいところは、母に似たんだなと何だかおかしくなった。
母も深夜営業の飲める小料理屋をやっていたが潰してしまった。
母娘って人生まで似るものかしら―? と。
こんなことを考えていると、せっかくの「USED TO LIFE」の会合がつまらなくなってしまう。
鍾乳洞探検にウキウキとしている磯や茜子に向かって、里桜菜はにっこり笑ってみせた。(人生、なるようにしかならないんだもの)と諦めて。
「お、もうすぐ鍾乳洞だ。
さっきから黙っているけど、港さんも途中下車に賛成でいいよな?」
磯が前方の席に座っている港鴻馬に声をかけた。
「ん、ああ」
昨日の書類仕事のことを考えていた鴻馬は、寝ぼけたような声を出した。
鴻馬が仕事で「あの書類」を書くのは、久しぶりだった。
資格は持っているものの、なかなか書く機会がなく、最後に書いたのは父親の分で、あれからもう十年は経っている・・・。
そんな感慨に浸っていたから、鍾乳洞に行くか行かないかには、あまり興味が持てなかった。
茜子に手渡され、パンフレットも一応見たが、職業柄、見慣れたものが写っているという気がして、わざわざ見たいとも思えなかった。
けれど、ほどなくバスは鍾乳洞前の停留所にぴたりと停車し、メンバーが各自、荷物を下ろすのを、ボルルルとエンジンを牛の鼻息のようにのんびり鳴らして待っている。
パンフレットを見てみると、鍾乳洞は山の中に縦横無尽に広がっている。
案外疲れるかもなと、鴻馬は少しでも荷物を軽くしておこうと、スポーツバッグから漫画の本を三冊取り出して、座席の下に置いた。
行きの新幹線の中で読んでいたものだが、単行本はもとより、愛蔵版に、文庫に、ポケット文庫にと様々にシリーズ刊行されているものを全て鴻馬は持っているので、コンビニで買える安価な作りものなら、バスの車内に捨てていっても惜しくなかった。
それなのに、席を立ち上がりながら、ずっとあんたに憧れてたんだけどなあと、思わず呟きそうになった。
そのまま勢いづいて心の中で独りごちる。
憧れを叶えるための努力はしたよ。
だけど、あんたと同じ仕事につくことは諦めて、望まぬ仕事についている現実なんだ。
でもな、昨日の仕事に関しては、ほんの少しだけあんたに近づけた気がしたんよ・・・。
鴻馬はバッグを持ち上げた。自分の大切なバイブルをバスに寄付して、それはひどく軽くなった気がした。
「鍾乳洞って、神話の世界に出てきそうな何か神秘的な感じがしなーい?」
真っ先にステップを降りた茜子が期待に弾んだ声で、後ろの磯に振り向いて言った。
「そうかあ? 俺も神秘的って思ったけど、茜子ちゃんみたいに神殿とかメルヘン
チックなのじゃなくて女のさ、内部の中の内部、子宮って感じ。
・・・って入り口の方なら見慣れてても、子宮がどんなんか実物は見たことない
けどね」
「あたしは神殿なんて言ってないけどなあ・・・」
そう言う茜子の声にかぶさって、
「やあね、磯は。へんなこと言って」
と、里桜菜が頬を赤らめる。
大輔もゆさゆさと体を揺らして、ステップを降りながら言う。
「磯の意見に、私も賛成だね。パンフレットで見ると、色や見た目が焼き肉の
ホルモンとか子袋に似てるよなあ」
メンバーが口々に話す言葉にまったく面白いもんだなと、最後にバスを降りた鴻馬は、再び心の中で独りごちた。
磯の風貌ならきっともてるだろう。
女性器を見慣れているというようなドキッとしてしまう発言をしても、まったくいやらしく聞こえないのだから、たいしたものだ。
あんなことさえ経験しなかったら、こんな会などに入らず、まっとうな家庭の一つ、すぐにでも作れることだろう。
いや、それは磯に限ったことじゃないか。
ああ、まったく、俺たちは全員、ひどい呪いがかけられているよな。
呪いで繋がれた絆っていうのは、切るに切れなくて本当に始末が悪いよな。
なあ、そうだろ? ハルアキ・・・。
バスを降りた磯は、里桜菜がみなに手土産を配っている間に、せかせかとした手つきでタバコを取り出した。
十代の頃から吸っているために声はかすれ、体臭もマルボロ風味でずっと定着している。
磯は、さて、何とか皆を鍾乳洞に連れてこられたなと、安堵の息をタバコに込めて吐き出した。
岐阜県にこの鍾乳洞があることは、今日、バスの窓から看板を見かけた時よりも、もっと前から磯は知っていた。
この先、自分の人生をどう生きてゆくのか迷い、懊悩していた頃、この会のメンバーとは違う、別の大切な仲間から
「鍾乳洞を見てきたら、どう? 案外、スパッとふんぎりが切れるかもよ」
と、勧められた。
そして岐阜県に規模が大きくていかにもよさそうな鍾乳洞があることを知り、この旅行のついでに行こうと決めていた。
この鍾乳洞のバス停が、自分たちが乗るバスのルートに入っていると知った時は、運命的だとさえ思ったものだ。
鍾乳洞の入り口に立った瞬間、磯の腕にざわわっと鳥肌が立った。
本当に俺は生まれ変われるだろうか?
親父が死んで火葬した時にさえあんな立派な男の体を燃やすなんてもったいないなって、そんな親不孝なことを思った俺が!?
一人で行くよりも、会のメンバーたちと共に行くことを選んだのは、俺のエゴかもしれないが、それでも彼らにも何か光が見えるといい。
特に、あの愛らしい茜子に。
会社には既に二ヶ月の休職届けを出してあった。
昔、半分に切って捨ててしまった自分を、今度は完全に殺してしまうために、磯は湿った暗いトンネルの中へ足を踏み出した。
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