第1章 プロローグ (2)
ある日のこと、牧は学校から帰るといつものように犬の散歩に出かけた。ウェルシュ・コーギーのマリは、短い足をばたつかせながら、意気揚々と先頭を切って歩いて行く。散歩がとても嬉しいのか、短めの尻尾が機嫌良さそうに揺れている。
犬の散歩は家の中での牧の仕事だった。もちろん牧は、マリのことは大好きだったが、犬の散歩は好きというわけでもなかった。
雨の日も、雪の日も行かなくてはいけないし、マリの行きたい方向に歩いて行ってやらないと、マリはたちまち一歩も歩かなくなることがよくあった。そんな時はリードをぐいぐい引っ張り、なんとかして、牧の行こうとしている道へ連れて行こうとするのだが、結局のところ、マリの行きたい道を選ぶことになるのだ。
牧とマリの行きたい道が食い違ってしまうのは大抵、読んでいる本の続きが気になってしょうがない時が多かった。とにもかくにも、早く散歩を終わらせて、本の続きが読みたい。その一心で、散歩の距離が短い道を歩かせようとするのだが、マリはそれを嘲笑うかのように長い距離の道を行こうとする。根負けした牧はマリのいうことを聞くことになる。それは、気持ち的にかなり憂鬱になるのは間違いなかった。今日もまた、牧の脳裏は読んでいる本の続きのことでいっぱいだった。
できることなら、短い散歩コースをマリが歩いて行くことを願っていた。家の前の坂道を上り、しばらく真っすぐ行くと、道が二手に分かれている。左側の道に行くと、小さな畑が連なり、その合間に古びたアパートが何棟か立ち並んでいる。そのまま更に先進むと、左に折れる道があり、その先は中学校になっていた。一方右の道を取ると、左側には真新しい住宅地が広がり、右側にはそこだけ取り残されたような鬱蒼とした木々が群がっていた。
散歩の距離が短いのは、右の道の方だった。果たしてマリはどちらの道を選ぶのだろうか。牧が後ろから見守っていると、マリは迷う様子もなく右の道を選んでくれた。牧は思わずほくそ笑んだ。今日は散歩がいつもより早く終わりそうだと思った。マリは力強くリードを引っ張り、立ち止まる気配などこれっぽっちもなさそうだった。
まさに散歩は順調そのもの。ただ一つ気になることがあるとすれば、道の右側沿いにある茂った木々のことだった。そこはちょっとした林になっていて、木々が多いせいか昼間でもあまり日差しを通さない暗い陰が常に辺りを支配していた。通りがかりに、頭上から、烏の鳴き声が聞こえると、背筋がぞくぞくすることはよくあった。きっとここには何かあるに違いない。そう思ったことは一度や二度ではなかったが、それでも散歩のコース的には最短の距離だったので、牧はこの道を歩くようにしていた。
日はまだそれほど低くなっていなかったが、林の中は暗闇に包まれ、不気味な静けさをたたえていた。牧は、そちらをあまり見ないように歩を進め、左側の新興住宅地に視線をそらした。
どこからともなく何人かの男の子たちの騒ぐ声が聞こえてきた。ボールで遊んでいるのか、道路を通して、ボーン、ボーンと弾むような音が伝わってきた。彼らの姿は見えなかったが、住宅街の坂の上で遊んでいるようだった。ここの住宅地は小高い丘の上に造られていたので、どこをどう通っても坂を通らずに家にたどり着くことはできなかった。歩くのも大変だが、ボールで遊ぶ子どもたちにとっても、これはこの上なく不便なことだった。
遊ぶ場所は当然平坦な坂の上と決まっている。そうでないと、ボールがごろごろ転がっていってしまうのだから。けれどもボールというのは、決まりきったように、動いてくれるものでもない。
突如、男の子たちの甲高い歓声が上がった。それと同時に、
「ボーンッ」
と、さっきよりも大きな音を立てたボールが弾みながら、坂道を猛烈な勢いで下ってくるのが見えた。
「サッカーボール」
そう思った瞬間、そのボールは牧のすぐ目の前まで迫っていた。ボールは道路に落ちていた石ころか何かに当たったのか、牧の背丈ほどの高さまで、ぼーんと跳ね上がった。びっくりした牧は目をつぶり、とっさにリードを放してしまった。
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