9 異臭、のち銀髪。

 骨付き肉なんていうのは、一般家庭において、例えばクリスマスパーティだとか、何かしら特別な日でなければ、まず食卓には並ぶことはない。肉というカテゴリーに限定するなら、豚肉にしろ、牛肉にしろ、鶏肉しろ、スーパーの精肉コーナーにズラリと陳列された、骨のない生肉。または、お惣菜コーナーなんかで割安に売っている、揚げ物だったり角煮だったりというのが、基本的には中流家庭のディナーやランチのメインになったりするわけだ。

 だが、異世界においては、一方ならない事情の違いがあるようだ。


 ジュルジュルと美しい油の音をたてる、分厚くて茶色い肉の塊に、俺は真っ向からかぶりついた。


 ……んめぇ~。


 油の垂れる骨をがっちりと掴んだ両手は、その溢れ出る旨味のエキスによってヌルヌルとしているが、知ったことではない。骨付き肉を素手で平らげようというのなら、その時だけ、人は野生児にでもなるべきだ。

 がぶりと食いちぎった肉は、口の中でジュルジュルと旨味のエキスをふんだんに放出して、旨味の窒息でも起こしそうな勢いだ。軽めの咀嚼だけでとろけるように小さくなるその肉も、野生動物からもぎ取った肉とは思えないほどに食感がいい。


 「この肉……最高すぎだろ……」


 飲み込んだ後で、ほぅ、と小さく息を漏らす。いやはや、絶品だった。いつの間にか、肉は消え去り、白い骨だけが祭りの後の静けさの如く残っていた。


 「そんなにうまかったか。随分と肥のない舌だなあ。普通の牛の肉なんかでよ」


 俺の様子を面白そうに観察していたがたいのいい大男が、苦笑をちらつかせた。


 「いや、マジでうまいからこれ」


 どうもこの骨付き肉、島に野放図にされている牛の魔物を狩り殺して、新鮮なうちに火にかけたものらしい。調味料も何も使わず、ただ焚火の上に晒して焼いただけの、言ってみれば庶民のよくあるご馳走様という程度のものみたいだが、俺からしてみると、どうもそんな程度で収めてはいけない気がしてならない。

 腹が減っていた俺のために、わざわざこんな豪食を計らってくれたガボンには、本当に感謝しなくてはならない。


 「ありがとなガボン。おかげで俺の腹は大満足だ」


 「何、いいってことよ。腹が減っては何とやらってな」


 プロボクサーばりに厳つい顔面が作った笑顔が、なんだかとても爽やかに、俺の目に映し出された。

 囚人の住処の割には肌触りのいいベンチに腰掛けて、俺はのほほんと黄昏る。うまい肉を頬張った後の余韻は、素晴らしく尊くて、手離し難い。


 「あのー、食べ終わったなら早くそこから動いてくださるー? ロリコンのコゲツさーん」


 ……ちっ、空気読めねぇなぁ。


 人がせっかく余韻を楽しんでいるのに、と、内心文句タラタラで立ち上がった俺は、じれったそうにこちらを凝視する女に顔を向けた。


 「へいへい、食い終わったよ~教官さん」


 「よろしい、なら早く行くわよ。こちとら暇じゃないんだし、用事は早く済ませておきたいのよ」


 せっかちなやつだなとも思ったが、アンジュの方も仕事でやっているのだし、いくらか急かさないといけない事情でもあるのだろう。そういうわけで、俺は黙って、歩き始めるアンジュの後を追っていった。


 「おう、もう行くのかコゲツ。まあ、また後で色々話そうや」


 「おう、また後でな」


 去り際、ガボンの凛々しい笑顔に向かって、俺は右手をかざしてやるのだった。




 「ほう、ここが俺の部屋か」


 例の、アパートを模した灰色の建物には、何室もの部屋がズラッと横並びになっていたのだが、そのうちの一室へと繋がる扉の前に、俺とアンジュは立っていた。

 壁に切り込みを入れて、ドアノブを付けただけのような簡素な作りの扉を、俺はゆっくりと開いてみる。


 「おお……」


 部屋の中は、至って殺風景だった。まあ、色彩豊かな部屋を望んでいたわけではないのだが、狭い玄関のすぐ奥に広がる、薄汚れた白壁に包まれた六畳の空間は、端の方にチョロッとフカフカそうな毛布らしきものが敷いてある以外には、何一つ物品が存在せず、わびしさしかない。

 正直なところ、ここで幾夜を過ごすことの退屈に耐えられるのかどうか、不安でならない俺がいる。

 いやしかし、それも日本という国に住んでいたが故の、贅沢というやつか。


 「どう、気に入った? とは聞かないでおくわ。そういう部屋でもないし」


 無表情に室内を眺める俺に、見かねて声をかけてくれたアンジュに、俺はそれとなく意のままを返してやった。


 「まあ少なくとも、寝床としては申し分ないかな」


 思い返せば俺は、ちゃんと落ち着いて寝られる場所を欲していたのだ。条件としては、この部屋はまさにビンゴ。殺風景なくらいが丁度いいか。

 そう、それなら良かった、とアンジュは特段喜ぶでもなく答えたのだった。




 それじゃ、何かあったら管理局にいるから、今日一日、ゆっくり休みなよ、と言ってアンジュが部屋から出ていった後、俺は物音一つしない部屋の片隅で、あぐらをかいて考えふけっていた。床が結構硬いので、この体勢で長時間いると尻の方が参るかもしれないが、そこは適度な運動でもすりゃいいだろう。


 ところで、俺は先程から、妙に鼻が痛い。なぜ痛いのか。理由を探ってみると、どうやらこの部屋に漂っている異臭のせいであることがわかった。何だろうこの匂い。生ゴミ? ほこり? ガス? あるいは加齢臭? 

 てんでわからない。どれにもあてはまらないというよりかは、そのどれもが複雑に絡み合って微妙な匂いを作り上げているという具合な気がする。

 前の住民の生活臭が蓄積しているのだろうか。そもそも、前の住民って何だ? いなくなったなら、釈放されたのか……いや、ここは島送りというなの終身刑だから、それは有り得ない。なら、もし仮に前の住民がいなくなったとしたら、それはつまり……曰くつき?


 やめておこう。そんな不確かな情報に怯えるなんてのはバカバカしい。それにこの匂い、どうも元凶はこの部屋じゃないみたいだ。匂いにも、漂ってくる方向みたいなものがあって、実は人より鼻のきく俺は、ある程度なら嗅ぎ分けることができる。

 するとどうもこの匂い、隣の部屋が怪しいのだ。隣と言っても両隣に部屋があるが、そのうち、玄関を背にして左隣の部屋だ。

 壁の奥から、ジワジワと染み出してくる、正体不明の異臭。一体全体隣には、どんなやつが住んでいるのか。


 よし、とりあえず聞こう。


 百聞は一見にしかずというが、備えあれば憂いなしともいう。

 仕入れられるものなら、情報は仕入れておくべきだ。

 そう決意した俺は、今一度、玄関の扉を開け放った。




 「悪いことは言わないから、詮索はやめときなさい」


 ミカの実を頬張りながら、童顔女教官は言った。いや、どんだけ好きなんだよミカの実。


 「あ、これあたしのおやつだから、あげないわよ?」


 「別にくれなんて一言も言ってねえし」


 「そう? 物欲しそうな目してるじゃない」


 いやそれはミカの実じゃなくて。


 「そりゃ欲しいさ。あの部屋の情報が欲しくてたまらないよ俺は。何だよあの異臭。どうしたらあんな匂いができあがるんだよ」


 「さぁねー」


 憎たらしいほど軽くあしらってきた。いかん、これは腹に据えかねる。


 何かあったら来てねー、なんて言ってくれたから、厚意に甘えて管理局という名のドームの中へ入ってみたはいいものの、入口から見て正面に設けられた受付カウンターみたいな所で、椅子に腰を下ろして書類を読んでるご本人ときたら……。

 興ざめもいいところだ。


 「わかったよ、教えてくれねえってんなら、俺はもう自分で入るぜ。なあ、あの部屋の鍵があったら貸してくれ」


 「別に止めはしないけど、正直オススメはしないわよ~。あと、鍵は基本どの部屋もないわよ~。いつでも入れるように」


 「プライバシーなさすぎだろ!!」


 ぷらいばしー? 何それ、新種の魔法? 何てとぼけた口調で呟きながら、なおもミカの実をパクつき続けるアンジュ。殴りたいほど腹が立つが、この世界にプライバシーなんて言葉がないのなら仕方ないと、どうにか結論づけて、沸騰しそうな気を抑える。

 そういえば田舎の集落の家なんかは、鍵がないんだっけ。信頼関係が一定以上確率している共同体の特権というやつか。


 「とにかく、俺は行くぞ。じゃあな」


 はいはーいいってらっしゃーい、と、軽く流すような声を背にして、苛立ち気味の俺は、管理局を後にした。


 そうして、例のお隣さんの扉の前に立った俺は、ゴクリと喉を鳴らしつつ、ドアノブに手を掛けた。

 何だろう、異常に緊張する。発汗が凄い。これから魔王の城にでも乗り込むのか、俺。

 魔王の城、なるほど、これは確かに魔王の城レベルの胡散臭さだ。錆び付いた灰色の家屋。漂う異臭。雰囲気としては及第点だ。ここにBGMでもついたら盛り上がるのだが……なんて冗談はよしておこう。


 開けるぞ……。


 そう自分に言い聞かせ、ついに覚悟を決めた俺は、無躊躇に、勢いよく扉を開け放った。


 「たのもう!! てなんだよこれ!?」


 そう叫ばずにはいられなかった。

 参考までに、一つ確認しておこう。俺の部屋は、毛布が一枚ある以外には何もない、殺風景な部屋だった。

 対してこの部屋とはいえば……。

 ゴミ。ゴミ。ゴミ。くどいくらいに彩り豊かなゴミの山が、薄暗い室内を埋め尽くしている。扉を開けた瞬間に、詰まっていたゴミがなだれ落ちてきそうなほどだ。足の踏み場なんてのは、もちろんありはしない。

 入り混じったゴミの中には、よくわからない果物の食べカスだったり、よくわからない木の根っこだったり、これまたよくわからない鼠色のニョロニョロした物体だったり……うぇ、何これエグい。

 とにかく、そういった物体がまさに混沌した状態で存在していたものだから、それに伴う匂いというのは、これまた異常なものだった。

 自分の部屋で感じていた匂いなど、ほんの序の口に過ぎない。ヤバい。これはガチでヤバい。むせすぎて吐き気がする。鼻が壊死しそう。


 それにしても、一体こんな地獄に、どんなやからが住み着いているのか。

 いよいよ俺は好奇心が沸騰してきたのだった。

 中毒死しそうな匂いと必死で戦いながら、俺はえげつないゴミ山の上を、足取りの悪すぎる中、紛雑に進んでいった。

 とはいえ、所詮は六畳しかない部屋だ。住人を見つけることくらい造作もないはずだが、ゴミ山のせいなのか、一向に見つかる気配がない。

 まさか、うもれてらっしゃるのか。


 「君、だぁれ?」


 予感に違わず、足元から声が聞こえた。それも、やや幼さのある、女の子の声だ。え、嘘だろ、ちょっと待ってくれ。


 俺は恐る恐る、声のした方へ、視線を向けてみた。

 丁度、俺のすぐ目の前。そこにあったのは、なんともまあ、もの凄まじい光景。ダメだ、もうこれは、開いた口が塞がらない。

 だってさ、見たことあるか?


 身の丈とほぼ同じ長さまで伸ばした銀髪を、もてあそぶようにくしゃくしゃとだらしなく垂らした、目に入れても痛くない絶世の美少女が、ゴミの山に身をうずめている、そんな光景を。

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