理由

 放課後になり、教室を出ようと荷物をまとめ終わると、時谷に呼び止められた。

「教えて欲しいことがあるの」

 と彼女は言った。今日はまだ、時谷とはまともな会話をしていなかった。

 僕は首を横に振る。

「悪いけど、急ぎなんだ」

「どこか行くの?」

「水廣さんのお見舞いにね」

「私もついて行っていい?」

「いや、一人の方がいい」

 時谷を連れて行くと、話がややこしくなりそうだ。おまけに今は彼女と一緒にいたくなかった。

 時谷は更に何かを言おうとしたようだった。だがどういうわけか彼女は言い淀んだ。上手く言葉を見つけられないままでいるようだ。

 そのまま立ち去ればよかったのに、僕は言う。


「水廣さんは話すことが苦手なんだ」

「うん。そうみたいだね」

「多分、僕らでは想像も出来ないくらいに、苦手なものなんだ」

 僕に僕だけの苦しみがあり、クジラやラクダにだって彼らにしか解決できない苦しみがある。それと同様に水廣さんの苦しみも彼女自身のものだ。周りが口だしなんてしても意味はない。

「彼女に何か伝えたかったことがあるなら、今聞くよ?」

「勉強ばかりじゃなくて、雑学をたくさん覚えれば、会話がしやすいって聞いたことがあるよ」

 彼女はいつだって正しい。だが問題の本質を、理解しているとは言えない。

 僕は今度こそ時谷に背を向けて、急ぎ足で教室を出た。


 水廣さんに出会ったのはおよそ六か月前。

 それは僕が星界に訪れた日だった。正確にはこの世界に放り込まれたと表現した方がいいかもしれない。

 記憶に残っている初めての景色は、向こうのと瓜二つな、広くて、綺麗な海。そして見覚えのない砂浜だった。真っ白な砂が巨大な日焼けサロンにやってきていた。

 もちろんだが僕には、何故目の前に海が広がっているのか理解できなかった。ついさっきまで家で勉強をしていて、休憩ついでに散歩していたはずなのに。でも辺りを何回見回しても、何度大空を眺めようと、そこはどうしようもなく海だった。風は潮で湿っていて、特徴的な匂いを運んでくるし、何よりも波は繰り返し重たく、リアルな音をたてていた。

 僕はしばらく茫然としながら、海の果てを見つめていた。もしかすると何も見ていなかったかもしれない。ただただ不安で、混乱していた。多少の恐怖もあったが、それさえも茫然としていて、叫ぼうともなんとも思わなかった。

 少ししてから、僕は現在位置を確認しようとスマートフォンを取り出すために、ポケットに手を突っ込んだ。しかしそこには何も入っていなかった。反対側からのポケットからは薄っぺらな財布だけが見つかった。

 夏の服装では、もう探すポケットなどなかった。

 とはいえども、財布があるということに、少し安心した。まずは駅を探そう。そこから電車に乗ろう。そうしてしまえば家まで帰れるはずだ、と考えて後ろを振り返る。

 砂浜には足跡は一つもなかった。海岸は痛々しい岩肌に取り囲まれている。その片隅に道路のようなものがあり、そこに夏とは思えないほどの厚着をしている一人の少女が立っていた。背の高く、目つきの悪い少女だった。僕に少女がゆっくりと近づいてくる。どこか緊張する。

 すると少女は手に持っていた紙袋の中からふわふわの白いコートを取り出して、僕にかけた。

「そんな服装じゃ、風邪引いちゃう」

 僕はそんなことを言う少女の顔を、何度も見上げた。何を言ってるんだ。

「いや、こんなの着てたら熱で倒れてしま…」

 その言葉を遮るように、僕の手の甲に冷たくて、小さな白いものが手に当たる。僕は違和感を覚えて自分の手を見た。それは冷たくて赤くなっていた。

 僕はもう一度空を見上げる。

 そこには真っ白に染まった空があった。どういうことだ。だって今は夏じゃないか。

 僕は混乱を抑えて、少女に話しかける。

「すみません。僕、道に迷ってしまったみたいで」

 彼女はどこか不機嫌そうに見えた。一方で悲しんでいるようにも思えた。それは左目の下にある泣きぼくろのせいだろうか。

 どちらにしても、好意的な様子ではなかったから、出来るだけ丁寧に微笑んで尋ねた。

「あの、ここはどこですか?」

 彼女は何も答えなかった。無視して立ち去ってくれれば諦めだってついたのに、じっとこちらを睨んでいた。さあ、どうしたものか。

「ここがどこなのか、本当にわからないんです。なのでずっと途方に暮れています。この近くに駅はありませんか?バス停でも構わないのですが」

 すると少女はゆっくりと口を開いた。

「貴方の、名前は何?」

 それはとても不安定な声だった。どうして道を尋ねているのに、名前を尋ねられているのだろうかと思ったが、仕方なく答えた。

「東雲です」

 少女はまた黙り込んでいる。

 僕は思いつくまま言葉を繋げた。

「東の雲って書いて、しののめ、と言います。変わった苗字ですが、読み間違えられることも思いのほかないので、大した不満はありません。そういえば東雲には、夜明け前に茜色に染まる空のことを意味しているらしいですよ。苗字に影響を受けたわけではないのですが、夜明け前の空ってとても綺麗じゃないですか。だからとても好きなんです。日暮れ時の空も同じくらい綺麗ですが」

 続けざまに、様々な空の表情について話そうとすると、眉をひそめて、彼女は口を開いた。

「ごめんなさい、言葉が、苦手なの」

 なるほどと納得する。

 言葉が苦手だから、上手く話せない。わかりやすい。

「わかりました。ではゆっくりで構わないので、ここがどこなのか教えていただけますか?」

 僕はじっと彼女の口が動くのを待つ。

 無言で待っているのはそれなりに辛くて、「もし話したくないのなら、この場を立ち去りますよ」と付け足す。

 彼女は首を振らなかった。

 そしてゆっくりと彼女は話し出す。

「ここは星界と呼ばれる世界。大社にお仕えしている神様が創った世界。目的が何かはわからない。でもここの世界の住人はみんなある日をきっかけとして連れて来られた。私もその一人。そその時に、住人は例外なく何かしらの記憶を失ってやってくるの」

 なんだか童話の中に迷い込んだようだった。夜になればおもちゃの兵隊が動き出し、森の奥で魔女がカラスと一緒に住んでいる。そしてそこに来た住人は、何かの記憶を失う。

 あまりにも現実味のない話だったので、僕は少女は想像力豊かなのだと結論を出した。

 笑顔を作って、僕は答える。

「なるほど、ありがとうございます」

 彼女は首を振った。

「本当のこと、なんです」

 少なからず、彼女が喋るのが苦手だということは、紛れもない事実のようだ。表情には悲しみが溢れていて、瞳は潤んでいた。

 もちろんそれは、この子を信じる理由になんてならないが

 ー別に、騙されたっていいじゃないか。

 僕自身、あまり人を信用する方ではないと思う。代わりに会諦めることは得意だ。始めから騙されているように振る舞えば、すべてを信じている様に振る舞うことだって出来る。

「わかりました。僕はこの島に連れて来られて、何か記憶を失っているのですね」

 口に出してみて驚いた。その言葉はあまりに自然だった。

 だが彼女は首を振る。

「貴方、じゃ、なくて、東雲くんです」

 また、意味が分からない。

「僕が東雲ですよ」

 少女は頷く。

「名前じゃないと、いけませんか?」

 もう一度、彼女は頷く。

「どうして?」

 そう聞くと、彼女は首を傾げた。

「わからない。でも、ルールだから」

 そのルールとは何なのだ。

「それは誰が決めたものですか?」

 また彼女は黙り込む。

 僕はもう一度微笑んだ。

「教えてくれてありがとうございます。正直何をすればいいのか、まったくわからなかったので。しばらく歩き回ってみますね」

 彼女は首をまた振った。

 それは意外な反応だった。何を否定したのかわからなかった。本当に否定の動作だったのかさえわからない。

 彼女は言った。

「私も、ここに来たばかりだから。詳しい人がいます。案内します」

 それから彼女は俯きながら、「よければの話ですが」と付け加えた。


 これが僕と水廣さんとの出会いだ。

 僕は彼女に連れられて、学校へ向かい、そこでカナメ先生に出会った。丁度冬休みだったというのにも関わらず、職員室にちゃんと先生はいた。

 学校に向かうまでの間は、ほとんど会話はなかったと思う。目に映ったもの一つ一つに感想を述べていただけだ。

 普段の水廣さんがどれほど寡黙なのか、あの海岸で彼女がどれだけ無理をして、僕に話しかけてくれたのか、理解するのにはそれほど時間はかからなかった。

 僕は一度尋ねてみたことがある。

「どうしてあの時、僕に話しかけてくれたの?」

 彼女は困ったように笑うだけで、何も答えはしなかった。彼女から送られてくる手紙にも、その返事は書かれていなかった。

 答えはわざわざ口にするまでもないほど単純で。きっと、彼女が善人だということだろう。僕は人を信じることが苦手だけれど、彼女の正義ならいつまでも信じていたい。たとえ騙されていたって構わない。

 前に、時谷と水廣さんの間でどんな会話をしていたのかは知らない。でもあの二人が反発しあうのは自然なことだと思うし、それでも水廣さんは時谷と話すことを自ら選んだのだ。

 あの時、海岸で僕に話しかけてくれたように、それがどれだけ苦しいことだったとしても。

 だからもしも彼女が傷ついているのならば、できるなら、そのままにしておきたくはなかった。


 ようやく水廣さんが暮らしている寮に向かったのは、教室を出てから一時間も経った頃だった。その間、僕は図書室で手紙を書いていた。喋るのが苦手な彼女に伝えたいことがあるのなら、言葉よりも手紙の方が良いと思ったのだ。それに女子寮へは、男子生徒の立ち入りは禁止されている。

 でも手紙を書くことは容易なことではなかった。言葉にする必要のないような言葉なら、簡単に並べられるのだ。

 体調はどうですか?最近になって日暮れの時間が早くなったような気がします。お大事に。

 でもその後、時谷のことに触れようとした途端に、頭の中から言葉が消え去ってしまった。考えつくあらゆる言葉が適切ではないような気がして、僕は辞書を手に取り、それを何度も引いた。

 どうにか書き上げた手紙を鞄の中にしまって、学校を出たころにはもう日が暮れかけていた。長くなった影を踏み越えて、目的地を目指した。

 彼女の住む寮を訪ねるのは初めてで、おおよその場所と、寮の名前しか知らなかったけれど、どうにか辿り着くことが出来た。

 煉瓦で出来た、本当に童話で登場しそうなこぢんまりとした建物だった。ドアの隣についていたベルを押す。間延びした高い音がどこか心地よかった。

 やがてドアが開き、中からは三〇代くらいの女性が顔を出した。

「水廣さんの友達です。お見舞いに来ました」

 そういうと「そう。どうぞ」とドアを開けた。まさかこんなにもあっさり開けてもらえると思っていなかったから、少し驚く。

「男子は立ち入り禁止と聞いていました」

「何事にも例外はあるわよ。水道を工事をしに来た人とか、学校をサボった女の子のお見舞いに来た男の子とかね」

 いえ、手紙だけ渡して帰ります、というわけにもいかなくて、僕は中に入る。

「水廣さん、体調が悪かったわけじゃないんですか?」

「ええ」

「どうして学校を休んだのかご存知ですか?」

「あの子がそんなこと話すと思う?」

「どうやって学校に欠席連絡を入れたのか不思議でしたよ」

 玄関で靴を脱いで廊下にあがると、甘い香りがした。お菓子ともフルーツとも違う香りだ。それでなんだか、ここが女子寮なのだと再確認させられた。

 管理人さんが彼女の部屋まで案内してくれた。二階の一番手前、移動するとなると、最適なポジションだ。その後「ごゆっくり」と言って管理人さんは持ち場へ帰る。僕は小さくお辞儀した。

 僕は「水廣」と書かれたプレートの出たドアの前に立ち、ドアをノックした。

 味気ない鉄製のドアを眺めていると、ドアノブが回った。

 隙間から顔を覗かせた水廣さんは、小さな悲鳴をあげた。「は」と「へ」を混ぜ合わせたような、少し奇妙な声だった。飾り気のないジャージを着ている彼女は、普段見ているよりも幾分幼く見えた。

 僕は彼女に微笑む。

「急にごめんね。手紙を渡したくて」

 そう言って四つ折りになった手紙を差し出す。彼女はそれを受け取って、困った様子で眉を寄せる。手ぶらの方が、気軽でよかったのかもしれない。

「君と話がしたいんだ、いいかな?」

 水廣さんはゆっくりとドアの隙間を広げてくれた。僕はその隙間を通って、彼女の部屋に入る。いくつかのぬいぐるみががあり、壁には綺麗に完成されたパズルが飾られていた。さらにベットの毛布は少し乱れている。その他には特に特徴らしい特徴もない、六畳ほどの部屋だ。

 水廣さんは机のそばに置いてある椅子を指差した。きっとそこに座れということなのだろう。僕は椅子に腰を下ろす。

 彼女はドアの前に立ったまま、じっとこちらを見つめていた。

 僕は尋ねる。

「体調はどう?」

 彼女は小さく頷いた。体調は良好らしい。

「どうして、今日は学校を休んだの?」

 彼女は何か動作をするわけでもなく、黙り込んだ。あまり質問ばかりしていても、水廣さんは困ってしまうだろう。だから僕は別の言葉を探した。つい先ほど、図書室でまとめてきたはずだったのに、それはなかなか見つからなかった。

 そのうち彼女は僕に背を向けて、何も言わないまま、部屋から出て行ってしまった。

 僕には水廣さんを呼び止めることが出来なかった。

 バタンと音を立てて、ドアが閉まる。

 どうしたものか。

 会話が苦手な彼女からすれば、急な来客はあまり好ましいものではないだろう。やっぱり✉だけ渡して帰ればよかったのかもしれない。でも彼女は僕を部屋に入れてくれたし、椅子も勧めてくれた。だからこのまま帰るわけにもいかなかった。

 そうやって悩んでいると、またドアが開いた。

 水廣さんはティーカップを二つ持っていた。一方を机に置いて、小さな声で「どうぞ」と言った。

 僕は素直に笑って「ありがとう」と応える。頷いて彼女はベットに腰を下ろした。

 ティーカップに口をつけると、紅茶の仄かな甘みが広がった。水廣さんは僕の動作を確認しているかのように、こちらを見つめていた。僕はティーカップを机に戻し、「美味しいよ」と笑う。できるだけ、丁寧に。

 彼女も少し笑ったのを見て、安心する。

 そしてようやく本題に入った。

「的外れだったらごめんね。君が今日学校を休んだのは、時谷が原因かな?」

 いつものように、彼女は肯定も否定もしない。

 返事のない会話は暗闇で捜し物をしている様子に似ている。

「きっと時谷が何か気に障るようなことを言ったんだと思う。本当は彼女を連れてきて話したかったんだけど、それはなかなか難しくてね。時谷が人を傷つける時はいつだって無自覚的だからね」

 これは今までに何回もあったことだ。

 時谷夕花は誰に対しても優しくない。言動に気遣いがない。本人は気を遣っているつもりでいるのかもしれないが、でもそれは的を外れている。彼女はある一点で強すぎるから、弱い人の心情を上手く想像できやしない。

「君が時谷に対して許せないほど怒っていたり、顔も合わせたくないほど嫌っているのなら、そう教えて欲しい。僕に何かできるわけじゃないけれど、人に伝えるだけで気が晴れるかもしれない。僕なら彼女の悪口をずっと言っていられる。だから共感できることも多いと思う」

 本当に、時谷の悪口ならいくらでも言える。なんなら毎週、時谷夕花の悪口を言い合う会の主催者になってもいい。そんなことで少しでも気が楽になるのなら、彼女自身が人間関係でもめるよりもずっといい。

 でも水廣さんは首を振った。

 彼女が何を否定したのかは、よくわからなかった。

 僕は続ける。

「時谷がこの世界に来てから半月が経った。僕は何度も彼女を追い出そうと試みた。彼女がここから跡形もなく消え去ってくれたら、いろんな問題が解決する。もしかしたら君も、平凡な日常に戻ることができるかもしれない」

 水廣さんはまた首を振った。

 一体、どういうことなのだろうか。

「君が学校を休んだのは、時谷のせいじゃないの?」

 今度は頷いた。

 それから彼女は苦しげに、掠れた声で言った。

「私は、東雲くんに会いたくなかったんだよ」

「僕に?」

 思いがけない言葉に、少し混乱する。

 僕は知らない間に彼女を傷つけてしまっていたのだろうか。考えてはみるものの、何も思い当たる節がない。これでは時谷のことを非難できない。

「よければでいいけど、理由を聞かせてもらってもいいかな?」

 水廣さんは小さく頷いた。

 そして重たい口を開いた。

「時谷さんに、東雲くんの話をしたから。本当は何も知らなかったのに」

 水廣さんの言葉は難しい。上手く主題を掴めない。

「僕の話?」

「東雲くんの、感情の話」

「本当は何も知らないまま、僕の感情の事を話した」

「うん」

「僕の感情ってどんなの?」

「時谷さんが迷惑をかけているとか、そういう話」

「つまり君は、僕の感情を想像して、代弁してくれたということだ」

「うん」

「そして、君は今、そのことを後悔している」

 水廣さんはまた小さく頷いた。

「早く謝ろうと思ってたんだけど、気まずくて」

 ごめんなさい、と水廣さんは頭を下げる。

「気にしなくていいよ。時谷が周りに迷惑をかけていないことがわかっただけで、僕は満足さ」

 時谷はとても鈍感で、誰かをひどく傷つけてしまったとしても、そんなこと想像もしないだろう。もしそのことを知ってしまったなら、深く落ち込む様子を簡単に想像できる。僕はできるなら、彼女の落ち込んでいる姿は見たくない。

 水廣さんはわずかに首を傾げる。

「東雲くんは」

「うん?」

「時谷さんのために、わざわざ私に会いに来たの?」

「そういうわけじゃないよ」

 本当に、そんなわけがない。僕はこれまでに、時谷のために何かをしようだなんて考えたことは、たった一度もない。

「僕は純粋に、僕自身のために、時谷と関わっているだけだよ。それ以上でも、それ以下でもない」

 水廣さんはうつむいて、自分の手元にあるティーカップをじっと見つめる。

「私は誤解していたんだと思う。時谷さんは、東雲くんを巻き込むのが当然だと思っているみたいで、そういうことはよくない気がしてた」

 確かに、傍から見れば、そのように見えるのかもしれない。

 でも、実際には違う。

「僕は勝手に時谷と一緒にいるだけだよ。彼女は何も強制はしない。ただ誘うだけだ。彼女は誘う権利を持っていて、僕は断る権利を持っている」

 彼女の姿勢自体はとてもフェアだ。あまりに当然のようにフェアに振る舞うから、ときにアンフェアに見えてしまうだけだ。

「そうなんだ。ごめん」

 水廣さんはゆっくりと、手元のティーカップに口をつけた。

 僕もティーカップを手に取り、少しだけ飲んだ。そのティーカップが机に戻るのを待ってから、水廣さんは口を開いた。

「東雲くんは、どうして時谷さんと一緒にいるの?」

「とても個人的なことだよ。聞いてもつまらないと思うけど」

 水廣さんは首を振る。

「教えて。もし、嫌じゃなければ」

 どちらかというと、話すのは嫌だ。これはあまりに感情的な話だし、それを言葉で表せられるとは思えない。でも水廣さんがその答えを求めているのなら、話してもいい。嫌なことを受け入れるのは、もう慣れっこだ。

「時谷につき合うことに理由なんて一つもない。誰にも強制されていない。手錠で繋がれているわけじゃないし、運命のようなものでもないと思う。ただ偶然僕たちは出会って、一度離れて、再会した。それだけだよ」

 水廣さんは頷く。

 僕は話を続ける。

「僕は時谷の隣にいたいわけじゃない。ただ彼女が、彼女のままでいてくれたらそれでいいんだよ。馬鹿みたいに真っすぐに、理想を掲げて、理想を追い続ける彼女がこの世界のどこかにいるのなら、それでいい」

 僕と彼女は全く違う。彼女の理想は、僕にとっての理想ではない。時谷夕花のように生きたいと思ったことなんて一度もない。

 それでも、彼女は僕にとっての英雄だった。

 僕の目に映り込んだ、もっとも綺麗なものだった。

 それが汚れるところなんて見たくなかった。その美しさを保てるのなら、何を犠牲にしたって構わない。

 全く違っていても、理想が食い違っていても、時谷夕花の人格そのものが何よりも愛おしい。

 きっと僕は矛盾しているのだろう。でもどうしろっていうんだ。彼女は理想を追いかけるから美しくて、でもその理想が彼女を傷つけて、理想を追い続ける彼女を護っていたくて、僕はときにその理想を否定するのだ。

 ある一点に向かって突き進む彼女の姿だけが、すべてだ。

「僕はね、少しでも彼女が欠けるところを見たくないんだ。どうしようもなく、ただ嫌なんだ」

 これはとても感情的な話だ。だからやっぱり、客観的な説明をすることができない。

 水廣さんがゆっくりと頷く。

 それから口を開いた。

「時谷さんが好きなんだね」

 それはきっと違う。

 僕が彼女に抱いているのは、愛とか、恋とか、そういう風にシンプルに表現できるような感情じゃない。もっと複雑で、不透明で、一方通行だ。

 だけど僕は嘘をつく。

「そういうことなんだろうね」

 早く話を切り上げるためについた嘘だった。

 でもそれを口にした途端、それが嘘だったのか、自分でもわからなくなってしまった。

 恋が綺麗なものなのか、僕は知らなかった。

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