屋上
月曜日の朝の出来事で、僕にとって重要な意味を持っていたのは二つある。
一つは水廣さんが教室にいなかったこと。
体調がすぐれなかったのかもしれないし、ただなんとなく登校するのが嫌になったからかもしれない。でも彼女の欠席には、時谷が関わっているような気がした。
昨日の午前中。朝に時谷は水廣さんと二人きりで会っている。時谷によれば、あの無口な彼女が色んな話をしたらしい。時谷は無自覚的に人を傷つけてしまう。正しいことを正しいと家臣してしまっている。もしそのせいで水廣さんが傷ついたというのなら、それは好ましいことではない。
二つ目は、時谷が教室にいたこと。彼女は水廣さんと共に星界を出るために、鳥居まで行っていたはずだ。おそらく水廣さんは途中でリタイアしたのだろうが、彼女は神様に会って、この世界を出て、家族に謝って…。
そういった彼女なりの作戦は一歩目から失敗したのだろう。
この世界から跡形もなく消え去っていたのなら、それでよかった。僕にとっては最良のシナリオエンドでさえあった。僕は窓際の観葉植物みたいに物静かで、何もない平凡な日常に戻り、のんきに光合成でもしながら、水やりの時間を待つことが出来た。だがそうはならなかった。だから僕は、もうしばらく苦労と苦悩を背中に背負わなければならない。
水廣さんが教室にいなかったこと。時谷が教室にいたこと。どちらにしても、どうだっていいことだった。懐かしい夢をみたことも、少し風邪気味で頭がぼんやりとしていることも、書置き犯が見つかったことでさえも。
「どうして自白なんかしたんだい?」
と不死身の狐が問う。
「自白じゃない。たまたま見つかってしまったんだよ」
僕は屋上のフェンスに背中を預けて、たまごサンドの包装をひらく。昼食用で買ってきた、あまり見栄えはよくないたまごサンドだ。
不死身の狐はリンゴジュースのストローに口をつけながら、ちらりとこちらを見ていた。
「本当は見つかる気でいたんだろ?」
「どうしてだい?」
「一つ目の書置きの時点で見え透いていたさ。真っ先に疑われるはずのタイミングを君はわざと選んでいた」
「それは違うよ。たまたまだよ。なんにも考えてはいなかった」
「あの書置きには、どんな意味を込めたんだい?」
「意味なんてここに生きればわかる。ただ真夜中に枕を思い切り床に叩きつけたりしたくなるのと同じだ。つい八つ当たりしたくなったんだよ」
不死身の狐は鼻で笑う。
「もう少し、真面目に答えてくれてもいいじゃないか。僕は危うく犯人にまでされかけたんだから」
そのことは、本当に申し訳ないと思っている。
「これでも、かなり真面目に話しているつもりなんだけどな」
「先生にも、動機だけは黙っているんだろう?」
「どうしていつも屋上にいる君が、そんなことを知っているんだよ」
「僕は狐だからね。イタズラは得意だよ」
「誰から聞いたんだい?」
彼の事だから、ぼやかして返事をしてくると思っていた。けれど彼は素直に答えてくれた。
「時谷夕花」
「彼女がここに来たのかい?」
「三時間目の終わりの、休憩時間にね」
「どうして来たの?」
「そんなの知らないよ。オレと彼女はすっかり親友ってことになっているらしい」
「初耳だよ。それでどんな話をしたの?」
「君が書置きをしたり、錨を設置したりした理由を聞かれた。知っているわけがないと答えた。たったそれだけさ」
「そう」
僕はようやくたまごサンドにかみつく。
不死身の狐はポケットからアメを取り出し、それを口に放り込んでいた。リンゴジュースとの取り合わせは、あまり美味しそうだとは思わなかったけれど、好みなんて人それぞれだ。
「で、どうして書置きなんてしたんだい?」
「意外としつこいね」
「サスペンスだったり、ミステリーを見ていて一番気になるのは動機だよ。ホワイダニットが一番しっくりくる。動機さえ納得がいくものなら、犯人も内容もおざなりでも構わない」
「動機ね」
僕はため息をつく。
具体的に説明できないことだってある。雲の形とか、微炭酸の飲み心地のようなものみたいに。でも僕が不死身の狐に迷惑をかけたのは事実だから、出来るだけ素直に答える。
「大げさに言ってしまえば、この世界を理解して欲しかったんだ」
「理解?」
「そう」
「正解も不正解もわからない、この世界のことをかい?」
「なにも完全に理解しろとまでは言っていない。ただ僕らはちゃんと遠くにいたんだ。こんな廃棄場のような場所に、ずっと取り込まれているわけにはいかない」
「ここから抜け出すと言いたいのか?」
「そうじゃない。この世界の理念に飲み込まれちゃいけないと言ってるんだ」
「君があの書置きをすれば、誰かが固定概念から抜け出せるとでも?」
「どうかな。わからない」
それは、本当にわからない。
それでも、現状で何もしないわけにはいかなかった。何をやっても無意味なら、僕にとって、もっとも価値のあるものを目指していたかった。時谷夕花と再会してから、ずっと。
不死身の狐が顔をこちらに向ける。本物の狐のように、その瞳は好奇心で満ち溢れていた。
「なんとなくだけど、君の目的みたいなものがわかったよ」
僕は、別に彼の推理を聞きたいわけではなかった。それが当たっていても間違っていても、どちらだって構わない。
「君にはちゃんと謝らないといけないね。勝手に巻き込んでしまった」
ごめんなさいと、僕は頭を下げる。今回の件は、多くの人に謝らなければならない。カナメ先生も、僕を叱ったりしなかった。ただ我慢強く、何故あのようなことをしたのか尋ね続けた。代わりに怒ってきたのは委員長や上田だった。俺も誘えよと笑ってくれたのが、どこか嬉しかった。
不死身の狐を含めた三人には、出来る限り丁寧に謝りたかった。でも丁寧に謝ることは、思いのほか難しいことだった。言葉に感情を込める方法が、僕にはわからなかったのだ。
「たかが書置きじゃないか」
と不死身の狐は言った。
「誰だって多少はわがままを言って、世の中に迷惑をかけて生きているものさ。君の場合は少しだけわかりやすかっただけのことだよ」
「そんなものかな」
「間違いない。狐は周りに迷惑をかけるプロだからね」
だが錨の件についで、書置きを事件に追加したことは、やはりいけないことだ。ただ生きていて自然と周りに迷惑をかけるようなものとは種類が違う。
それに僕が謝ることは、別にある。
「君に迷惑をかけたのは、申し訳なかったと思っているよ。でも不思議なことに、僕はこれっぽっちも後悔していないんだ」
もしもこの数日間をもう一度やり直せるとしても、僕は決まって書置きをしているだろう。犯人が不死身の狐だと言われ、彼が冤罪になると知っていても、構わずに行動をする。
「そろそろ行くよ」
僕はそう言って、彼の隣で立ち上がる。
「君がこのまま後悔しない日々を過ごせることを祈ってるよ」
と不死身の狐は言った。
「ありがとう」
と返事をする。
不死身の狐は良い人だし、個人的に彼を気に入っている。それでも彼に迷惑をかけてでも、護りたいものがある。
ずっと前から、僕には諦められないものがある。
それはたった一つだけだ。
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