弱音
海岸は時谷たちに任せて、僕はひとり、屋上を目指した。
学校があろうとなかろうと、彼が屋上にいることは知っていた。
音のない校舎を駆け上がって、僕は屋上へと続くドアを開く。不死身の狐はフェンス際に座り込み、膝の上に肘をついてこちらを見ていた。
平気な様子で、彼は言う。
「どうしたんだい?随分慌てて」
僕は上がった息を整えるために、開いたままのドアに身体を預ける。何度か息を吸っては吐いて、尋ねた。
「事件の犯人は、君か?」
不死身の狐は首を傾げる。
「どうかな。オレならこんなわかりにくい、手のかかることはしないな」
「どうして君が疑われるようなことになったんだ?」
「昨日、海岸に歩いて行ったところを教師に見られた。今朝も同じさ。海岸にいたところを見かけた人がいたらしい」
「それだけか?」
「丁度、マジックペンを持っていたんだ」
僕は不死身の狐に歩み寄り、隣に腰を下ろす。
「どうして?」
「文字が擦れていたんだ。だから筆箱からマジックを出して、上から綺麗になぞってやろうと思ったんだ」
「随分つまらないことをするね」
「ちょっとした遊び心だよ。だからまったくの冤罪ってわけじゃない。確かにあの紙の一行分は、オレがなぞった」
「先生には?そう言ったの?」
「すっとぼけておいたよ。少しだけなぞったなんて言って、信じてもらえるわけもないさ。それに犯人が誰だろうと、オレだろうと、別にどうでもいい」
「犯人ってことになると、いろいろ面倒だろう?」
「そうでもない。何も変わらない。今までだってそうさ。オレは不死身だから何度も臨死体験をしてきた。それでも何も変わらなかったんだよ」
変わるとか、変わらないとかそういう問題じゃない。時谷夕花は冤罪を嫌う。不死身の狐の罪は謎の紙の一部をなぞったことで、それ以上ではないはずだ。
「近々、本当の犯人が見つかるはずさ」
「どうかな。オレが疑われてるってことは、他にはめぼしい容疑者がいないってことだろう?」
「だとしても、このまま真犯人が見つからないままっていうのは、おかしいよ」
「でもオレには、味方なんて一人もいない」
「時谷が犯人を捜そうとしている」
「ただの女の子に何が出来るっていうんだい?」
「ほとんど何も出来ないさ。それでも、犯人は見つかる」
「だといいけどね」
軽く背伸びをして身体をほぐしながら、不死身の狐は言った。
「なんにせよ、あのマークが気になっているんだ」
「マーク?錨のこと??」
「そう」
「何か心当たりでもあるの?」
「まず想像したのは、アンカーとシンカーだよ。船を一定の場所に停める時に使うあれだ」
「どうしてそんなものを、この世界に置いていくんだろう」
「あるいは犯人は、正義の味方のつもりなのかもしれない。一人でこの世界を護っているつもりなのかもしれない」
僕は首を横に振る。
「よくわからないな。星界に危険なものなんてないよ。一体、誰から世界を護るっていうの?」
「オレにもわからない。でも考えられるのは大社くらいだ。あれは神様を護るためのものだ。決して星界を護るために創られたものじゃないと思う」
「大社から星界を護ろうとしている?」
「知らないよ。なんとなく想像してみただけだ」
「錨を放置しただけで、なにを護れるっていうんだ」
「きっと何も護れないだろう。でも、大社や神様はこの世界の秩序だ。そこら中にある錨ってのは、大抵が秩序への反抗だろう」
「まあ、そうだろうね」
不死身の狐はどこか満足そうに腕を組んだ。すると自分から口を開いた。
「今日は早めに帰った方がよさそうだ」
彼は空を眺めていた。いつの間にか、雲が随分出てきている。なんとなく重みのある、汚れた色の雲だ。そのうちに雨が降り始めるのかもしれない。星界には天気予報はないから、調べることは出来ない。
同じように空を眺めてみる。今日はいつもより速く雲が流れている。小さな雲を、大きな雲が次々に隠していく。
僕は時谷の方が気になって、不死身の狐に別れを告げようとした。でもその前に、一つだけ尋ねる。
「ねえ、君はもしかして、犯人を誰か知っていて、庇おうとしているんじゃないのかな」
そうとでも考えなければ、彼が錨の前でペンを持っていた理由がない。
でも不死身も狐は首を振る。
「そんなわけがないだろ。狐は常に何も考えずに動くのさ」
僕は立ち上がり、そろそろ行くよ、と告げた。
もちろん、時谷夕花が問題を起こしていないはずがなかった。
僕が海岸に着いた時、彼女たちは並んでベンチに座っていた。時谷だけが普段通りで、上田と由紀は疲れ果てている様子だった。重苦しい空気だけど、時谷は不釣り合いに大きな段ボールを抱えていて、なんだか可笑しい。
「どうしたの?」
と僕は声をかける。
三人は同時にこちらを向いた。時谷が答える。
「船に乗ろうと思って」
「密航?」
「うん」
「なるほど。その段ボールの中に入り込んで荷物に紛れ込もうとしたけど、見つかって𠮟られたわけだ」
「よくわかったね」
「君は単純だからね。まずは事務所の人に話を聞いてもらうべきだと思うけど」
「それも試した。でもやっぱり人間は運べないって」
「にしても無茶なことをするね。無謀だとは思わなかったのかい?」
なんにせよ、ただの段ボールに潜むだけの密航が成功するとは思えなかった。そんな方法で外に出られるのなら苦労はない。
「第一、段ボールに入ったら身動きがとれないでしょ。どうしたの?」
「白石さんと上田くんに運んでもらって」
僕は二人に顔を向ける。
上田は「オレは止めたんだぜ?」と言った。だが由紀は彼の横顔を睨み「嘘よ。止めなさいって言ったのに台車まで見つけてきたのよ?」と言った。僕はため息をつく。
「いいかい、時谷。密航は犯罪だよ」
「そうかもしれない。でも」
「君一人なら、まあいいけどね。委員長や上田を巻き込んじゃいけない」
上田はどうでもよかったけれど、一応数に入れておく。
「ちゃんと二人に謝った?」
「まだ」
「なら謝りなさい。迷惑かけたんだから」
時谷はベンチから立ち上がり、二人に向かって「ごめんなさい」と頭を下げた。僕も、主に由紀に向かって「時谷が無茶でごめんね」と謝る。由紀は無理やりな愛想笑いを浮かべている。
もう少し叱っておいた方がいいだろう。と感じて、僕はまた時谷に向き直る。
「一体、何考えてんだよ。君の目的は神様に会ってここから出してもらうことだろ?神様は星界の中にいるんだから、船に乗っても仕方ない。戻ってこられるとも限らない」
「でも外に出たら警察にも相談出来るよ」
「何人か元の世界に戻ったという話を聞いたことがある。なのにここのことは外には知られていないみたいだ。なんらかの方法で神様が阻害していると考えた方が自然だよ」
「方法って?」
「例えば、記憶を消すとか。僕らはみんな、この世界にやってきた時に、それより前の記憶をいくつか失っている。外に出ると、星界にいた記憶を消されたって不思議じゃない。もしそうなったら、誰もみんなを元の世界に戻したいだなんて考えない」
「優樹は?」
「君がいなくなったら、諦めるよ。もっと計画は練った方がいい。危険なことをするのは、他の可能性を全部試してからでいい。特に他の人を巻き込む時はよく考えて」
いかにもしぶしぶといった表情で、時谷は頷いた。
だいたい君はいつも考えが足りないんだ、と続けようとした時、委員長が「もうそれくらいで」と言った。助かった。僕は本来、喋るのも人に注意するのもあまり得意ではない。
「学校や寮には連絡がいってるのかな?」
「それは大丈夫。何だか随分叱られたけど、それもマニュアルみたいで。大事にはしたくない様子だったよ」
よかった。面倒が増えたわけではないようだった。
「船の人と話したんだよね?どんな感じだったの?」
「まさにお役所、ていう感じの対応だったよ。時谷さんが何を言っても、ルールで決まっているのでだめですという返事で」
相変わらず段ボールを抱きかかえたまま、時谷が僕を睨んでいる。
「あの人たちは、星界のことを知ってたよ。私たちが強制的に連れて来られたんだって知ってた」
「そう」
「まるで、普通に働いている普通の人だろうに。どうして明らかにおかしいこの世界を放っておくの?」
確かに奇妙だ。
でもそういった種類の不思議なら、この世界に満ち溢れている。何か見えない強い力でこの島は保護されている。星界における、一見するとありきたりな日常は、異常な力で護られている。ここでの生活を受け入れている限りは、その異常性は表面化しない。でも何かを変えようと試みると、いろいろなところに綻びが見つかる。
それはコンピュータゲームを想像させた。一見すると平和な街でも、現実的に考察すると明らかにおかしい点がある。商業が成り立つはずがなかったり、国家を維持するには人が少なすぎたり、家と住民の数が一致していなかったり、という風に。星界にもおかしな点がある。どういうわけか生活に必要はインフラは安定して整っており、明らかに流出の方が多いように感じる貨幣は枯渇せず、住民が突然大量に増えても住む場所や食べ物が足りなくなるようなこともない。誰かが無理やり辻褄を合わせているようだった。
船だってそうだ。島には物資はありません。では、外から運んできましょう。世界の人間は外に出したくありません。では、人は運ばないようにしましょう。多くの現実的な問題を無視して、そのように、強引に決めてしまっているようだった。
ーでも、それがどうしたというのだ。
どれだけ強引だったとしても、誰かがバランスをとってくれているのなら、それはありがたいことだ。無理に暴き出す必要なんてない。どれだけ非現実的だったとしても、僕らの現実は星界にしかない。ここで生きていくしかない。
「とりあえず昼食にしようか」
と僕は言った。
「これからの方針について、食事でもしながら話し合おう」
でも本当は、僕にとって話し合うべき方針なんてものは存在しなかった。時谷夕花について、僕の方針は初めから決まっている。
僕たちは学校の食堂で遅い昼食をとった。元から人がいないから、いつ来たって空いている。ここでは同年代の女の子が働いている。学校のある日は別だが、休校や祝日になると毎日のように働いている。その様子を眺めるのは、なかなか不思議なものだ。彼女たちは教室にいるときよりも、幾分大人びて見えた。職業的であることと大人的であることは似ている。
僕はぼんやりと店内の様子を眺めながら、甘酢あんに絡まった唐揚げがメインの定食を食べた。時谷と由紀がポツポツ話していたが、具体的な行動プランは一つも出てこなかった。結局この世界をどうにかしたいのなら神様に会うしかない。だがその方法が見つからない。
重苦しい雰囲気で食事を終え、何も話が進まないまま食堂を出た。
上田は既に、一連の調査に飽き始めているようだった。あるいは密航に失敗し叱られたことが、彼なりに応えているのかもしれない。
「聞き込みついでに、友達の家に行ってくる」
そう言って彼は、どこかに歩いて行ってしまった。
「ごめんね。私も」
由紀は、申し訳なさそうに言う。
「夕方からアルバイトがあるの」
そんなわけで、僕と時谷の二人きりになってしまった。
「これからどうしよっか?」
と時谷が言う。
「寮に戻ろう。雨が降りそうだ」
と僕は答える。
雲はその重みをさらに増していた。宙に浮かんでいるのが不思議になるくらいだった。時谷も何をすればいいのかわからないのだろう。頷いて僕についてきた。
「結局犯人はレイって人だったの?」
「違うよ」
「そう。じゃあそっちも探さないとね」
「うん」
時谷の歩調は、普段よりも少しだけ元気がないようだった。彼女は背中を丸めることも、視線を落とすこともない。だからわかりにくいけど、たまには落ち込む。疲れてしまうことも、傷ついてしまうこともある。何も進展しない現状が時谷にとっても苦しいのだろう。
ぽつりと、鼻先に水滴が当たる。周囲からホワイトノイズのような音が聞こえて、アスファルトが黒に変色する。もう降って来たようだ。
「走ろう」
と時谷が言った。その間にも雨は勢いを増していく。
僕たちはとりあえず、目についたパン屋の軒先に駆け込んだ。パン屋は、今日は店を閉めている様子だった。定休日で水曜日はいつも店を開いてはいない。
雨粒は小さいまま、その勢いを増していった。希薄な水に世界が沈んでしまったようだった。軒先のテントがパタパタと音をたてる。
「やむかな?」
と時谷が言う。
「どうだろう。もう少しマシになったら、走って帰った方がいいかもね」
「そっか」
短い会話のあと、しばらく互いに黙り込んだ。少し濡れたからだろう。時谷が小さなくしゃみをする。僕は上着を脱いで時谷に渡そうかと思った。でも僕の上着も水を吸っていて、あまり意味があるとは思えなかった。
空を見上げる。雨脚が勢いを弱める様子はない。
雨音で搔き消されそうなくらい小さな声で、時谷は言った。
「たまに、すごくもどかしくなることがある」
僕はあえて黙って、彼女の声を聞いていた。
「先の見えない暗闇で捜し物をしているような気になることがある。欲しいものはすぐそばにあって、手を伸ばせばつかめるはずなのに、どこにあるのかわからないの。小さなペンライトでもあれば解決するのに、私はそれを持っていないの」
彼女の声は感情的ではなかった。
それは間違いなく弱音だったが、そんな風にも感じなかった。多分僕がいけないのだろう。本来ならちゃんと時谷の声を、言葉を弱音として聴かなければならないのだ。でも僕には、どうしても、彼女のあらゆる声が弱音に聞こえなかった。
「私は考えることが嫌いだから、とにかく辺りのものを掴もうとするの。それで後から後悔したりもする」
彼女に後悔という言葉は、似合わない。
「なんにせよ、密航しようとしたことは反省してるわけだ」
「やっぱり人に迷惑をかけちゃいけないね。次に会ったら、今度はちゃんと謝るよ」
雨はすべての風景をにじませて、あらゆるノイズを混ぜる。眺めていると現実がぼやけていく。
結局その後も、雨は上がらなかった。
僕らはわずかに雨脚が弱まったタイミングで軒先を抜け出して、必死に走ったけれど、寮に着くころには全身びしょ濡れになっていた。
それでいくらか疲労が溜まったのだろう。夜になると、すぐに眠ってしまった。
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