事情

 教室には既に、時谷の机と椅子が運び込まれていた。

 そのおかげで教室はどこか騒然としていて、どこからか「転校生?」との声も上がっていた。

 チャイムが教室に鳴り響くと、すぐにカナメ先生と時谷が入って来た。すると途端に静まり返った。

「おはようございます。早速ではありますが、今日から皆さんに新しい仲間ができます」

 と先生が言って、綺麗な字で黒板に彼女の名前を書いた。

 当の本人は緊張など全くしていなかった。

「時谷夕花です。よろしくお願いします」

 そう言って、頭を下げる。

 再び顔を上げた彼女は、曇りのない視線を僕らに浴びせた。

「私はここから出ていく方法を探します。なので、何か手がかりを知っている人は情報共有をお願いしたいです」

 クラスが息を飲んだのがわかった。

 この世界から出て行こうとする行為は、いわゆる禁忌だ。

 ここにいる仲間も、かつて出て行こうと様々を試みたが、どれも失敗として幕を閉じている。もう既にそれを諦めていた。

 諦めた目標を堂々と宣言されることは、敗者としては気分の良い事ではない。

「簡単に言ってんじゃねーよ」

 と誰かが言った。ほんの小さなひとり言のようなものだった。

 まずいな、と僕は思う。決して時谷が議論を躊躇うことはない。

 彼女は真っ直ぐにその男子、上田を睨みつける。

「ここから出ていくというレベルが、どれほど高いのかなんて知らない。でもいつだって目標を掲げることは間違っていることじゃないと思う」

 時谷に悪意がないことを僕は知っている。攻撃的内容を意図などしていない。ただ自分の思ったことを、そのまま口にしただけだ。でもストレートな言葉は大抵、周りから見れば攻撃的としか捉えられることはない。

 一瞬、上田が驚いたように顎を引いた。

 彼が反論し始める前に、僕が介入する。

「それは違うよ」

 時谷はゆっくりとこちらを向く。

 僕は出来るだけ感情を抑えながら、口を開く。

「どんな言葉でも、誰かを傷つける可能性を持っている。一見明るく見える言葉でも優しい言葉でも、いつだって間違いのない言葉なんてない」

 またクラスが息を飲んだ。普段あまり教室で目立っていない僕が急に話始めたことに驚いているのだろう。

 いつだってそうだ。時谷が目の前に現れると、僕は望まないような行動を強いられることになる。だがこのまま時谷と上田が言い争うよりも、ここで穏便にことを収めた方がいいだろう。

 時谷は時間をかけてゆっくりと頷いた。

「確かにそうかもしれない。いつだって、と発言したのは間違いだった。ごめんなさい」

 僕は安心してため息をこぼす。

「でもまだわからない。どうしてここから出たいと言うことが問題なの?」

 問題だ。僕らはいつだって弱くて、もうそれを諦めていて、などと説明している時間などない。

「その話はまた後にしよう。君の都合で、みんなのホームルームの時間を奪っちゃいけないよ」

 彼女はまたごめんなさいと頭を下げた。

 カナメ先生は大きく頷くと「では席に着いてください」と言った。

 僕は内心でまたため息をついた。本人にそのような意図がなかったとしても、時谷夕花の自己紹介はあまりに的確だった。ほんの数分の出来事だったが、時谷の性格の一端をわかりやすく表現していた。

 やはり時谷夕花は、圧倒的に周囲に馴染めない。

 また彼女が突然爆弾を放り投げないか心配で仕方なかったが、授業は思っていたよりも滞りなく進んでいった。

 見た限りでは、彼女は至って真面目に授業を受けているようだった。基本的にはとても真面目な生徒なのだ。その口さえ開かなければ、その姿は優等生にしか見えない。

 彼女は休憩時間になると僕のところへやってきて、どうしてここから出たいと言ってはいけないのかと質問してきた。

 仕方ないか、と僕は答える。

「いいかい、時谷。誰にだって個人個人それぞれの居場所というのがあるんだよ。クジラにはクジラの居場所があって、ラクダにはラクダの居場所がある。広い海の中でここは広すぎると言っても仕方がないし、砂漠の中でここは暑すぎると言っても仕方ない。あるいはクジラは陸上に憧れているのかもしれないし、ラクダだって、涼しい大地の上でのんびり休みたいと思っているのかもしれない。でもね、彼らにはそれを達成することが出来ないんだ。もうそれを諦めているのかもしれないけれど、そんな中で涼しくて狭すぎない大地の上でのんびり休みますと言ったら、そりゃやっぱり傷つくだろう?」

 やはり時谷は僕の話を上手く理解できていなかったようだ。

「でもこの教室にいるのはクジラでもラクダでもなくて、クラスメイトだよ」

 つい僕はため息をついた。

「僕らは、君と比べればずっとクジラやラクダに似ているんだよ」

 そう言ってはみたけれど、時谷は腑に落ちない表情で顔を傾けるばかりだった。

 海には海の幸せがあり、砂漠にも砂漠の幸せが必ず存在すると僕は考えている。こんなゴミ箱のような世界だって、何かしらの幸せがあるのだろう。

 だがその幸せは、この現状を受け入れない限りは、きっとわからないのだろう。

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