甘橙

 星も息を潜める静かな夜に

 私と貴女だけが世界に取り残されてしまったようで

 まるで永遠を許された恋人のように

 まるで互いの息を確かめるように

 意味も無く、名前を呼び合いながら

 私の頬には涙が伝い

 貴女は幽かに笑っていました


 望まれない私たちが紡いだ物語は

 むかし本に読んだアリアドネの糸となって

 いつか来る日、二人を同じ場所へ導いてくれると

 そう言って私を元気づける貴女の笑顔は

 どうして少し歪んでいるのでしょう


 まるで夢のように暖かい病室の中で

 かたちを留めているのは氷のような機械音だけで

 ほんの少し指先で触れただけでも

 雪の結晶のようにホロホロと融けてしまいそうな

 あまりにも脆すぎる一瞬でした


 瑞々しいオレンジの片割れを差し出して

 私は貴女に問いかけます

 ガラスの瞳にいっぱい涙を溜めて

 貴女は言葉を詰まらせます


「貴女の隣で眠れることを、何より幸せに思うの」と

 ついに貴女はポロポロ泣きだして

 零れた涙はそれまでのどんな笑顔よりも透明で

 私はどこか安心したけれど

 それでもやっぱり悲しいようで

 込みあげる思いは何一つ言葉にならず

 震える貴女の薄い肩を抱き締めて

 一緒に泣くことしかできませんでした


 それは美しくも、誰も知らない物語

 終末を知らせるサイレンが鳴り響いて

 機械に呑まれた貴女の小さな身体は

 眠り鯨の歌と共に深い海へと沈んでいきました

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