第69話 ダメ姉は、現れる

 ~SIDE:コマ~



 陸上競技大会予選を何とか突破したその日の夕方。他の部員の皆さんが明日の決勝に備えて身体を休ませている中……私、立花コマはただ一人ホテル近くの公園で密かに走っていました。


「ハァ……ハァ……ハァ……」


 公園の端から端までを全力で走り抜けた後、ゆっくりと減速する私。急には止まらずにしばらく周囲を歩きながら、胸に手を当て乱れた呼吸を元に戻します。


「…………ふーっ」


 数分経っても戻りきっていない息。全力疾走を続けたせいで震える脚。どうやらこの私に似つかず私の身体はとても素直なようで、私に対して『明日に響きます。今すぐ休みなさい立花コマ』とサイレンを鳴らし始めたようです。


「……ダメ……全然足りない……もっと……もっと……っ!」


 ……それでも今日の走りに不満タラタラな私の心は、その身体のサイレンを無視。軋む身体に鞭を打ち、全く走り足りないと私を突き動かします。

 今日は何とか予選を突破したとはいえ、不甲斐ない結果を残してしまった私。リレーではバトンパスが上手くいかずにタイムロスをして皆さんの足を引っ張ってしまい、個人でもスタートで出遅れて自己ベストには程遠い記録でした。


 その悔しさで居ても立っても居られなくなり、こっそりホテルを抜け出してかれこれ1時間近く走った私。

 ただ……それだけ走っても一向に満足のいく走りは未だに出来ません。……まだ、まだ私はやれるはずなんです……だからもう少しだけ―――


「…………ストップだ。立花コマ君」

「きゃっ……!?え、あ……」

「夕食の時間になっても一向に姿を見せない故、もしやと思ったが……まだやっていたのか」

「ぶ、部長さま……!?」


 と、もう一度走ろうとした瞬間、背後から声を掛けられる私。驚いて振り向くと、そこには陸上部の部長さまが私を睨みつけているではありませんか。い、いつの間に……?


「昼に私はこう言ったハズだぞ。『決勝に出場する者は明日に支えるから身体をしっかり休ませろ』と。……それで?君は一体何をしているのかね」

「……えっと……あの。……さ、散歩……を……」

「ほう?散歩か。……私の見間違いでなければ、身体を休めるどころか全力疾走していたように見えたのだがな。あれは立花コマ君にとっての散歩なのかね?」

「ぁぅ……」


 普段は温厚で寛容なお方ですが……部を仕切る者としては、私のように勝手な行動を起こす者は許せないのでしょう。珍しく本気で怒っている部長さま。

 困りました……どうやら部長さまに私が走っていた姿を見られていたようですし……今更『ちょっと夜風に当たりたくて散歩していました』―――なんて苦しい言い訳はまるで通じそうにありません……


「とにかく部長命令だ。さぁ、今すぐホテルに戻りたまえ立花コマ君」

「……申し訳、ございません。ですが……その、出来ればもう少しだけ……やらせてくれませんか」

「…………聞いていなかったのかね?私は戻れと言ったのだが?」

「で、ですが……っ!……ですがお願いです部長さま。あと少し……あと少しで良いので走らせてください!……わ、私……明日は……明日は絶対に後悔したくありませんから……!」

「……むぅ」


 言い訳が通じない以上、正面から頼み込むほかありません。一生懸命頭を下げて部長さまに噛みつく勢いで頼み込みます。


「やれやれ……君は一体何を焦っているんだ?昨晩も言ったが、いつも通りの力を発揮出来れば何も問題ないだろうに」

「……そのいつも通りの力が発揮できていないので……もう少しだけ練習したいのです。今日は……今日は自分で思う通りに走れませんでしたから……」

「何を言っている立花コマ君。多少のミスはあったかもしれないが、今日の君の走りだって決して悪くはなかったぞ。大体、君一人が気負う必要など何処にもないんだぞ」

「……いいえ。私、練習の時はもっと良かったハズです。今日は部長さまたちの足を引っ張ってしまう散々な結果でしたし……ダメなんですもっと頑張らないと……このままじゃ……姉さまの……姉さまの期待に……」

「…………」


 そう……このままじゃ姉さまの期待には応えられません……情けない結果を残して帰るわけにはいかないんです……そうじゃなきゃ私は……私は…………姉さまに、失望されて……


「……これは、何を言ってもダメそうだな。今ここで私が君を無理やりホテルに連れて帰っても、その様子じゃ後でこっそり抜け出してしまいそうだ」

「……っ!?」

「図星かね?全く……立花コマ君、君はもっと聡明な子だと思っていたんだがなぁ……」


 よく、お分かりで。図星を指されて思わず俯いてしまう私。その様子を見た部長さまは、腕を組みながら静かにため息を吐きます。……これは、部長さまに失望されたかも……


「わかった……好きにしなさい」

「え……?よ、宜しいのですか……?」


 失望されて、問答無用で部屋に帰されると思っただけに……部長さまのそんな一言に驚く私。こちらとしてはありがたいのですが……良いのでしょうか……?


「いや、良くはないが……走らないと納得しないんだろう?だったら仕方ないじゃないか。……ただし、30分だけだ。それ以上やれば本当に明日に響いてしまうからな」

「…………30分」

「……そう不満そうな顔をするな立花コマ君。こう言うと脅しになるだろうが、個人だけでなくリレーにも出場する事を忘れるなよ。今こんなところで気張っても、明日走れなければこの私にも他のリレーに出場する者にも迷惑が掛かる。……それはわかるね?」

「…………はい」


 部長さまはもう一度だけ盛大にため息を吐き私を諭すようにそう忠告します。……あと30分だけ……なんて短い……

 けれど、部長さまの立場を考えればこれが最大限の譲歩なのでしょう。寧ろ30分も頂けたことに感謝しなければ。


「ならば良し。怪我だけは絶対にしないでくれよ。……ああ、それからあともう一つ。まだ走るつもりなら、せめてちゃんと息を整えてから走りたまえ。今もかなり息が上がっているぞ。そんな状態ではいくら走っても満足な結果は得られないだろうからな」

「……わかりました。すみません、我が儘を言って……」

「全くだよ。やれやれだ」


 それだけ伝えて肩をすくめながら公園を去る部長さま。……ごめんなさい部長さま。ありがとうございます。

 残された私はとりあえず部長さまの忠告に従い、まずは乱れきった息を整えるために公園に設置されているベンチに腰掛けることに。


「…………あ……涼しい……」


 ベンチに座ってしばらく息を整えていると、涼しくなってきた秋の風が吹き抜けて私の火照った身体を冷ましてくれます。

 ……お陰で少しだけ、血が昇っていた頭も冷静になったかも……


「……情けない」


 無我夢中で走っていた時はどうにか忘れる事が出来ましたが、冷静になると今度は自然に今日あった嫌な出来事が脳裏にどんどん浮かび上がってきます。


 前日姉さまに応援メールを頂き、その姉さまの期待に応えようと必死になって……けれど思うように個人100mで走れなかった事。それを引きずってしまい、続くリレーでもバトンパスに失敗して皆さんの足を引っ張った事。……そんな不甲斐ない自分が許せなくて、部長さまの指示を聞かずにこんな時間まで走り……その結果、部長さまの信頼を失ってしまった事。


 どれもこれも思わず頭を抱えたくなるほど情けない話ですが……極め付けがお昼の姉さまとの電話。あれは本当に情けない……


「……勝手だなぁ……私って」


 何て私は弱くて身勝手なのでしょう。自分の意志で姉さまの元を離れたくせに。ずっと依存していた姉さまから離れて、心身共に自身を鍛えようと誓ったくせに……

 姉さまが電話を掛けてくださった途端、私はこんな事を想ってしまったんです……『どうして姉さまは、私の傍に居てくれないんだ』と……


『…………私……ダメです。ダメなんです…………やっぱり私って……姉さまが傍に居ないと全然―――』


 お昼に姉さまに言いかけた自分の言葉を思い出します。……そう。私は……姉さまが居ないと何もできないダメな妹。

 ……あろう事か姉さまに弱音を吐露しかけて……あとちょっとで辛い事、苦しい事を全部姉さまにぶつけそうになって……


「……本当に、ダメですね私……」


 姉さまから電話を頂いて声を聞いただけで……こんなにも会いたい、直接会ってお話を聞いてほしい―――そんな我儘な事を考えちゃうなんて……これじゃあ何のために姉さまの元を離れたのか分からない……結局、姉さまと離れてもずっと姉さまの事しか考えていない……


「…………マコ、姉さま……」


 この三日間味覚が失われ、食欲不振によって陥った不調なのか。今日の自分の不甲斐なさを感じて引きずっているのか。明日の決勝に緊張しているのか。大好きな姉さまに会えない事が相当堪えているのか……それともその全てが原因なのか。

 様々な負の出来事が幾重にも絡み合い、辛い気持ちをどうしても抑える事が出来ません。とうとう耐えられなくなって助けを求めるように、縋るように姉さまの名前を呼んでしまう私。


 笑っちゃいますよね…………どうせこんなところで姉さまを呼んだところで、姉さまが来てくれるわけでも無いなのに……


「―――んー?なぁに?もしかしてコマ、私を呼んだのかな?」

「…………はい。……さみしくて、つい姉さまの名前を呼んじゃいました……」

「あらら……そっかぁ。うん、わかるよーコマのその気持ち。私もコマが居ない三日間はさ、寂しくてずーっとコマの名前を呼んでたから。朝昼晩、ご飯食べてる時も部活してる時も授業中も眠ってる時もね!……お陰で先生には『授業中だぞ、やかましいわ立花!』って怒られるし叔母さんからも『寝言うるせぇぞマコ!静かに寝ろや!?』って怒鳴られるしで散々だったよハッハッハッ!」

「そうだったんですか……それは……光栄です……」


 ポツリと呟いた私に、律儀に受け答えしてくれる誰かさん。ありがとうございます……こんなダメな私を慰めてくださるのですね……本当に、いつもながらはお優し―――







 …………あ、れ?


 ちょっと……待ってください。今の、何かがおかしい……私の気のせいでしょうか?どう考えても今この場に人の声が聞こえたような……?

 も、もしや私……姉さまに会えないというあまりの寂しさや辛さに幻聴まで聞こえるようになったの……?


「ん?あれ?どしたのコマ?何だか眉間に皺が寄ってるっぽいけど……もしかして疲れてるのカナ?」

「…………そう、ですね。想像以上に疲れているのかもしれません。何せ幻聴が聞こえますもの……何故かここには絶対に居るはずの無いお方の声が聞こえますもの……」

「幻聴!?だ、だだだ……大丈夫なのコマ!?今からお姉ちゃんと病院行く!?」


 慌てた様子で私の顔を覗き込んでくる誰かさん。そのお姿は、見慣れた愛しき私の想い人そっくりで。…………困りました。幻聴どころか幻覚まで見えちゃってます。私ひょっとしてとうとう末期……?

 幻覚にしては妙にリアリティがある故に、念のためこれが本当に幻覚なのかそうでないのかとりあえず確かめてみる事に。


「ちょ、ちょっち待っててねコマ!お姉ちゃん、今すぐこの近くで一番良い病院を探してあげるからっ!」

「……いえ……病院は、結構です……それよりもお願いがあるのですが……」

「へ?な、なになに?頼み事なら遠慮せずお姉ちゃんに言ってね!」

「…………その、手を握って貰っても良いですか」

「……え?手?…………あ、ああうん。わかった。……こ、こんな感じで良い?」

「…………次、抱きしめてくれませんか」

「だ、抱き……!?お、応とも!んじゃ失礼して…………ど、どうかなコマ?」


 小さくて可愛くて柔らかくて温かい手で握って貰い、そして優しく包み込むように抱きしめてもらう私。う、うそ……信じられない……

 ですがこの感触、香り、息遣い、温もり、鼓動、抱き心地の良さ……それをこの私が間違うハズもなく……理解が全く追い付いていませんが、それでも最後に震える声で確認をする私。こ、この人は……この人はまさか……!?


「あ、あの!さ、最後にもう一つだけ……!あ、貴女さまに質問しても宜しいでしょうか!?」

「うん?良いよー。私に答えられる事なら何でも聞いて」

「あ、貴女さまは……貴女さまはもしかしなくても…………私の、……?」

「へっ!?」


 自分で言っておいてなんですが、何てとんちんかんな質問なのでしょう。ですが、それでもそう聞かずにはいられません。私のそんなちょっぴりおバカな質問に対して、私の目の前にいるお方は少々困惑しながらもこう答えてくれました。


「あ、ああうんそうだね……この私こそコマのただ一人の姉、立花マコだよ」

「……まこ、ねえさま……?」

「う、うん……ね、ねえホントに大丈夫……?もしかしてコマ……お姉ちゃんの事が分からなくなったわけじゃないよね……?」

「…………ね、ねねね……姉さまぁ!?」


 まさかの……本物……!?ようやくこれが現実の姉さまだと理解。同時にこれ以上なく混乱の極みに達してしまう私。

 何故?何故ここに姉さまが居らっしゃるのですか……!?


「あ、あああ……あの!ど、どうして姉さまがこんな場所に……!?」

「ん?ああ、うん。実は今ちょうど陸上部の部長さんに偶然会ってねー。『立花コマ君ならあの公園にいるよ』って教えて貰ったんだー♪こっちに着いて早々グッドタイミングだったよ。コマと行き違いにならなくて良かった良かった」

「い、いえ違います!?そっちじゃありませんっ!……そ、そっちじゃなくて……何故姉さまこんなところに居るのですか!?あ、明日も授業ではないのですか!?そ、そもそも……今日だって、授業があったハズでは……!?」

「……あー、何だそっちか」


 そう……今日と明日は平日で、授業がある姉さまがこんな場所に居るハズがありません。大体……ここまで来るのに新幹線を使っても5時間以上はかかるはず。今18時くらいですから……逆算すると私に電話を掛けてくださった直後に学校を出なければここに辿り着くことなんか出来っこないのに……


 慌ててそのように尋ねると、はにかみながらも姉さまは答えてくれました。


「えへへ。ごめんねコマ。お姉ちゃんコマが心配でさー。つい……来ちゃった♡」

「…………」


 き、来ちゃったって……

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