第70話 ダメ姉は、助言する

 ~SIDE:コマ~



 陸上競技大会決勝前夜。自身のあまりの不甲斐なさに憔悴していた私の前に突然現れたのは……この場所に居るハズの無い私の姉のマコ姉さまでした。

 兎にも角にも姉さまに立ち話などさせられません。状況を整理する為に姉さまにも私が腰掛けていたベンチに座って貰い、どういう経緯でここに来たのかを尋ねてみる事に。


「ごめんねぇコマ。ちょっと驚かせちゃったみたいだね。なんかお昼に電話した時さ、コマの様子がおかしかった気がしてさ。……だから、その。つい居ても立っても居られなくなって……お姉ちゃん学校を飛び出して来ちゃった♡」

「そ、そうだったんですか……こんな私の為にわざわざご足労いただき申し訳ございません……」

「あー、いやいや。これは私が勝手にやっちゃった事だしコマが謝る事なんてないんだからねー。つーかただ単に新幹線に乗っただけなんだし、全然大したことじゃないよ」


 ニッコリ笑顔で気にしないようにと言ってくれる姉さま。ですが……簡単に『来ちゃった♡』なんて姉さまは仰っていますが……交通費だってバカにならないわけですし、何より私たちの学校からこの場所まで5時間以上はかかってしまいます。現在時刻18時くらいで、姉さまが私に電話を掛けてくださったのが12時30分過ぎだったハズ……つまりあの私との電話の直後、迷わず即学校を飛び出さなければ今ここに辿り着くなんて不可能なのです。

 ……どうして姉さまは私の為にこんな無茶をやってくれるのでしょうか?どうして姉さまはこんなにも優しいのでしょうか?…………困りますよ……こんなに私の事大事にしてくれたら……嬉しくて涙が出ちゃいそう……


 …………ただ。それはそれとして少し姉さまの事が不安になる私。ところで姉さま……?本日の午後の授業は、一体どうなさったのです……?


「あの……姉さま?よく学校を抜け出せましたね。先生方には何と言ってここまで来たのですか?」

「へ?先生たちに?……あー、うん。えっとね―――」



 ~マコ回想中:5時間前~



『失礼します。2年A組立花マコです。少々お話があって馳せ参じました!』

『……?おお、立花か。お前が自分から職員室に出頭してくるとは珍しいじゃないか。それで、今日は一体何をやらかしたんだ?どの先生に叱られる予定なんだ?』

『……いやあのマイティーチャー?どうして私が説教受けるって前提で話をしているんですかね?今日はまだ何も悪いことしてませんよ。可愛い生徒に対して失礼じゃないですか全く…………(ボソッ)まあ確かに、これから怒られるような事する予定ですけど……』

『む……?何だ、説教を受けに来たんじゃないのか。ならもうすぐ昼休みも終わるし、そろそろお前も授業の準備をしなければならないだろう?要件をさっさと言ってみろ。手短にな』

『あ、はいですっ!えー……それが実はですね先生。……私どうやら『妹欠乏症』の発作が悪化し始めたみたいなんです。このままじゃ命に係わりそうですし、今日はどうかこの私の早退を認めてくれませんか?』

『…………妹、欠乏症……?あ、ああそうか。ええっと……それは、大変だな。なら仕方ない。しっかり休んで治すんだぞ立花』

『はいっ!ありがとうございます!立花マコ、早速早退しまーす!……あ、それと多分明日も学校お休みしますからそのつもりで!そんじゃ失礼しましたマイティーチャー!グッバイ!』

『ああ。お大事にな―――…………ん?……いや待て。…………まて、待て待て待て!?ま、待ちなさい立花ッ!?『妹欠乏症』って何だ!?い、一瞬先生も『姉バカなお前ならそんな奇病に罹るのも可笑しくない』と思い込んでしまったが、そんなふざけた話を認められると本気で思っているのか!?お、オイ待て…………待てや立花ァ!!!?』



 ~マコ回想終了~



「―――ってな感じで、先生説得してから学校抜け出してきたよー」

「…………ね、姉さま……それは、説得とは言わないような……」


 な、何て無茶苦茶な……多分帰ったら先生方に相当怒られちゃいますよ……?と言いますか私からもどうにか口添えしないと……これって最悪の場合、停学処分もあり得るのでは……?


「まー、私の事は別にどーでも良いんだよ。……それよりもさ、コマ。一体全体どうしたの?」

「え……?」


 姉さまの今後が割と本気で心配になった私をよそに、姉さまはいつになく真剣な表情で私に問いかけます。

 やだ……姉さま、カッコいい……いつもは朗らかでぽわぽわ可愛い姉さまですが……こういう凛々しい真剣な姉さまも素敵―――とか言ってる場合じゃないですよね……こんな時に変な事考えちゃう変な妹でごめんなさい姉さま……


「ど、どうしたのとは……何の話でしょうか姉さま?私は別に何も……」

「こらこら。誤魔化しちゃダメだよコマ。今会った部長さんにも言われたんだよ。『彼女は……立花コマ君は何やら追いつめられているようだぞ。良ければ相談に乗ってやってくれたまえ立花マコ君』ってさ」

「……部長さまが……?」

「うん。それにさっき私も言ったでしょ。『お昼に電話した時さ、コマの様子がおかしかった気がした』って。部長さんは勿論、この超鈍い私でも気付くんだしさ……隠しても無駄だからね」

「……はい」


 姉さまの真っすぐな瞳に射抜かれてしまう私。これは……嘘を吐いたり誤魔化す事は……無理そうです。


「……遠慮しちゃダメだよコマ。あのね。そりゃ私じゃコマの役に立たないかもしれないけれどさ、でももしかしたらコマの助けになれる事もあるかもしれないじゃない」

「ね、ねえさまが……役に立たないなど……あり得ないです……姉さまは、私が頼ることの出来る唯一のお方ですし……」

「ん?そうかな?えへへー、それは嬉しい褒め言葉だ。……だったらさ。そう思ってくれてるなら尚の事、ちゃんと私に頼って話してみてくれないかなコマ」

「……頼る……姉さま、に……」


 ……絶対に姉さまに心配かけたくなかったのに。弱い自分を見せたくないのに。せめて姉さまの前だけでも強く凛々しい妹でありたかったのに。


「ただ話すだけでも楽になれるかもしれないし、私に出来る事なら何でもするよ。私は姉としてコマの助けになりたいもん。……あ、勿論話したくない事とかは無理に話さなくても良いからねー」

「ぁ……ぅ……」


 ……優しい声、優しい笑顔で私に問いかけるマコ姉さまを前にすると、もうダメ。お手上げ。安い虚栄心で覆った姉さまの理想の妹としての姿など簡単に剥がされて、姉さまに服従するしかありません。


「…………長い、話になるかもしれません。とてもつまらない話だと思います。それでも宜しいですか……?」

「ん。いいよー。コマのお話ならいつでも何であっても大歓迎。お姉ちゃん、何でも聞いちゃうからねー」

「…………ありがとう、ございます……。実は、ですね―――」


 気付けばお昼の電話で言いかけた、胸の内に溜め込んでいたものを姉さまに吐露してしまう私。


 姉さまに頑張りを褒めて貰いたくて、良いところを見せたくて走る事を決意した話から始まり……何故か今日に限ってイマイチ思うように体が動かずに実力を発揮できなかった苛立ちや助っ人として参加しているのに皆さんの足を引っ張った不甲斐なさ。部長さまの指示を聞かなかった事に対する自己嫌悪……

 そして。こんな調子では明日の決勝でも姉さまの期待に応えられないかもしれないという不安。それら全てを姉さまに打ち明けます。


「…………私、もうダメです……このままじゃ姉さまの期待に応えられない……姉さまに失望されるのが……怖いんです……」

「……そっかぁ」


 そんな小さな子供の愚痴のような私の話を、時折相槌を入れながら静かに聞いてくださる姉さま。


「……うーむ。……私の期待に……ねぇ。そっかそっか。んー……期待かー」


 最後まで私の話を聞き終えると、姉さまは口元に手を当てて何やら考え込む素振りを見せます。しばらく姉さまは愛らしくうーんうーんと唸っていましたが……


「ねえコマ。お姉ちゃん、ちょっとコマにお願いがあるんだけど」

「え……?あ、はいっ!な、なんでしょうか姉さま!?」

「ゴメンね、疲れてる時にこんなお願い事するのはちょっと悪いとは思うんだけどさ。一回だけ、私の前で走ってみてくれないかな?」

「……は、走る……ですか……?」


 数分後、考えがまとまったのか私に対してそんな要求をする姉さま。え、えっと……何故に……?


「あ、やっぱダメ?疲れちゃったかな?まあ明日が決勝だし、明日に響きそうなら無理に走らなくても良いんだけど……」

「い、いえ……走ります。どちらにせよ私ももう少しだけ走りたかったですし」

「おー、そりゃ良かった。じゃあよろしくコマ」


 姉さまにどんな意図があるのかは分かりませんが、どの道私も明日の調整の為にもう少しだけ走るつもりでしたのでちょうど良いでしょう。

 そんなわけで姉さまに言われるがまま、公園の端まで移動して走る準備をする私。幸い姉さまとしばらくお喋りしていたお陰で乱れていた息も整っており、これならいつでも行けそうです。……姉さまが傍に居る今ならば気合も入りますし、今度こそちゃんと走れるかも……


「コマー?準備OK?そろそろ行けるかな?」

「……はい姉さま。立花コマ、いつでも行けます」

「うむす。りょうかーい。んじゃ、スタートの合図は私がするね。位置についてオン・ユア・マークス……よーいセット―――」


 なるべく明日の決勝で走る気持ちで。……いえ、そもそも姉さまが見ている前で手など抜けません。姉さまの期待をこれ以上裏切るわけにも参りませんし……本気で、行かせて貰いましょう。

 姉さまのコールに合わせグググッと下半身に力を蓄えます。二人の間に緊張が走る中、姉さまは掛け声とともに大きく両手を広げ……そして―――


「―――(パァンッ)ドンッゴー!」

「っ!」


 手を打ち鳴らし乾いた音を立たせ、スタートの合図が公園内に鳴り響きます。音が鳴ると同時に、まずは引いている後ろの足で地を思い切り強く蹴り出して、腕を大きく振って一歩目を踏み出す私。

 よし……!今日の予選では上手くいかなかったスタートダッシュでしたが、今のはなかなかどうして悪くありません。この勢いに乗ってゴールまで走り抜け…………ようとしますが。


「(……おも、い……っ!?)」


 ……調子が良かったのは最初の一、二歩だけ。いざ走り出すと自分の身体がズシッと酷く重たく感じてしまい、自分の思うように前に進めなくなってしまいます。

 必死に脚を、腕を動かして前に前に出ようとしますが……まるで泥の中を進んでいるかの如く身体が重たくて……脚にも腕にも、力が全く伝わりません……


「(ヤダ……なんで……!?どうしたというのですか私の身体……!?)」


 焦れば焦るほど私の走りは惨めなものに。加速も碌に出来ず……呼吸の仕方を忘れたのか陸の上で溺れているように、呼吸は乱れに乱れてしまい息もどんどん上がっていきます。


「っぁあああ……っ!」


 やっとの思いで公園の端に辿り着いた時には、喉もカラカラ息も絶え絶え。膝なんてこんなにもダメな私を嘲笑っているのかのようにガクガクと可笑しいくらい笑っているではありませんか……


「はーい、コマお疲れさまー♪タオルどーぞ。あとお水もあるよー」

「ゼェ……ゼェ…………はぁー……。あ、ありがと……ござい、ます……」


 膝に手をついて息を整えているとトテトテと後からゆっくり追いかけて、私にタオルと飲料水を手渡してくれる姉さま。

 その姉さまの厚意に甘えてタオルで吹き出る汗を拭き、水を飲んでどうにか息と鼓動を戻します。そんな私が落ち着くまで姉さまは静かに私を眺めつつ、ただじっと待ってくれます。


「コマ、大丈夫?もう落ち着いた?」

「……フー…………はい。お陰様で、もう平気です……ありがとうございます姉さま」

「無理に走らせちゃってごめんねーコマ。それでどう?走ってみてどうだったかな?」


 切らした息を元に戻したところを見計らって姉さまは私にそう尋ねます。……どうだったか、ですか。

 …………そんなの、見ての通りですよ姉さま……


「…………全然、ダメでした……」

「ん?ダメ?何が?」

「……ごめんなさい……ごめんなさい姉さま……こんなんじゃ、やっぱり……私姉さまの期待には応えられない……ごめんなさい……」


 折角姉さまが走っているところを見てくださっていたのに……あんな無様な姿、見せたくなかったのに……どうして私の身体はもっとしっかり走ってくれないのでしょう……?学校で練習していた時は、あれ程調子が良かったというのに……どうして……どうして?

 悔しさともどかしさ。そして自分のあまりの不甲斐なさに押し潰れそうになりながら、ただただ姉さまに謝る私。ごめんなさい姉さま……こんなダメな妹ですが……お願いです……嫌いに、ならないで……


「なるほどねー。やっぱりか。……いやいやいや。誰もそんな事は聞いてないよコマ」

「…………え?」


 そんな私を前にして、姉さまは『今のコマの答えは的外れだよ』と苦笑い。


「私が聞きたかったのはそんな事じゃないんだよ。あのねコマ。コマはさ……今走ってて楽しかったかな?」

「…………え?たの、し……?」


 そして苦笑いをしたまま、姉さまはそんなことを言い放ちます。楽しかった……?なんの……話……?


「ねぇコマ。コマはさ、何のために走ってるの?」

「な、何の為って……そ、それは勿論明日の決勝で……姉さまの期待に応える為に……姉さまに勝利を届ける為に……」

「ふーん?私の為ね。……コマはそれだけの理由で走ってるんだ?」

「い、いえ……後は勿論……助っ人として陸上部の皆さんの為に……」

「ふむふむなるほど。助っ人を頼まれたから走ってるのか。……で?それだけ?」

「え、えっと……他には……ええっと……」


 またしても姉さまの意図が分からずに、しどろもどろになりながらも必死に答えを探す私。あたふたした私の姿をクスクスと笑いながら、姉さまはこう続けてくれます。


「あのね。コマは何か勘違いしてるみたいだからさ、ここは敢えて誤解されることを恐れずにちゃんと言わせて貰うね」

「勘違い……?」

「うん、そう勘違い。コマ、私はさ…………コマが決勝でどれだけ凄い記録を出そうが、表彰台に上がろうが……そういう事に関しては

「…………っ!?」


 姉さまから放たれた衝撃の台詞が私の心臓を撃ち抜きます。……そん……な……どうでも、いい……?

 そ、それはつまり……わた、わたし……私は……姉さまに期待されていないという―――


「こらこらこら。お姉ちゃんの話は最後までちゃんと聞きなさいコマ。その顔はアレだ。今多分こう思ったんでしょ?『私は姉さまに失望されたんだ。姉さまに期待されてないんだ』って。全然違うからね」

「…………え?」


 絶望しそうになるギリギリのところで、姉さまは私を諫めてくれます。ち、違うのですか……?


「勿論お姉ちゃんもね、『優勝』とか『大会記録の更新』とか高い壁を設定してそれを乗り越えようとするコマは立派だと思うし、コマなら有言実行して素晴らしい結果を残してくれるって期待もしてる。才気あふれるコマをお姉ちゃんは心から尊敬しているし、誇りに思っているよ」

「……はい」

「でもね。その逆……例えばコマが今日予選敗退したとしてもさ、私が怒ったりするわけ無いし失望するなんて絶対にありえない。そういう意味で……記録とか成績とかに拘るつもりは無いよって話。私がコマに期待するのは、結果じゃないもの。それが何かわかる?」

「記録や……成績じゃない……?」


 ……そんな事言われても……わかりません。姉さまは他に何を期待されているというのですか……?


「んー、まだわかんないか。えーっとね。……ねえねえ。コマさ。この前の……私が陸上部に差し入れ持ってきた時の事覚えてる?」

「え、ええ。それは勿論……覚えています。お弁当やお菓子を作ってくださった件ですよね……?」

「うん、それそれ。私その時にね、コマが走ってるところを見学させて貰ってたけどさ……あの時のコマを見てね、私はこう思ったの。『ああ、私の妹は何て綺麗なんだろう』って」

「…………ひゃい……!?」


 突然綺麗と褒められて、思わず変な声を出してしまった私。き、綺麗……!?い、いきなり……何を……!?


「これって容姿が綺麗って意味じゃないよ。…………あ。い、いや待った!今の無しっ!て、訂正!ちょっと訂正させて!ももも、勿論コマの容姿は誰よりも美しく可憐でかわいいよっ!で、でもここでいう綺麗の意味はちょっと違うって事だから……そこんところを勘違いしちゃダメだからね!?」

「は、はぁ。……でしたら一体どんな意味で……?」

「……あ、あー、コホン。ええっとね……ここでいう綺麗って意味はさ―――『ひたむきに、自分の好きな事を一生懸命頑張っているコマの姿』……その姿が綺麗だって意味なんだよ」


 自分の好きな事を……一生懸命に頑張る姿が綺麗……か。嘘が苦手な姉さまですし、これがお世辞でも何でもない心からの言葉だということがよくわかります。


「9月になったとはいえまだまだ残暑は厳しいし、決して練習も楽じゃない。突然助っ人として大会に出てくれと頼まれたわけだし……コマだって多少なりともプレッシャーを感じてたハズ。だけどね、あの時校庭で練習していたコマはそういうのは全然顔に出さずにさ、それどころかとっても楽しそうに走ってたんだ」

「楽しそうに……?」

「そうだよー。ほんのちょっとタイムが縮まっただけで無邪気に喜んで。記録が伸びなくても、それでも見てるこっちまで気分が良くなるくらい気持ち良く走って。その姿はとても素敵で綺麗で……私の目にはとても魅力的に映ったよ。コマが眩しく輝いて見えたんだよ」

「そ、そう……ですか。ちょ、ちょっと照れますね……」


 心からの、真っすぐな姉さまの気持ちの籠った言葉だと分かるだけに、流石にここまで絶賛されると……流石に気恥しい気持ちに。

 それが世界で一番好きなお方の言葉だからこそ尚の事恥ずかしいです……いやまあ、死ぬほど嬉しいですけどね……


「……でもね。残念ながら今走ってたコマからは、そういう魅力は全然感じられなかった。走るのがとても辛そうで……それを見てて私、なんだか胸が苦しくなったよ」

「…………ぁ」


 ……そこまで言われて、先ほど姉さまに問われた事―――『私が聞きたかったのはそんな事じゃないよ。あのねコマ。コマはさ……今走ってて楽しかったかな?』という言葉を思い出します。

 確かにあの時の私は、ただ姉さまに良いところを見せたい一心で……走るのを楽しむ余裕なんて無かった……


「ねえコマ。コマってさ、昔からよく走ってたよね?運動部に所属しているわけでもないのに、今でも時間を見つけてはよく走ってたよね?」

「え……は、はい。そう……ですね」

「さっきと同じ質問をするね。じゃあどうしてコマは走るの?」


 私が……走る理由……


「それは私の為に走ってたの?他の誰かの助っ人の為に走ってたの?そんな理由で走ってたの?」

「い、いえ……それは……」

「それは?」


 …………ようやく、姉さまの言いたいことを理解する私。ああ、そっか……そういうことですか……


「それは……走るのが……好き、だから。……走るのが……楽しいから……」

「はーい、正解」


 私の辿り着いた答えに満面の笑みを浮かべる姉さま。


「ねえコマ。コマはさ……多分今日の予選も、それから今走った時も。一番大事なその気持ちを忘れてたんじゃないかな?」

「……その通りです」

「やっぱりね。さっきのコマの走り見てたらさ、コマからは『辛い……苦しい。もう嫌だ』みたいな気持ちしか感じなかったよ。私、運動音痴だし陸上の技術的な事はわかんないけど……そんな気持ちのまま走ったらさ、思い通りに走れないのも無理ないと思う」


 姉さまに指摘され理解する私。そっか……道理で走るのがあんなに苦しかったのですね……


「お昼コマに電話した時からずーっと気になってたんだ。だってコマ『姉さまの為に走らなきゃ』とか『姉さまに期待に応えなきゃ』とか『助っ人として情けない』とか頑なに話すんだもん。優しくて真面目で責任感が強いコマだから……私の為とか助っ人として陸上部の為に走らなきゃって、気負ってたんでしょ」

「……そうかも、しれません……」


 ああ……そういえば陸上部の部長さまにも、昨日から散々言われていましたっけ。『いつも通りの走りさえ出来れば問題ない。だから気負うな立花コマ君』と。


「でもね、その気持ちは嬉しいけれどさぁ……私の期待とか助っ人としての役割とか……そういう面倒な事、コマが考えなくて良いんだよ」

「……か、考えなくても良い……ですか?」

「うむす。だってさっきも言った通り、私がコマに対して望んでいるのは凄い記録を作る事とか優勝する事じゃないし……助っ人の件にしたってさ、こう言っちゃ悪いけどそもそも助っ人とはいえコマは正式な部員じゃないんだよ?それなのに陸上部の連中以上に気負う必要がどこにあるのさ」

「……そう、ですよね……」


 なるほど、です……。私……無駄に気負って……『勝てなければ姉さまに嫌われてしまう、失望されてしまう』などと勝手に思い込んで……そんな強迫観念から、自分を変に追い込んでいたのですね。追い込み過ぎて、自分の本来の力が発揮出来なくなる程に。

 冷静になって考えてみれば、私の様子がおかしいからと迷わず新幹線に乗って駆けつけてくれる程お優しい姉さまが……私の事を嫌ったり失望するなんて絶対にあり得ないはずなのに……私ったら……姉さまにしばらく会えなかった寂しさで……ついそんなくだらない不安を……


「あのね、コマ。お姉ちゃんはさ……コマにはどうか自由に走って欲しいって思ってる。だってこの大会はさ、私の為にあるものじゃない。出場する選手の為……コマの為にあるんでしょう?だから……『姉の為』『陸上部の為』じゃなくて、『自分の為に、自分が走りたいから走る』―――その気持ちで走って欲しいな。これが、これだけが私がコマに望むことだよ」

「姉さま……」

「明日決勝に出場するアスリートにこんな事言っちゃいけないだろうけど、お姉ちゃんとして最後に言わせて。例えタイムが振るわなくても、例え上位入賞しなくても構わないの。失敗しても良いの。私はそんな事で怒るわけないし……コマの事を失望なんて絶対にしない。なんなら指切りげんまんしても良いよ」


 まるで子供をあやすお母さんのように、私の頭を撫でながら語り掛けてくれる姉さま。撫でられるの……凄く気持ちいい……優しく撫でられるたびに、一言一言優しく語り掛けてもらうたびに。寂しかった気持ちや抱え込んでいた緊張が姉さまに溶かされてゆきます。

 ……実の双子の姉に、母性を感じてしまうって……もしかしてちょっぴりマズいのでは……?なんて思いつつも、姉さまにされるがままにその身を委ねてしまう私。


「だから……お願いコマ、気負わないで。コマが自分の為に自由に楽しんで走ってくれるなら……どんな結果だろうと私はコマを誇りに思うから。私はそれだけで満足だから」

「……は、い」

「……ごめんねコマ、長々とお説教みたいな話になっちゃって」

「……ぁ……っ、ぁあ……」


 話を終えると今度は私を抱きしめてくれる姉さま。人通りの少ない場所とはいえ外なのに、私……汗もいっぱいかいているのに……何の躊躇もなく私を慈しむように姉さまは抱きしめて背中をポンポンと優しく叩きます。


「大丈夫、大丈夫だからねコマ。コマならきっと、明日は思い通りに走れるはずだから。大丈夫だから……」

「ねえ、さま……」


 ……それは、ずっと欲しかった言葉。姉さまが『大丈夫』と私に言ってくれたその瞬間。ここしばらくの間私の中で燻っていた黒い霧のようなモヤモヤが……どこかへ消え去ってしまいました。


 ああ、ホント……私って……私って何て単純な生き物なのでしょう。姉さまに期待されていると思い込んで行動して、姉さまに嫌われるかもしれないと勝手に落ち込み自分を見失って……そしてその姉さまの手によって、こんなにあっさりと立ち直っちゃって……


「……あ、あの……ねえさま……」

「ん?なになにコマ?」

「…………ごめん、なさい……もうすこし……」

「……?えっと、もう少し……何かな?」

「もうすこし……このまま……抱いてもらってて、良いですか……?」


 今日だけでこんなにも姉さまに醜態を見せてしまったのです。開き直って今だけは、姉さまに思い切り甘える事に。


「えっ!?いいの!?ま、まだコマの事ハグしても良いの!?む、寧ろこっちがお願いしたいくらいなんだけど……ハグしちゃって良いのコマ!?」

「……はい。お願いします……」

「ま、マジか……じゃ、じゃあ遠慮なく。…………ふぉおおおお……!コマ、あったけぇ……それに良い匂いだぁ……」

「……うそ。汗臭いですよ私……ねえさまのほうが、いい匂いです……」

「いやいやいや!これが良いんだよ!前に言わなかったっけ?私ね、汗かいたコマの匂いも―――」


 久しぶりの甘く蕩ける温もりに包まれながら、しばらくの間姉さまと抱き合います。……ごめんなさい姉さま。甘えんぼのダメな妹で……明日はきっと……きっと私らしく頑張れるから……姉さまの言う、魅力的な私を姉さまに魅せられるだろうから……


 だからお願い姉さま。もうちょっと……もうちょっとだけ……このまま充電あまえさせてください……

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