第17話 ダメ姉は、先生を語る
ゆらりゆらりと電車に揺られて30分。私たちの住んでいるところよりちょっぴり都会のある町の一角に、その診療所はある。
「……いつも思うけど、ここってお洒落だよね」
「そうですね姉さま。とても綺麗で通いたくなっちゃう場所ですよね」
「だねぇ。ホントセンス良いなぁ先生。……って、いかん。感心してる場合じゃなかったね。んじゃ時間ギリギリだしそろそろ行こうかコマ」
「あ、はいです姉さま」
パッと見た感じは洒落ているカフェのような印象を抱かせる『小川耳鼻咽喉科クリニック』と書かれた診療所。ここには味覚障害を患っているコマを担当してくれている先生がいらっしゃる。
最愛の妹のコマと二人、この診療所の外観に感心しながらその門をくぐることに。
「こんにちは、本日十時に予約していた立花という者ですが……」
「はい、立花コマさんですね。伺っています。お掛けになってお待ちください」
(どういうわけか突如始まった私の撮影会のせいで)本来の到着予定時刻ギリギリに着いたわけだし、他にも患者さんがいるなら待たなきゃならないかなと少し心配だったけれど……どうやら運が良いことに今日は私たち立花姉妹以外の患者さんは見受けられない。
お陰で受付を終えると数秒もしないうちに『立花さん、診察室へどうぞ』と呼ばれる。
コンコンコン
「―――はーい、どうぞー」
「「失礼します」」
診察室の扉を軽くノックすると、すぐに柔らかな声色の返事が聞こえてくる。その返事に従ってなるべく静かに扉を開けるとそこには……
「マコちゃん、コマちゃん。いらっしゃい」
「「こんにちは、ちゆり先生」」
優しい笑みを浮かべて、コマとはまた別ベクトルでとっても美人な女医さんが私たちを迎え入れてくれる。
彼女の名前は小川ちゆり先生
この先生こそ数少ないコマの特異体質のことを知っている人の一人であり、6年前……そう、コマが味覚障害を発症してしまった時からずっとコマの担当医として私や叔母さんと共にコマを見守りコマのこの特異な体質に向き合ってくれている先生だ。
6年がたった今でもそれは変わらず、一生懸命にコマの味覚障害を治すため尽力なさってくれていて、私が最も尊敬し信頼している大人の一人でもある。……ああ、ちなみに以前はコマが緊急入院・緊急手術をした大学病院に勤めていて、現在は独立してこのお洒落な診療所で働いていらっしゃる。
「ごめんなさい、先生。ちょっと遅れちゃいました?」
「あぅ……すみません。私が調子に乗って撮影会なんか始めちゃうから……」
「ううん、時間ピッタリよ。二人ともちゃーんと時間を守ってくれる良い子よねー♪ささ、そんなところに立っていないで入って頂戴」
ホントは5分くらい遅れているんだけれど、全く気にした様子もなくにこにこと嬉しそうに私たちを歓迎してくれる。
おお……大人な対応だ。身近な大人(=叔母さん)がとことんダメ人間なだけに、ホントに先生は大人だ……!
「ふふっ、二人とも相変わらず可愛いわねー」
「ですよね!コマは日々可愛く美しくなってます。姉として誇らしいですよ!」
「ええ!姉さまはますます可憐さを増しています。妹として誇らしいですよ!」
「……ふふふっ♪それに二人とも相変わらず仲良しさんねー」
おまけに私たちの世間話(というよりこういうノロケ話?)にもウンザリせずに楽しそうに話を聞いてくれる。…ホントに良い人だし大人だなぁ先生。
……これが叔母さんなら『お前ら二人の世界に入るなノロケんな。いいからアタシにも構え』とか絶対言うだろうね。
「先生。叔母さまから、先生によろしく伝えておいてくださいと伝言を預かってきました」
「ああ、そうなんだ。こちらこそって話よね。その宮野さんはお元気かしら?今日はおいでになられない?」
「はい。超元気です。ただ……叔母さんったらサボりまくってたせいで今日も仕事なんですよ。ほーんとあの人には呆れるでしょう先生?」
「まぁ……そうなの。ふふっ♪宮野さんも相変わらずなのね。他に面白い事とか何かあったかな?」
「そうですね。ええっと……先月の話ですけど、叔母さまが花見をやりたいと仰られて―――」
話し上手で聞き上手な先生に色んな話題を振られて、今日は診察がメインのはずなのに楽しくなって旧知の仲のように夢中で話をする私たち。
……本当に先生は凄い。こんな風にいつも診察前にコマの、それと連れ添う私の緊張を解してくれる。お陰でいつも気持ちよく診察を受けることが出来るわけだし流石ベテランの先生だって思うよ。
「そっか。それは楽しそうで良かったわね。……さて。じゃあそろそろ始めちゃいましょうか。はい、コマちゃん。まずは舌見せてもらうわね。あーんして」
「はいです先生」
緊張が解れたところで世間話を程好く切り上げて、診察を始めてくれる先生。一通りの問診をした後は、いつものように検査が始まる。
「じゃあ恒例の濾紙ディスク法検査と電気味覚検査。それから……一応血液検査もやってもらうわ」
「はい。よろしくお願いします」
「こちらこそ。じゃあ沙百合ちゃん、コマちゃんをお願いね」
「わかりました、ちゆり先生。では立花さん。私についてきてくださいね」
コマと、それから最初に受付をしてくれた看護師さんにそのように指示する先生。
濾紙ディスクだの電気だの血液だの……傍から聞いていると何だかよくわからないちょっと怖そうな単語が飛び交うけれど、6年も続ければ慣れてしまっているのかコマは大した動揺も見せずに先生に従って席を立つ。
「コマ。一人で大丈夫?私も付き添ったほうが良いかな?」
「平気ですよ姉さま。いつもの事ですし。姉さまはのんびり寛ぎながら待っていてください」
「そう?ならお言葉に甘えて……先生とお喋りでもしながらのんびり待ってるねー」
検査を受けるためにこの先生の診察室から看護師さんに案内されて別室へと向かうコマ。出来れば私も付いていきたいのだけれど……流石にこの検査にまで私も付いていくと邪魔になってしまう。そんなわけで少しだけ寂しさを感じながらもコマに手を振り見送る私。
コマも私ににこっと笑顔を見せてくれながら(嗚呼、ほんの少しの仕草なのに何て可愛いのコマ……!)『心配しなくても大丈夫ですよ姉さま』と言いたげに安心させるかの如く私と同じように手を振って診察室を後にする。
うちの妹マジ天使。……よし。コマのそんな可愛さを嚙みしめたところで、だ。
「それじゃあ、私たちも始めましょうかマコちゃん」
「ええ。よろしくです先生」
コマがいなくなったところで、先生と共に近況報告を始めることに。
……さて。今更な話ではあるが本来なら定期検診に保護者である叔母さんならともかく、私まで行く必要はないように思われることだろう。実際診察や検査はコマ一人で十分だろうし、私がいても邪魔なだけだし。
じゃあ何で私はコマに付きまとって……もとい、付き添っているのかって?そりゃ私がドが付くほどシスコンでコマといつでもどこでも一緒にいたいから―――という理由も勿論あるんだけれど、ただそれが理由ってわけじゃなくてだね。
ご存知の通りコマの体質と私の存在は切っても切れない関係だ。それ故にコマを治そうとしてくれている先生は、保護者の叔母さんよりもコマの姉の私から色々と話を聞きたいらしくコマ本人には聞きにくいことも私に聞いてくる。
私としてもコマに対してどんな接し方をすればいいのか。どう対応すべきかを先生と相談出来て助かっている。
そんなわけで。6年間こうしてコマが検査を受けている間は、先生と二人で近況報告並びに味覚障害克服のための相談会を行っているというわけだ。
「早速だけど……マコちゃん。単刀直入に聞くわ。コマちゃんとの口づけはどんな感じかしら?」
コマ用の電子カルテを開いてから先生が真剣な表情でそのように質問する。ふむ……コマとの口づけの感想か。
「そうですね。コマとの口づけは……とにかく幸せな気持ちになれますね」
「うんうん……うん?」
人に話すのはちょっぴり恥ずかしいけれど、これもコマの味覚障害を治すためだ。恥ずかしがらず堂々と、包み隠さずに洗いざらい説明するとしよう。
「この世のものとは思えないほど瑞々しくて艶のあるどんな芸術品にも負けないコマの美しい唇。それが私の唇と重なった時、これまたこの世のものとは思えない柔らかさと甘さと心地よさを感じます。さらにその唇の奥にあるコマの愛らしくもすべてを魅了する妖艶な舌と私の舌が交わった時―――」
「ふふっ♪ねえマコちゃん。それじゃあ口づけそのものの感想になっちゃってるわよー」
「……へ?」
私の説明の途中で、先生がくすりと笑いながらストップをかける。ん…?どうしたのだろうか?
「ごめんごめんマコちゃん。コマちゃんとの口づけの持続時間が変わったとか何か違和感があるとか……4これまでと変化がないかなって意味で『コマちゃんとの口づけはどんな感じかしら?』って聞いたつもりだったけど……私の質問が悪かったわね」
「…………あっ」
…………あ、アホか私は……!?普通に考えたら先生の言った意味だろうに…!?
ああ、とんだ赤っ恥。先生が理解ある人で助かった、普通ならドン引きだよ今の発言……
「……すんません間違えました。え、えーっと。持続時間とかの話、ですよね。こほん。……味覚を戻す際の時間は体調にもよりますが変化はなく、大体10分程度費やします。触媒代わりのリンゴジュースを使ったら5分近く短縮できるのも変わりありませんね」
「うんうん。続けて」
「それから……持続時間も変化はありません。ジャスト一時間。一時間経ったらまた味が感じなくなるそうです」
「……それも今まで通りね。他に何か変わった事とか気づいた事とかはあるかしら?」
……他、か。えーっと…何かあったっけ…?
…………ああ、そういえば一つあったな。ふと4月のある日の嫌な出来事を思い出してしまう私。
「…………その。これはこの間の事なんですけど」
「あら。何かあったの?」
「はいっ!それが聞いてくださいよ先生……っ!叔母さんがですね、実験と称してコマの唇を奪いやがったんですよ……っ!」
「宮野さんが?それに…実験?」
いかん、思い出したらまた段々と腹が立ってきたぞ叔母さんめ……!よくも、よくもコマの唇をォ……っ!!!
「そうなんですよ……!私の、それどころかコマの許可もなく何の説明もなく、コマのあの愛しき唇を……勝手に奪いやがってェ……!お、おのれあんのBBA……!絶対許すまじ……!!次にやったら一か月食事無しの刑にしてやるぞこん畜生め…………!!!」
「マコちゃんマコちゃん。また脱線し始めてるわよー。そしてマコちゃんのカワイイお顔がちょっぴり怖い般若のようなお顔になっちゃってるわよー」
怒りで我を忘れそうになりかけた私を、また先生が優しくストップをかける。ああダメだ……またやっちまった……
「……重ね重ねすんません先生。つい熱くなっちゃいました……」
「こっちこそゴメンねマコちゃん。嫌な気持ちにさせちゃって悪いんだけど、その話、詳しく聞かせてもらえるかな?」
「あー、コホン。ええっとですね。この間叔母さんが『マコ以外の奴と口づけしてもコマの味覚が戻るのかもしれない』って言いだしてですね。その実験として叔母さんが無理やりコマの唇を奪ったんです」
「……へぇ。それは中々面白い発想ね。それでその結果は?」
「それが……どうも私とじゃなきゃダメだったみたいで。叔母さんとやっても味覚は戻らなかったようです。いや、一応叔母さんだけしか試していないんですけどね」
それにしてもあれはとんだ期待外れだった…貴重なコマの唇を奪われただけという散々な結果だったわ…
「……なるほどね。やっぱりマコちゃんじゃなきゃ味覚は戻らない……か」
「後は特に思い当たることは無いですね。あ、勿論先生のくれたサプリメントとかはちゃんと服用してますよ」
「そっか…………うん。ありがとうマコちゃん、随分と参考になったわ」
近況報告を終えると私の(無駄で要領を得ない)説明を分かりやすく要約してカルテにまとめる先生。
「それじゃあ今のところ大きな変化は無いというわけね」
「うっ……そう、なりますね……」
「うーん……どうしようかしら。検査結果次第だけど…少しサプリ変えた方が良いかしらね。他には漢方と……それから……」
先生の『大きな変化は無い』という発現に少しだけチクリと胸を痛めてしまう私。
……そう、だよね。長年コマも叔母さんも、一応私も頑張ってコマの味覚障害を治そうとしているけれど……先生にこれだけ尽くしてもらっているんだけれど……コマの味覚障害に変化は無いんだよね。
「…………やっぱり、私のせいですよね……」
「ん?何がかしら?」
「コマの味覚障害、治らないのは…私のせい、ですよね…」
「……急にどうしたのマコちゃん?」
思わず自嘲気味にそんな言葉を漏らしてしまう私。その言葉にカルテを見ながら唸っていた先生は目を丸くして私を見つめる。
「……いつも考えているんです。あの時コマに余計なことをしなきゃよかったって」
「あの時って?」
「……コマの、ファーストキス奪っちゃった時、です」
「……マコちゃん」
これは6年前からずっと蝕んでいる私の後悔。悪気はなかったけれど大した考えも無しに女の子にとって大事な、コマのファーストキスを奪ってしまった私。
しかもその行為のせいで一瞬でも味覚が治ったとコマにぬか喜びさせてしまって……結局ズルズル6年間毎日こんな変態姉と口づけする羽目になって。
「もしかしたら……あの時私が余計なことをしなきゃ今頃はコマの味覚も自然に回復してたかもしれないって……思って」
「……」
……ダメだな私…コマや叔母さんに見られていないと分かった途端に……弱気に……ああ、ホントダメだ、これ以上は下手すりゃ泣きそうに……
「そもそも私があんなことをする前に…先生に科学的で適切な治療をしてもらえれば絶対にコマも治って―――」
「私は、そうは思わないわ」
「……え?」
また前みたいにちょっぴり自己嫌悪の渦に呑まれかかっているところで、先生にポンと頭を撫でられる。……せん、せい……?
「マコちゃん。焦っちゃダメよ。それから……何よりも自分を責めちゃダメ。マコちゃんのせいじゃないわ」
「で、でも……あんなことしなかったらコマは味覚障害も普通に治っていたかもしれないですし……」
「言ったでしょう。私はそうは思わない。あのねマコちゃん。コマちゃんはね、貴女に救われたのよ」
救われた……?それってどういう……
「私でもダメ。貴女たちの叔母さまの宮野さんでもダメだった。コマちゃんはね、マコちゃんのあの口づけに救われたのよ。それだけは間違いないの」
「え、えっと……?」
「自分のせいで悪化したってマコちゃんは思っているみたいだけど……私は逆にこう思っている。もしあの時マコちゃんがコマちゃんに口づけしてあげなかったら、コマちゃんは永遠に味覚を感じることが出来なかったって。前にも言ったわよね?コマちゃんの症状は心因的な理由によるものだって」
「は、はい」
両親に熱を出した自身の存在を忘れられたショック。誰も助けに来てくれなかったショック。そして生死の境を彷徨ったショック―――それらがコマの味覚障害を引き起こしたのだと先生は分析していた。
「そのショックを忘れさせるくらい、マコちゃんのコマちゃんを想った必死の口づけはコマちゃんにとって衝撃的だったの。それほどの衝撃が無かったら…多分、今のように少しの時間だけでも味覚が戻るなんて奇跡は起きなかったハズよ」
「そう……なんですか?」
ま、まあ実の姉に唐突に口移しのキスされるのは確かにインパクトあり過ぎるだろうね。
「そうよ。それがどんな形であってもね、コマちゃんはマコちゃんに救われたのよ。だからマコちゃんはもっと自分に自信をもっていいわ」
「で、ですがコマも先生もいっぱい頑張ってるのにコマに変化がないって……」
「変化がないってことは、悪化もしていないってこと。それだけ安定しているってことなのよ。焦ったり心配する気持ちもわかるけれど、そう悲観的に思う必要もないわ」
私を安心させるように、優しい笑みを浮かべてくれる先生。そう……か。そうなんだ……
「今のマコちゃんの頑張りは、きっとコマちゃんを救う。貴女の頑張りが絶対にコマちゃんを治す。だから、焦らず根気よくいきましょうマコちゃん。味覚障害は一朝一夕で治るほど甘くないわ。私も頑張る。コマちゃんも頑張る。そして……マコちゃんも頑張りましょうね」
「……は、い……はいっ!」
「うん。良い返事。マコちゃんは頑張り屋さんねー」
……本当に、この先生は良い先生だといつも思う。コマの治療も……それから、私たちの心のケアも叔母さんとはまた違った形でやってくれている。
この先生だからこそ、私もコマも叔母さんも、これまで信じて付いてこれたのだから。
「さーてと。湿っぽい話はこの辺にしましょうか。私たちは私たちの出来ることを頑張りましょうねー」
「はいっ!」
……そう、だね。先生の言う通りだ。うじうじ悩んでたって仕方ない。今私がコマにできることを一生懸命やるだけだ。
…………ありがとうございます、ちゆり先生。そして……がんばれ私。
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