第2話  第一回会議

 週明けの朝キャサリン(紗希)は、始業時間の約十五分前に『オフィス ドッグス』へと入った。初日なのであまり早すぎるのも、また遅すぎるのも気が引けて、微妙な頃合いを考えた末の結果である。

 面接の時はさすがに一着しかない黒のリクルートスーツだったが、同じ服を着てくるのはなんだか恥ずかしくもあり、それにあの修行僧のような辛抱はもう懲り懲りだとの思いもあった。

 そこで今日は春らしい明るいベージュの、しかもスカートはタイトではなくタックのついた余裕のあるスーツを着用してきている。因みにスーツはこの二着しか持っていない。

 まあ面接でもなければあの窮屈になったリクルートスーツは、ダイエットができるまで日の目を見ることはないだろう。

 初日だからスーツに拘ったが、次からはもっとカジュアルにしようと思っている。なんせ雇い主のトム自体がカジュアルなのだから。しかもカジュアルなはずなのに、見た目にはあまりお洒落とは言い難い。

 キャサリンが事務所の中に入ると、鍵は開いていたのにまだ誰もいないようだった。

 入口から少し奥へ行くと、何やら応接セットのソファーの上に毛布のような物があって、不自然に盛り上がっている。

「トムさん……お早うございます……いますか?」

 こわごわと近づきながら、そう声をかけてみるが返事がない。

 キャサリンが薄気味悪く思い、暫らく腰が引けた状態で固まったまま様子を見ていると、やがてその毛布がもこもこと蠢き始めた。そして毛布が捲れると、中から眠そうなトムの顔が現れた。

「あっ、トムさん。お早うございます。家には帰らなかったのですか?」

「何を言っているんだ、キャサリン。ここが私の家兼事務所なんだよ。ちょっと寝心地は悪いけどね」

「えっ、トムさん、ここで寝泊まりしているのですか? 信じられない。ベッドもお風呂も無いじゃないですか」

「そんなものは、何とでもなるものだよ。それよりよく来たね、キャサリン。私はてっきり、ばっくれてしまったのではないかと心配していたのだよ」

「どうしてですか? 先週、来ますって約束したじゃないですか」

「それはそうなんだけど……今までその通りに来てくれたことがないのでね」

「それじゃあ、今までみんな逃げられちゃったのですか?」

「お恥ずかしい話、そんな感じかな」

「えっ、じゃあ『001』とか言っているけど、過去に『001』候補は何人もいたっていうことですか?」

「そういうことになるかも知れないけれど、君ほど『001』に適した人が居ないことだけは確かだよ」

 キャサリンは自分だけが選ばれたのだと思っていたのが、実は幻想に過ぎないことに気付いた瞬間だった。そしてここに来てしまったこと自体、何かの間違いのような気さえしてきている。

「ところで君の席だが、空いている机の好きな方を選んでくれ」

 そう言ってトムはソファーから立ち上がると、それまで被っていた毛布を丁寧に折り畳み始めた。意外と几帳面な性格なのかも知れない。

 空いているとは言いながら、それぞれの机の二割程度はトムの新聞や雑誌が侵略してきていた。几帳面なのかだらしないのか。キャサリンは判別できないまま、取敢えず右側の机を選んで席に着いた。

 別に右でも左でも良かったのだけれど、右の方が若干侵略度合いが少なく感じられたからだ。実際問題としてはどちらでもあまり大差は無いないのだが。最終的には見た目と直感で選択したのだ。とにもかくにも出勤初日である。どっちが広いか狭いかなどという贅沢は言っていられない。

 席に着いたキャサリンは、トムが進出してきている新聞や雑誌を相手側に押しやって、自分のスペースを確保した。そうすることで、若干低下し始めた初仕事へのモチベーションを保とうとしたのである。

 頑張って仕事をしなければと意気込んでいたキャサリンだが、さて仕事となると何をして良いのか分からない。そこで、トムに訊くことにした。

「トムさん。お仕事なのですが、何から始めれば良いですか?」

 応接セットのソファーに座ってタバコを燻らせていたトムは、少し煙そうに顔をしかめながら思案する。

「そうだなあ……まず、トムズキャットの記念すべき第一回会議をしたいので、会議室の準備からお願いしようか」

「えっ、会議室? どこに会議室があるのですか?」

「そこにある三つの机の上を、会議がしやすいように少し片づけてくれればOKさ」

「えっ、じゃあ、この事務所自体が会議室なのですか?」

「違う、違う。わかってないなあ。会議をする時はそこの三つの机が会議室となって、来客があるときはこの応接セット一式が応接室となるのだよ。又昼休みになれば、この部屋全体が休憩室。どうだ、便利な事務所だろう」

 このでたらめ且つ安易な説明に、キャサリンは今一納得できないものの反論することもできずにいた。

 そして何か沸沸としたものを心の中に湧きあがらせながら、不承不承トムの主張する『会議室』の準備に取りかかることにする。



「それでは諸君。トムズキャットの第一回会議を始めることにする」

 準備が整い二人がそれぞれの席に着くと、トムはキャサリンに向かって高らかにそう宣言をした。

「トムさん。『諸君』って、私一人しか居ないんですけど。一人しか居ないのに『諸君』っておかしくないですか?」

 トムの言うことにキャサリンは、何故か一々引っかかってしまう。そして釈然としない気持ちのまま、ささやかな反抗を試みる。

「そう細かいことは気にせず、記念すべき第一回会議を始めようじゃないか」

 キャサリンが勇気を振り絞って行なったささやかな抗議は、トムには全く通じず右から左へと軽く受け流されてしまった。

「まず私トムについて、取り敢えず最初に自己紹介をしておこう」

 この勿体ぶった言い方にも、何か釈然としないキャサリンだった。そして湧きあがる不満を更に募らせている。

「国籍不詳、年齢不詳、本名不詳、出身地不詳、性別不詳……」

「えっ、性別不詳? トムさんて、おかまさんですか?」

募らせていた不満は、ついストレートな表現となって表れてしまった。

「ちがうわい。それだけミステリアスという意味だい」

 キャサリンの鋭い突っ込みにトムは瞬時に反応し、むきになって否定する。

「そんなこと言っても不詳ばっかりで、全然自己紹介になっていないじゃないですか」

「それは……ミステリアスな雰囲気さえ伝わればいいんだよ」

「宇宙人じゃあるまいし。なんかいい加減ですね」

 キャサリンは、テレビコマーシャルで見た宇宙人を思い浮かべていた。性別不詳を含め全てが不詳となると、それ位しか思いつかなかったのである。

「まあ細かいことは置いておくとして、会議を続けようじゃないか」

 結局トムの自己紹介については、有耶無耶にされてしまった。

 このようにトムとキャサリンの会話は、最初から全然噛み合っていないのである。

「次にトムズキャットの活動について説明しよう」

 噛み合わない会話の中、キャサリンから更なる突っ込みが入るのを恐れたのか、トムはさっさと会議を進行させてしまう。

「トムズキャットの最終目的は先日話したとおり、国家や人種・民族、それに宗教やイデオロギー、性別や年齢などに関係なく『世界平和の精神』を広く世界にPRすることにある。それはそれとしてトムズキャットが存続するためには、別途活動資金を稼ぐ必要がある。ここまでで何か質問は?」

 淡々としたトムの解説は、沙希には何故か詐欺師の能書きのように感じられた。いかにもというような説明だった。それほど胡散臭く思ったのである。

「トムさん。そのう……最終目的の『世界平和のPR活動』とか、『活動資金を稼ぐ』とかって言われても、具体的にどういうことなのか良く分からないのですが」

 沙希は湧きあがる不信感を抑えながら、神妙な面持ちで素直な質問を発した。

「そうか、分った。もう少し詳しく説明をしよう」

 トムは余裕の表情である。キャサリンの、その素直な質問を待ち構えていたようだ。

「まずトムズキャットというのは、私トムが創設した秘密結社であるということと、その最終目的が『世界平和の実現』であり、そのためのPR活動であることは、この前説明したよね。それに賛同していただける企業から世界平和のPRと、企業PRを兼ねたオファーをいただき活動しようという訳だ」

「それって具体的には、どんな活動があるのですか?」

「例えば、企業CMやテレビやラジオや各種イベントでの活動などが考えられる。しかしそのオファーがいつどれだけくるのかは不明で、資金面では何の保障もあるわけでは無い。トムズキャット存続のためには、活動資金を別途安定的に稼ぐ必要がある。資金は稼がなければならないが、それが最終目的に反するものであってはならない。そういう趣旨に沿って、ではどうやって活動資金を稼ぐかをこの会議で議論をしようということだ。ここまでの話は理解できるよね」

「はい…………何となく……」

 キャサリンはついそう答えたものの、何か煙に巻かれてしまったような気もしている。

「次に、秘密結社であるトムズキャット及びそのメンバーについて、その正体はある程度秘密にしておかなければならない。そのために本名は一切使用せず、コードネームとコードナンバーを使用することとする。いいかね、キャサリン」

「はい、トムさん」

 気がつくとキャサリンは、条件反射のように返事をしていた。まるでマインドコントロールをされているかのように。トムズキャットというトムの誇大妄想気味の空想世界へ、いつの間にか引き込まれてしまっていたのである。

 トムは、そんなキャサリンを見て満足そうに頷いた。そして余裕の微笑みを浮かべながら、次の説明を続ける。

「トムズキャットは秘密結社という性格上、その正体をできるだけ見破られないようにカモフラージュする必要がある。そこでトムズキャットとは別の、表の顔を持とうと思う。そして、その表の顔でトムズキャットの活動資金を稼ぎたいというのが、今回の会議の主題なんだよ」

「トムさん。その表の顔って、具体的にはどういうことですか?」

 またまたキャサリンの素直な疑問。表の顔だけなら良いのだけれど、表があるということは必ず裏もあるはず。裏の顔となると何だか怪しく思ったのだ。

「良い質問だ。キャサリン。今その説明をしょうと思っていたところだ」

 トムはキャサリンの溢れる疑念を気にするふうもなく、そう言って話を進める。

「まず本来の『世界平和精神のPR活動』については先程話したとおり、この考え方に賛同いただいた企業や団体、個人からのオファーを受けてそれに基づく活動をしていくわけだが、それはいつどれだけあって、又その収益がどれぐらいになるのかは不確定でありとても当てにできるものではないのが実情だ。私たちの活動資金は、別途安定的なもので稼いでおく必要がある」

 トムはそこまで一気に話した後、キャサリンの理解が追いつくのを待つかのように少し間をおいてから続けた。

「そこで『表の顔を持つ』ということと『安定的に活動資金を稼ぐ』という両方を解決するために、会社を興そうと思う。その会社で表の顔を持ちながら、私達の活動資金を稼ごうということだ」

「あのう……『オフィス ドッグス』って、会社じゃなかったのですか?」

「さすが001。いいところに気がついたね。実は、この事務所の前の借主である探偵事務所が、表札もそのままに夜逃げをしたままなんだ。そこを居抜きで借りて表札も『オフィス ドッグス』をそのまま使っているけど、会社としては存在していないんだよ」

「えっ、私『オフィス ドッグス』に就職したのだと思っていました」

「残念ながらまだ会社としては存在していないんだ、キャサリン。だからこれから会社を設立するんだよ」

『オフィス ドッグス』が、今は存在しない探偵事務所の名称だと知って、キャサリンは愕然とするとともに、いったい私はどこに入社したのだという訳の分からないこの事態にさいなまれるのだった。

 そして、トムの説明がことごとく自分の思っていたことから外れて裏切っていくのを半分あきれながらも、その裏切られ方が半端ではないことに逆に快感を覚えるようにさえなってきていた。

『私ってちょっとMかな』

 そんなことを心の中で呟いていると、トムが更に突飛なことを言い出した。

「そこでキャサリン。トムズキャットとしての初指令だ。活動資金を稼げて、表の顔ともなるべき新会社設立というミッション(重要な任務)を君に与える。頑張ってくれたまえ」

「えっ、私一人で……ですか?」

「そう。001キャサリンとしての初ミッションだ」

「無理です。無理、無理。会社の設立の仕方なんか私知りません」

 想定外の裏切られ方にキャサリンは、またも身体をのけ反らす。

「大丈夫。インターネットで検索すれば、会社の設立方法は幾らでもでてくるから」

「でも、資本金とかどうするのですか? 私お金無いし、トムさんも無さそうだし」

「大丈夫。今は資本金一円からでも株式会社が作れる時代になっているのだよ。もちろんそれ以外に手続きの費用が必要になるけれど、それぐらいは私の方で何とか工面できるから」

「でも……インターネットとかもあまり得意じゃないし、会社設立の知識も持っていないし、私一人でなんて絶対無理です」

 キャサリンは目に涙をいっぱいに浮かべながら必死になって拒絶した。普段は優柔不断な事もあるキャサリンだが意外と頑固な一面を見せ、ここだけは絶対譲るまいと心に誓っているのである。

 キャサリンのあまりにも必死な抵抗がトムに一歩譲る提案をさせた。どうやら涙に弱い性格のようだ。

「一人では無理ということなら二人だったらできるということだよね。よし、それなら二人目となる新メンバーを募集しようじゃないか」

「えっ、二人目のメンバーですか? やっぱり『ハローワーク』でですか?」

「もちろん民間という手もあるが、ここは大事を取ってやはり国家機関を使って選抜するのがいいだろう」

「でも、それって結局、募集の費用がかからないっていう理由だけじゃないでしょうね」

 キャサリンはトムに鋭く突っ込みを入れる。しかし、鋭い突っ込みは返されることなく放置プレイにされてしまった。結局、今回もハローワーク神戸で求人募集をすることになってしまう。

「キャサリン。初指令のことだが、会社設立の件は一旦置いといて取り敢えず変更することにしたよ」

「変更って? 何か他の指令があるのですか?」

「そう。今回の募集に対して、『002』となるべき新メンバーを、君が募集も面接もして選ぶんだ。それがトムズキャットとしての初指令だ」

「えっ、私が面接して選ぶのですか? 私自身、先週末トムさんの面接で、入ったばっかりじゃないですか」

「いつ入ったかの問題ではないよ、キャサリン。今回の『002』は、君自身の相棒を選ぶことになるのだから」

「でも、トムさん。あんないい加減な求人で募集して、本当に応募があると思っているのですか?」

「何を言っているんだ、キャサリン。現に君はその求人に応募して『001』としてここに居るじゃないか」

「トムさん。私は特別ですよ。就職が決まらずに落ち込んで弱っていたので、つい魔が差しただけです」

 キャサリンは『001』としてここに居ること自体、未だに何かの間違いと思っているのである。

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