トムズキャットストーリー
大木 奈夢
第1話 001
『何でこのビル、エレベーターが無いのよ』
紗希はやり場のない怒りを心の中で吐き捨てる。そして喘ぎながら一人階段を上っていった。雑居ビルの狭くて急な階段である。
エレベーターが無ければ階段を使うしかない。しかしここに来るまでは目的の場所が、まさかエレベーターもないようなおんぼろビルの、しかも最上階だとは思いもしなかったのだ。
それは一階で散々探し回った揚句に、ようやく見極めることのできた現実だった。
初春ながら桜の開花には少し間があって、まだ肌寒い季節のはずである。それにも関わらず紗希の額には、薄っすらと汗が浮かんでいた。
ナチュラルなショートボブで一見涼しげに見えるはずなのに、その汗のため髪の毛が額や頬に張り付いて鬱陶しくてならない。
沙希は階段途中の踊り場で一息つくと、張り付く髪の毛を手の甲で疎ましそうに払いのけながら小さく折り畳んだ白くて可愛いレースのハンカチを使い、押さえるようにして汗を拭った。これから望む場面では、化粧崩れを気にする必要があったのだ。
久しぶりに着たリクルートスーツも少し窮屈になっていて、階段で悪戦苦闘する紗希を更に苦しめている。
額や頬に貼りつく髪の毛にも、一昨年仕立てたスーツが窮屈になっている理由にも、今日ここに来ることを決めてしまった自分にも、持って行き場のない憤りを覚え忌々しくなった。
「ふう~」
やっとの思いで目的の四階に辿り着く。
狭くて薄暗い廊下には何も置かれておらず、生活感が全くない。小さな窓から差し込む薄陽が、漂う空気のほこりっぽさを際立たせている。そのせいなのか、まるで廃墟のように感じられた。
得体の知れない不安に苛まれながらも乱れた息を整えつつ、沙希はその階に二つの会社が入居しているのを確認する。苦労の末にようやく辿り着いた四階の、二つの扉に表記された会社名を見ることで。
その中の一つが目的の場所だった。
目的の会社は見つけたものの『オフィス ドッグス』と表記された扉の前まできて、沙希は入るのを躊躇してしまった。
狭くて薄暗い廃墟のような廊下で一人佇みながら『本当にここでいいの?』と自問自答する。しかしその答えを見つけられないまま、茫然として立ち尽くしていた。
昨日行ったハローワーク神戸の紹介状と履歴書を持ってきている。
片岡紗希。憧れていた神戸の街へ五年前に田舎から出てきて、山の手にある少しは名の知れた女子大に入った。学生生活を大好きな街でエンジョイしながら、昨年卒業と同時にそのまま神戸の小さな会社に入社した。もちろん一人住まいである。
それなのに、一年も経たずに会社が倒産するなんて――それは昨年末出勤した時に、会社の入口にあった張り紙で初めて知ったのだ。その時のショックを紗希は今でも忘れられない。
会社がそんなことになっているとは露知らず、毎日のほほんと仕事をしていた自身の迂闊さにも腹が立った。
今から考えれば会社に変な電話が掛かってきたり、社長の朝礼での訓示が支離滅裂であったりなど、その兆候は確かにあったのだ。
それに気付かないのでは後の祭りとしか言いようがない。但し、もし気付いていたとしてもそれでいったい何ができたのかと問われれば、どうにも答えようのないことではあるのだけれど。
そんな思いと状況を抱えて再就職活動を始めて三カ月。両手の指では足りない程の求人にも応募してきた。中には採用寸前までいきながら、何がいけなかったのか分からないままに不採用となってしまった会社もある。
結局、本人の努力の甲斐もなく、未だに決めることができずにいた。景気が悪いせいといってしまえばそれまでなのだが。
不採用となる度に沙希は、自身の全人格を否定されたような気がして何とも言えないやるせない気持ちになってしまった。努力をしても報われない事がこれほど辛い事なのかと。まるで精神を病んでしまったかのようなうつ状態になったこともある。
そんな中、少し――いや大いに焦りを感じながら、昨日ハローワーク神戸で『オフィス ドッグス』の求人票を見つけて、何故か興味を持ってしまった。
いったい何をする会社なのか仕事の内容も良く分からないけれど、何か面白そうと思って紹介状を出してもらったのだ。
職種・・・・・・指令された全ての職種。
仕事の内容・・・指令された全ての仕事。
とにかく何でもやってやろうという意欲のある方を募集。
『本当にこんないい加減な会社でいいの?』
入口まで来てから急に不安になってきたのである。
紗希はどうしようかと迷ったまま、暫らく一人で佇んでいた。しかし迷っていても何も始まらない。結局入口の扉をこわごわとノックする。
「失礼します」
「どうぞ。開いていますから」
ややトーンの低い男の声で、即座に応答があった。それさえも紗希にとっては不安を掻き立てる材料となっていた。
「ハローワークの紹介で来ました。よろしくお願いします」
心折れそうになりながらも気持ちを奮い立たせ恐る恐る中に入ると、そう言って頭を下げる。
中はあまり広くはなく、応接セットと事務机が三つ。他にはコピー機やパソコンや電話機といった、会社の事務所として最低限必要なものしか目につかない。
その男は一番奥の机に座っていた。細くもなく太くもない、ややガッチリとした体形だった。短髪で額が広く、丸縁眼鏡をかけている。
眼鏡のせいなのか表情が表に現れず、その男が笑っているのか怒っているのか、優しいのか怖いのかを紗希には判別することができなかった。
多分どちらでもないのだろうが、それすらも不安の材料となっていた。面接で、しかも初対面であからさまにそんな表情をするはずのないことは、改めて言うまでもなく分っているはずなのに。
服装は会社員というよりは、自由業の特徴のようにカジュアルだった。けっしてセンスが良いという意味ではないのだが。
地味なツイードのジャケットをノーネクタイでラフに着こなしている。正確な年齢は分からないが中年男性と思われた。机にはスポーツ新聞が広げられている。
「どうぞ。そちらにお掛け下さい」
応接セットの方を右手で指し示しながら男も立ち上がり、紗希の向かい側のソファーへと移動した。身長は男性としては普通で、一七〇センチそこそこと見受けられる。
「あのう……履歴書とハローワークの紹介状です」
緊張のため、声のかすれているのが自分でも分った。心なしか唇も震えている。何度経験しても面接というのは緊張するものである。
沙希は指示されたソファーの片隅に遠慮がちに浅く腰掛けながら、バッグから必要書類の入った封筒を取り出して、恐る恐るその男へと差し出した。
男はその封筒を受け取ると中の履歴書を取りだして、無表情のまま黙読をする。その時部屋には暫しの沈黙が流れた。求職者にとって一番辛い瞬間だった。
『ごくり』
紗希の唾を飲み込む音が、その場に妙に響いたような気がする。
それはあまりにも突然だった。
「採用だ。おめでとうキャサリン。君は難関のトムズキャットのメンバーに選ばれたんだよ」
それまで際立った感情を表に出すことのなかったその男は、急に頬をほころばせながらそう言った。今までの読めない表情ではなく、どちらかと言えば人懐っこい愛嬌のある笑顔と言える。
「えっ、えっ、キャサリンって? トムズキャットって?」
紗希には何がどうなっているのか全く分からなかった。分らないまま湧きあがる疑念と警戒心から、無意識で身体を後ろに引いている。
「今日から君はトムズキャットのメンバーで、コードネームはキャサリンだ。私のことはトムと呼んでくれ」
トムと名乗ったその男は、沙希の反応を予想していたかのように落ち着いた態度を維持しながらそう説明した。
「あのう……トムさんですか? そのう……トムズキャットって何ですか?」
面接で極度に緊張していた沙希は、初めは必要最低限のこと以外はできるだけ話すまいと心に決めていた。余計な事を言って裏目にでてしまうことを恐れていたからだ。しかしあまりにも唐突で奇怪なトムの話に、そう質問せずにはいられなかったのである。
「ふふふ……話せば少し長くなるがいいかな?」
トムは何か意味ありげに微笑んでそう言った。
「えっ? あっ、はい」
取敢えずそう答えたもののトムが何を言いたいのか分らず、沙希に取っては不安以外の何物でもなかった。
そんな沙希の様子に頓着することもなく、トムは説明を続ける。
「トムズキャットとは私トムが創設した秘密結社のことで、そのメンバーに君は選ばれたんだよ」
「あのう……選ばれたって? 私、ハローワークの紹介で来たのですけど」
トムの言っている意味が分らず、沙希は腰が引けたまま確認する。
「何を言っている。ハローワークは立派な国家機関だよ。そのすばらしい国家機関の紹介で、君はうちに来たんだよ」
「でも……秘密結社って?」
「そう。秘密結社だから本名ではなく、コードネームを使うのさ。秘密結社で有名なところでは、フリーメイソンがあるが知っているかな。まあ、そのようなものと思ってくれていいよ」
「でも、いったい何をするのですか? 私、お仕事を探しに来たのですけど」
「求人票に書いていなかったかな? 『指令された全ての仕事』って。この秘密結社の最終目的は『世界平和の実現』にある。そのためには『世界平和の精神』を世界に広くPRしていかなければならない。PRをするにあたっては、その精神に反しない限りあらゆるオファーを受けてミッションをクリアしていくことになるのだが、どんなオファーがくるのかわらないから『指令された全ての仕事』ということなんだよ」
「世界平和って? 何か、話が大きく逸れて飛躍しすぎていないですか?」
「それでいいのだよ。夢や希望は、大きければ大きい程いいからね」
「……」
あまりにも現実離れした話に、沙希は声を失ってしまった。
沙希が沈黙したのを良いことに、トムは続けて持論を展開する。
「世界平和というのは、国家や人種・民族、それに宗教やイデオロギーなどの違いによる利害関係で、簡単に破綻するものなんだよ」
トムの言うように世界のどこかでは、そういった利害関係の違いによる対立や争いがあるのかも知れない。しかし、沙希には身近なものとしての実感が全くと言っていいほど湧かなかった。
そんな沙希の思いを斟酌する素振りもなく、トムは更にくわしく熱弁をする。
「現在の世界情勢を見れば理解できると思うが、イスラム過激派によるイスラム国問題、イスラエルとパレスチナ及び隣国であるアラブ諸国との対立、イスラム教とキリスト教の対立、アメリカに代表される白人と黒人の対立、北朝鮮の核開発を含む非人道的国家問題、中国と東南アジア諸国における領土問題、日本対中国及び韓国の歴史認識問題、ドル対ユーロ対円対元等の通貨為替変動を含む経済的対立問題等々、数え上げれば切りが無い程今の世界には、平和を破綻させる要素が溢れているんだ」
沙希もテレビや新聞などで、そのようなニュースを見たり聞いたりしたことは確かにあった。しかしどこか遠いところの出来事のように思えて、それはそれでどうしようもないことと思っている。
ハローワークの求人内容からはあまりにもかけ離れた展開に、沙希はついて行くことができずにいた。
「これらの問題は、やはり国家、人種、民族、宗教、イデオロギー、更には性別、年齢をも超越して考えていくことが必要なんじゃないだろうか? だから、それら全てにおいて超越するような民間の組織が中心となって、何よりも平和が大切な事を世の中に訴えていくことで、人々からの共感が得られるんじゃないかと思うんだ。それがトムズキャットということさ」
トムは得々として、そんな夢のような平和論を述べていた。しかしそれを聞いて紗希は、もっと根本的な疑問をもってしまった。
「でも、どうしてわざわざ訴えなきゃならないのですか? 『世界平和』なら、誰でも願っていると思うのですけど」
道行く人に『あなたは世界平和を願っていますか?』と問えば、だれでも『願っています』と答えるだろうと紗希は思っている。極端に言えば今現在、銃を持って戦争の真っただ中にいる兵士に訊いてでさえも。
「そのとおりだよ。でも現実は『世界平和』とは程遠い状況だろう?」
トムは紗希の反論にも、全く動じる様子を見せなかった。いやむしろそれを予測していたかのように、微笑みを浮かべながら自信満々で持論を続ける。
「それは何故か。世界平和を願う気持ちの大きさよりも、国家や民族・人種、それに宗教やイデオロギーのことを思う気持ちの方が大きいからさ」
自分の言葉に酔ったのか、トムは国会議員のような演説をし始めた。
「国家が一番大事と考える人にはそれよりも平和が疎かになってしまい、民族、人種、宗教、イデオロギーが一番なら平和はその次になってしまう。それらのことが、平和の前提をなくしては成り立たないと言うことに気付かないままに。口では平和を願っていると言いながら、これが今の世界の現状なんじゃないだろうか」
沙希はトムの極論に何故か納得してしまった。何が大切なのかは人それぞれと言いながら、それらが平和以上の存在ではないということに気付いたのだ。
沙希が黙ったまま神妙に聞いている事で、さらに調子に乗ってしまったトムの演説はまだまだ終わらない。
「自分の所属する国家が一番大事とするならば他の国家を敵に回すことになり、自分の信ずる宗教が何よりも大切とするならば、他の宗教を信じる人達を敵とすることになる。それでは世界が平和になるはずはないんだ」
世の中の情勢を見る限り現実はトムの言うとおりなのかも知れないと、沙希も今は思い始めている。但しそれは漠然とした感覚でしかなかった。平和ボケになっている日本人の代表のような沙希には、それらを切実な実感として捉える事ができないのである。
「中でも宗教に関しては、もともと個人、家族、友人、知人、地域、団体、民族、人種、国家を含む、世界の平安や安穏・安息を目指すことを目的としておきながら、それらをないがしろにして宗教そのものを一番として争うのは、ましてテロや戦争まで引き起こすのは本末転倒なんじゃないだろうか?」
紗希も何となくではあるけれど、トムの言うとおりだと思った。全ては世界平和があってこそ実現できるということに思い至ったのである。
「万人が少しだけ持っている『世界平和への願い』をそれ以外の思いより、たとえ少しでも大きくしてやることができれば、今よりもずっと平和に近づけられると思うんだ。そういう活動を目指しているんだよ」
現実感がやや乏しいながらトムの主張する平和論は、確かに正論だと紗希も思わないではない。但し机上の空論という気がしないでもないのだが……。
紗希がひとまず納得して沈黙していると、トムが思い出したように付け加えた。
「そうだ。コードネームの他に、コードナンバーもあるのだが、君は『001』だ。キャサリン」
「えっ、『001』? それって、私一人だけと言うことですか?」
「ご明察。キャサリンは、なかなか鋭い感をしているね。さすが『001』だけのことはある」
「それって私、誉められているのですか?」
「そうだよ。君のようにすばらしく頭も感も良いメンバーができて、私も嬉しいよ」
紗希(キャサリン)は何が何だか分からないうちに、でも誉められてちょっぴり嬉しくもあり、来週から出勤することを約束してしまったのである。
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