第40話「アナタ・カナタ・ソナタの物語」

「はじめ……なんて美しい名前なのかしら……。創めの子供を光る子が作る事は絶対に運命に相違ないわ、さあ子を作りましょう。生理なんてもう直ぐ近くに在るのだから!

このエデンの園で! 禁断の果実を食べずに! 誰も悲しまない世界を作るのよ!」

 ……とヒカルコがいう少し前から、俺の苦悩は始まった。

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 俺はばかだ、この上ない不届き者だ。軽率にも程があったのだ、狂人に想いを寄せるなどかなり浮ついた行為が自分の首を絞める事になると思わなかった俺はばかだった。


 そんなばかな俺はぬいぐるみに成って綿が解れるほど抱きしめられ身動きもとれずにただただ自分を責め、責め抜くと次は祈り、祈り抜くと懐旧に浸るしかないのである。



 アヌさんの作ったアナタ・カナタ・ソナタの物語は、思い出せば切ないものだった。



「男であるアナタは女であるカナタとソナタに恋をした。カナタは寂しい女だったが、アナタはカナタの弱音をしっかりと聴き、それについての打開策を出しても、カナタは実行さえせずに自分の非力さに泣くのである。一方、ソナタは賢い女で、何事も達者にこなす姿にアナタは憧れさえ抱くものである。アナタはソナタに倣ってゆくとカナタは置いてけぼりになって弱り、カナタとやり取りをしてゆくとアナタは弱るのであった。

 アナタは弱るカナタに賢いソナタを紹介して一緒にお茶をしてみる。カナタの表情は一層険しくなってアナタはご機嫌を窺いながらソナタに攻撃めいた発言をしてしまう。

 ソナタは賢いので発言を理解し過ぎてしまって、段々とソナタの表情も険しくなる。

バツが悪くなったアナタはどうして良いか判らなくなって泣いてしまうと二人は同様になって慰めるのだった。『私が悪いの。いや私が悪いの。違う、全部ぼくが悪いんだ』

 カナタを負とするとソナタは正だ。その狭間で繋がろうとしたアナタが責任の全部を背負い込むならば、正負の壁に押し潰されて死んでしまう。逃げ出しても正負の壁からもう逃れられない、何故なら今のアナタには自分が無いからだ。そこでアナタはポンと手を叩いた。ぼくは道化師になろう、正負の間で苦しまず、笑いながら潰されるんだ。それならぼくにも出来る。そうすればみんな笑っていられる。今までのアナタは二人に見返りを求めていたから苦しかったのだ。アナタはわざと自分を押し殺し、裸になって腹踊りをすると、二人は笑って無礼講、笑顔でお腹に落書きを足してゆくのだった。」



 幼い頃に魅せられた創作紙芝居、俺は悲しみの平行線を自らが道化になって打開したアナタに強い憧れを持ったのを憶えている。アヌさんは思春期になる俺たちを想ってと将来の為に作ったのだろうが、いつからだろうか……俺が道化の心を忘れたのは……。 



 すっかり俺は弱ってしまって、カナタもソナタも居るのが当たり前に思ってしまって

……どこへも行くまいと思ってしまって……。茶や酒の席でも楽しめなくなったのは、ヘルが金の味を知り、ノゾミから親の行方が判った等と思い出させる様な事をいわれて

……という風に他人の所為にするようになってからだろう……捻くれ者になったのは。



 今思うと捻くれ者と狂人は似ているかもしれない。だからヒカルコのいう事を聴いて目からウロコが落ち、面白いと思い同調し共振し共鳴して……。ヒカルコは俺の脳髄の周波数を見つけ出し、この見た事の無いラジヲを使って同一周波数の電波を発射して、俺をハイジャックした。それ程の頭脳を持って居ながら、泣き叫んで人を寄せ付けず、突飛な事をいいながら俺をぎゅうっと抱きしめて離さず、自分を慰めてばかりなのだ。



 ヒカルコは恐らく、この世界の性質と相性が合わないのだと思う。なんでもハジメとやらの人以外、こいつはオカシイと話のひとつも聞いてすらくれなくて、この真っ白な部屋に閉じ込められ、ヒステリーの原因である時折入ってくる真っ白い人や親ですら、ヒカルコの声がまるで耳に入っていない様な扱いをされていたら、そりゃあこうなる。


 一体、何がそうさせているのか? ヒカルコの喋り方は攻撃的な上に感情的で、俺も最初は面食らったが良く聴けば幼いながらもちゃんとしっかりした事いうじゃないか。


 カナタやソナタのような両極的存在でもない、アナタのような中立的存在でもない、ただ人間味が強すぎた所為で幼くもやつれさせたこの国はどうやら我を頑固一徹に通すみたいな、職人気質の様な人は嫌われ、右に倣え郷に従えといった閉鎖的な国らしい。



 唯一ヒカルコの存在を肯定してくれたハジメという人は彼女を愛しすぎて刑に処され死に、供養の為に静かなあの今や懐かしい二人ぼっち世界を作った。今でこそあそこは神の胎内だったと気炎を吐いているが、実際の所、俺はその邪魔をしてしまったのだ。 


 ヒカルコもあのまま二人ぼっち世界に居続けて、ハジメと一緒に介抱し合いながら、疑似なものではあるが共にひっそりと死ねたなら、現在の様な辛い世界で、生きる事を頑張らなくても良かったのに俺はヒカルコを勝手で無慈悲な延命をしてしまったのだ。



「ハジメ……なんて美しい名前なのかしら……。ハジメの子供を光る子が作る事は絶対

運命に相違ないわ、さあ子を作りましょう。生理なんてもう直ぐ近くに在るのだから!

このエデンの園で! 禁断の果実を食べずに! 誰も悲しまない世界を作るのよ!」



 そんな身体で生理なんて来る筈ないじゃないか……何度やったって同じだぞ……。とはち切れんばかりに抱き締められている俺に今できる事はヒカルコの遣り切れない心、情念を理解してやる事だ。自分の仕事を忘れてはならない。ラジヲよ、こんなに悲しい少女の魂をしっかりと記録しておくれよ。これは物凄く悲しさに満ち満ちた魂であり、これ以上のものは無いだろう。そしてしっかりと見聴きするのだアダムよ。この世界の性質にやられた魂、自分しか頼れない慰めてくれない助けてくれない少女の魂を……。


 どうもしてやれない俺の口は縫い合わされて、鼻はプラスチックで覆われ、頭を除き内臓は綿で出来ている。頭に考えられる脳髄が出来てしまったから考え、心配する等の感情が湧いてしまって、悶絶してはヒカルコがぎゅっと抱きしめる時の体温が綿に染みわたり、眼が覚めては今の様な悶絶を繰り返す俺も気が狂いそうだが、さっきは異常に熱く震えさえも響いた耳綿から感じるに、ヒカルコはもう自分を慰める事が精一杯で、その上、日に日に性欲が増してきて身体がついてゆかずにただ条件反射で命が溢れ出ている事に気付かないで悪循環を繰り返している。お互いにギリギリの所まで来ている。



 それでもヒカルコの生命を支えている点滴とは危険なものだ。血管に栄養を流すとは誰が思いついたのか、ヤクや劇薬なんかを血管に流されたりでもすれば一巻の終わりの恐ろしく危険極まりないものでヒカルコは生かされ、苦しめられている。……果たしていま流されているものはタダの栄養だけなのか?……絶対、そんなワケがないだろう。


「…………!」

 ヒカルコ、騙されているんだ! この世界はそんな生やさしいものではないと知っている筈だろう! と伝えられるワケもなく途方に暮れていると急に、逃げて来た様な、ドアを開けてぴしゃっと閉まる音が聴こえた。握りしめる俺をヒカルコは投げ出した。


「えっ、えっ? どうしてはじめ君が? じゃあコレは……?」


 ……痛い……なんだ、この感覚は……千切られている! 首も、腕も、脚も、綿も、汗で湿った繊維から、プラスチックから、縫われた口から、耳綿から、何もかも解けて

俺の魂の居場所が無くなる瞬間、気味の悪い男の顔がニヤリと笑った。俺は父さんだと



「うあああああっ!……あ……何だったんだ今の……は……? チキとゲイン?」

 俺は夢を見ていた? 違う、ラジヲの電源が点いている、妄想代理をしていたのだ。チキとゲインは飛び起き、俺の顔をまんじりと見る。上等なタバコの香りがする……。


「発作かな? それとも……」

「そうね……これは……」



 二人の眼は疑いに満ちているが、ジッと動かずに俺の顔から視線を逸らさない。俺は試されているという状況だと直感的に感じた。とりあえずラジヲを消そうとベッドから無言で慎重に身体を起こし、ラジヲのスイッチまで手を伸ばすと、何故かこのラジヲを消すことが果たして良いものか悪いものかと強烈な緊張が頭を過ぎる。冷や汗が背中を伝い、手も震えている……同調圧力の様なものを感じる……二人は息が荒くなりつつも沈黙し、俺は少しラジヲのスイッチから指を遠ざけ考えようとすると切った方が良い。指を近付けると切らない方が良い。という命令信号が頭の中に現れて脅迫されている。


 俺のスイッチに置いた人差し指に総てがかかっているみたいに、終わりか始まりか、二人の吐息が物語っている。煌々と輝くスイッチのランプ。神は窓から覗くだけ……。


「はあ……っ……はあ……っ……」


 息を荒げている口は乾いて水を欲している俺は安心を求めている。いつもと変わらぬ暮らし……笑い合える仲間……酒やタバコに金……仕事……責任……この指一本でその

全部が、有相無相が、森羅万象が、神々が、何もかもが指一本で決まる。賭けを避け、ずっと誰かの所為にしてきた俺は、至高の道化だった。父さん……俺はどうすれば――


「「「あっ……!」」」


ラジヲのランプがシュンと切れて、俺は声に成らない悲鳴を上げてベッドから落ちた。


「俺は……」

「コレで良かったんだよ」

「コレが良かったのよ」

「コレ……とは……? ラジヲの電池が切れた事か……?」


「アナタは、猿かしら?」

「違う、人間だ」

「ーーーはーーーかな?」

「俺はーーーだ」


 当たり前の問いに当たり前に答えると、神が瞬きをした様に視界が真っ暗になった。その一瞬が俺には凄く長く感じて、何を感じたか、それはヒカルコと共に歩んだ病院、ビル群、砂漠の道、赤い屋根の家のドアを開けるまでの行程……アダムとイヴが通った熱く、眩しく、険しいヤハウェの胎内だった。ベッドから身を起こし二人を見つめる。



「俺は……ずっと、二人を見つめていた……」

 そうだ……俺はヒカルコの温もりを感じながら、チキとゲインを同時に感じていた。ヒカルコの笑顔をチキと捉え、ヒカルコの声をゲインと捉え……ヒカルコという偶像を作って、アナタ・カナタ・ソナタの集合体だと思って……それをずっと心配していた。


「ーーー、もう良いのよ。繕わなくても」

「ーーーは繕ってないよ、パパの幽霊が憑いたんだよ。そして仲直りさせたの」


 二人のいっている事を理解しようとせずに、ヒカルコの顔と照らし合わせてみれば、何にも似ていない二人。何故ならヒカルコは神の子だから。猿の父親の性欲に神は負け卵子に受精し受精卵に成った時から既に似ていないのだ。似ているのは俺。何もかもが一致するのだ。ただ男か女か、髪を切ったか切っていないか、それ位の事だけなのだ。



 大きくあくびを掻いて伸びをすると夢見心地がやっと消えて、身体も馴染んできた。


「どういうこと? ーーーは道化を演じて仲直りをしていたんじゃない」

「違うよ、アヌさんがいってたもん。ーーーは幽霊が憑いているってさ」

「そんなの、酔っ払って……でしょ?」

「まあ、女のカンかなー」

「なにカッコ付けて……」

「ひとりで考えてる方がカッコ付けでしょーっ!」


 いけない、二人はケンカをしている。男である俺が止めなければ誰が止められようかと仲裁しようとすると……二人はキスをし合う……。愛撫をし合い、衣服を脱ぎ捨て、舌を絡ませながら身体を濡らすのだ。俺はそれを見て美しいと感じ思わず笑みが零れて邪魔しちゃ悪いなというのは建前で、美しい光景は今の自分には強すぎるから、久々にタバコを吸おうと上等な煙の香りのする方へ思い身体を起こし寝室から居間に行くと、


「何故……? 何故ノゾミが居る……?」

「おかえり、辛かっただろう。ヒーコー飲み飲みタバコ吸い~で落ち着けヨ」

理解し難い……ノゾミが尻尾をふらふらと安心し切った様な緩い声で、そう誘うのだ。

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