第25話「七七四番」
「今日は最高の酒だったのに……クソッ……!」
「……僕の所為?」
「違う、違うんだ……。でも二人だからまだ良かった、記憶合わせをしよう」
「やっぱり僕は――」
「落ち着け! まず……アヌのバーを出て、俺が家に誘って、まあ色々と話していた。それで行く途中にノゾミが何故か現れて……お前はノゾミに魅了されたように目ヤニを取ったり首を掻いたり背中を撫でていたが、ノゾミと何を喋っていたんだ?」
「まず『ノゾミ』というのは段ボール箱に居た子黒猫の美人さんの事?」
「そうだ、ノゾミはアンダカントに居る筈なのにここに居た。それも捨て猫を装って、お前は可哀想に思ったのか目ヤニを取ると、ノゾミも最初は躊躇していたが可愛がってくれるからか機嫌を良くしてボソボソと会話をしてい――」
なんなのだ? 片目で暗く雨の降る草原が見えて、もう片目で晴れた草原のワダチをヘルが走ってきて追い付くのも見えて、なにやら焦りながら記憶合わせをしようとするヘルの声が右耳から聴こえ、左耳で激しい雨音を聴いている……。それがどんどん酷く分かれてゆき、何が本当で何が嘘かが理解できない状態に居る。吐き気や酔いのような気持ち悪いものは感じず、僕は虚ろに人間の声であるヘルの野太い声に返事をしているが、ヤク中が薬を切らした時はこういう感じなんだろうなという感嘆やフワフワとした自分の思考しか確かではない。現在、ヘルが喋っている世界が見つからず、座っている事が確かで?……ノゾミが行ってしまったのも確かで?……決定的証拠が見つからないから総てが確かでない?……とりあえずヘルは、ノゾミはヒト語を話す事が出来るネコであるという事、目ヤニを僕が取りノゾミは気を良くして何か会話していたという事、ノゾミはネコであってもタチの悪い口が巧い危険な存在だという事を教えてくれると、
「ごめんな」といいながらヘルは僕の頭をかち割れんばかり力一杯のゲンコツをする。僕はそれはそれは酷く
「どうしたんだーっ! 酔っ払ったかーっ?」
さっき僕にゲンコツをした恐ろしいヘルも何もかもを仕切り直す様に、恐らくヘルが家に誘おうとして僕があわあわする直前の状況にタイムスリップしたかの如く戻った。
「ノゾミについて教えてくれないかな」
「はあっ? ノゾミの事、チキやゲインに聞いてないのか?」
「うん、さっきヘルに聞かされたよ。並行世界を移動させる様な魔力を感じたけれど、もちろんヤなことはされてないけれど、魔法使いなのかな?」
「そんなら、お前の妄想じゃねえか? ノゾミにそんな力が有ってたまるかってんだ。世界一の長寿ネコで今も生きているヒト語を喋れる変なネコだ。だが、今までいおうか迷ってたけどウチに来てくれ! 心当たりがある! 負ぶってやるから!」
僕はヘルに負んぶをされながら先刻の不思議な白昼夢の一部始終を話すと、どうやら僕と似た力を持っている家畜が居て、肉にするには幸せにしないと美味しくならない、どんな薬を投与して快楽を得ても幸せになってくれない七七四番という不気味な家畜をお前なら幸せに出来る! とヘルは力強く地面を蹴っていうのだ。しかも給料も出してくれるというのだから、さっきのが僕の力なのか解らないがやらないワケにいかない。
僕の力というものは未だ上手く掴めず、さっきも自滅していたが、ノゾミの魔力だといっていたアアいう感じの力がお前には有る! となんだか胡散臭いことをいわれ呆れていると、ワダチの終点が見えてきた。ヘルの家は赤レンガ造りで、オシャレだなあとただ思うこんな僕は未だ寝惚けていて、ヘルからどんな仕事内容かも聴かずに着いた。
「ちょうど雨が降ってきたね。お邪魔します」
「邪魔になるワケねえ、お世話になります!」
重たい木のドアを開け鼻を抓み中に入ると、人肉やらゲイやらと聞いていたので臭く汚いだろうという先入観から脱せた。オシャレな外観からは想像がつくワケない畳が、床一杯に敷き詰めてあるので鼻を抓む指を離すと独特なカビていない畳の匂いだった。
居間の隅に七七四番とプレートに数字が書かれているであろう邪魔そうな檻の中の、そのまた端っこに箒(ほうき)みたく髪が伸びきった、風呂に入れて貰えていないのかフケや油で汚らしい人が一本ロウソクの灯りをボーッと体育座りをして見つめて独り何かを呟いて物悲しく肉にするには細い背中をこちらに向けているので例のヤツだとすぐに判った。
「とりあえずコーヒー入れるから、適当にくつろいでいてくれや」
「くつろぐって……まあ……」
畳の上にちょこんと座ると、イ草の香りが懐かしく感じた。でも落ち着かない……。暖炉の灯りと其の一本ロウソクの灯りしか無いからか……どうしても家畜の方に視線がいってしまうのだ……。その家畜は七七四番なので「名無し」と呼ぶ事にするが、その名無しは来客にもてなすみたいに、蚊の鳴くような声、それでいて耳触りでない優しい声で急に語り出す。その声は何故か聞き覚えがあり、既視感のようなものがあるのだ。
「……ボクにはキミが解る。人間の心理、世界の断層……。未来は既に決められていて過去というものは未来人の理想であり、現在というものは無限に重なったひとつをただ目視しているに過ぎな――」
……聴こえない……何も聴こえないぞ……それ位ならまだ良い、まだお前は許されるのだからからコッチを向いてくれ……顔を見せてくれ……聴こえていないのだ……その演説は……と祈ると名無しはもっと俯いた。心の声が聴こえているのではなかろうな?
……ダメなんだよ、聴こえてしまったそれでらお終いなんだ……人間の心は誰だって悪に満ち満ち溢れているんだから、偽善だって心を覗いてしまえば悪に見えてしまう、人間の心より醜いものは存在しないのだ!……知らぬが仏だ……知らぬが仏なのだよ、知りたくないものを知ろうとするな!……知りたくないのに知ってしまうのなら……。
「うわあっ、やめてくれ! 名無しよ、やめておくれ!」
「コーヒー出来たけど……なんでお前まで七七四番と同じ姿勢になってんだ?」
ヘルの野太い声が、まるでロープがしっかりしたみたいになって僕は我に帰る……。いつの間に僕まで名無しさんと同じ姿勢に……? 力……? この事を、さっきヘルはいっていたのか……? 僕の力は憶えている限りこんな凶悪な力ではなかったはずだ。
「ヘル! ネコを見たか!」
「見てないが……」
「違う! そういうことじゃない、決定的証拠が……証拠は……」
僕は思わず立ち上がってオロオロしている事に気付き、ハアっと息を吐いて座った。そうだ、元から世界に証拠なんてものは無いのだ。まだ息が荒いのが自分でも判るから取り戻せられる、そして万が一の事があればヘルの腕力という後ろ盾が僕にはある……
熱いブラックコーヒーを胃に流し込み、残りわずかのマッチでタバコに火を点け吸う。
「アイツの言葉に耳を傾けちゃダメだ。最近は黙らせてるけど、ーーーが来たからか、まーたワケわからん事をブツブツいってんな……。でも、落ち着いて考えてみろよ……
アイツのいってる事はぜーんぶ『根拠が無い』んだよ」
「そ、そうそうその通り! 根拠も無いのに知ったような口を利くなってね! そう、そして僕はアイツと初対面だし、頭オカシイよアイツ! ああいうのを狂人と罵られるべきなんだ! 関わりたくないし近づきたくもない! まあ、バカはバカなりに生きるのは良いけど迷惑を掛けるなってね! 要らないものは要らないんだ、アイツもさっき嬉々として演説していたんだから、幸せになってるんじゃないかな! 早くぶっ殺して肉にした方が良い! その方が絶対に良いよ本当に!」
「急にどうしたんだよ、水を得た魚のように……」
「そ、そうかなあ、僕は至って普通だよ! いやあ僕の仕事は果たせられたみたいで、ホント良かったよ! あんなヤツ、害悪だよ、邪魔だよ、要らないよ、この世界に!
もっと幸せにしたいんなら薬に溺らせて、ヘルの立派なのをケツにぶち込めば良い! 大変だねヘルも、こんな下らないヤツばっかりなんでしょ!?」
「……ボクを見るな」
「うるせえよ! お前の所為だ! お前はどの世界に行ってもどうしようもなく報われないんだよ! だが幸いにもこの世界では肉にされて人間様に美味しく食べて貰える!
お前は人間じゃないからな、そう思えば幸せだろ! 人間以前に、家畜以前に、お前は自殺志願者だ! 逃げることなんて馬鹿でも出来るんだよ! まあ、死んだら闇の中に漂い続けて途方に暮れる、若しくは、天国と地獄が在るのならお前は地獄行きで、今の倍以上に苦しむんだ! 馬鹿で下らないよお前は! 幸せだと? お前みたいなヤツが幸せになって良いはずがないだろう! 労働もしない世界に貢献しない、他人様を只々不快にさせているだけ! それでなんだ! 隅っこに逃げて馬鹿のひとつ覚えみたいに講釈たれて、それで良いとでも思ってんのか! やめろよヘル! こいつの人間を舐め腐って甘え切っている精神が気に入らないんだ! ふざけるなよゴミが!」
「ーーー、目的を忘れるなよ。それに、見てられない……」
僕の声は並行世界の在らん限り総てのコイツに轟き渡ったであろう。タバコと灰皿を両手に、檻をガンガン蹴るほど興奮しヘルが慌てて羽交い絞めするほど熱くなっていたが、それは名無しが例の『前世』に似過ぎているからであって、ヘルが羽交い絞めしてくれなければずっと名無しを罵倒し続け僕もこの檻に入る事になっていただろう……。
ここまでいえば名無しが並行世界を移動したとしても幸せには到底たどりつける筈がないが……それで良いのだ。名無しが前世の僕に酷似しているのであれば、僕のいって欲しい優しい言葉を並べ立てれば、いわゆる飴と鞭になって最高のご褒美になるのだ。
「ヘル、離してくれ。大丈夫だ、もうこの通り落ち着いたよ」
「本当か? 肩で息を吸っているけど……。でも、こっからどうすんだよ? ここまでいっちゃって取り返しは……つくのか?」
「……僕だって、仕事といわれればキッチリやらねば気が済まない」
名無しは尚も体育座りで背を向けながら声を殺して、身体を震わして泣いている……
その背中を見て感じるのは「また言われた、泣けば済むだろう」という習慣性だ。僕はまだ言い殺してやりたいくらい言い足りないが、今回は初仕事で初給料が貰えるのだ。それほど怖くなって虚勢を張る程に、さっき名無しのいっていた事が僕には解るのだ。
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