第17話「三次元に見え隠れする正体」

「い、いや……もうドコから聞いても分からないよ……わからない……」


 絶望の底は当たり前に絶望だった。マイナスでもプラスでもゼロでもない無間地獄。僕はどう生きていけばいいのか……目の前に有る何でも無いものもすら総てが違う……

のだろうか……? ふと思う……赤子はどうやって目の前に在るものを学んでいるか?

親の声を辿って、親は自分を指差し「お母さん/お父さん」と呼ぶから、そうだと決め付けて覚えているだろう……。今の場合は僕が赤子で、チキとゲインが親だ。そうか、チキとゲインに指を差して貰えば良い、その指を辿って、僕は決め付けてゆけば良い。



「わかった、整理が出来た。僕はチキとゲインから産まれたーーーだ。それ以上でも、以下でもない。逆にいえばチキとゲインが親だ、だから、勝手かもしれないが、けれど状況が状況だ、ちゃんと僕を教育してくれ。……協力してくれ、生きてゆきたいんだ」

「……簡単にいえば、さっきみたいな赤ちゃんプレイに付き合って欲しいってこと?」

「『甘えの無い厳しい赤ちゃんプレイ』って事ならそれでも良い。恥ずかしいけれど」


「赤ちゃんには、優しくしたいな……」

 中空にタバコの煙を吐きながら遠い目でチキは、ポツリとそんなことを漏らす……。チキやゲインからしたらそうだろうな、今まで築いてきた二百年間が穴と成ったのだ。でも二百年間も関係を持っていたら、子供が居てもおかしくは無いが……という疑問を今から教育して下さる方に対して問いかけるのは極めて失礼だろうが不自然ではある。


「いやね、ーーー。親はちゃんと居るんだよ、さっき会ったじゃん髪を赤く染めた……

ホラ、バーでウェイトレスって勘違いした人。アヌさんって人なんだけどね――」

「それはーーーの親であって、僕の親ではない。僕の親はチキとゲインだ。それにもう少女は要らないんだよ、僕の脳髄の容量は二人ないし自分を含めた三人が限界だ」


「命の恩人まで、忘れてるんだね……」

 ため息を吐きながらそんな事をいわれると、失望の念を感じざるを得ない……でも、仕方ないじゃないか!……イヤ……弱者は弱者なりに強者のいうことを素直にウンウン聴いていれば良いのだ。強者のいうことは総て正解であり、強者に服従し書生みたいに習えば強者と同等になるはずであるのだ。勿論、要領よく出来る脳髄が有ればの話ではある。が……二人の親少女との会話のお陰で僕の立場が出来てきた様な気がするのだ。



「あのねーーー、なんかマネっ子みたいだけど、真実であり大切な事だからいうよ……

私とゲインとーーーに本当の親は居ないの。どこかに居るかもしれないけど三人さんは多分、仲が宜しくてか、何処か遠い所へ行っちゃったの。私たち三人は産まれた頃からオギャーオギャーいってる時から肉親は居ないの。アシンメイクは名前の割に孤児院も無いド田舎だから、段ボールの中で私たちは泣いていたの。ミルクも温もりも無いから必死に泣いて私たちは町の人に存在を示して煩がられてたの。段ボールを持ち上げて、暖かい所で温かいミルクをくれた人がアヌさんなの。アヌさんが居なかったら私たち皆

……ここに立って喋っていないんだよ……」


 チキは自らを語り、現実に泣いている。その湿り気を帯びた物語は何故かするすると何の気質も感じず飲みこめて、安心感と余裕を生んだ。僕たちは捨て子だという事実を鵜呑みに出来てしまう事が、やはり僕はーーーなのかという事実を裏付ける様だった。 

 記憶の断片なのかは解らないが、実際その様な記憶が在るのだ。でも僕はその先を、未来を知っている? 違う! そんなワケが無い!……。記憶の中に未来が在るという矛盾を解消すべく、取るべき手段は一つしかない。この顔とその顔が一致するか、だ。



「それなら……里親さんに挨拶をしなければね」

「アヌさんにちゃんといった方が良いね……記憶を失ったって。でも私、良く考えたらこんな記憶は消えた方が良かったのに私は……思い出させるようなマネを……」

「良いんだチキ、良いんだ……。記憶の一致で安心感が生まれたのは確かなんだから」

「でも……」

「良いんだ、泣くのを止めて。明るいチキが暗く湿っぽくなってしまったら僕までそうなってしまうよ……」


 これがムードメーカーというヤツだろう。明るい人が急に怖くなったり、泣いたり、弱ったりすると同調してしまうという力。自分のペースを他者に催促がましくなく促せられるという力……それは地位が下の者には持てない力。僕たちは捨て子という身分で在るというのに、チキはそれを持っている。感受性が豊かで、喜怒哀楽もハッキリして僕はチキに「憧れ」を抱き、チキのような存在になりたいと考えながら、アヌさん……

とやらのバーを再度……とはいっても、バーに行った事は憶えているが、あの時は何か集中し過ぎるほど集中していて、視界がかなり狭まって、赤毛でウェイトレスの少女は認識の範疇に無かった。あの時は過集中というよりも怯えることに夢中になっていた。

 そこ迄の記憶を今ならそう客観視できる。そして現在は打って変わって、記憶を取り戻して皆々様を、そして自分を安心させたいという感情が強い。客観的にものを見るという事は健康的で、物事を自己本位に見たり考えたりするのは病的であると……記憶の中に有る言の葉も蘇らせることが出来る迄に至ったが、ーーーという男は何者で僕とは何かということは未だ辿り付けていない……ゆっくりと着実に地面を蹴って歩くということが未だ巧く出来ていない……であるからして、記憶の道から外れてしまって草木が生い茂る森の中を闇雲に歩いているという状態に現在はあり、今まで歩んできた道なら踏み固めてきた草が示す所を戻れば良いが、現実は不可視の阿修羅道であるのだ……。



「ーーーっ? ずーっと下を向いて、なんか顔に血の気が無いよ?」

「ア……ああ……? 僕はいつからチキと手を繋いで――」

「今だけど、なんだか会話が噛み合ってなかったよ。もしかしてアヌさんに怒られると思って緊張してた? そういう時こそタバコを吸うんだよ」


「ひ、ひえっ!」

 僕は咄嗟にチキの手を振り払う。どこまで思考が言語化していたかソレはもう良い!

やっぱり僕の脳髄は二人までしか相手できないんだ!……さっき、思考が三次元的で、アヌさんとやらをどう殺してやろうかと復讐の手立てを考えていたはずだったのに……

思考が紙面でなく小さな立方体の中に在って、数字がその立方体の中で犇めいていて、どこかに穴が開いて漏れて言語化してしまったんだ!……僕はチキと会話していた事は全く憶えていなく、過集中してしまって視野がその小さな立方体しか捉えていなくて、歩きながらそれ等を眼で追うことしか出来ていなかったのだ! 爆発してしまったら、その立方体が爆散してしまったら、中で犇めき合っている夥しい数字群が美しさなんてひとつも無い火薬と化し出来た大きな花火みたいに人を傷付けながら消える物となる!


「……ダメ……だ……メ……」

「ーーーっ? どうしたの!」

 僕はこうやって全部をパーにしてしまうんだ、信頼も何もを捨て置いて逃げてきた。帰る所は……そう、赤い屋根の下。バーとは逆方向へチキを捨て置いてただただ走る。危ない所だった……と安心するも束の間、足がいつもより速くて、腕と足がバラバラに動いてしまって巧く走れず、チキにあっという間に追いつかれてしまうのだった……。



「ーーーっ!? これがゲインのいっていた事だったんだね!?」

 僕は誰だ……僕とは何だ……僕は何で出来ている……僕は僕で僕が……だけど僕は、何故かこの方が落ち着くのだ……この、気持ちの悪い状況がかえって、落ち着くのだ。


「ーーーっ! こっちを向いて!」

 ビンタだと判っていた。チキはキッカケを作ってくれた。僕はチキのビンタの反動にワザと乗って地面にキスをする。こんな僕を見て、お前は気持ち悪くて逃げるだろう?



「……なぜ……?」

 チキは僕の一杯に詰まった脳髄を心臓より高い位置に持ち上げ膝枕をしながら、顔にくっ付いた誰かのタバコの吸い殻を取り、僕の左目をジッと覗き込む様はその奥に在る僕の脳髄を覗きこんでいるみたいだった。チキの両手は僕の強張る瞼を必死に抉じ開け大きくなるのはチキの綺麗な右目ばかり。僕はその綺麗な瞳にただただ見蕩れていた。



「……私のお薬を盗んだ犯人はーーーだったんだね。今まで良く平常を繕えたよ……。やっぱり私の所為?」

「な……なんで……」

「私が思い出さなくても良いヤな記憶を蘇らせたせいで、繕ってた平常が崩れたの?」

「だ……だから僕は……お薬なんてものは知らなくて……」


「……良し、謎は総て解けた! ウチに戻ってゲインの誤解を解こう!」

 といいながらチキは男の僕の重い上半身を起こそうとするがゲインより華奢なチキの腕で起き上がる筈もなく腕が背中を回った時に格好悪くならないよう自主的に上半身を起こした。そして立ち上がらせようとするのも、案の定、僕の腕を引っ張っても、腕が伸びて気持ち良いだけなのでまたも自主的に小石を払いながら膝を曲げて立ち上がる。

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