第12話「ぼやけてしまった立場」

 広げられた風呂敷には意外とあった賃金と酒とひとつ真っ赤なリンゴが入っていた。頭が良くなるワケを微塵も感じさせない極普通のリンゴに胡散臭い文句が彫ってある。 

 また、あの娘を思い出してしまう。アダムとイヴが食べた禁断の果実はリンゴという説があり……エデンの園から追放されたんだったか……こっちにはイヴが二人いるが?と普段なら笑う所だが……関係ある筈が無い……無いけれども……でも……もし……。


「リンゴは食べない」


 もしも、このリンゴを食べてこの三人の関係性が失われてしまうなんて事が起こると思うと、こわい……。この楽園から追放される時チキとゲインのどちらかを選べなんていわれようものなら……俺は二人を愛している/二人は俺を愛しているのだから……。


「そうよね、このリンゴは変よ。もしそうならこの仕事を止めろという意味に成るわ」

「リンゴが給料の一部って、やっぱ怪しいよねー。なんか毒でも入ってるんだよ絶対。でもお金もちゃんと入ってるし、リンゴの事は忘れてアヌさんの所へ行こう? ね?」


 顔色を見て察してくれたのか、二人はバーへ行くのを急かす。考え過ぎなのだ、まだ俺はあの娘の事を切り離せていないのか、こんな温い家庭に帰って来れたというのに。


 赤い屋根の、いつ見てもボロいウチから出るとスッカリ肌寒くなっていた。空を仰ぎ見れば神が雲で霞んでいて、ちょっとだけ不安になった。ここは本当に現実だろうか、まだ妄想代理が続いているのではないか、はたまた俺が妄想しているのではないかと。

 でも、そんなことを自ら考えるのは野暮くさい。現実に居る又は現実に居ないと断定すべきは自分ではなく自分の頭の中に住み着いている螺旋状のタンパク質の他の何ものでもない……と考えてしまう俺は全く毒されているな、あの娘に。ソンな事考えたって仕様も無い、取り留めも無いし、無駄だ。俺はただ自分を貫いてゆけば良いのだ……。


「こんな何気ない空も外の空気も気持ち良いわね」

「私たち、ずっーとーーーの傍に居たんだよーっ」

「そんな、良かったのに。まあ、馴染み慣れたこの町も今やチッポケに感じてしまう。世界は無限に続いていて、世界を分かつ壁は紙ペラ一枚で出来ているんだってさ……」



 手を繋ぎ、そんな事を喋りながらバーへ向かう。二人との他愛ない会話が落ち着く。元の世界に身体が馴染んでゆく事に何故が淋しく思ってしまう、あの娘との距離が遠くなる様で……忘れた方が良いのだ絶対、仕事でたまたま出会っただけなんだから……。これからもっと、そういう人間と出会っては別れ、依存し合っては別れる。ファーストキスの味が忘れられないと同様に、初仕事で世話になったから執着しているのだろう。



 アヌさんのバーに着く、いつもより近く感じた。二人と歩くのが楽しく、アヌさんに会えるのが嬉しくて……だろう。妄想代理の仕事を勧めてくれたのはアヌさんだった。それまで店が繁盛していたから仕送りをして貰えたが、叙々に常連も新客も来られなくなって酒の搬入も巧く出来なくなり、シャッターを下ろしたのだ。今は秘密に俺たちとヘルの野郎が呑みに来る場となって、酒が無くなればヘルから金を借り、お得意様から酒を仕入れている。俺たちは今まで野郎から借りた酒を借りていた、それを恥ずかしく思える歳になった俺は遂に仕事を終え念願の給料でこれからも少しずつでも返したい。


 裏口のドアを開ける。カランコロンと懐かしい鈴の音が鳴ってアヌさんが顔を出す。

「お、おう、良く来たねえ! 妄想代理……初仕事はどうだった?」

「アヌさん! いやあ労働とは大変だと解ったよ。でも面白いもんだ。狂人学は勉強になったし、スリルもあったしで……ああ、深く話す前にコレ……受け取って欲しい」


 少ない額で借りの少しも返せていないが今までの感謝の気持ちと共に渡せば気分的に水かさは増すもんだ……などと考えながら薄っぺらい札束を渡すと、アヌさんは笑顔で何もいわずに受け取ってくれた。それだけで、俺はこの上ない快感に溺れ涙が溢れた。



「一家の大黒柱が泣きなさんな。成長したねえ、アタシに反抗していた頃が嘘の様だ」

 ずるい。頭を撫でながら、そんな優しい言葉をいうもんじゃない。アヌさんが親で、本当に良かったという言葉が出ない、でもそれを酌んでくれた様に涙を拭ってくれる。


「アヌさん、これからも少しずつ借りを返していくからさ……お酒が飲みたいーっ!」


 チキが機転を利かしてしんみりした空気を見事ぶっ壊してくれた。それで良いんだ、俺もこういう雰囲気は好きじゃない。男が泣いてはダメだ。元はといえばアヌさんから貰った不味い……ワインなのかブランデーなのか判らないのを飲んで……二人に本物のブランデーを飲ませたくて来たんだ。アヌさんは浮かない顔でカウンターを通らすと、

「よっ!」

「ヘルも来てたんだーっ! カニ缶ありがとねーっ!」

「実は二人で呑んでいたのさ。ほらヘル、金は返すからとっとと帰りな。こういう時は親子水入らずで話がしたい。用事はちゃんと全部、済ましたよねえ?」

「そんな硬いこというなよーっ! 俺だってーーーたちのダチだろ?」

「そうそう、ダチなんだからねーっ!」

野郎がこんな時に居るとは……俺も親子水入らずで、落ち着いて話がしたかった……。コイツが居るとうるさいだけなんだ、チキはダチといっているが本当はコイツから身を引いて欲しい。嫉妬ではない、チキはコイツと出会って引っ込み思案だった性格が金に眼が眩んだのか一変し、一方ゲインは距離を取っているから俺が取り成すハメになる。



「まあ……アヌさん、ブランデーダブルを三杯」

「あら、いつの間にチキもゲインもそんな強いの呑めるようになったんだい?」

「アヌさんからの例の古いワインがブランデーみたいな味で、本物を飲ませたいんだ」

「ブランデーの味したかいアレ。たまたま掃除中に倉庫の隅っこにアンタらの誕生年のワインを見つけて、コレは丁度良いとあげたんだよ。悪い空回りしちゃったねえ……」


 ブランデーがグラスに注がれると……ああ、全然ちがう。何とも形容し難い独特な、専門的な事は解らないが上品なタルの香りだ。アレはヴィンテージワインだったのか、初仕事とキリの良い二百歳の祝いも兼ねていたと聞けば安心したが、流石に古過ぎた。


「ブランデーは女の飲み物だ、男はやっぱりウイスキーっ!」

「うるさい……好きに飲ませろ。良いかいチキ、ゲイン。体温でブランデーが温くなる位が丁度良いんだ。この香りがもっと良く出てくるから……ゆっくりしたいな……」

「ふふっ、アヌさんには悪いけれどアレとは比べ物にならないわね」


 ゲインがやっと口を開き、耳元で愚痴を囁く。チキは俺と喋る時と同じ声量で野郎と喋っているという事が気に食わなく感じる俺は女々しく酔ったフリをして話し掛ける。


「チキはどうだい? いつもワインだから――」

「美味しいねーっ! うんうん、うんうん、かーっ! 美味しい!」

「アヌさん、チェイサー。これは一気飲みするもんじゃない、弱いくせに飲み過ぎだ」


 やっぱりかとアヌさんは苦笑を浮かべながらチキに冷えた水を出す。だいたいヘルが急かすから悪いのだ。それに乗ってしまうチキも悪いが、コイツは自分を中心に世界が廻っているとでも考えているのだろう。それに女を知らない。女は本能的に男に尽くし勝ちで、男は女に求め勝ちということを前提に付き合っていかなくてはならないのだ。そしてなぜ女の、それも俺の前でチキと見せつける様に我が物顔で接するのだ。更にはアヌさんが支払いを終えたというのに帰らない。コイツの腐った精神が気に食わない。


「おいヘル、アヌさんの帰れという声は聴こえなかったのか。俺たちの親の声が、だ」

「ああん? お前は今まで誰の金で酒を飲んできたのか忘れたのか? 誰様の金だ?」


 コイツはもう狂ってしまった、金に飲まれてしまったんだ。出会った頃は男だった、だが今はカネで総ては事もなしとイツの間にか俺たちやアヌさんより上の立場になり、下火だった肉屋界で革命と社会現象を起こして儲けられたのは良い、だが今のコイツは金の話しか出来ない札束でモノをいわす玉無しの糞垂れたケツ穴でしかイけない死神の顔した男娼だ。金は薬と同じく少量の俺は楽だが多量になれば依存し戻れなくなる物。



「アヌさん、ダメだ水をくれ。とびきり冷えたヤツを」

「らしくないねえ、考え込んで。じゃあ、次の機会に」


 成金の顔にコップ一杯の水をぶっかけ、ソレに借りている酒を呷りバーを立ち去る。俺が弱いんだ、子供だって解っているさ……不味い酒にしてしまった俺が悪いんだ……卑屈になりながらタバコに火を点けると、ゲインの追う足音が聞こえ後ろを振り返ればチキは千鳥足で、鼻歌交じりに小さな鈴の音と共に裏口から出てくるのが見えた……。


「ごめんな、俺が台無しにした」

「良くやってくれたわ。アナタがやらなかったら私がやっていたわよ……」

「気を使うな、総て俺が背負う」


 チキは金の虜なんだろうか……といつまでも考えてしまう俺は女々しい嫉妬狂いだ。そりゃあそうだ、チキにだってゲインにだって誰だって人は選ぶ権利が有るのだから、その通りにゆけばその通りに成るってもんさ。世界が自分を中心に回っているという、古い考えを引き摺っているのは俺で、俺だけで良いんだ、こんな馬鹿げたヤツは……。


「ふう。俺は、世界や人間関係が変わってしまうのを恐れている弱い人間なんだよ」

「それは誰でもそうだと思うわよ。でもソレを自覚できる事は素晴らしい大人だわ」

「そういう励ましが出来るヤツを大人っていうんだよ、自覚なんてネコでも出来る」

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