第4話「知的探究心のない者はばかだ」

 驚いた、逃げ足が速い……というか走っている、歩くのもヤットだったあの子が……逃げるのは想定内だったが『自分が強くなった』という気で走っているのなら危険だ!


「はっはっはっ……今はまだ追い付けているかもしれないが、なめるな!」

「そんな走り方していたら転ぶわよ!」

「はっ!……うるさい着いてくるな!」


 いつも履いているサンダルなのにまるでブカブカの靴を無理矢理に爪先で走っているみたいで、転んだって爪が剥がれたって骨が折れたって痛みなく再生するけど……見ていてハラハラする走り方だ。でも、懸命に走る後ろ姿がなんだか大きく感じていると、郊外の守られた病院から自分の足でどんどん離れてゆき、懐かしき街並みへと向かう。



「はっはっは、んあっはっはっは……もうダメだ……カァッ……はあ……」

「良くやったわ、ここまで、自分の足で……。良く頑張ったわよ本当に!」


 涙の粒にガラスから反射した光が眼に伝わると、圧倒されるほど視野が広くなった。涙を拭って辺りを見渡せば、息を呑んでしまってこの子の事を一瞬だけ忘れてしまう位芸術的なまでに美しい人っ子一人いない歩道、光らない信号機、永遠に止まったままの交差点に置かれた車たち、静止した街……芸術家であったら直ぐにでも筆を執るだろうこの有り得ない光景に見蕩れる。この子が密かに造っていた箱庭に哀愁を感じるのだ。


「エッ!……ナゼだ! なぜ……どうして女のお前が着いて来られて居るんだ……!」

「ほら、アナタが作った素晴らしい芸術品よ。こんな綺麗な風景、初めて見たわ……」


 車の上に乗ってみると、何という爽快感、開放感、背徳感。いつも風で飛ぶ小さな埃みたいに車や人が集中していたこの街が森閑としていて、抽象画の中に居るみたいだ。


「おい! どうして、どうして! お前が居るんだ!」

「私はここに居ちゃダメなの? ああ、こういう所で独りになりたい気持ちは解るわ」

「違う! 男の俺に女が追い付けるワケな……い……」

「人形を自由にさせたら危険だってアナタ、いっていたじゃない。私は決して人形ではないけれど、まあ解り易くいえばソレに近い存在なの」

「そんな、本当に……骨折り損の草臥れ儲け……はあ」

「骨は折れてないし、儲けはちゃんと有るじゃない。しゃがんでないで前を向くのよ」

「儲け? ハッ、お前が乗っているソレの事か。道を塞ぐ邪魔モノにしか見えないが」

「もっと、視野を広げるの! もう一度いうけどアナタが造り出した景色よ。アナタは芸術家肌なのかもしれないわね、見て触れる立体抽象画ともいえる物凄い超大作よ!」

「こ、これを俺が無意識に作り出したとでもいうのか!……こんなに大きい建物を見たのは生まれて初めてだ!……矛盾しているだろう。自分で作って、見るのが初めてと」


 突然のノリツッコミにビックリ。でもそんな事をいいながら満更でもなく子供の様にキョロキョロと顔を綻ばせて辺りを見回し段々と視線がひとつのビルに集中してゆく。


「じゃあ、この大きい建物の中に入ってみよっか!」

「おい、待ってくれ。光が反射しあって綺麗なんだ」


 ビルの入り口は自動ドアなので病院と同じ様に最大限のストレスを最低限のこぶしに込めて割り中に入る。病院よりかは日光が入って明るいので階段は直ぐに見つかった。この子に「もっと良いモノがある」と子供に飴ちゃんを渡して如何わしい事をする様な冗談交じりの生やさしい声色で誘うと、一段飛ばしで階段を駆けてくれるのであった。関係者以外立ち入り禁止と書かれている屋上のドアは偶然なのか必然なのかカチャリとドアらしい小気味良い音が立ったので思いきり開ける。一見、何気無いビルだったが、屋上に出ると髪を乱す風も無く、確立されたこの子の芸術がシッカリと目前に広がる。


「わあ……アナタ、やっぱり天才よ」


 こんな景色、看護婦のたわい無い世間話でしか聞いたことなかった。パノラマ台だ。この子の心は、純粋すぎるのだ。だからこうなってしまった/でもこうなってしまったこの景色を私の頭に収めるだけで良いのだろうか。いや、これだけで良いんだ。長年の付き合いだから解る、この子はそれしか望んでいないだろう。コンクリートジャングルの邪魔とは人間と文明だった事を一望して理解した私の眼から景色が溶けてゆくのは、知らずの内に涙を流していたからだった。もうお仕舞いなんだと思ってしまって……。


「おい、なんで泣いているんだ。こんなに奇麗なのに……おい! 俺が何かしたか!」


 景色が溶けて濁ってゆく中、この子の低い声が耳元で暴れる。それは、まだまだこれからだといっている様で、私もこの世界の終焉を拒否し、この子に甘えたくなるのだ。


「……うっうっ……。だって私はアナタのほんの少しも理解してやれなかったみたいで私は……私はアナタの唯一の理解者だと今まで思って、相思相愛で生きてきたと思って居た……けど……アナタは私よりもずっと考えていたのに、踏み躙るようなマネをして……ごめんなさい、許して下さい、私をどうにでもして良いから……」

 私が、そんな泣き事をベラベラ口から泡を吹くように出てくる自分がまるで私らしくなくて、キライだ……。嬉し涙と悔し涙で顔をぐちゃぐちゃにしている私なんて本当にどうにでも、殴ったって強姦されたって何されても構わない。何か泣き止むキッカケが欲しくて泣き止もうにも泣き止めず、そのキッカケが落とし前になったら良いなと思うこの自分も大嫌いで、世界諸共ここで終わってくれたらハッピーエンドだと思う自分も都合の良い女らしさで、年相応な軽薄な思考で、堪らなく大嫌い……と悔し涙が勝って来る頃には驚いて泣き止むのだった。この子はそんな私を抱締めながらこういうのだ。


「これからは、この世界で、コイツと二人で生きて往かなきゃならないんだ……チキ、ゲイン、すまない。浮気関係無しに、独りじゃ生きられないこと位は解ってくれよな」


 それを聴いた瞬間、この子の着ている患者服から久しく嗅いでいないお日様の匂いがして……この子は私の知っているこの子ではない……何者かを見極める必要性が有ると本能的に察知し、知的探究心あふれる私らしさを幸か不幸か思い出させてくれたのだ。

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