私 / Γ
第2話「現実ほどつまらないものは無い」
運命とは抗えないのか、誰が定めたのか、神は悪魔より殺しをしてきたのに。
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ドンッ!
何やら後ろから物騒な音が聞こえる。ゴンッという音ではないのが不幸中の幸いか。悲しいので振り返ってみる。憶測だが、あの子は構って欲しいのだ助けて欲しいのだ。
ドンッ!……という音はしていない……が、私には形容的にそう聴こえるのである。本当にこの子は困ったものよ。それ以外に手段が無いのだから困ったものよ。この子は壁に向かって歩いている。意味も無くひたすらに私を残して次の世界に行こうとする。
ドンッ!
下を向いて歩いて壁に頭をぶつける、ぶつければ反動で後ろに一歩下がる。その繰り返しが懲りない。『ここにあるのは何の素材で出来ているのかわからない柔らかい壁。押したって無駄、殴ったって無駄、そういう壁だ』……この子はどこまでも懲りない。
この子はずうっと、その壁に向かって頭を当て、反動でよろめき後ろに下がるとまた壁に向かって直り、柔らかい壁へと歩き出す……延々と繰り返す。ボーっとする事にも意味が在る、言動行動に意味が無いことなど無いといっていたが、コレはどうなのだ。
「その行為に何の意味も無いと私は思うわ。大人しくこの世界に居なさい、意味が無いのはヤでしょ?……良いからやめなさい、話はちゃんと私が聴くから……」
トン……。
頷く時にまたも壁に優しく頭をぶつけて出た音が了解に聴こえ、独房にむなしく響き渡った。別に怒るつもりじゃない、ただ思い出させただけなのだ、この子との関係を。
「イヒ、イヒッヒッヒッヒッヒッヒッヒッヒッヒ! 僕の息子娘たちよ、安心なさい」
「えっ!」……タダのちょっとしたケンカで何故この子はそこまで逃げようとするの?優しい世界はココではないと、お前が悪だと、もろとも消えてしまえといっている様なものだ。私は狼狽してこの子の髪の毛を毟っても、なおも理解不能な言語で喋り出す。
「そうよ、まだ私に子供は産めないわよ!」
まだこの世界に戻す手立てはあるはず……だが私はそれよりも確認したくなるのだ。
「アナタの嫌いなモノ全部を排除した世界なのよ? なのに私に何にもしてくれない、こんなにアナタを愛しているのに……。私じゃ不満なの?……ねえ、私に答えてよ!」
「イヒッ! ビーっビーっビーっ、ガーッガーッ!」
返事は当然の如く返ってこない。この子は私の声などそっちのけで違う世界の人との会話を始める。またか……何度目だ……何回やっている……もう解らない……こんな事ばっかりやっているからストレスが溜まるっていう事実にどうして気付いてくれない?
その所為で頭頂部がすっかり禿げてしまったというのに……。
そんな歳ではないはずでも風貌は既にオッサンのソレだ……。
私がそんなハゲオヤジに「この子」という代名詞を用いるのはちゃんとワケがある。この子は困った事に、自分を私より年下だと思っているのだ。私に対して謙りも過ぎてそういって欲しいと頼まれた。更に高校受験でトラウマを作り中卒で知能指数は七十。こうやって違う世界に行きたがるのはトラウマと格闘しているからかもしれない。そのトラウマとは意味の無い勉強。この子は浪人を繰り返し、強く当たる親を憎み殺した。
今から二十年前くらいの夜、この子は『人の心の声』が聴こえていた。錯乱しながら母は両目、両耳を包丁で何度も刺し、父は腹部を刺し、アキレス腱を乱雑に切るという何とも惨い殺し方をサッキみたいな笑い方でする程、親の心が解った気になっていた。
直ぐに自宅をも燃やし、この子の察しの曲解は更に加速してゆき、自宅近くの公園に遺体を投げ置いた。この子曰く晒し者にしたかったとか避難させたとか言動が不一致で『僕を育てたことが罪。ソレは途轍もなく重い罪なのだ。だからソノ重い罪を何者かに知られる前に、育てられた僕が刑に処さなければ成らない。モチロン、僕がコノ人たちに育てられたことも罪。それも途轍もなく重い罪なのである。デモ、誰も刑に処する人が居ない。居るじゃないかココに。さあ僕を処してくれ! ちゃんと殺すんだよ?』といいながらこの子はそのまま持ってきた包丁を首に宛がい横に一気に引いて両親の上に倒れた。だが、その自害は未遂に終った。頸動脈手前の皮一枚が残ってしまったのだ。
朝になると公園を散歩中の爺さんが戦慄き吐き、半ば狂乱のなか自宅に戻って警察に「い、一家心中だ! 子供と親が殺されているんだ! 早く来てくれ、○○○公園!」と伝え不幸中の幸いかと思いきやこの子ったら傷が回復した後、取り調べ時にオカしな自供をしてしまった、自分はこういうものですと言わんばかりの自供をしてしまった。
警察の事情聴取では、初めの頃は放心状態で口をぽかんと開けた儘、まるで聴こえていない様子で何度も事情聴取を繰り返すと急に憑依でもしたかの様に口角を上げながら他人事みたいにポンポン答えてゆき、やればやるほどその返答内容は狂ってゆくのだ。
「殺人をシたかシていないか……またアナタは訊くのですね。良いですか可能性は無限であり僕はコノ世界に存在していないのかも、アナタが僕の親を殺した可能性も、ゼロではない。ソノ指紋は僕のコノ寄生している身体の指紋であって真実など存在しない。ソレに僕が殺したというソノ親は本当に存在していたのでしょうか、コノ世界に親というものが存在しているならば奇跡としか、ましてや実親であるというのなら、遺伝子がコノ身体を伝わり魂をも震わせる信号に遭ったとも考えられる。物事の本質を見極めるという事は極めて難しい。例えばココに机が在るとして、僕にはコノ机が見えている。コノ机は長方形でとても綺麗な形をしていますね、アナタにはどういう風に見えるか。オヤ、僕は今、無意識に常識とは名ばかりのフィルターに通してしまい、机が長方形の形をしていると、アナタも僕と同じコトをいった様に聴こえた、というワケです。何をいっても何をしても、この人間だれしもに備わってしまっている教育や学問等によって付着した知識と共に脳髄に摺り込まれた常識というフィルターで無意識に又は無意識の意識で都合良く美しく変換してしまう。であるからして僕が何をいおうと何をしようと無意味で、無駄で、無関係な事になり、同様にアナタでさえ今ココに居て何をいおうと無意味で、無駄で、無関係で、更にいうとコノ世界は僕に動かされている人形たちの物語に過ぎないのです。エエ、僕は神なんだと思います。同様にアナタも神なんだと思います。神なんて己の脳髄にしか認知できず、無宗教であっても神という名でなくても人間はイツだって都合良く信じ疑う。友情や愛情といった人情に裏切られ打ちひしぐ過程で余りの薄っぺらさに気付く頃には、信じ疑う存在が自分に成る。コノ世界の僕タチが今いるであろうこの空間を、二次元的に見るか三次元的に見るか。コノ見方によって、齟齬が生じてしまうから、物事を決め付ける執着を止めれば楽になりますよ。この机を壁と、僕の事を一斤のパンと決め付けも良い権利は誰にでもあって、常識なんて誰にも説けないのだからアナタは何を怒鳴り何を屁理屈と一点張りしているのか、僕には理解しかねる。アナタは物事を二次元的に見ていますね。僕は三次元的に見えているので、アナタの断面は理解してあげられます、絵画のように抽象的な新聞のどでかい一面記事が重なって構成されている。そんなアナタに対していえる事があります、これは総ての人間に胸を張っていえる事です。人間が冷静さを失って考えず、上のモノから教わった定型文を大声でいうだけなら、もはや人間である必要は無いと」
その後、一週間ほど本物の独房に閉じ込められ、警察は半ば諦め気味に正気ではないという事でこの子を措置入院させ、実質の保留となった。この子が閉じ込められた独房には、自らの糞で壁に『世界』と書かれていて、事情聴取時も世界という単語が百何てものでなく使用していたから恐らくこの子は世界の真実を知って狂ってしまったのだ。
その後もこの子は未だ確かではないと精神科病棟の独房と呼ばれる保護室に突っ込まれた。人間が人間に危害を加える事は罪ほかならず、加害者が精神異常者である場合は「犯罪」に「精神異常者の」が語頭に加わり、ムショには行けず強制的に監査員がつき『良くなる』まで病院に隔離される。入院になれば本物の独房よりは美味い飯が食えるが、具合が良くならなければ本物以上に拘束される。治るまでの期間が保障できない上監査員という人間のさじ加減に左右されて、監査員の人間性にも左右されるのだから。
精神異常者は、精神がマシにならない限り、全うな人間とマトモな会話は出来ない。なのでこの子はココにいる。ここは国立病院精神科の閉鎖病棟であり、精神科病院ではなく、そして私は看護婦ではない。そんな職に就いたってこの子とは居られないのだ。
私は、今この子が存在している世界ではない、それでいて俗にいう現実界でもない。現実界から、私とこの子以外のほとんどを消した世界に存在している。例えるならば、第一世界が現実界で、第二世界がココ、第三世界がこの子が行った世界とでもいおう、この子は現実界から病を上手く使って断ち切り、私を連れてこの世界へと逃げてきた。
この世界は現実界に居たこの子の邪魔を消した世界だが、私としても最高の世界だ。どこからともなく聞こえてくる声も音も髪を靡かす風も無い。この子と私しか居ない。現実では有り得ない二人ぼっちの世界だが今さっきこの子は私と稀なケンカをして次の世界へと行かれてしまった。こういった事はそりゃあ有るが、あっても一時間足らずで帰ってくるはずなのに余りに遅い。アッチの世界は楽しいのかなあ、それとも苦悩して戻るに戻れないのかなあ、この子を見る限りイヒイヒ笑っているから楽しいのだろうが私の何がいけなかった?……この世界に間違えて来たのかなという疑問が憂鬱を増す。
私はこの子が造り出した人間なのだ。ロボットでも人形でも決してない能ある人間。『タルパ』というのはチベット密教の秘奥義というのが本当みたいだがそんな小難しい説明は不要、単に自分の理想の人を作る事。秘奥義なんて格好の良い大層な名が付いているだけで、誰にでも出来る事ものなのだ。自分の考えうる都合の良い人格をドコかに映せば良いのだから、簡単に言えば妄想。妄想した可愛い/格好良い人間がソコに居ると定義し決め付ける、ただそれだけ。人類誕生も美化されているが同じ様なものであるとこの子は論じていたがその通りで、逆にいえばアダムとイヴは誰にでも成れるのだ。
例えば、僕がアノ人だったらこうするだろうと考え、ソノ人の人格を考え練り何かにソノ人格を映すという……小難しい事かもしれないが案外それが単純明快な事なのだ。自分が思っている理想や憧れを何かしらのモノに移すたったソレだけで出来てしまう。セックス無しでも人を生めるという事だ。産んだ人以外に認知できる人が少ないという事も幽霊と同じと考えればこれまた単純。私とこの子の外見は全く違えば、性別も違うが、根はほぼ同じで、次第に私は『私』という人格が出来たのでこうして親と喧嘩し、親の逃げる様を見ながら喜怒哀楽の感情が生じて……反省しながら勉強しているのだ。
何も上にのっていない机が在るとする。そこにリンゴが在る。と強く念じればそこにリンゴが在るという事。この子は何も無い空間に『私』を強く念じた。見えるものとは人間の脳髄がソコに何かが在ると決め付けをして思い込み判断によって出来る。ソコに在る何かとはこの場合、私であった。私は何も無い空間からこの子によって生まれた。
その上、私とは考えられる賢いタルパだからこの子と繋がっているワケで、でないとココに存在できず、更に自分の人格を持っているからして「我思う故に我在り」というデカルトの方法序説の命題の通りに生きてゆける。もっといえば誰かに認知される事が可能ならば、私は晴れてタルパの殻を破りヒトとして生きてゆける程まで成長できる。やってみるもんだなと我ながら感心するが、何をやったという実感は無く、私はただ、この子が楽に成ればとか、役に立てばとか、産みの親を想っている内にいつの間にか、こんな風に姿勢を楽にして呼吸が出来、余計な口まで出来ちゃったというワケである。
ふと思う、現実世界はどうなってるかなあ。
今、この子の世界はどうなってるかなあ。
私はこの子の世界に行く事が出来ない。
更に第一世界にも戻る事も出来ない。……そんな事を考えたら強く思考が脈動する。
今、この子が繕った第三世界ではきっと楽しい事で埋め尽くされているんだろうなあ。
今、第一世界はこの子の看病で忙しいんだろうなあ。糞尿の処理とか大変そうだなあ。
私はその狭間にいるワケで、やるせない。助けてやることもできない、何か失敗した時慰めてやる事すら出来ない。些細なケンカが発端で……やるせない、たまらない……。自分にひどい憤りすら感じる、ケンカは悲しみしか生み出さないと解っているからだ。
「……はあぁ……」
溜息を吐いてしまう。これは苦しみの溜息なのか、それとも疲れの溜息なのか。最早どっちでも良いと窓の外を見渡す。奇しくもこの景色は私の気分を癒してくれるのだ。本当に静かで……前世界のような人工的な光、ケータイや車の騒音、子供の泣き声……
本当に総て消えた。美しいモノも醜いモノも無いのが中庸みたいで徳の至れる世界だが
「でも実質……独りぼっち……か……」
ぽろっと弱音を誰にいうでもなく吐いてしまう。この子とはギブアンドテイクの関係で居たかった。無音の中、灯りは窓から入る日光と月光。癒されはするけれど焼き付いたこの病棟本来の役割の所為で、結果的に私がこの子を攻撃した状況も相まって、自然と焦燥感が込み上げてくる。自意識過剰が過ぎて人の心が判った気になり疑心暗鬼を生じ次第に悪口をいわれている様に思えてきて何もいわずに見境なく殴る蹴る様な人たちがここにやって来ては帰るのを見てきたから……いかん、私が落ち込んでどうするのだ。
「……ふふふふーん……ふふふふーん……。……ウウンっ!」
気を紛らわそうと出た鼻歌が『運命』で驚くも独り……。咳払いで誤魔化して廊下を軽快に歩いてデイルームの大きな窓の外を見渡す限りは当たり前に萌え立つ木々……。
「……っ!」
ちょっと恐くなって座ろうとしたパイプ椅子でガラス窓を思い切り叩いてみるが……
ガンッと音を立てて跳ね返される。私には壁と同じ硬さのガラスだった。そうだよね、普通のガラスだと発狂した人が割るかもしれないし強化ガラスかな、良く出来てるな。
「は……はあ……なんだってまあ今日は……ヘンだな……」
言い訳をするも独り……。そうだ、こういう時は眠るが一番だ、寝て夢を見るのだ。パイプ椅子のベッドを作り横に成る。偶然だ、こんなの私は何度だって経験してきた、これからも経験する……なんでか今回は胸がざわつく。得も言われぬ不安を感じるのはあの子の戻りが遅い事から焦りが始まりヤな偶然が重なったからだ。絶対そうなんだ。
「ああもう! おやすみなさい! 私が起きる時はアナタの声で!」
眼を瞑る……初めの内はこの星々が怖かった。バラバラに泳ぐ無数の星々を見ながらボーッと考えていれば、星たちがドンドンくっ付いて形を成して自分の正直な深層心理みたいなモノを魅せられている様で、視点を変えても着いてくるから。そういうモノは知らない方が良いのだ、まだ早いのだと自分にいい聞かせ気を散らそうとしても眼球は意味の有るモノを意思に反して探してしまう。それを繰り返していくとドンドン星達の思考投影のような形成は巧くなってゆくから胸は高鳴り思考も激しくなってゆく……。
でも今はもう怖くない、その星々はただ形作る事が好きなだけの様で其れを凝視され期待もされるのは嫌みたいで、眼球を押し出し、その形の意味する所は?……とジッと睨みつけてやると星々はより発光し瞼の裏皮に何だ何だと留まり睨み返すだけだから。
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