ブレイキング・アウェイ 2

 男は信号が変わったのと同時にアクセルを踏んだ。ハンドルを握る拳の力が強くなる。

「その、死体っていうのは……」

 遊剛ははっとした。あの若い男――の死体――が、三億円事件を報じた新聞記事を持っていたことを思い出す。

「あれが……『蟻坂ありさかアキラ』……?」

 口に出してみて、アリサカという苗字とアキラという名前で頭韻を踏んでいることに気づく。それを冗談交じりに口にしようとしたとき、彼の表情にただならぬ動揺が浮かんでいることを察し、噛み殺すことにした。

「お前、蟻坂の顔が分かんのか」

「……いや、シュリに写真を見せてもらったけど……正直覚えてない」

 まさか、と思う。たまたま見つけた死体が三億円事件の実行犯で、彼らの仲間だった、なんて出来すぎだ。遊剛は例の、新聞のモンタージュ写真を連想し、あの死体と照らし合わせる。どう考えたって合致しない。新聞の紙面からこちらを鈍く睨みつけるあの眼光も、あの死体の潰れた目からは当然感じない。

「蟻坂は……殺されたんだろうな」

「殺……え?」

「あいつはいろんな連中から狙われてたからな。お前、『超能力』について知ってるんだろ?」

 突然会話が飛躍し、遊剛は素早く瞬きをする。

「まぁ、はい」

「ナチュラルボーンの超能力……蟻坂は特別な力を持ってた、珍しいやつだった。選ばれし者、ともいうかもね」

 遊剛はとっさに言葉を返すことができなかった。男は構わず、発言を続ける。

「それで、あいつの力っていうのが……」


 ここで、クラクションのヒステリックな音が残響した。遊剛は肩を短く震わせる。

 男は急ブレーキをかけ、いきなり道路に飛び出してきた子どもをフロントガラスごしに睨みつけ、舌打ちする。再びクラスションを拳で殴る。

「ビックリさせんなよ。クソガキが……」

 腰を抜かしてしまったのか、十歳くらいのその男児は歩道に立ち尽くしたまま、そのから逃げようとしない。ただ、遊剛たちの乗った軽自動車をじっと見つめるようにそこに鎮座していた。

「なんだこいつ。どけっての」

 男はクラクションを連打する。それでも、子どもはそこから動こうとしない。まるで、進路を塞ごうとするかのように。

「はぁ? 勘弁しろよ……」

 膠着状態が続いた結果、遊剛たちの後ろに数台の車が連なりだした。痺れを切らし、男は運転席から降りた。フロントガラスから顛末を見ると、彼はその男児を軽く小突き、無理やり抱き抱えるようにして歩道へと運んだ。

 男が戻ってくる。

「やっちまったな。いまので嵌められたかも分かんねぇわ」

「え?」

「なぁ。俺たちが今向かってるのは……」

 ここで唐突に、男はなにやら店名と思わしき固有名詞を口にした。

「ちょっとまって! そもそも、ここは東京のどこなんですか。なにもわからない」

 そうか、と男は冷ややかに言った。

「……ここは『中野』だ。あと二十分くらい道なりに着く」

 なに、なに、なんの話?

 男は言葉を連ねる。

「今のうちに伝えておくわ。俺は火村。火村ひむらのぶ。本当は嫌だけど、みんなは『ヒムラー』って呼ぶから……お前もそれでいい」

「ヒムラー」

 聞いたことがあるような響きだった。不確定なデジャブではなくて、つい最近、聞き覚えがあったような……でも、シュリの仲間は二人だったはずだ。火村……ヒムラーが『四人目』のメンバーだとしたら、なぜシュリは彼の存在を伏せたのだろう?

 ヒムラーというのはハインリヒ・ヒムラー、ナチス官僚の、ヒトラーの側近と同じ名前だが、彼の振る舞いからはまさにそれのような、類まれな暴力性や残忍性を孕んでいるように思えた。

 それは何より、どうして今、このタイミングで名乗ったの?

「お前は? 教えたくなきゃ別にいいけどさ」

 質問する前に問われる。

出原いではら遊剛ゆうごう。遊ぶに剛健とかの剛で、遊剛です」

「お前それ……生まれつき無い、ってわけじゃなさそうだな」

 火村の目線から察する。

 あ、腕。あえて触れなかったわけではないんだ。

「ヤクザに絡まれて。切断されたんです」

「そうか」

「……食いつき悪いですね。切られたばっかだから、まだ痛いんですけど」

「今それどころじゃねぇからな」

「そうなんですか?」

「降りるぞ」

「え?」

 話が噛み合わない。

「いいか。死にたくなけりゃ、これから絶対に

「へ?」

「お前、紙、持ってるか? 紙」

「か、かみ?」

 今の遊剛にできることは物覚えの悪い幼児のように疑問を飛ばし続けることしかなかった。

「なんでもいいから。ないか?」

「かみ? ……って?」

「チリ紙でも紙幣でもなんでもいいよ! ねぇのかよ!」

「あっ、あります」

 ポケットの中の財布を取り出し、その中の五百円札を抜き出す。火村はその先端を掴んで強引に奪い取った。すぐさま、それを片手で二つ折りにする。


「うわ」

 遊剛は声を漏らす。さっきまで自分たちが乗っていた軽自動車が、音も立てずに忽然と消えた――

 のではなかった。スクラップにされたかのように、一枚の板になって、にされていた。平面になった車両の底、タイヤやらエンジン部がまるで描かれた絵のようになっている。

「こっからは歩く。ここに車は置いてく」

「これが、ヒムラーの力……?」

「ああ。詳細は後で教えてやるから、とにかく急ぐぞ。お前は常に後ろ向いて歩け。で、何か見つけたらすぐ俺に教えろ」

 遊剛は不自然に頷く。あたかも草食動物然とした視線を配らせつつ、背後を火村に任せ、ゆっくりと後退を続ける。

 そのさなか、来るところまで来たな、と思う。

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