第1話

「やっぱり、まだ……」

「すみません……」

「いや、自分を責めちゃいけないよゆっくり慣れていけば」

春奈さんは何度も頭を下げる。

俺はそれをただただ見ていることしかできなかった。

あの日、俺らの目の前で起きた凄絶な事件。

欲と陰謀という黒い渦に巻き込まれた一人の人間が、引き起こした悲しい殺人事件。

俺はその事件で友人を、彼女はすべてを失った。

普段こそ普通にしている彼女だが、心の傷は計り知れない。

俺がどうこうできる問題ではないが、少しでも力になれるのなら力になろうと思う。

それが俺の……彼女の母親を、俺の友人を、そして"あの人"を助けられなかった俺の罪滅ぼしになると信じて。

「春奈さんあとは俺がやっておくから、座ってて」

春奈さんを台所が見えない位置に座らせると、俺は料理をつづける。

出来上がったばかりの味噌汁はどこか、塩辛い味がした。

春奈さんと同居を始めてからすでに3カ月が経とうとしている。

いまだに春奈さんは、火と血がダメだ。

見るだけで、体が震えてしまう。

明らかにあの事件のトラウマだ。

俺自身も克服したとは言えない。

どれだけ取材に行っても、どれだけいろんな場所へ行っても、赤月村を感じてしまう。

自分の中で踏ん切りをつけたつもりだった。

それができていなかったことは事実だ。

現にいまでも、こうしてあの事件を思い返してしまう。

だが、俺がこんな状態ではいけないのもまた、事実だ。

春奈さんは俺に見せようとはしないが、無理をしているだろう。

伊達に3か月も一緒に住んでいない。

どうにかしないといけないな……。

天井を見上げてみる。

真っ白な天井には目立つ汚れはない。

ただそこにあるだけだ。

なにか答えを教えてくれるわけではない。

どうしようか……。

そんな風に考えていると、突然スマートフォンが鳴り響いた。

俺は慌てて電話に出る。

「はい、九十九です」

『あ、恭介君? 僕、沢田だけど』。

「あ、お疲れ様です」

沢田さんは、いつも俺の原稿を引き取ってくれる出版社の編集長だ。

俺がフリーライターになりたての頃から面倒を見てくれている。

でも、突然なんだろう……。

とてつもなく嫌な予感がする。

『突然だけど、"白百合の幻影"っていう伝承は知っているかい?』

「"白百合の幻影"……ですか……聞いたことがないですね」

『本当かい? それじゃあ、草加島も知らないよね?』

「ええ」

『そうか……まぁいいや。ちょっといま時間大丈夫?』

「大丈夫ですよ」

嫌な予感はどんどん積もっていく。

『本土からすこし離れた場所にある草加島っていう小島にね、"白百合の幻影"っていう伝承が残っているんだ。その伝承というのが"白百合の幻影に魅せられて黄泉へと誘(いざ)われる"っていうものなんだ。なんでも、漁師の奥さんがその場所で亡くなった夫の幻影をみてなくなった……と伝えられていてね』

「伝承……のままですね。でも、どうしてそんな話を?」

『取材に言ってきてほしいんだ、草加島に』

「取材ですか……」

嫌な予感は大的中。

沢田さんは俺の原稿を引き取ってくれる人なのだが、時々こうした話を持ち掛けてくる。

もちろん報酬は出るため、断る道理もないのだが……俺がこうして乗り気じゃないのにも少し訳がある。

『そうそう。今の時期は少し寒いだろうから、防寒対策はばっちりね』

「一応聞きますが、それってそっちに来た依頼をこっちに回しているわけじゃないですよね?」

『え? そうだけど?』

「……」

またか。

沢井さんは人手が足りない時や自分が行きたくないときはこうして俺に依頼を回してくる。

日本の会社の下請けのようなものと思っているのか、便利屋だと思っているのか。

と文句を垂れてもこの仕事を受けるしかない。

「わかりました細かい話はまた後日、そちらに伺ったときにでも」

『わかった、じゃあ待ってるからね』。

電話を終えると、春奈さんは目をキラキラとさせながらこちらを見ていた。

「取材ですか?」

「ああ草加島っていうところに行くんだ」

「草加島ですか……聞いたことありませんね」

「俺も聞いたことがない島だよ……そうだ!」

俺は春奈さんの方を向く。

「一緒に行かない? たまには遠くまで行くのもいいかもしれないよ」

「……いいですね! 行きましょう!!」

さきほどまで落ち込んでいた様子を見せていたが、春奈さんは満面の笑みを見せてくれた。

嬉々として準備を始める春奈さんを横目に、俺は天井を見上げる。

草加島か……いい思い出が残せるといいな。

この時の俺は、本当にそう思っていた。

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