コップの歯ブラシ
脱いだストッキングを洗濯カゴに放り込む。
化粧を落とそうと鏡を見ると、連日の深夜残業でやつれた顔があった。
(歳をとる前に結婚したい)
結婚を意識するのは、仕事で疲れた時と、祖母と電話している時だ。
去年、足の骨を折ってから急に弱り始めた祖母は、寝付けない夜には波留に電話をする。家族の近況や仕事の話題が一通り終わると、必ず「死ぬ前に、波留ちゃんの花嫁姿が見たいわ」で会話を締めくくるのだ。
「いい人がいればね」
波留は逃げるように電話を切る。
ナーバスになっているのは先週末いとこの結婚式へ参列したのも影響している。ブーケトスの花束は、嫌がらせのように真っ直ぐ波留の元へ降ってきた。挙げ句の果てに、いとこには同僚の独身男性を二人も紹介された。
そもそも、「彼氏」がいない。
東京は出会いが多い。特定の彼氏がいないことに危機感を持てないまま、20代後半になった。不思議なことに、彼氏はいないのにデートもセックスもしているのだ。現代社会の闇かもしれない。
いい男が適度にちやほやしてくれるこの街で、「付き合う」ということの価値が低くなっている。もちろん、このままでは30歳を過ぎてから痛い目を見るのはわかっている。だから、焦る前に結婚したい。しかしそう思っている時点で、もう焦っているのだ。
洗面台のコップに、見慣れない歯ブラシがあった。波留のものはピンク。もう1本のブルーの歯ブラシは、この間智が泊まりに来た時に使ったものだろう。
この家に来る男は智だけだ。
(「セフレ」の家に歯ブラシを放置できるなんて、すごい)
自分は絶対にそんなことできない。次に部屋に行った時、捨てられていたら悲しくて立ち直れないから。
彼が歯ブラシを残したことに、深い意味なんてない。理由は単に、泊まりに来る時に便利だから。片耳のピアスをわざとベッドサイドに忘れていくようなことをするのは、女だけなのだ。
だからコップに入った2本の歯ブラシを見て、波留が何を感じるかなんて、想像もつかないだろう。
これから毎日、朝と夜の2回、波留は歯を磨く時に智を思い出す。
お風呂場は、日常だ。
最近気になり始めたシミの数を数え、美白パックを顔に貼り付け、洗濯機を回しながら明日の献立を考える。些末な日々に、恋愛は存在しない。
考えたら切なくなるから、智のことは非日常として思考から切り離している。
なのに、歯ブラシなんて置くから。
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