夜空を仰げば

篠岡遼佳

最後の海

 ざざぁ、ざざぁ、という波の水音が、耳から離れない。

 こんな深くまで来ても、ずっと海は水を巡らせているのだな、と私は思った。


 ――ドォン


 水音に混じって、遠く彼方に花火が広がる。

 見上げれば、藍色の夜空に、金色、琥珀色、赤、朱の色、緑にブルーが水中に広がる。色が変わる度、歓声がやはりここまで聞こえた。

 私は耳のひれを動かし、それに隠れた耳朶を少しこすった。花火の音は深く広がるから、なんだか耳がかゆいのだ。お風呂はちゃんと入ってきたのにな。腕や首はもちろん、髪もきちんと結ったし、尾の先っぽまで磨いたつもりだ。

 今日という日は、私にとって特別な日になるから。


 緩やかに深海を目指す。整然と並んだ灯火の精のあかりは、水中でも消えることはない。私はそれに導かれるように、下半身をゆったりと動かし、海中を泳ぐ。

 海底に並ぶその道で、その人は待っていた。

「やあ、よくここまで来れたね。人魚さん」

 そう、私は人魚だ。そして、

「そっちこそ、なんで息が続いているのかな、人間さん」

 にこにことランタンを持っているのは、人間の青年だった。

「僕は特別製だから、溺れたりしないんだ」

「でも全然泳ぎは上手にならなかったわね。なんで足を動かしているのに前に進まないのよ」

「僕は特別製だから、そういう風にもできている」

 そう言って、彼は私に手を差し出してきた。

 私はその手をそっと握って泳ぎ、彼の方はどういう理屈なのか、丘を踏みしめて歩いて行く。彼の手は、こんな深海でも冷たさを感じず、ほのかに暖かく、なんだかごつごつしている。男性の指というものに滅多に触れないので、なんだかめずらしい。

「気になるの? 俺の手」

「不思議だわ。なんで同じ形なのに、性別で差があるのかしら」

「人魚さんたちは女性型だからね、うつくしくできているんだ」

「私もそう?」

 私は意地悪くそう尋ねてみる。

「もちろん、そう」

 彼はそんなことを言って、私の手を引き寄せ、中指の爪にキスをする。

「どこをとってもうつくしい」

 本気だとわかるくらい真摯な声だから、私は思わずそっぽを向いてしまう。素直になれないのは、私のよくない癖だと母はいっていたが、こんな人相手だったら誰だって真っ赤な顔を見られたくないと思うに違いない。

 恥ずかしいのが恥ずかしいので、私は言った。

「それで? どこに連れて行くつもり? 人間さん」

「今日はちょっと珍しいところへ。君が降りてきてくれたから、見せたいものがあって。」

 そうこうしているうちに、濃い青と薄い青で限りなく色わけられた世界に、何ごとか波に揺れている、青ではないものがある。

「さあ、見えてきた。もう君ならなんなのか見えるんじゃないかな?」

「あれは、……花?」

「そうだよ、君が見たいと言っていた花」

「だって、そんなこと……」

 ――できるはずがない、そういう前に、その丘がはっきりと見えてきた。

 水面と言うより、天に向かって花が咲いている。

 この花は、そう、向日葵という、夏に陸上で咲く花。

 それが、丘中を彩っていた。

 淡い海中のブルーと混じり合いつつ、きっぱり自己主張する、背の高い黄色の花々。

「すごい……」

 私は思わず、そっとその花びらに触れた。まるでよく磨いた貝のように、するりとした不思議な感触だ。葉っぱはとっても大きく、思っていたより茎はしっかりしてちくちくする。

 ぐるりと見渡してみると、大勢の花々に圧倒されそうだ。真夏の太陽を、こんな深海まで特別に持ってきたみたいだ。

 向日葵畑を見たいと言ったのは確かに私だが、一体どうやってこんなことを?

 そう思うけれど、息もせず海底をてくてく歩いている人に、そんなことを聞くのは仕様もないことだと思い直した。

「ねえ、すごいわ。すごい。あなたはきっとすごい魔法使いなのね」

「いやいや、俺だって、とっても苦労をしたんだよ。――今日に合わせるためにね」

「――今日」

「そうだよ。君と会って、ひと月になる」

「う、うん」

 私は意味もなく、姉さんが貸してくれた真珠のネックレスをちょっといじる。

「君に会ってからたくさん本を読んだよ。人魚の話は、きりがないね。肉を食べたり血を飲むと不老不死になるとか、何かを引き換えにしないと人間の姿になれないとか、泡になって消える話まである。まるで理不尽だ」

 彼は言いながら怒っているようだった。

 そう、私たち人魚にまつわる話は、人間相手だとひどい話が多い。それは、自衛のひとつなのだ。先んじて、人魚のイメージを固めてしまうという。できる限り人間とは距離を置いて暮らしているが、同じ海を生活場所とする以上、人魚に対する憧れや、妬みのような話は尽きない。

 もちろん、実際に人魚を食べたって、不老不死になる引き換えに、その人は記憶を失ってしまうのだけれど、語り手のいなくなった昔話は正確には伝わらないものだ。

「だから、人魚の掟なんてあんまり詳しく残ってなかった。まさか、こんなにすぐに……その……決めなきゃいけないなんて」

 ぐっと手を握り、彼はこちらへ向き直った。

 そう、今日は人魚に出会って月の満ち欠けが一周する日。特別な満月の日。

 それを過ぎると、人魚は去らなければいけない。人間に会った以上、これ以上騒ぎが大きくならないように。

「……上を見て」

 言われるがまま、私は上を向いた。彼も、私にそっと寄り添って、海面を見上げている。

「少し、待って」

 彼は、言うと、さっと自分の頭上を撫でるような仕草をした。

 すると、水面が急に凪ぎ、硝子を嵌めたように夜空がくっきりと見える。

 そして、


 ――ドォン


 きらきら、花火がその硝子からはっきりと見えた。

 金色、琥珀、桜貝、ブルー、白、緑、向日葵の色、それから……。


「――――見て」


 彼がそして夜空の藍色を指をさした。

 その先から、音もなく銀色の星が流れた。

 いくつも、いくつも、願う暇もないくらい素早く、けれどたくさんの光が。


 向日葵に、花火に、満月に、流れ星。

 ただただ私は圧倒されて、空を見上げていた。

 胸がいっぱいになる。

 これを用意してくれたのが、彼だということを、知っているから。


「どうか、俺についてきてほしい。絶対幸せにする。結婚しよう」


 そう言われることも、ずっと期待していたから。

 私の返事は、ひとつだけだ。


「――はい。この人生を、あなたと歩みます」


 その言葉ひとつで、私は変化する。

 耳のひれを失い、魚の体は二本の足となり、海中で息ができなくなる。

 恋した人魚は魔法の呪文で、歩みを授かるのだ。



 海面まで上昇し、息をした私たちは、きつく抱きしめ合った。

 彼はまだ赤面したまま、私に無言で問いかける。

 私はそれに、微笑みで返した。







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夜空を仰げば 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka

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