プロローグ(下)

 中学生のような少女の姿。腰まで届こうかという長い髪は首の辺りで束ねられており、装飾品の類はそのリボンだけだ。身長はあまり高くなく、体型は至って標準的だ。だが、ヒトのような部分はそこだけだった。肩甲骨の辺りからは一対の翼が生え、まるで白磁のような無機質な肌は淡い光を発していた。天使の形をした人形とでも形容しようか。表情の読み取れない無機質な相貌そうぼうが、異様さを助長させる。


 どこから来た?


 問うまでもない。“そいつ”の背後に鎮座するモニターに目をやる。やはりというか、腕が消えていた。それだけで“そいつ”が、あの腕の主だろうことは容易に連想できた。


 何をしている?


 状況が呑み込めず、思考が停止する。“そいつ”は、まるでダチョウの卵を掲げるように茉奈の頭部を掴み、高々と持ち上げていた。一方の茉奈は“そいつ”の腕を掴んだり、体をよじったりして抵抗を試みているが、“そいつ”はまるで意に介していないようだった。床から十センチばかり離れたつま先に、人はこんなにも簡単に浮かぶものかと、背筋に冷たい物が流れる。

「――、――――、――、――――――、――――、――――、――――――、――、」

 ふと、“そいつ”口元が細かく動き、何かを呟いている事に気が付いた。高速で発せられており、内容は理解できない。ただ、直感的に止めなければいけないと思った。

――やめろ!

 にもかかわらず、たった三文字が出てこない。思考ばかりがぐるぐる回る。

 どうすれば奴の手から茉奈を解放できる?

 話し合いが通じるような相手には見えない。そもそも日本語が通じるかどうかも怪しい。ならば実力行使か。だが、どれだけ茉奈が抵抗しても文字通りびくともしなかったような奴だ。果たして敵うだろうか。

「ッ!」

 と、カチャンと高い音を鳴らして、足裏に鋭い痛みが突き刺さった。慌てて足を上げて下を見れば、先ほど落としたカレー皿の破片が目についた。知らず、奴と距離を離していたらしい。

――俺はまた、茉奈を見捨てるのか?

 自分の情けなさが嫌になる。ひと際鋭そうな破片を手に取り、再度室内に戻る。ほんの数秒で、奴の手の中でもがく茉奈から力が抜けていた。逃げだしたい気持ちを堪え、口を開く。

「お、おい」

 出てきたのは思いの外情けない声だった。聞こえていないのか、依然、奴の口元は動き続けている。まっすぐに破片を突き出してみたが、こけおどしにもならない。

「悠ちゃ……大丈だいじょう――」

 代わりに応えたのは茉奈だった。消え入りそうなか細い声で、平気を繕う。もはや抗う力も残っていないくせに、尚、気遣わせてしまった自分が腹立たしい。破片を握る右手に力が入る。

「おい! 茉奈を離せ!」

 部屋中に響く声で、再度奴を呼びかける。だが、奴は俺など歯牙にもかけない。ならばやることは一つだ。

 破片コイツを奴の体に突き立てる。

 結果がどうなるかは分からない。機械なのか生物なのかも不明な体だ。陶器の破片くらいではビクともしないかもしれないし、あるいは冗談みたいな出血をするかもしれない。わかっているのは、茉奈を引きはがすには、俺が動かなければいけないということだけだ。

 ぬるぬると滑る破片をさらに力を込めて持ち直し、テークバックをとる。半歩片足を前に出し、後ろに体重をかける。鼻で大きく息を吸い、口から一気に吐き出す。はらは決まった。

「らぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 着地の事を一切考えない、全体重を乗せた一撃。鋭い刃となった破片は、奴の首筋に吸い寄せられるように突き進み、深々と突き刺さる――筈だった。

「あ?」

 振り抜いた拳の重さに引っ張られて、体が浮き上がる。妙な浮遊感を覚えながら、やはり妙な声が出てしまう。


 突き刺さらないほど、奴が頑丈だったわけではない。

 身の危険を感じて、直前に抵抗してきたわけでもない。


 何もされなかった。

 何も出来なかった。


 奴の首筋に飲み込まれた切っ先は、しかし奴に一切触れることなく真っすぐに貫通した。肉を貫く感触も、骨に跳ね返される感覚もない。

 首筋。

 腕。

 肩。

 胸元。

 そして顔面に至るまで、何一つ手応えなく奴の体をすり抜けていく。受け止めるものがなく勢いを殺しきれなかった俺の体は、壁まで激しく転がることになった。受け身も取れず無様に打ち付けられる。その衝撃は大きく、机のあたりから派手な音がした。

「……ってぇ」

 鈍い痛みをこらえ、両手で体を起こす。先ほどの衝撃で落下したのだろう、手元には机上にあるはずのキーボードが転がっていた。視線でコードを辿っていくと、筐体は横転し、モニターは明後日の方向を向いている。そして、そのそばには、

「――、――――、――――――、――」

 まるで何事もなかったかのように、茉奈を持ち上げ続けている奴がいた。足の中には、血糊ちのりに濡れた陶器片が転がっている。

――この野郎!

 奴を睨みつけながら、心の中で毒づく。節々が痛み、呼吸が上手くできない。だが、体は動かない代わりに、頭は驚くほど冴えていた。渾身の一撃は空振りに終わったが、先ほどの出来事で分かったことがある。

 あの天使には実体がない。

 なぜ茉奈は浮き上がっているのかとか、声はどこから出ているのかとか、細かい事はよくわからない。とにかく事実として、奴は立体映像のようなもので捕らえられる実体がない。そして立体映像なら出力装置がある筈だ。それは何か。現時点で考えられる候補は一つしかない。

 這うようにパイプデスクににじり寄り、眼下がんか睥睨へいげいする。そこには横倒しになった黒い箱。側面からは数本のコードが伸び、内部では冷却用のファンが風を切る。

「……コイツを止めれば」

 すなわち、PCの本体だ。

 あの天使がなんなのかは未だ謎のままだが、このPCから出たのは間違いない。であれば出力装置として、これ以上の候補は無いだろう。

 筐体に覆いかぶさり、血に濡れる手で電源コードを掴む。これを引き抜けば、奴は消える筈だ。うだうだと考えたりせず、最初からこうしておけば良かったのだ。自分の決断の遅さに後悔しつつ、コードを握る手に力をめる。

「待って!」

 制したのは茉奈だった。思わず顔を上げ、天使越しに茉奈に問いかける。

「何言って――」

「……待って。あと……少……し、なの」

 待つ?

 何を?

 何があと少しなんだ?

 疑問符ばかりが浮かぶ脳内に、静かな音が流れ込んだ。

町村まちむら茉奈花まなかの同期が完了しました」

 奴がそう呟いた直後、意味を理解するよりも早く、強烈な光が室内を満たした。カメラのフラッシュのような瞬間的な光だったが、網膜がマヒするには十分だった。自身の位置さえ分からなくなるほどの猛烈な光の波に、眩暈めまいを起こす。眼球を何度も揉みながら、徐々に目を慣らしていく。やがてそろそろと目を開くと、そこには

「茉奈?」

 静かに呼吸を繰り返して横たわる茉奈の姿だけがあった。

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