Angel.exe

葉月 弐斗一

プロローグ(上)

 情報セキュリティーの基本原則として、「提供元が不鮮明な情報にアクセスしない」という警告がある。例えば、インターネット上に存在する、あるウェブサイトにアクセスしたらウィルスに感染したという話は枚挙に暇がない。無論、このサイトは安全だが。その他にも、電子メールに添付されたファイルや、あらゆる方法で提供される種々のアプリケーションに潜伏して感染するウィルスというものも聞いたことがある筈だ。

 警告や禁忌というのは、ほぼ全て、先人たちの尊い犠牲のもとに成り立っている。自分と同じ思いをする人が、これ以上現れないようにという配慮こそ、警告だ。それは情報の分野でも変わらない。

 そう、警告とは配慮であり、すでに被害が報告されている事の証左なのだ。


 デスクチェアに背中を預けて、天井を仰いだ。電気の通っていない蛍光灯と目が合う。ブラインドの隙間から漏れ入った夕陽に、思わず腕で目を隠してしまう。さらに体を沈めると、体重を受け止める音がした。耳障りな音ではあるが、目下忌々いまいましい事態に翻弄ほんろうされている今この状況では些末さまつな事だった。

「どうすんだよ、これ」

 体勢を戻して吐き捨てるように呟く。チラリとパイプデスクに目をやる。USBハブに差された、見覚えのないリムーバブルディスク。モニターには不吉の象徴のような青い画面。机下に設置した本体内部で、種々の機械が動作する音がする。要は外部メディアによるクラッシュだ。どんなファイルが悪さをしたのかはわからない。なぜなら――

「……ごめん」

 傍らに立つ張本人が先ほどからずっとこんな調子だからだ。珍しくしおらしい謝り方をしている茉奈まなだが、今回ばかりはさすがに反省しているらしい。つまりは、この幼馴染がやらかしてくれたのだ。

 安全性はおろか、中身が何なのかすらわからないようなUSBメモリを――

 こともあろうに俺のPCに――

 制止されないために、仕事で不在なタイミングを狙って――

 さらには、どこで手に入れたのか、がんとして話せないと来ている。制服のままだという事は学校から直接来たのだろう。相変わらず悪戯に込める情熱は大したものだが、やられるこちらとしてはたまったものではない。

 お手上げだ。せめて差された瞬間に立ち会えていたなら、何が起きているのかくらいは理解できたかもしれない。最悪、電源を強制的に落とすという選択肢もあっただろう。だが、モニターから起きている異常事態のせいでそれは叶わなかった。

 端的に言うとモニターから手が生えていた。細く長い指や、あまり筋肉のついていない腕からして、恐らく女性のものだろう。俺が帰宅した時点では指先がわずかに見えていた程度だが、十分足らずで二の腕の中ほどまで伸びていた。それに伴い、今ではモニターの中央から頭頂部らしき膨らみも見え始めていた。自然発光しているのか、まるで蓄光塗料を塗ったようにほのかに白く光っているため、肌や髪の色は分からない。

 モニターから人が出てくるなど、悪い夢ではないかと思う。古いホラー映画のようだ。映画では電源を必死に消そうとしていたが、実際に同じ場面に出くわすとあまりの奇想天外さに見守ることしかできない。這い出るようにではなく、ただまっすぐに腕が伸びているため、やや怖さに欠けるというのもあるのかもしれない。

「……ごめん」

 何度目かもわからない謝罪の言葉。だがこの場においては、謝罪より解決に結ぶ糸口が欲しかった。神経に異常をきたしているというのなら、解決策がハッキリしている分そちらの方が幾分いくぶんもましだ。モニターから人が出る現象について少しの間スマートフォンで調べてみたが、アニメにもなったことがある電脳空間を舞台に生きるキャラクターや、それに類似する作品の事しか分からなかった。USBメモリも――俺の持ち物ではないが――市販されている物で、大きな不具合の報告も見当たらない結局、机から距離をとり、成り行きを見守るしか出来ない自分に苛立ちと焦燥感が募る。

「もう良いよ。それより飯食うか?」

「へ?」

 俺の言葉に茉奈が素っ頓狂な言葉を返すが、自分でもどうしてそんな事を言ったのか分からなかった。もしかしたら、自身でも気が付かないほど心身が疲れ切っていたのかもしれない。よく考えれば、アパートに帰ってすぐ事にあたったため、着替えすら済んでいない。腕を生やしたPCを尻目に、クローゼットの方へと向かう。汗に湿ったYシャツを脱ぎ捨て、部屋着に着替えていると、茉奈が俺を呼んだ。

ゆうちゃん、これ放っとくの?」

「うん。それ見て、何かあったら教えて」

 着替え終え、Yシャツを拾う俺に、狼狽ろうばいした茉奈が問いかける。対する俺の返答は短い。

 そもそも、現在のところ調べられる情報は無いのだ。警察や役所に相談したところで、いたずらだと処理されるのが関の山だろう。良い物か悪い物かの判断も出来ない以上、家を出て避難するのも違う気がする。状況を確認しない事には、最悪ホームレスだ。ならば、ギリギリまでここに居て観察した方がましな気がする。幸い、腕だけでおよそ十分かかっているという観察結果も出ている。肩から下が何センチあるのか分からないが、全身が出るまで三十分ないしは一時間はある筈だ。時刻的にも夕飯に早すぎるということは無いだろう。

 理解が追いつかない茉奈を放っておいて、台所の方へと向かう。ワンルームの部屋と廊下の境で、俺とPCを交互に見やる茉奈が鬱陶うっとうしい。鍋に水を張りながら、茉奈に問いかけた。

「それで?」

「え?」

「どうすんだよ、飯。食べる? 食べない?」

「食べる……けど」

 応える茉奈の言葉は明らかに納得していないようだった。夕飯を食べながらでも説明しようと思いつつ、鍋を火にかける。続いて買い置きのレトルトカレーを二つ、鍋に入れる。まだ沸いてはいないが、いずれ温まるだろう。パウチを温めている間に、冷凍したご飯を二食分取り出す。それぞれカレー皿に広げて電子レンジに置いてみるが、さすがに二皿はターンテーブルが回らなくなりそうだった。

「仕方ない」

 横着は諦めて一食分ずつ解凍することにするしかなさそうだ。一皿だけ取り出して電子レンジの扉を閉める。取り出した皿を片手に持ちレンジを回すと、橙色だいだいいろに照らされながらターンテーブルが回り始めた。皿が一周する間だけ様子を見てみたが、問題はなさそうだ。さて、持ったままの皿を――

「きゃああああああああああああああああああああああ!」

 置こうかとした矢先、部屋の方から聞こえた悲鳴に思わず落としてしまった。高い音を出して皿が割れるが、今は茉奈の方が最優先だ。慌てて部屋に駆け込む。

「どうした……!?」

 勢いよく部屋に飛び込み、思いがけない光景に言葉を失った。

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