第16話 家督争い 稲生の戦い(長編注意)

美濃国で斎藤義龍による謀反により斎藤道三が死したことはすでに伝わっており家中には激震が走っていた。

しかしそこでさらに織田家中に衝撃を与える事実が織田家現当主の織田信長より尾張国内全域に通達された。

その通達範囲は織田家の居城や武家集だけでなく、町や村などの一民衆にまで及んだ。

そしてその知らせを受け、織田信長の弟の織田信行の居城となっている末森城には多くの織田家家臣が集まっていた。


「やはり大うつけに尾張や織田家を任せておくことはできませぬ!」


「斎藤家の内紛など介入せずにおればよかったのじゃ!

 わざわざ余計なことをして同盟国を敵に回すなど愚の骨頂!」


「そうじゃ!

 織田家は大うつけになどに任せてはおけん!」


「信行様!

 我ら、いつでも準備はできております!」


末森城の一室、上座に座る織田信行の前に多くの織田家家臣が集まっている。

末森城やその城下に居を構える武家集だけでなく、尾張全域から集まっているのは人数を見ればわかる。

しかしそれでも尾張国内の全武家集が信行のもとに集まったわけではない。


「出陣の下知はわしが下す

 必ず、だ

 故にそなた達の活躍に期待しておるぞ」


「ははっ!」


今はまだ出陣の時ではないと判断したのか、信行は出陣する意向が固まっていることだけを告げて今回の集まりは一度解散となった。


「秀貞はおるか?」


部屋に一人残った信行。

集まった武家集が去った後、部屋の外に控えている一人の臣下を呼び、部屋の中に招き入れる。


「はい

 失礼いたします」


信行派には中心となる二人の武将がいた。

一人は柴田勝家、織田家屈指の武闘派でその実力は尾張国内だけでなく近隣の武家集にも届いている。

そしてもう一人は林秀貞、柴田勝家ほどの武の才はないものの、内政の補佐や軍議に当たっての助言をするなど柴田勝家と並んで信行の両腕とも称される重要人物である。


「尾張国内の全武家集の動向は掴んでおるか?」


「ある程度は」


「申せ」


「はっ、かしこまりました」


上座に座る信行の前に座り一度頭を下げる林秀貞。

そして彼は今自分が知り得ている尾張国内の内情を話し始める。


「尾張国内の武家集は現在、三勢力に分かれております」


「ん?

 三勢力?

 わしと兄上以外にまだ尾張を狙う者がおるのか?」


「いえ、織田信長殿、織田信行殿、そのどちらの派にもつかぬ者共が第三勢力となっております」


「なるほど、どちらにつけばよいかわからぬどころか、どちらとも決められに者共がいるということか」


「はい

 その第三勢力はほぼ静観する見通しでございます」


「ならばあまり気にする必要はなかろう」


「私もそう思います

 ですがお耳に入れておこうかと」


「うむ、わかった

 それで、兄上とわし、どちらの派が優勢だ?」


「それはもちろん、信行様でございます

 第三勢力を除いた尾張国内の七割が信行様を支持しております

 総兵力もおおよそ七対三と我が方が有利に動いております」


「ふっ、兄上も当主として短い期間であったが腕を振るったのだ

 もう少し兵を集められるかと思ったが、やはりうつけはうつけであったか」


「はい

 此度の斎藤家との同盟の件、これが決定打となった模様でございます

 治世に関して評価は悪くなかったようでございますが、やはり当主となられるお方は他国との関係も重視して動けなければなりませぬ

 斎藤道三と斎藤義龍の兵力差は歴然でございました

 僅差ならばまだしも大差で劣る方の味方に付いて同盟が崩れ敵を増やすなど、当主たる人間の采配としては疑問を持つのが当然」


林秀貞も織田家は織田信行が率いるのが良いという判断をしている。

故に彼もまた、柴田勝家同様に織田信行を主君として見ている。

織田信長はその主君が織田家と尾張を手中に収める障害に過ぎないのだ。


「信行様

勝家、ただいま戻りましてございます」


「おお、戻ったか

 して、斎藤義龍は何と申しておった?」


織田信行と林秀貞しかいない部屋に柴田勝家が入ってきて腰を下ろす。

そして自らの主君である信行に一礼すると、問われた内容について話し始める。


「斎藤義龍は我らの話を受け入れました」


「ふっ、やはりな」


織田信行は予想通りの展開となったことで口元が緩む。

物事が順調に進んでいるため、どうしても笑いをこらえきれないようだ。


「ですが・・・」


「どうした?

 義龍は他に何か申したのか?」


「いえ、特に条件らしきものを付けることもなく話を受け入れたのですが・・・

 ただ含みを持たすように『尾張を手中に収められればな・・・』と申しておりました」


「どういうことだ?」


斎藤義龍の真意がわからない。

しかし取りようによっては織田信行が尾張を手中に収めることができないと言っているようにも聞こえないわけではない。


「斎藤義龍は我らが知らぬ何かを掴んでいるのか?

 だとすれば我らがそうやすやすと尾張を支配できないと考えても無理はない」


斎藤義龍が掴んでいそうなことで、織田信行の障害になりそうなこと。

それは織田信長の存在以外に思い至らない。


「斎藤義龍はよほど尾張のうつけを買っているということか?」


「そうとは限らんだろう

 だが我らも簡単には行かないということを覚悟しておく必要があるかもしれん」


林秀貞と柴田勝家。

二人が尾張を手に入れるために細心の注意を払う必要があるという意見に一致しつつあるとき、信行が一つ妙案を閃く。


「秀貞、先ほど申した第三勢力に文を出せ」


「はい

 それでなんと?」


「織田信長の首を取るまでに我が方に参戦した者は最初から味方していたと同等の扱いをする、と言う文を出せ」


「し、しかしそれでは最初から味方している者達の士気にかかわるやもしれません」


「それには及ばん

 最初から我が方に味方している者達には合戦において手柄を立てるであろう

 先々を考えれば少し懐は痛むが、褒賞には金を多く使う」


「なるほど

 手柄の大小に差を設けるのですな

 そうすれば必然的に最初から我が方に参戦している者達が多くの褒賞を得られます

 そして遅れながらも信行様に忠誠を誓った者達は最初から味方であったとみなして罰を与えないこととなりまする

 これならば多くの者が納得いたしましょう

 納得せぬとあらば、この秀貞がその者の不満の解消に当たりましょう」


敵は少しでも少なく味方は少しでも多くなるように、信行は尾張統一を果たした後にまで影響する内容で、今考えられる不安要素の除去に乗り出していた。


「それとわしは蜂起と共に名を改める」


「名を?

 どのような名を名乗るおつもりで?」


信行のいきなりの提案に柴田勝家も林秀貞も眉をひそめる。

主君の考えていることを理解しようとしているが、それでも信行が次々に自らの頭の中で考えたことを言うため、理解が追い付いていないのだ。


「わしは出陣と共に織田信行から織田信勝と名を改める

 父、織田信秀の信の字に加え勝利の勝を名とする

 わしを信じてついてくれば必ず勝利をもたらす結果となるという意味も込める

 それがこれからのわしの名だ」


織田家の後継者である以上父親の名の文字は受け継ぐ必要がある。

そしてそこに勝利と言うゲン担ぎにも近い意味での文字も付け加える。

これを出陣の時に名乗れば兵の士気も上がることはまず間違いないだろう。

これは織田信行が織田家と尾張を確実に我がものとする不退転の固い決意と意志でもある。

総大将が引かないという意思を示せば従う将兵達の戦意も高揚する。

ましてや数字の上でも有利な戦いだ。

ただでさえ勝率が高いところに、さらに勝率を高める要因を付け加える。

その才に柴田勝家と林秀貞は自らの選んだ主君に間違いはないと確信するのだった。


「勝家にも勝の字が入っておるが、そなたを参考にしたわけではないぞ」


「はっはっはっ・・・

 それは残念でございますな」


織田信行、柴田勝家、林秀貞の三人は勝ち戦に出陣する前であるかのように、大笑いをして笑顔を見せていた。

しかし斎藤義龍の一言を忘れることはできなかったのだが、勝率がさらに高まったことに加えてその心の中に残った一言が信行派の武将達に慢心を生ませない楔として良い影響を及ぼすことになったのだった。


一方、清洲城の織田信長方には芳しくない情報ばかりが飛び込んでくる。

清洲城内の一室では上座に座る信長の前に信長派の武将が勢揃いしていた。


「盛重、新たに何かわかったか?」


信長に問われた佐久間盛重が一度頭を垂れ、すぐさま質問に答える。


「はい

 信行様は尾張国内の武家のほぼ全てに文を出しております

 その中身はほぼ全てが出陣の際に味方せよ、というものでございます

 そして此度の家督相続に静観を決めていた武家には遅参しても咎めないどころか最初から参戦していたものとみなす、という内容の文まで出しているようでございます」


佐久間盛重の掴んでいる情報に信長派の武将達の表情は皆険しい。

戦力差は縮まるどころか、状況次第ではさらに増大していく可能性があるのだ。


「我が方の兵力はどれだけ集めても千に届きませぬ

 信行様は我らの倍以上、二千近い兵を集められたと聞きます」


「倍の数を相手に戦うことになるのか・・・」


信長派の武将達に笑顔は一切見られない。

信行派とは大きな違いが軍議の場でも如実に表れていた。


「古くより城を攻め落とすには三倍の数が必要と言われております

 ここは籠城策をとるのはいかがでしょうか?」


「そのような弱気でどうする!

 敵が攻勢に出る前にこちらから末森城を攻めるのだ!

 信行様は織田家当主である信長様にたてつく謀反人だ!

 大義を持っての先手必勝ならば敵を一気に打ち破れよう!」


信長派の武将達の意見は二分された。

こちらから先に謀反人として討伐に向かうか、攻めてきた敵に対して籠城策をとるかの王道の二者択一である。

完全に意見の分かれた信長派の武将達の言い合いや怒号で会議は紛糾した。


「待たぬか!

 我らの主君は誰だ?

 信長様ではないか」


丹羽長秀の一言で紛糾していた会議の場が落ち着きを取り戻す。

そして家臣団の視線が信長に集中する。


「長秀、籠城策をとった場合の勝利条件は何だ?」


「はっ、信行様の撤退を待つか、機を見て打って出て信行様を討ち取る他ないかと」


「それは可能か?」


「不可能ではないでしょう

 ですが籠城策をとった場合、どちらの派にも属さぬ者達が信行様優勢とみて敵に回るかもしれませぬ

 そうなれば戦力差はさらに開き、城攻めの定石である三倍の兵力に達してしまう恐れがございます

 それに信行様の軍には武勇に秀でた者もおります

 簡単に事が運ぶとは思えませぬ」


「ふむ、ではこちらから動いた場合はどうなる?」


「はい

 その場合は少数の我らが信行様の軍を一度でも蹴散らせればよいかと」


「なぜだ?」


「尾張は完全に二分されたわけではなく、どちらの派にも付かぬ様子見の者達がかなりおります

 その者達はどちらに勝機があるのかを見ております

 そこで我らが数は少なくとも信行様の軍を打ち破ることができるという強さを見せるのです

 さすればどちらの派にも付かなかった者達は我らに味方しましょう

 信行様を支持する者達の結束にも綻びが生じます

 そこで再び仕切りなおしてどちらの派につくかを問えば、それ以上の戦いは無用かと存じます」


籠城策はあくまで信行側に主導権を握られてしまう状態を自ら選ぶことになる。

上手く信行側の隙をついて打って出て信行だけを狙うという戦いができればいいが、それが必ずしもできる陣形でいてくれるとは限らない。

包囲した後は配下に任せて安全な遠くで落城を見ているだけかもしれない。

そうなれば打って出る策をとったところで多数の敵と真っ向から戦って勝以外に勝機はなくなる。

主導権を握られたままの戦いで勝つのはとても困難なのだ。

逆に数が少なくても主導権さえ握っていれば、勝因は多く生み出すことができる。

少数であっても一度戦いに勝てば優劣や勝敗を国内の武家集に印象付けることができる。

それは信行の求心力を削ぎ、信長の味方を増やすことに繋がる。

籠城を主張する武将は相手の数を懸念しており、先手を取ることを主張している武将は主導権を奪われることを懸念している。

どちらにも長所と短所がある。

ならばその二者択一の選択を迫られたとき、正しい選択をするのが主君の役目なのだ。


「あいわかった

 少し考えをまとめたい

 しばらく一人にしてくれ」


信長のその言葉に家臣達はそろって頭を下げ、軍議が行われている部屋から全員が一度席を外す。

残された信長は二者択一の決断に頭を悩まし、どちらがより良い選択なのかだけを一人無言のままずっと考えこんでいた。



信長が一人で考え込んでいる部屋に濃が侍女を数人引き連れてやってくる。

手にはお盆、そのお盆には湯気が立ち上る茶碗がいくつも乗っていた。


「殿、軍議はもう終わってしまわれましたか?」


集った味方の武将達に白湯を持ってきた濃だったが、部屋には信長が一人だけで他には誰もいない。

軍議が終わったと思うのも無理はない。


「・・・いや、まだだ」


「まだ?

 ではなぜお一人で?」


「籠城か、出陣が、選択を迫られているのだ」


「・・・そうでしたか」


苦悩する信長の表情を見て、濃はこの状況を察した。

そして侍女たちには部屋から席を外した者達へ白湯を届けるよう指示を出し、濃は軍議が行われた部屋で信長と二人きりとなる。

二者択一の選択に信長は家臣達に席を外させて、一人で悩みながらも難問と真正面から向き合っている。

総大将として決断しなければならないのだが、その決断が信長にはできないのだった。


「どうするべきか・・・

 選択を誤れば間違いなくワシは負ける

 いや、誤らなくとも負けるかもしれぬ

 信行はワシの二倍の兵を率いているのだからな」


信長には勝つ自信がまるでない。

二倍の兵力を相手に戦うことは恐怖でしかない。

その恐怖にどうやって打ち勝てばよいのか、そしてそのためにはどのような選択をすればいいのか、どれだけ悩んでも答えが出ることはないまま時間だけが過ぎて行っていた。


「殿、籠城と出陣

 双方の長所と短所を話していただけますか?」


濃は信長の傍らに座り、信長の悩みに耳を傾ける。

一人で苦しみながら選択を迫られていた信長は妻の登場に少しだけ心の苦しさが取り払われた気がした。


「籠城の長所は信行を討ち取れる公算が高いことだ

 だが信行に主導権を握られるため、信行次第で討ち取れる公算はなくなると言っても過言ではない

 打って出て信行の兵を倒すのも難しいかもしれんな

 出陣は信行が動く前に先手を取って信行を謀反人として攻撃することで、ワシの味方に付いていない者達を仲間に引き入れ信行の求心力を落とすことができる

 欠点は二倍の兵力を相手にして必ず勝たなければならないということだ」


出陣策は身を守る城から出て敵の近くにまで接近して敵を打ち破らなければならない。

籠城策は信行次第ではあるが時と場合によれば信行自身を討ち取れる可能性がある一方で、信行の考えや行動一つで水泡に帰してしまうため良い賭けとは言えない現状が待っている。

どちらを選択しても一長一短、成否の可能性はどちらともいえない。

そのため、信長は決断することができなくて悩んでいるのだった。


「では、殿はどうなさりたいのでしょうか?」


考えがまとまらず判断がつかない時、多くの人は直感を信じるか、賽を振ったりくじを引いたりする運に任せるか、そういった論理的な部分から離れたところで背中を押してもらい決断に至る他ない。

ましてや彼は尾張の大うつけという異名を持つ男。

自らの直感に従ってやりたいことをやりたいようにやってきた。

ならば今日この時も彼らしく決める、決断がつかないのであればそれが最善である。


「ワシは・・・

 亀のように閉じこもっておくのは好まぬ」


「そうですか

 ならば、そのお心のままに動いてみては?」


どの道、勝率は高くない。

迷った挙句選択した戦い方で中途半端に戦うよりも、決断したうえで戦いに専念する方が僅かでも勝率の向上に役立つ。

どの選択が正しいかわからないどころか、そもそも選択肢の中に正解があるのかもわからないのだ。

ならば一つの選択肢に全てを懸けるしかない。

今の織田信長にはそれ以上のことができないのだから。


「・・・そうだな

 迷っていては勝てる戦いも勝てなくなる

 帰蝶、礼を言うぞ」


信長は決断したのか、今まで根が生えた大木のように座り込んでいたところから、大空へ飛び立つ鷹のように床を蹴って飛び上がる。

一瞬だけ浮いてしっかりと部屋の床に着地した信長は、覚悟を決めた引き締まった表情のまま、堂々と足を踏み出して部屋を飛び出していった。


「・・・殿

 残念な結果になった時はお許しを・・・

 何度やり直してでも・・・私が必ず・・・」


着物の下に隠れている腕に備え付けられているタイムマシンの端末を衣服の上から触れる。

まだ過去に来るという一工程でしか使用されていないタイムマシンだが、これから合戦が数多く行われることになればその都度使用するということもあるのだろうか。

極力使わないで危機を打開していけるようにしたい、しかしどうしてもダメな場合はタイムマシンを使ってやり直す。

そう心に決めた濃は出陣する信長を見送り、ただただ戦いの行く末だけを見守ることとなった。




1556年9月、清洲城を七百の兵を率いて出陣した織田信長は、謀反人織田信行を討つために末森城へと進行していた。

一方その頃、織田信長出陣の報は末森城にも届いており、大急ぎで迎え撃つ準備が行われていた。


「思いの外、早くの出陣となりましたな」


「うむ、こちらは兵こそ集まってはいるが万全の出陣の準備にはあと数日はかかる

 ここは城を利用して戦うのが良いでしょうな」


末森城内で守りを固めるために指示を出していた柴田勝家と林秀貞。

出陣して最悪城攻めとなるならもう少し準備期間が必要であったが、逆に相手が動いての守備となればそこまで準備に時間はかからない。

戦いの時はやや前倒しになったという印象の二人だが、それでも危機と呼べるほどの事態には陥っていなかった。


「敵はおおよそ七百と聞く

 増えたとしても千を超えることはなかろう

 こちらはおよそ二千

 守り切るだけを考えればそう難しいことではないが、ここはやはり・・・」


「信行様の・・・いや、信勝様の邪魔をする者は討っておかねばならぬ」


末森城で守るだけではなく、いつでも織田信長の首を討ち取れるようにして置く必要がある。

兵を集める力もなく、家臣をまとめる力もなく、諸侯を味方につける力もない上、戦にも敗れるとなれば、織田信長の後継者としての求心力など嫡男という一点のみに尽きる。

嫡男と言う一点だけを持たない織田信行改め織田信勝であれば、十分織田家の当主として尾張を治める力がある。

それをこの戦いに飼って織田信長の首を討つことで、嫡男に勝る次男という評価を国内外に広く知らしめる。

それがこの戦いにおける織田信勝側の最重要課題である。


「それで林殿、いかような策を講じられるか?」


「策と言えるほどのものではないが、籠城策をとるように見せて敵を討つ

 単純だが数で勝る我らが守る側となれば、これが最善かと」


「なるほど、異論はございませぬ

 仔細をお聞かせ願えますか?」


林秀貞の考えに柴田勝家は全面的に同意。

細かい打ち合わせに入る。


「我らは二千の兵がおりまする

 まず五百を城外に潜ませておきます

 そして千を城の前に待機させ、敵を迎え討つ

 ある程度戦ったところで兵を城の中へと戻し籠城

 七百程しかおらぬ敵は城に集中して全力を注ぐことでしょう

 後は手薄となった後方側面より城外に潜ませていた五百が襲い掛かり、その動きに呼応して城内の千の兵も一気に打って出ます

 さすれば七百の兵を千五百の兵で挟み撃ちにすることになりましょう

 城内に信勝様をお守りする兵を五百、これで万が一のこともないかと」


「おお、さすがは林殿

 数で勝る我らの利点を活かすだけではなく、敵の動きもこちらで操るとは・・・

 この勝家、感服いたしました」


林秀貞の作戦を聞いて柴田勝家は敬意を表するように深く頭を下げる。

そのうえで彼は一つの提案をする。


「では城外で潜む役、この勝家が承りましょう」


「おお、柴田殿

 武勇に秀でたそなたなら鎧袖一触、そこに城内から打って出る兵の力も加われば必ずや最上の成果が得られよう」


自らが心から主君と仰ぐ織田信勝のために粉骨砕身の働きを惜しむつもりはない。

その主君の大一番、勝機が見える戦いでの活躍を前に二人の重臣は心高らかに、しかし慎重かつ細心の注意を払い、士気高々と戦いに臨むのだった。




既に戦の準備がある程度整っていたこともあり、織田信長率いる軍が清洲を出立するのは彼の決断からそれほど時間を置くことなく行われた。

尾張国内、とりわけ清洲周辺はなだらかな地形ということもあり、出立した軍隊の進軍速度は速い。

その日のうちに、日が暮れる前に信長の反対勢力となった彼の弟が居城としている末森城を視界に収められるところまでやってきたのだ。


「殿、攻めると言っても我らの方が数は少なく、厳しい戦いとなることでございましょう」


末森城まであと少しと言うところで一度足を止める織田信長軍。

弟の居城を見つめる信長に配下の丹羽長秀が傍らにやって来て声をかける。

その言葉に信長は馬上から応じる。


「確かに、しかし勝たねばならん」


「もちろんでございます

 敵の出方にもよりますが、おそらく城を守りの要とするでしょう

 城に籠られれば我らの数では勝てませぬが、城の外で戦うのであれば少なからず勝ち目がございます

 数の劣る我らは負けずに勝ったと思わせ、味方を増やすことが肝要かと」


「勝ったと思わせて味方を増やす?」


「はい

 尾張領内ではどちらの派にも付かぬ者がまだ数多くおります

 その者達はよく申せば状況を見定めるために静観しており、悪く申せば勝ち馬に乗るために勝つ方が定まるまでは動かない、と言う状況にあります

 故に我らは城外の敵を一度だけ打ち崩せばよいのです

 さすれば数の劣る我らが野戦で勝ったということが尾張国内中に広まり、籠城する敵の方が多く我らは攻め手に欠けていようとも味方の数は増えます

 攻め手に欠けていようとも状況はそれにより変わることになります

 故に数が増えてから次の手を講じればよいかと存じます」


「信行の求心力を削ぐために先手を取る、その思いで出陣したが、なるほど・・・

 完全な勝利でなくとも、少数が大数を打ち破るという既成事実だけがあればよいのだな」


「はい

 一度野戦で敗れておれば、籠城しているというだけで信行様の求心力は低下します

 尾張国内での地位と優劣が逆転した後、和睦などを考えればそれ以上の争いも表でございましょう」


城から出ている敵を野戦で一度勝てば、信行を推していた者達やどちらが勝つかわからない者達の現状を崩すことに繋がる。

完全な勝利を得ずとも、小さな勝利一つで信長は不利を覆すことが可能なのだ。

数の少ない信長軍は手数が必要な城攻めをする余裕はないため、是が非でも敵を城外に引きずり出して戦わなければならない。

それでも数は敵の方が多く、野戦での戦いも楽ではない。

それでも勝たなければならず、信長に選択肢はほとんど残されてはいなかった。


「丹羽、その手で行こう

 野戦の細かな采配は佐久間の盛重と信盛、森可成らとよく話しておいてくれ」


「かしこまりました」


丹羽長秀が一度頭を垂れ、信長の傍らより離れて行く。

末森城を視界に収めた信長は馬上から見える末森城周辺の領地を見渡す。

見える範囲全てが尾張国であり、織田家の支配領域である。

それが今、二つに分かれて争っている。

かつて信長が尾張の大うつけと呼ばれ各地を馬で走り回っていた時代には、今敵味方に分かれているどちらの領地も単身で乗り込んだ経験がある。

その時の光景が昨日のことのように思い返される。


「民衆を家督争いに巻き込んでしまったか・・・

 早く・・・終わらせねば・・・」


馬に乗ってかけた尾張国内に住む民衆。

彼らは自らの生活さえ守られれば領主など誰でもよいと言っても過言ではない。

信長だろうが信行だろうが、どちらであろうとも自分達が生きていくことができるということが重要なのだ。

信長はこの家督争いを早急に終わらせることを心に決め、言葉にはしないでも民衆の思いを胸に秘めたまま、強いまなざしで末森城を中心とした尾張国内の景色を見ている。

そこに再び丹羽長秀が駆け寄ってくる。


「殿、準備が整いましてございます

 まずはこの地で一夜を明かし、明日・・・」


「いや、行くぞ」


「・・・は?

 し、しかし・・・」


「早ければ早いほど、相手の準備も整ってはおらぬはずだ

 それに信行は籠城をするような性格ではなかろう

 ならば策などなくとも出てくる

 それならば準備が整っておらぬ方が有利に戦える」


「た、確かに・・・

 しかしこちらも大急ぎで軍備を整えて、今ここに来たばかり

 兵の疲れもございます」


「倍の数の敵を相手に普通に戦って勝てるか?

 ワシはそうは思わんのだが・・・」


「・・・わかりました

 兵の疲れ具合を確認し、動けるようならば即時行動に移します」


「すまぬが、頼む」


「はっ!」


丹羽長秀は再び信長の元を離れる。

その後、しばらくして戻ってきた丹羽長秀から行動可能の報告を受けた信長は、即座に末森城に向かって兵を動かす。

尾張の行く末を決める家督相続争いの最終章、末森城の戦いの火蓋が切って落とされようとしていた。




日が傾き始め、夕刻が近づく。

末森城間近に迫った織田信長軍七百に対し、末森城を守る織田信勝軍二千のうち半数の千が末森城正面に陣取っていた。

末森城を背景に、織田信長軍と織田信勝軍が目に見える距離で向かい合い、戦いの始まるその瞬間を今か今かと待っていた。


「殿、敵はおよそ半数の千が城の前におります

 指揮を執っているのは林秀貞殿かと」


「柴田殿ではないのか?」


「信行殿は城内に千の兵と共にいるのか?」


「城の外に出てきているのは我々にはありがたいが、半数しか出ておらぬとなれば残りの敵の動きが気になるところだ」


敵を目の前にして、不明な残りの敵兵力に織田信長軍の指揮官勢に払拭できない不安が出てくる。

倍以上の軍勢を持つ敵の半数の動きが対峙した瞬間に不明だったのだ。

周辺の様子を探るにも人手の少なさ、敵本城との距離、早さを生かした作戦故の時間的余裕の無さかなど、多くの理由により不安要素の払拭に至れないのである。


「ここまで来たからには行くしか無かろう

 皆の者、覚悟を決める他ない」


最後の最後で状況を見て攻撃を躊躇う味方の背中を押すのは、まだ若い信長に仕える将の中でも古参の森可成。

彼の一言で信長軍の面々の心は決まった。


「そうだな

 ここまで来て退けば我らは笑いものだ」


「戦わずして敵を見ただけで逃げ帰った臆病者と謗られよう」


「守ろうが攻めようが数では劣っているのだ

 ならば攻めるべきだと決めたはずだ

 ここで尻込みをしている場合ではない」


信長を支える将達は決意を固めて攻撃の意思を示す。

あとは総大将である信長の下知を待つのみの段階となった。


「お前達の様な勇敢な者達がワシのようなうつけについてきてくれたこと、誇りに思う

 そんなお前達の思いに応えるためにも、ワシはこの一戦に命を賭す」


馬上で信長は勢いよく刀を引き抜く。

傾き始めた日の光が刀を照らし、反射した光が一瞬周囲を駆け巡る。


「我らは完全勝利を必要とはしない

 目の前の敵を討ち破り、城に迫った後退く

 勝ったという既成事実だけを手に入れるのが此度の策

 勝利を挙げに行くぞ!」


信長の言葉に将達が声を上げて応える。

その声に周囲の兵士達も一斉に大声を上げる。

それは紛れもなく開戦の合図。

織田信長に付き従う七百の兵は一気に動き出し、末森城の前面に陣取る林秀貞率いる千の兵に真っ向勝負を挑んでいった。


「丹羽長秀!

 先陣を務めさせていただく!」


戦闘で兵を率いて最初に林秀貞軍とぶつかったのは丹羽長秀、その後に佐久間盛重が続いて突撃を行い、守りを固めていた林秀貞軍の前線をわずかに打ち崩した。

しかし数で勝るうえに守備側と言うこともあり戦いやすい場所を選んだ地の利を生かしての防御である。

最初の突撃こそ、勢いで圧して崩せたものの、それ以降は一進一退の攻防が繰り広げられる。

手に持った刀や槍での乱戦が両軍の間で展開されていた。

しかし時間が経つにつれて徐々に信長軍が優勢に立つ。

この一戦でどうしても勝利を挙げなければならない信長軍の勢いはすさまじく、数で勝る林秀貞軍を少しずつ後退させていた。


「今だ!

 我らも攻め手に加わり一気に敵を打ち崩せ!」


信長の周囲を固めていた森可成が突如攻め手に加わり、さらに勢いを増して林秀貞軍を圧倒していく。

守ると言ってもただその場で踏みとどまるというのは実は難しい。

防護のための柵や馬を防ぐための柵などを設置している時間が林秀貞軍にはなかった。

よって城を背後に守りを固めてはいるものの、はっきり言って野戦とは変わらない状況であった。

それは素早い行動が功を奏したと言っても過言ではない。

故に自分達の選択が間違っていなかったという思いが確信に変わったことにより、信長軍の勢いは増しているのだった。

一方の林秀貞軍は想像以上に勢いがある攻撃に当初の作戦通りの撤退が上手くできていなかった。

元よりこの場で勝つ必要がない林秀貞軍は最初から後退することを考えていたため、士気は当然高くはなく勢いに押される形となった。

それでも後退による一時的な敗戦は想定の範囲内であり多少の被害は予想していた。

予想はしていたのだが、信長軍の勢いは思いのほか強く、想定以上の被害をこうむらなければ作戦の遂行は難しい状況であった。


「くっ!

 敵の勢いが思った以上だ・・・

 ここは一度退く!

 城まで後退せよ!」


想像以上の攻勢に林秀貞軍はようやく作戦通りの後退を始めることができた。

信長軍の予想をはるかに上回る勢いと攻撃に戸惑いながらも、林秀貞はなんとか城まで引き下がっていく。

被害を受けながらも城に引き返す姿はまさに敗戦のあり様。

それでも次の策がある林秀貞に動揺も混乱も見られない。

とにかく城に引き下がって城門を閉じ、籠城の構えを見せるのだった。


「城に籠られてしまいましたな」


末森城を目の前にして攻撃の手を一度止める信長軍。

作戦とは違うが、できれば勢いに任せて城内に切り込めれば勝利は確定だった。

しかしそこは一軍を任せられる尾張屈指の将、林秀貞。

勢いに任せて攻めた信長軍を上手く足止めしながら城内に逃げ帰ることに成功した。


「もとより落城させる必要はございませぬ

 我らはひとまず末森城を前にした戦で勝利を挙げた

 これが重要でございますので、落城はこの際不要と言ってもよいでしょう」


信長軍はひとまずの勝利が目的であり落城はそもそも計算外。

嬉しい誤算には転ばなかったが、想定内の勝利を得られたことにひとまず胸をなでおろす。


「ひとまず末森城から離れた場所に陣を張りましょう

 我ら信長様の軍が優勢であり、今もまだ攻め続けている

 その事実を尾張国内中に広めなければなりません」


「わかった

 では少し後退して陣を張れ」


「はっ!」


信長は進言を受け入れてすぐさま末森城から少し離れた場所に陣を張るように指示を出す。

更生に出て一度勝利を挙げたとはいえ、まだまだ敵の方が数は多い。

中途半端な状態での立ち往生は敵に反撃の隙を与えてしまうこととなる。

必要な勝利を得た以上、危険地帯に長居は無用だ。

信長軍は早々に向きを変え、末森城から距離を取るために移動していく。

しかし、そう簡単に信長軍の思い通りに事が運ぶことはなかった。


「申し上げます!

 側面より敵が・・・」


「なにぃっ!」


報告が来て間もなく、後退を始めた信長軍の横っ腹に敵の一軍が突っ込んできた。

柴田勝家率いる別動隊五百である。


「この柴田勝家が織田信長の首を頂戴いたす!」


尾張屈指の猛将が自らの名を高らかに叫んでの突撃。

これにより柴田勝家という将の実力を知る者達には多少なりとも恐怖の感情が生まれる。

その感情の発生と共に柴田勝家は突撃を行い、その攻撃は成功した。

突然の敵襲を受けた信長軍は一気に体勢を崩す。

しかしつい先ほど勝利を挙げたばかりの信長軍の士気はまだ高く、集中力も切れてはいない。

陣形などは崩れても乱戦で柴田勝家軍の攻撃に辛うじて耐えることができていた。

このまま柴田勝家も押し返せば、信長に付き従う将兵達にそういう思いがでたまさにその瞬間だった。

もう一つ、最悪の報が飛び込んでくる。


「申し上げます!

 末森城より林秀貞軍が再び出撃!」


「なんだとっ!」


後退をするために向きを変えた軍隊は、その横っ腹を疲れて陣形が崩れながらもなんとか乱戦状態で踏みとどまっている。

しかし後退しようとしている背後から先ほど末森城へと引き下がった一群が再び攻撃を仕掛けてきた。

末森城に背中を見せていた上に陣形や隊列が崩れていた信長軍は、この攻撃を受けることも耐えることもできない。

勝利を挙げ引き下がる最中の攻撃にもギリギリ耐えた信長軍であったが、二方向からの数に勝る攻撃にはなすすべもなく、簡単に軍隊は崩壊してしまった。


「殿!

 お逃げください!

 ここは私が引き受けます!」


背後から攻めてくる林秀貞軍に佐久間盛重が兵を率いて向かう。

圧倒的多数の林秀貞軍を前に持ちこたえられる時間などそう長くはない。


「殿!

 どうか清洲城まで!」


ぶつかると同時に絶望的な苦戦に陥った佐久間盛重を丹羽長秀が兵を率いて掩護する。

時間稼ぎしかできないが、そのわずかな時間を活かして信長は数えるほどしかいない兵を率いて清洲城への道を引き返していく。


「信長殿!

 往生際が悪くはございませぬか!

 その首、ここに差し出していただく!」


柴田勝家の猛攻は林秀貞の出現により拮抗していた戦線は崩壊。

何とか耐えていた信長軍は逃亡兵も出ており、柴田勝家の軍隊を止めるのも難しい状態であった。


「殿!

 ここはこの可成が引き受けます!」


尾張屈指の猛将柴田勝家に信長軍屈指の勇将森可成が真っ向から立ち向かう。

従えている兵士達をお互い数名槍で突き刺した後、森可成と柴田勝家による馬上での一騎打ちが繰り広げられた。

そんな激戦を背後に、信長は数少ない部下を率いて清洲城への道のりを急いで引き返していた。


「・・・殿、どうやらひとまずは安心できるやもしれません」


信長の傍らにいたのは佐久間信盛。

背後の凄惨たる有様に目を向けることも背けることも難しいが、それでも命の危機である戦場から脱することはできた。


「ワシの負けか・・・」


攻めることを選んだ信長は自らの選択の誤りにつらそうな表情を見せる。

元より勝ち目の少ない戦だったのだ。

信長の敗北を悪手と見る者は少ないだろうが、それでも敗北には違いない。

自らの判断による敗戦は精神的ダメージが大きすぎた。

信長はしばらく、自らが敗れた戦場を見たまま動くことができなかった。


「・・・殿!」


呆然の戦場を眺めていた信長に覆いかぶさるように佐久間信盛が飛び掛かってくる。

馬上にいた信長は飛び掛かってきた佐久間信盛と共に落馬し、地面に体を強く打ち付けた。


「くっ・・・

 信盛、いったいどうしたというのだ・・・」


落馬の衝撃に表情を歪める信長。

その信長に飛び掛かった佐久間信盛は震えながらも顔を上げる。

その口からはわずかに血が流れていた。


「殿・・・

 お逃げ・・・ください・・・」


「の、信盛!」


地面に倒れ込んだ佐久間信盛は起き上がることができなかった。

背中には数本の矢が突き刺さっており、先ほど飛び掛かったのは信長をかばうための者だったことが容易に見て取れる。


「いったい誰が・・・」


佐久間信盛の状態を見て信長が周囲に目を向ける。

先ほどまで自分の周りにいた兵が矢をその体に受けて地面に転がっている。

地面に転がっている味方の向こう側には、弓を持った兵士が何人も見えた。

そのさらに奥には槍を持った兵士が大勢おり、その中心には見覚えのある人物が馬に乗って信長を見下ろしていた。


「お久しぶりでございますな

 兄上」


「信行・・・」


戦場を離れた清州城への退路。

そこには弟の織田信勝が率いる軍隊が待ち構えていたのだった。


「この戦の際に名を変えまして、信行より信勝と名を改めました

 長い時をそう呼べとは申しませぬ

 ですが今から短い間はそう呼んでいただきたい」


信勝は自らの兵士に命令を出して信長を捕らえて縄で後ろ手に縛り上げる。

信長の身の回りを守る兵士はもう誰も生きてはいない。

信長を守る盾となってくれる人も、信長のために戦ってくれる人も、もうこの場にはいないのだ。


「兄上、どうやらわしの方が織田家当主としての才があったようでございますな」


馬上から見下ろす信勝、身動きが取れないように縄で縛り上げられて見上げる信長。

勝敗は歴然であった。


「兵を集めるのも才なれば、将の信頼を勝ち得るのも才でございます

 また兵を率いて勝利に導くのも才、これらは一国の主であれば有しておかねばならぬものにございます

 出来の悪い兄上には少々難しすぎたようでございますな」


信勝の嫌味を含めた勝利宣言に信長は返す言葉がなかった。

そのため信勝が一方的にしゃべる展開となる。


「しかし兄上、ここまで才も器量もないとなれば・・・

 父上は一体この出来の悪い兄を見て何故織田家の当主に相応しいと判断なされたのかまるで理解ができぬ

 理解できぬが、その不満は実力で覆すのがこの戦国の世の習い

 父上は冥府にて今頃は弟を後継者に指名しておけばよかったと嘆いておるやもしれぬ

 兄の出来の悪さを見て・・・な」


勝ったが故に余裕の笑みと含み笑いを見せる信勝。

その時、末森城方面から軍隊がやってくる。


「おぉ、信勝様

 我らの手で討てればよかったのですが、お手を煩わせてしまいました」


やってきたのは柴田勝家と林秀貞、そして二人が率いる軍である。


「なに、戦を長引かせぬための策を講じたまでのこと

 わしを褒める必要はない」


「しかし柴田殿と練った作戦に加わって城外で待つとおっしゃられた時、この秀貞もさすがにお諌めするべきかどうか悩みましたが、この結果を見てやはり信勝様の才に感服いたしておるところにございます」


柴田勝家と林秀貞。

二人が練った作戦の実行の許可を信勝に求めにいった時、信勝は自らもその作戦に加わると言い出した。

林秀貞が千の兵を率いて末森城前に陣取り、柴田勝家が五百の兵を率いて城の外に潜んでいた時、信勝もまた五百の兵を率いて城の外に潜んでいたのだ。

林秀貞がまず相手をして、柴田勝家が奇襲を仕掛ける。

その時に敗戦を悟って逃げる信長を捕らえるため、戦いが行われている間に信長の逃走経路を五百の兵を使って完全に封鎖していたのだった。

そして予想通り信長は清洲城へと逃走を図り、信勝に捕らえられる結果となった。


「勝家、秀貞

 そう言いながらもそなたら、しっかりと手柄を立てておるではないか」


柴田勝家は森可成の、林秀貞は丹羽長秀と佐久間盛重の、それぞれ首を馬から提げていた。


「森殿には降伏を呼び掛けたのですが、応じなかったのは残念極まりない

 これほどの方を討たねばならないこと、この勝家心苦しく思います」


森可成との一騎打ちの際、信長方に勝利はないことを理由に降伏を呼び掛けた。

しかし忠義に厚い森可成はその呼びかけを一蹴し、柴田勝家との一騎打ちを続行。

決着は着かなかったものの、柴田勝家軍の足軽が森可成を狙って横槍を入れたのだ。

その槍を腹部に受けた森可成はさすがに重傷を負ってまで柴田勝家とは戦えず、そのまま討ち果たされてしまう。

佐久間盛重と丹羽長秀は数に勝る林秀貞軍の攻撃を何度か耐えきったものの、数の暴力の前に屈して討ち果たされてしまった。


「確かに有能な者は兄上の側にも多くいたな

 できれば全てを味方として引き入れたかったが、さすがにそうはいかなかったか」


織田家は事実上真っ二つに分かれてしまった。

国内の評価であれば信勝が勝っているが、正統後継者として指名された信長には織田家当主としての大義がある。

織田信秀の指示に忠実に従った忠義の臣はどうしても裏切ることはなく、この戦でも信長方として戦いに参戦した。

ならば信勝方としては、降伏もせず立ちふさがる敵は討ち果たさなければならない。

その結果が、信長以外の指揮官総勢の討ち死にであった。


「さて、ではもういいか」


信勝はそういうと兵に命令を出す。

兵は信長の体を身動きが取れないように押さえつける。

そこに馬から降り立った信勝が刀を鞘から引き抜いて両手でしっかりと刀を握る。


「兄上、冥府でわしが織田家を栄えさせるさまをよく見て学んでいただきたい」


押さえつけられた信長の傍らに立った信勝は手に持った刀を思い切り高々と振り上げる。


「兄弟からのせめてもの情け

 我が手にて冥府へと安心して旅立ちください」


信勝はそう言ったのち、一瞬の間をおいて刀を勢いよく振り下ろす。

それは尾張国内の内戦、家督相続戦の決着の時であった。


「・・・では行こうか」


「信勝様?

 どちらへ?」


信長の首を持った信勝は馬に乗る。

馬に乗った信勝がどこへ行くのか、柴田勝家は即座に問いかけていた。


「決まっておろう

 清洲城だ」


「清州へ?」


「我らが勝った、敵方となった尾張国内全ての者にそう伝えねばならない

 そのためには兄上が居城とした清洲城が最も適している」


「おぉ、なるほど」


信勝の意図を理解した柴田勝家はともに清洲城へと向かった。

林秀貞は一軍を率いたまま末森城へと引き返し、城の守りに当たることとなる。

勝利を願う濃のもとに最悪の知らせを届けるのが、家督相続戦に勝った織田信勝となるのであった。




清洲城で信長の帰りを待つ濃、そして共に出陣した将兵の家族達。

居ても立ってもいられない、そわそわした不安な思いは飛び込んでくる報せによって一瞬にして絶望へと変わる。


「織田信勝様より通達!

 清洲城を無血開城いたせば危害は加えぬ、しかし抵抗すればそれ相応の結果が待っている。とのことです!」


勝者である織田信勝からの使者の言葉により、戦場へと勇敢に出て行った者達の帰りを待つ家族達はみんな断ち切られた思いに涙する。

立っていた者は膝から地面に崩れ落ち、座っていた者は立ち上がることすらできない。

敗北の報だけならまだしも、捕縛や捕虜の通達がないということは結果は聞くまでもないということだ。


「こちらにはもう戦力がございません

 戦う術はありませんので、無血開城のお話をお受けいたします」


総大将織田信長の戦死が確定的である以上、現在の清洲城の行く末は妻である濃の判断に委ねられる。

そして彼女は回避したかったが覚悟はしていた最悪の結末を受け入れ、さほど悩むことなく無血開城を受け入れたのだった。


「清州に来るのはいつぶりだったかな?」


「ははは・・・

 あまり遠くはございませんが、久方ぶりの様な気もしますな」


勝者として清洲城へと乗り込んできた織田信勝と、彼に付き従う重臣の柴田勝家と林秀貞。

ご丁寧に討ち取った織田信長をはじめとした信長方の主だった将の首を持参しての登場だった。

それを迎え入れるのは当然、織田信長の代わりを務める濃の役目である。


「無血開城の申し入れ、感謝いたします」


清洲城にて勝者の到着に頭を垂れる濃。

今ここで下手に彼らを刺激したところで濃どころか、清洲城にいる全ての人達には何の利益もない。

今はただ、敗者側の総大将の妻としてできることをするだけだ。


「出迎えご苦労、帰蝶殿

 なに、険しい顔をするな

 そなたは斎藤家との同盟のためには欠かせぬ重要なお人

 丁重の扱わせていただく」


濃の挨拶に対する返答はすでに尾張当主としての今後の方針に触れていた。

それを聞いた時、濃の頭は高速で一つのことに考え至る。


「斎藤家との同盟?

 それは破綻したはずですが・・・」


「それは兄上と斎藤道三とのことであろう

 わしは兄上と斎藤義龍との間で破綻した同盟の話はしていない

 わしと斎藤義龍が新たに手を結ぶ、新たな同盟の話をしているのだ」


斎藤家との同盟と聞いて、その疑問に関する問いに彼は正直に答えた。

織田信行改め織田家当主の織田信勝、彼は斎藤道三亡き後の斎藤家との同盟締結を大前提として行動している。

濃が戦国時代へとやってきた目的は斎藤家と織田家の同盟を成立させ、協力して今川義元の上洛を阻止するというものだ。

斎藤家と織田家が緊密に連携を取り合うことができるのであれば、その同盟の主は斎藤道三と織田信長である必要はない。

斎藤義龍と織田信勝であっても同盟自体には何ら問題はなく、緊密に連携が取れるかどうかが重要な課題なのである。


「斎藤家はまだ美濃国内がまとまっていないため外敵は少しでも減らしたい

 わしも尾張国内をまとめ上げるのにいましばらくの時間がかかる

 この同盟は双方にとって確かな利があるのだ」


織田信勝、濃の知る史実の歴史では彼は改名していないため織田信行のままなのだが、今川義元に尾張の織田家単独で挑んで敗れ去ったことであまりいいイメージは持っていなかった。

しかし言動を聞いている限り、彼は特に間違ったことを言っているわけでもなければ的外れなことを言っているわけでもない。

至極当然のことを的確に考えて発言して行動に移している。

濃は自らが知る史実にばかり目を向けて彼を評価していたが、その評価自体を根底から覆さなければならないのかもしれないと思わされた。


「では、斎藤家とはこれより長らく盟友として織田家を切り盛りしていくおつもりなのでしょうか?」


濃にとって一番重要なのは今川義元の上洛を阻止して歴史を変えること。

織田信長と言う歴史を変えるための重要な人物を失い、彼の心のうちや言動に多少なりとも惹かれていた濃はその喪失に心苦しい思いがあった。

しかしそればかりに目を向けて居られない。

彼女がこの時代に来た本当の理由を見誤ってはいけない。

織田信勝の方が織田信長より有能で、彼女が掲げる目的を斎藤道三ではなく斎藤義龍と協力して行うことが可能であれば、濃はこの時代にやってきた目的を達成することが可能となる。

心苦しい思いは忘れることはできないだろうが、今はひとまず視線を背けて目の前の目的に注視する必要がある。


「当面は・・・と、言いたいところだが同盟関係はそう長くは続かぬ」


「何故でしょう?

 尾張と美濃、手を取り合えば強力な力を持てると思いますが?」


「それならばわしが両国を治めた方がより強い力となるではないか」


「尾張と美濃・・・両国を治める?」


微かな希望を抱いた濃だったが、その希望はいとも簡単に打ち砕かれた。

織田信勝に斎藤家と織田家の同盟を長く続ける気は毛頭なかった。

その言葉は初めて聞いたのか、傍らに控えている柴田勝家と林秀貞の二人も驚きの表情を隠せない。


「斎藤家は国内の完全掌握に時間がかかる

 道三は商人の出であるがゆえに商いに関しては息子の義龍よりも明らかに上である

 さらに国内の商いに関しては力を入れていたがゆえ、商人や町人からの指示は思いの外高いはずだ

 それを謀反で奪い取った義龍がそう簡単に治められるとは思えない

 不平不満を片付けるにはいましばらく時間がかかる

 つまり美濃の国内はしばらく不安定な状況が続くということに他ならない

 しかし一方の我ら尾張はどうだ?

 尾張は二つに分かれたが、わしの勝利で簡単に一つにまとめることができる

 わしに反した者達にも多少温情を与え、わしの味方をしなかった者達にも罰を与えないという方針を示すだけで尾張は簡単にまとまる

 まとまらぬ美濃の斎藤家をわしの手で早急にまとめ上げた尾張の織田家が食らう

 わしは尾張と美濃の二か国を治める大名となり、さらに多くの地を治めるべく領土拡大を図っていける

 美濃はその出発点に過ぎないが、重要な第一歩を踏み出すべき地でもある

 そしてそれが可能となる条件はすでに存在しているのだ

 なにも迷うことはなかろう」


織田信勝はとてつもなく大きなことを考えている。

その全てがまだ机上の空論であり彼の頭の中にあるだいたいの方針に過ぎない。

しかし尾張国内の争いが終わってもまだ尾張を掌握しきれていない現状で、すでにそれだけ先のことを考えているということを示す意味は非常に大きい。

家臣団や降伏した信長方の家族達はみんな、織田信勝という人間の偉大さに感銘を受けている。

尾張国内にばかり目が向いていたここ最近、それに対比するかのように彼が語った壮大な領土拡大計画の一端。

それは清洲城にいるつい先ほどまで分かれていた敵味方の両方ともに対する求心力を高めるためのアピールであり、それは周囲の様子を見る限り問題なく完璧に成功していると言える。

しかしその言動に唯一、良い感情を抱かなかったのは濃ただ一人。


(この人は・・・領土拡大や自分の力を誇示することしか考えていないのですね)


尾張国内はつい今まで二つに分かれて争っていた。

信長方についた将兵はことごとく討ち死にして尾張国内の侵害は想定以上に大きいはずだ。

さらにその戦を行うために尾張国内中から物資や軍資金をかき集めた。

今の尾張に、今の織田家に、対外戦争を仕掛ける余裕などどこにもない。

それは多少時間をかけても修復できる穴ではない。

斎藤義龍が美濃国内の完全掌握を図るよりも、尾張国内にできてしまった損害の修復の方がはるかに時間のかかることである。

織田信勝はそれがわかっていないのだ。

彼は織田家の家中と敵味方の武家にしか視線が向いていない。

勝敗は戦力で決まると思っている典型的な人間だというのが、この言動を受けての濃の判断。


(勢いに乗っている時は周囲も付き従うでしょうが、一つ失敗が起こって何かが停滞したりすれば一気に総倒れとなりかねません

 彼は・・・総大将となるべき人ではないでしょう)


濃は未来からやってきた。

この時代ほど殺伐とした生き馬の目を抜くような時代ではないが、そんな時代であっても外交や政治というものは恐ろしいことばかりだ。

理想論や希望や夢や青地図だけでやっていけるものではない。

濃自身、誠治を執り行った経験はない。

しかし全世界の中心となる大英帝国の中枢の一角を担う大人物に仕えてきた。

彼や彼の周囲が日々執り行う政治に関する言動のやり取りを全てではないが聞いて学んできた彼女にとって、織田信勝という人間の考えがどれだけ不安要素の大きい不確かなものであるということが手に取るようにわかる。


「そうですか

 ではこれより織田家当主として、織田家の全てをお任せいたします」


信勝に対して再び頭を垂れる濃だったが、彼の言動には期待できないことが多い。

だからだろうか。

濃の心はすでに、一つのことを実行すると決めていた。

頭を垂れたのも『この史実』では彼の意見に一切反対する意思がないということを示したまで。


「すでに夫を失った身でございます

 織田家の行く末のための斎藤家との同盟のため、今しばらく清州に身を寄せておりますがもはや何にも嘴を挟むつもりは毛頭ございませんので、この場を立ち去らせていただきます」


濃は頭を上げると織田信勝らの前から歩き去っていく。

今まで彼女の身の回りの手伝いをしていた侍女達が慌ててついてくるが、濃はそれを手で制する。


「厠です

 それとしばらく一人にさせていただけますか?」


濃のその申し出に侍女達は一度顔を見合わせ、頭を下げて彼女の前から踵を返して歩き去って行った。

歩き去っていく侍女たちの姿が見えなくなると、濃は厠の中で一人だけとなる。


「戻りましょう

 これくらいのことは覚悟していました」


着物の下、左腕に結わえ付けられている端末はタイムマシンだ。

久しぶりにタイムマシンに触れた彼女は、搭載された新機能を用いてマッピングされた時間に戻るため操作を行う。

その操作の最中、頭にあったのは織田信勝が今川義元に敗れた史実に対する考察。


「あの言動から察するに、民衆に裏切られたのかもしれませんね

 あまりにもあっけなく敗れたようなので私が学んだ歴史にはほとんど記述がありませんので推測でしかありませんが、当人を見た後に歴史を振り返ってみれば納得です」


織田信勝という人間の本質に触れたような気がしたこの敗戦を無駄にはできない。

現在の記憶を保持したまま過去に戻り、また違う道を歩んで違う可能性を模索する。

それができるタイムマシンに感謝しつつ、濃は手早く捜査を終えて後は時間跳躍を実行するだけになった。


「家督相続に勝たねばなりません

 先手を打っての攻撃がダメなら守りに徹する以外に道はありません

 ならば、行く時間は決まっています」


家督相続の戦いが始まる前の軍議。

あの時の決断で全てが決まってしまった。

その決断を変えればこの戦い自体が全く別のものとなる。

濃は今起こった戦いとその戦いの結果を全く別のものとするため、タイムマシンを使用して過去の、まだ戦が始まる前の悩んでいる信長の元へと向かった。



信長が一人で考え込んでいる部屋に濃が侍女を数人引き連れてやってくる。

手にはお盆、そのお盆には湯気が立ち上る茶碗がいくつも乗っていた。


「殿、軍議はもう終わってしまわれましたか?」


集った味方の武将達に白湯を持ってきた濃だったが、部屋には信長が一人だけで他には誰もいない。

軍議が終わったと思うのも無理はない。


「・・・いや、まだだ」


「まだ?

 ではなぜお一人で?」


「籠城か、出陣が、選択を迫られているのだ」


「・・・そうでしたか」


苦悩する信長の表情を見て、濃はこの状況を察した。

そして侍女たちには部屋から席を外した者達へ白湯を届けるよう指示を出し、濃は軍議が行われた部屋で信長と二人きりとなる。

二者択一の選択に信長は家臣達に席を外させて、一人で悩みながらも難問と真正面から向き合っている。

総大将として決断しなければならないのだが、その決断が信長にはできないのだった。


「どうするべきか・・・

 選択を誤れば間違いなくワシは負ける

 いや、誤らなくとも負けるかもしれぬ

 信行はワシの二倍の兵を率いているのだからな」


信長には勝つ自信がまるでない。

二倍の兵力を相手に戦うことは恐怖でしかない。

その恐怖にどうやって打ち勝てばよいのか、そしてそのためにはどのような選択をすればいいのか、どれだけ悩んでも答えが出ることはないまま時間だけが過ぎて行っていた。


「殿、籠城と出陣

 双方の長所と短所を話していただけますか?」


濃は信長の傍らに座り、信長の悩みに耳を傾ける。

一人で苦しみながら選択を迫られていた信長は妻の登場に少しだけ心の苦しさが取り払われた気がした。


「籠城の長所は信行を討ち取れる公算が高いことだ

 だが信行に主導権を握られるため、信行次第で討ち取れる公算はなくなると言っても過言ではない

 打って出て信行の兵を倒すのも難しいかもしれんな

 出陣は信行が動く前に先手を取って信行を謀反人として攻撃することで、ワシの味方に付いていない者達を仲間に引き入れ信行の求心力を落とすことができる

 欠点は二倍の兵力を相手にして必ず勝たなければならないということだ」


出陣策は身を守る城から出て敵の近くにまで接近して敵を打ち破らなければならない。

籠城策は信行次第ではあるが時と場合によれば信行自身を討ち取れる可能性がある一方で、信行の考えや行動一つで水泡に帰してしまうため良い賭けとは言えない現状が待っている。

どちらを選択しても一長一短、成否の可能性はどちらともいえない。

そのため、信長は決断することができなくて悩んでいるのだった。


「では、殿はどうなさりたいのでしょうか?」


考えがまとまらず判断がつかない時、多くの人は直感を信じるか、賽を振ったりくじを引いたりする運に任せるか、そういった論理的な部分から離れたところで背中を押してもらい決断に至る他ない。

ましてや彼は尾張の大うつけという異名を持つ男。

自らの直感に従ってやりたいことをやりたいようにやってきた。

ならば今日この時も彼らしく決める、決断がつかないのであればそれが最善である。


「ワシは・・・

 亀のように閉じこもっておくのは好まぬ」


「そうですか

 ならば、そのお心のままに動いてみては?」


どの道、勝率は高くない。

迷った挙句選択した戦い方で中途半端に戦うよりも、決断したうえで戦いに専念する方が僅かでも勝率の向上に役立つ。

どの選択が正しいかわからないどころか、そもそも選択肢の中に正解があるのかもわからないのだ。

ならば一つの選択肢に全てを懸けるしかない。

今の織田信長にはそれ以上のことができないのだから。


「・・・そうだな

 迷っていては勝てる戦いも勝てなくなる

 帰蝶、礼を言うぞ」


信長は決断したのか、今まで根が生えた大木のように座り込んでいたところから、大空へ飛び立つ鷹のように床を蹴って飛び上がる。

一瞬だけ浮いてしっかりと部屋の床に着地した信長は、覚悟を決めた引き締まった表情のまま、堂々と足を踏み出して部屋を飛び出して行こうとする。

その信長に濃はさらに声をかけた。


「・・・と、申したいところですがそれではよろしくないと思います」


「なに?」


つい先ほどまで己の直感を信じて思うままに戦えと言う進言をしていた濃。

しかし彼女は信長が決断したそのすぐ後にその進言を覆した。


「殿のお心のままに戦うということ、それも重要だと思います

 ですがそれは殿のお考えをよく知っている方々には見透かされているではないかと危惧しています」


「信行が・・・ワシの考えや行動を読んでいると?」


「わかりません

 ですが否定はできないと思います

 そうなれば城から出て倍の相手と対峙するという策は無謀ではないでしょうか」


仲は良くなかったが、強大として共に織田家で育った間柄だ。

品行方正な信行に対して、自由奔放な信長。

そんな信長ならばじっとしていることが苦手というくらいのことは、強大である信行ならば察して当然のことと言える。

ならばその裏をかくのもまた、戦略戦術の一つと言えよう。


「信行はワシが出てくると読んでいる、故に裏をかいて守りに徹するということか」


「はい

 それに信行殿を討ち取るだけが勝利ではないと私は考えます」


「・・・と、言うと?」


二者択一の選択肢の中で、勝利を掴むのが難しい籠城策。

その籠城策に信行を討ち取る以外の勝利の道筋があると言う濃の言葉に信長は耳を傾ける。


「今は9月、米の収穫などがちょうど終わった頃です

 籠城をするのに必要な食料の備蓄に問題はありません

 数の多い敵を相手にするには籠城をして時間を稼ぐのも手です

 さらに時が経てば間もなく冬となります

 城内で過ごす冬と城外で過ごす冬では寒さや疲れは格段に違います

 士気が下がれば城攻めどころではなくなるでしょうし、城攻めを断念せざるを得ない状況になれば我々の勝ちとなります

 多くの将兵を味方につけていながら城を攻めきれず落とせなかった

 その事実は城攻めを断念した敵が一度退いて、再び攻めてくるまでの間に味方を増やす要因ともなります」


守り切るということで負けなかったという状況を作り出し、籠城戦にて勝ったという事実をもとに尾張国内のどちらの派にもつかない者達を味方に引き入れる材料とする。

信行側は攻めきれなかったという事実から求心力の低下を招きかねず、戦力を維持することも難しくなるはずだ。

更に彼の性格や言動を考えれば、一度の躓きは大きな勝因にもなり得る。

打って出た時に得られる勝利と同じだけの効果を籠城で守り切ることでも得られるのだ。

ならばリスクの高い出陣よりもリスクの低い籠城戦の方がまだ勝率は高いように見える。


「なるほど・・・

 冬の到来まで耐えられれば勝ち目はあるということか

 籠城しつつ相手の隙を突くことばかり考えていたが、時間をかければ違う形での勝利も得られるということだな」


今までなかった考えを聞いたことで信長の心は一気に籠城戦へと傾いた。

本能と直感に従う出陣策よりも、理性と理論で導き出された籠城策を選択することになる。


「帰蝶、良い進言に感謝する

 我らはこれより清洲城にて籠城を行う!」


信長は帰蝶に宣言するように強く自らの判断を口にすると、方針が決まったことを諸侯に伝えるためか急ぎ足で部屋を飛び出して行った。

残された濃は出撃策での敗戦を胸に籠城策での勝利を願いつつ、自分にできることは何かないかと勝利のために思考を巡らせていた。




信長が籠城策を決めた数日後、出陣の準備が万全に整った信勝率いる二千の軍勢が末森城を出発して清洲城へと向かう。


「しかしあの尾張の大うつけと呼ばれた男がよもや籠城策とは・・・」


「柴田殿のお気持ちもよくわかります

 この秀貞もまさか一戦も交える前に籠城策とは予想しておりませんでした」


柴田勝家と林秀貞の二人は織田信長ならばまず間違いなく出陣策をとるであろうと予想していた。

そしてその一戦の結果次第で籠城へと方針を切り替えることは予想していた。

だがその予想は裏切られ、戦いは最初から籠城策をとった信長方を相手取っての城攻めという様相になった。


「なにもありえない話ではなかろう

 兄上はわが軍よりも数が少ない

 野戦では分が悪く、城攻めをするには攻め手に欠ける

 守り、退けるのが兄上の現状であれば最上の策であろう」


信長の意外な籠城策に対して、柴田勝家と林秀貞の二人は意表を突かれた思いであった。

しかし信勝はそれすらも予想していたようで、その発言は意表を突かれた思いの重臣二人の不安を一瞬にして取り去ってしまう。


「兄上にとって籠城するというのは最上の策だ

 しかし今の兄上にとって籠城策は残念ながら勝機のある策とは言えない」


「信勝様、それは何故でしょうか?」


信勝が何を考えてどういう意図をもって信長の籠城策に対する意見を言っているのかが柴田勝家にはわからなかった。


「清洲城は平城じゃ

 山城と違って地形による防衛効果が薄い

 商いで栄え、多くの金を生む一方で守りには適していない

 逆に山城は人が集まりにくいため商いは栄えにくいが、地形のおかげで守りが固い

 清洲城の良さは国に富みを生み出すこと

 その地を尾張の中心として定めるのは間違いではないが、籠城策をとる守りの中心地とするには心許ない

 堀を作り多少は守りを固めてはいるが、そもそも商いでの繁栄を狙って作られた城じゃ

 商いで発展しやすいということは人通りが多いということ、人通りが多いということは多くの人間が簡単に通ることができる道があるということ、道があるということはそれだけ簡単に軍が移動できるということ、軍が簡単に移動できるということは攻守に置いて時に有効ではあるが時に不利となる

 兄上はそれを知ってか知らずか、不利な状況に身を置いている」


人造の堀などでの防御力を高める建造物もないわけではない。

しかしそれでも平城という立地と商業地という交通の便の良さが欠点となり、その欠点を突くのは戦の基本中の基本。

信勝は信長の痛いところをついて、清洲城へと軍を進めていた。


「攻める側が有利とはいえ油断は禁物

 あの兄上に細緻な策を弄する器量があるとは思えぬが、家臣達には優秀なものも多くいるのは侮れん

 警戒を怠らず、最上の結果にて勝利を得る」


「はっ!」


有利な状況においても油断せずに、確実に勝利を取りに行く。

その慎重なものの考えと行動、さらに選択。

それらは家臣達が求める主君増と合致し、信勝自身の求心力を高めていた。

求心力が高まり、大将を信頼できるとなれば兵の士気も上がる。

信勝軍は最高の状態で清洲城まで目と鼻の先の距離にまでやってきた。


「伏兵はなく、打って出てくる様子もございませぬな

 すでに農村の収穫も終わり兵糧も十分といったところでしょう

 瓶のように閉じこもっての籠城策に間違いはないかと」


清洲城近辺の農村や町を含め、広く情報を手に入れて分析した結果を林秀貞が信勝に報告する。

信勝はその報告を聞いて無言のまましばらく考え込む。


「籠城策を取っても勝ち目はあるまい

 兄上の兵力は千に届かぬ

 報告によれば七百程度と言う話もある

 その状況で二千の兵を相手にするには籠城策しかないが、平城で三倍近い兵力を相手に籠城するというのは解せん」


信勝が有利であることに変わりはない。

しかしそれを信長の家臣の誰もが気付かないままだというのには納得がいかなかった。

もし気付いていても信長がその進言を聞き入れなかったとなれば納得はいくが、そのような大将にしては籠城に必要な兵糧の調達などにまで十分手が届きすぎている。

そう考えればこの籠城策には何か目的があると考えてまず間違いはない。

そこまで考え至った信勝だが、その目的が何なのかがはっきりしない。

故に考え込んでいた。


「信勝様、奴らをいぶり出すために町に火でもかけますか?」


柴田勝家は主の役に立ちたいという思いからか、すぐにでも戦いたそうだ。

しかしその発案を信勝は瞬時に棄却した。


「勝家、早まるな

 他国を攻めているのとはわけが違う

 尾張の主を決める戦であり、織田家の当主を決める戦だ

 今のわしが町に火をかければ、わしはたとえこの戦いに勝ったとしても尾張を完全に平定できなくなり、織田家の当主となっても先は長くない」


「これは・・・考えが至らず申し訳ございませぬ」


「よい、意見があるならばすぐに申せ」


「はっ」


勝家の気の逸った進言にも寛大に対応する信勝。

それでいて進言はし続けろと指示を出す。

柴田勝家の織田信勝に対する信頼と忠誠心はさらに高まる。


「しかしこうも見ごとに籠城されますと、いくら平城とはいえ長期戦は避けられそうもありませんな

 にらみ合いが続けば冬支度も必要になるやもしれませぬ」


状況を見た林秀貞の言葉がきっかけとなって信勝は一つの結論に至った。


「そうか、そういうことか

 兄上は長期戦をお望みなのだな」


はっきりと何かがわかった信勝。

その様子に柴田勝家と林秀貞が目を向けて耳を傾けて、次の言動に集中する。


「冬の到来で我が軍の士気が下がれば力攻めは難しくなる

 春を迎えてしまえば兵達は畑に帰らねばならん

 それはいわばわしが勝てなかったということだ

 負けではないが、この戦力差と状況では負けに等しい

 冬までの短い期間、全力で守り通せば兄上の不利は一転して有利に転じる

 なるほど・・・うつけにしてはよく考えておりますな、兄上」


信勝の推察通り、信長は籠城による長期戦に持ち込み、勝敗がつかない状態での一時的な戦争中断を狙っている。

有利で数も多い信勝は負けなくても負けたような印象を周囲に持たれてしまう。

それだけで尾張国内での評価の変化は見過ごすことができないほどのものとなるだろう。

そうなれば現状の優劣が覆されてしまう可能性も否定できない。


「兄上は長期戦をお望みだ

 故にわれらは短期決戦を強いられてしまったな」


長期戦は信勝にとって不利となるため、自ら短期決戦を選択した信勝だが、信長に短期決戦を選択させられたと言ってもよい展開だ。

その短期決戦で攻めあぐねて勝負を決められなかった場合、長期戦にもつれ込んで信勝はさらに勝率が低くなり、最終的には負けていないのに負けたことになってしまう。


「籠城側が短期決戦を許さなければ勝てると皆が知っていれば、それだけで守りの兵達の士気は高いでしょうな

 しかも敵をおびき出すために城下へ火を放つことも出きませぬ

 そうなればますます短期決戦は難しいかと」


ただの籠城だが、その籠城一つとっても様々な効果がある。

どこまで信長が考えているかは信勝方には知り得ないが、状況は信勝有利ではあるが優劣はほぼ紙一重。

初手を誤れば信勝は一転して苦戦を強いられ、なおかつ不利な状況で籠城する敵と戦わなければならない。


「我らが勝っているのは数と清洲城の立地が攻めやすいという点のみでございます

 初手で力攻めを行うのも悪くはないかと思いますが・・・」


信勝の兵も決して士気が低いというわけではない。

むしろ高い方だ。

信長の兵と比べても士気の高さにはそれほど差はないと考えられる。

城攻めを強行しても勝ち目はあるが、勝率は安心できるほどのものではない。

だからと言ってずっと睨み合っていても信勝は勝つことができない。

信勝はどうしても初手を打たなければならず、その初手を誤ることが許されない状況に陥っていた。


「殿、いかがいたしますか?」


信勝の下知を待つ柴田勝家と林秀貞。

二人は信勝の指示を静かに待つ。


「秀貞、兵千八百で清洲城を包囲せよ

 打って出てきても退けられるように配置するのだ」


「かしこまりました」


「そして勝家、兵二百を率いて清洲城近辺のどちらの派にもつかぬ武家の下へと向かい味方に引き入れよ」


「かしこまりました

 しかし、味方にならぬと言った時はどうすれば?」


どちらの派にもつかない者達がそう簡単に腰を上げて信勝に味方するとは思えない。

当然、返事を渋る者達も出てくるだろう。


「その時はお前の腕の見せ所だ」


「それはどういう・・・」


「我らに味方せぬ、それは兄上に味方したも同然

 躊躇いなく敵兵として討ってしまえ

 そして見せしめのためにも屋敷には火をかけよ」


「そ、それはさすがに・・・」


まさかの攻撃の指示に柴田勝家は驚きの表情を見せる。

さらにご法度であるはずの火をつけることも命令として下された。

柴田勝家がすんなりその命令を受けることはできないのは当然のことであった。


「勘違いするでない

 短期決戦を強いられてやむなく町に火をかけるのではない

 あくまで火をかけるのはその武家の屋敷だけじゃ」


動揺する柴田勝家に信勝は命令の意味をしっかりと説明する。


「味方にならぬのならば敵とみなす

 これを尾張国内中のどちらの派にもつかぬ者達に知らしめるのだ

 町に火をかけることはできぬが、敵とあらば戦わなければなるまい

 我らは城外の敵を一掃し、城外にて味方を増やす

 数が増えれば力攻めもより容易になり、それだけ籠城する者達の士気を下げることができる

 籠城する相手に短期決戦を強いられてしまった以上、短期決戦で城攻めに勝つには余裕を持った数が必要だ

 それを作りに行くのだ」


「はっ、かしこまりました」


信勝の説明に柴田勝家は納得した。

最初はとんでもないことを言ったと思ったが、その作戦には勝利のための材料がいくつも隠れていた。

柴田勝家はそれを気付かされたことで一切の迷いも疑問も打ち払われ、ためらうことなく全力で命令に従える。


「二人とも、頼んだぞ」


信勝の命令を受けて柴田勝家と林秀貞が即座に行動へと移す。

柴田勝家はすぐさま二百人を選抜して引き連れ、近場に居を構える武家の屋敷へと向かう。

林秀貞は残りの千八百の兵を清洲城周辺に展開させ、いつでも戦える状況を作り出して待機する。


「さぁ、兄上

 わしは短期決戦を決めました

 それは城内から見ていればすぐにわかることでしょう

 打てる手があれば打ってくだされ」


籠城戦の欠点の一つに行動や選択肢が大きく制限されるということがある。

その状況でさらに相手の首を絞めることができる信勝に対して信長はどれだけの手段が残されているのか、それは考えてみても数えるほどしかない。

多くの点で優位に立っている信勝はその数えるほどしかない対抗手段の全てに対応できる自信があった。

そんな自信が見え隠れする自信満々の笑みを彼は清洲城の天守閣へと静かに向けていた。




信勝軍に包囲された状態の清洲城は相変わらず籠城の構えを見せたままの臨戦態勢を取っていた。

このまま何事もなく時間が進めば信長に勝ち目はあるのだが、清洲城が包囲されてから数日後には信勝軍に変化が起こっており、その変化はさらに時間置経て信長軍にも影響を及ぼしていた。

清洲城の天守閣でいつものように包囲している弟の軍隊を見ている信長の元に、急ぎ駆けつけた丹羽長秀はやや早口でまくしたてるように新たな情報を伝える。


「殿、城内から見た様子で確かな報はございませんが、おそらく敵の数が増えております」


「なんだと?」


清洲城に籠城する信長は天守閣より毎日何百回と清洲城を包囲している弟が率いる軍隊を見ている。

遠目に幾度か煙が上がる様子が見て最初は狼煙かとも思っていた。

しかし時間経過と共に城を包囲している敵軍の動きがわかるようになり、当初の予定通り籠城策が功を奏するかどうかという不安が常に付きまとっていた。

それが今入って来た報告により、一層厳しい状況に立たされたことがほぼ明らかとなった。


「籠城中故、城外の様子は完全にはわかりませぬ

 幾度か確認された煙は恐らく敵味方のどちらの派にもつかぬ者達を襲撃したものかと思われます

 その結果、襲撃を恐れた者達が続々と敵に加担しているようでございます」


丹羽長秀の報告を受けて信長の表情は歪む。

長期戦に持ち込めれば勝機はあり、数で劣っていても籠城戦で相手を退ける算段もなかったわけではない。

しかし敵の数が増えたとなればその算段は予定通りに事が運ぶはずもなく、確実に狂いが生じていることは明らかだ。


「これから信行・・・いや、信勝であったか

 どう出るかわかるか?」


「・・・おそらく、数を力に攻め寄せてくるものと思われます」


「そうか」


短期決戦で勝敗を決するとなるとどうしても兵の数が重要になってくる。

ましてやそれが城攻めともなれば守りの要を打ち崩して敵を倒さなければならない。

その数が信勝軍に揃いつつあり、時間が経てば経つほど信長に有利にはなるのだが、その有利な状況になるのはあくまで冬の到来が絶対条件。

今はまだ信勝が有利な状況であり、その状況にある間に一回の攻防で勝負を決めるつもりなのだ。


「守り切れるか?」


「わかりませぬ

 当初は二千程度だった敵兵も既に二千五百に達しようとしております

 このままいけば秋の間に三千を超えることはまず間違いはないかと・・・」


「あい、わかった・・・」


報告と丹羽長秀の見解と予想を耳にした信長の表情は浮かない。

不利な状況が好転する前にさらに不利な状況へと転がり落ちていくのだ。

少数で籠城をしているがゆえに動ける手段も限られてしまっている。

時間が早く過ぎ去っていくことを切に願う信長だが、時間の進む速さには一切変化はないのは当然であり、敵が増えていくのをただただ天守閣から指をくわえて見ていることしかできない。

歯痒さと無力さが信長の心を締め付け、心的ストレスを与え続ける。


「やれるだけのことをするしかなかろう

 冬まで守り切れば勝機はある

 皆に守りを固め警戒を怠るなと伝えよ」


「はっ!」


信長の指示を受けて丹羽長秀は即座に天守閣を後にした。

天守閣に一人残った信長は相変わらず清洲城を包囲している弟の軍を前に、なす術のない自分の弱さを痛感して立ち尽くしていた。




清洲城を包囲し始めて半月ほどが経過した信勝軍の本陣に柴田勝家と林秀貞、さらに信勝に味方する諸将が招集されていた。


「殿、我らの軍はすでに三千を超えております

 そろそろ機が来たのではないかと存じますが、いかがでございましょうか」


「確かに勝機は見えている

 しかし事をそう急ぐな」


勝機が見えたと言いたいのか、柴田勝家は今すぐに攻撃命令をして欲しそうな物言いで信勝の返答を待つ。

信勝はそれに対して攻撃命令は出さず、話を聞いていた信勝に付き従う諸将達も清洲城を包囲してから目立った動きがないことに少し士気が下がっていた。


「秀貞、清洲城の様子はどうだ?」


包囲している軍隊の指揮を一任されている林秀貞に信勝が敵方に関することで新たな報告がないかを確かめる。


「特に目立った動きはございませぬ」


「目立った動きだけではなく、何か気になったこともないか?」


信勝の問いに真意を測りかねて眉をひそめる林秀貞。

しかし問われたことには正直に答える必要があると、ここ数日の清洲城の様子を頭の中で思い返す。


「数日前より守りの兵の数が増えたような気がいたしますな

 守りが固められていると思われます」


林秀貞の報告を受けて信勝は首を一度縦に振る。

話を聞いている諸将はそれでも動かない信勝に少し苛立ちに近い感情を抱きつつあった。

数で圧せば間違いなく勝てる戦を短期決戦で勝負に出ると言ったにもかかわらず、勝機が見えている状況に置いて動こうとしない。

諸将の不満は目に見えるほどではないが、小さく少しだけ蓄積が見られている。


「殿!

 遅れて申し訳ございませぬ!」


重臣から諸将までが一堂に会した信勝本陣。

そこに一人の男が駆け込んできた。


「通具!

 お主は末森城の留守を任されていたはずでは・・・」


本陣に駆け込んできたのは林秀貞の弟の林通具。

信勝をはじめとする重臣達が末森城を空けるため、その留守番を請け負っていた林通具が突如現れた。

兄である林秀貞は突然の弟の登場に驚きと困惑を隠せない。


「秀貞、わしが一つ用を申し付けたのだ」


「そ、そうでございましたか」


弟が命令違反を犯したのではないかと思った林秀貞だが、弟の行動が主君の命令であるということを知って安堵した。


「・・・して、通具

 頼んだものは用意できたのか?」


「はっ、大量の矢に梯子

 確かにご用意いたしました」


林通具がそう言うと、荷物の輸送のために駆り出された農民達が束ねられた大量の矢と木でできた多くの梯子を持って現れる。


「大義であった

 その者達には褒美を渡し、そなたには悪いが至急末森城に帰ってまた留守を頼む」


「はっ!

 信勝様の勇姿を見ることが叶わぬのは心残りではございますが、この林通具

 身命を賭して末森城の留守を任されます!」


林通具は一度深く頭を下げると、束ねられた大量の矢と梯子を本陣に置き、人手としてかき集めてきた農民達と共に本陣を立ち去っていく。


「信勝様

 この矢と梯子はもしや・・・」


林秀貞の問いに信勝はうっすらと笑みを浮かべる。


「城攻めのために急ぎ用意させた」


信勝の言葉を聞いて柴田勝家と林秀貞、そして集まった諸将達から「おぉっ!」や「ついにその時が」などの言葉があふれ出てくる。


「これより城攻めの命令を下す

 今日と明日の二日、夜襲をかけるふりをして篝火を盛大に焚き、敵を怯えさせよ

 日中も攻撃をするかのように隊列を変え、兵を動かすが攻撃はしない

 だが兵はいくつかに分けて動き敵を怯えさせる者と休み力を蓄える者を作り兵の力を落とさせるな

 そして明後日の夜明けと共に総攻めを仕掛ける

 今日と明日で敵は昼夜心が休まらぬはずだ

 明後日には敵の力は格段に落ちていよう

 明後日の夜明けは敵方の兵が朝食をとる前に仕掛ける」


信勝の命令に誰一人異論をはさむことなく、全員が心を一つにして「はっ!」と命令に従う意を示す。


「勝家、兵を三つに分け正面から攻める本隊と城壁を乗り越えて場内に進入する分隊二つを至急編成せよ

 二つの分隊には梯子を与え、夜明けと共に行動を開始する

 本隊は守りの兵が城壁を守ることに力を注いだ時を見計らって正面より攻める」


「かしこまりました」


「秀貞、今日中に干した米や芋で火を使わずに食べられるものを用意せよ

 明後日の夜明け前に腹ごしらえをして、兵の士気も体力も腹の具合も勝った状態で攻撃する」


「承知いたしました」


「この一戦はわしが尾張の国主となり、織田家の当主となる重要な戦だ

 皆の活躍を期待する

 抜かりなきよう頼むぞ」


信勝による攻撃命令が出たことで兵の士気は嫌が応にも上昇していた。

その士気の上昇は清須城内の兵士達にも伝わり、いつ攻めて来るかわからない雰囲気を察した守備兵士達の緊張感は日夜途切れることはなく疲弊していくこととなる。




信勝の作戦は大成功となり、清須城内の人間が疲弊して集中力が落ちる二日後の早朝、ついに清州の戦いの火ぶたが切って落とされることとなった。


「殿!」


清須城内の寝室で横になっていた信長の元に佐久間信盛が駆けてくる。


「敵方、動き出しました!」


「ついに来たか!」


明け方の日が昇り始めた頃、清洲城を正面から見て左右に挟む形で二方向から城壁を乗り越えようと信勝軍が迫ってくる。

信長軍は城内から矢を射かけ、城壁に梯子がかけられるたびに梯子を押し倒したり、城壁の上によじ登って槍で刺して応戦したりと、開始当初から半ば乱戦気味な防衛戦の様相となった。

数に勝る信勝軍はその数を活かして兵を二手に分けての二方向からの攻撃。

しかし信長軍の将達も兵を指揮して果敢に攻め寄せる兵に城内への侵入を許さない。


戦国時代の中期頃までに作られた城のほとんどは防御の要とはなっているが難攻不落と呼ばれる城は数少ない。

城壁はさほど高くはなく、地形の利用無くして堅城と呼べる城はないと言っても過言ではない。

稲葉山城のように山を利用して建てられた城でもなければ、守りの固い城とは言い難い。

清洲城のように平たい土地に建てられた城は攻められやすいという欠点がどうしても拭えない場合が多く、必死に守れば守備力は低くはないものの守備力に安心できるような城ではなかった。

尾張は比較的開けた土地柄でもあったことから、信長の居城は商業的観点では優れているが守備には不安のある平城とならざるを得なかった。


守りを固めることで不安要素を際立たせない。

信長軍の奮闘は敵である信勝も称賛に値するほどのものであった。

二千の兵力しか無ければ攻め落とすことは難しかったかもしれないと、兵士集めを選択肢に入れたことがより勝利を近づける。


「今だ!

 城内の兵力が左右に分断されたぞ!

 本隊は正面より清洲城の城門を打ち破れ!」


信勝の発令に従い本隊の兵士が一斉に動き出す。

三千を超える総兵力による総攻め、なおかつ立地条件の優位がない平城に七百程度の守備兵、これらの条件により清洲城は守りの手が足りない苦境に立たされる。

それでも奮闘する信長軍だが、苦しい状況にいつまでも耐えられるわけがない。

小さな綻びが守りの完璧を失わせ、完璧でなくなった守りは崩れて敵の侵入を許す。

一度でも敵の侵入を許してしまえば城内でその敵を排除する人手が必要となり、さらに数的不利に陥ることとなる。

そしてその小さな綻びが早急に起こりやすい要因をこの二日間で作り上げていた信勝。

朝日が昇り始めた頃に始まった城攻めは朝霧が消える前に大勢は傾いていた。


「城門、突破されました!」


城壁を超えようとする敵兵を凌ぎつつ、城門に迫る敵を城門から引き離そうと応戦する信長軍にも限界がやってきた。

数と勢いに負けて城門を突破されてしまい、城内に信勝軍の部隊の侵入を許してしまった。

天守閣のある本丸に到達するまでにまだ城門はあるが、すでに多勢に無勢。

勝敗はすでに決まったと言っても過言ではない。


「佐久間盛重殿、お討ち死に!」


「森可成殿、敵の矢を受け重傷!

 戦線の復帰は不可能でございます!」


「丹羽長秀殿、重傷を負い敵に捕縛されました!」


次々と家臣達の望まぬ報せが飛び込んでくる。

本丸にいる信長は家臣達の非戦闘員の家族を集めて天守閣へと籠るように指示を出した。


「殿はどうなさるおつもりで?」


「本丸の城門が破られると同時に名乗りを上げて戦う

 ワシの首さえあれば弟もそなた達に手は出すまい」


濃の存在意義は大きく、その濃と共に家臣の家族を天守閣へと置いておけば信勝もそう簡単に手は出せないはずだ。

そして濃は先の失敗した歴史で信勝が一時的とはいえ斎藤家との同盟を望んでいることを知っている。

故に信長の命令に異論はなかった。


「力なく主君で、すまなかったな

 帰蝶、そなたはワシには過ぎたる妻であった」


信長はそう言うと、本丸にいる僅かな兵と唯一健在の指揮官佐久間信盛を引き連れて最期の戦いに出向いていく。

死に行く一人の男の最後の姿を目にした濃の瞳には涙が溜まるが、そんな感傷にいつまでも浸っているわけにはいかない。

この歴史は失敗であったとしても、信長の命令だけは最後まで全うしようとする彼女は、信長派の家臣の家族を引き連れ天守閣へと籠った。




人力で大きな丸太を叩きつけて城門を打ち破ろうとする轟音が鳴り響き、ついには本丸の城門が破られて信勝軍の進軍は本丸にまで到達した。


「信長様の過信として最後までその力を振るえ!」


佐久間信盛の激に従い、信長に味方する残り僅かな兵が佐久間信盛と一緒に信勝軍と交戦する。

しかし多勢に無勢。

最初こそは多少は戦えていたが、次々侵入してくる敵兵はまるで無限増殖のように終わりが見えず、ついには兵士達も体力の限界や多勢に無勢という数の不利に一人また一人と命を落としていく。

そして佐久間信盛もついに敵の槍に腹を刺され、刀で腕を切られ、その首を討ち取られてしまった。


「・・・」


最後に残ったのは信長ただ一人。

複数人の兵が槍を構えて信長を取り囲む中、信長は一人刀を手に立っているだけ。

抗うだけ無駄、さらに抗えば彼が刀こそ持っている者の無抵抗でいる意味が失われる。


「信長殿、武器を捨てられよ

 もはや勝ち目はございませぬ

 まさかそれもわからぬほどのうつけではございませぬな」


本丸に到着した柴田勝家が信長に武器を捨てての降伏を呼び掛ける。

敵とはいえ一応は織田家の当主である信長に、特に抵抗する様子もないのに斬りかかるわけにもいかず、周囲の兵士達も武器を構えて包囲したまましばらくの間沈黙の時が流れる。


「兄上、まだ諦めがつきませぬか?」


沈黙の空気を打ち破ったのは本丸へと到着した弟の信勝。

林秀貞と多くの諸将を従え、堂々と本丸まで歩いてやってきた。

信長は今まで沈黙こそ守ってはいたが、それは信勝がこの場所へ到着するまでの時間稼ぎだったのか、弟の到着を待っていたかのように信長は閉ざしていた口を開いた。


「天守には帰蝶をはじめ、多くの女子供がいる

 ワシの命が助からぬのは致し方ないが、あの者達には温情を」


「・・・それが、最後の望みと言うわけでございますかな?」


「ああ、そうだ」


勝敗が決した清洲城の本丸での兄弟の会話。

信長の願いは信勝に聞き入れられるのか、信長を包囲している兵士達や信勝に付き従っている諸将達は信勝の次の言葉を待っていた。

しかし信勝はそう簡単に返答することはなく、傍らに控えていた林秀貞に小声で何かを耳打ちする。

林秀貞は一瞬表情をしかめるのだが、主命と言うことで逆らうことはできず、信勝の傍らから離れて一度姿を消した。


「・・・兄上

 私は常々思うておったのですよ

 これほど優れたわしよりもなぜ早く生まれただけの大うつけのあなたを兄と呼ばなければならないのか

 そしてあなたのような人とこうして対等に話さなければならないのか・・・」


信勝がそう言った時、どこからともなく信長めがけて矢が飛んできた。

その矢は信長を包囲していた兵士達の合間をすり抜け、刀を持って立っている信長の右太ももに突き刺さった。


「ぐっ・・・」


右太ももに矢を受けた信長はそのまま崩れ落ちて右膝をついた状態で信勝を見る。

信勝の表情はまるで下賤なる者を見るかのように信長を見下していた。


「このわしと話をするのだ

 対等であるはずがなかろう

 膝をつき、首を垂れ、敬意を持って、言葉には気をつけよ!」


それはもう兄に向けられた言葉ではなかった。

信長と信勝の間にはもう兄弟関係と言うものは微塵も存在せず、勝者と敗者という立場や優劣が着いた結果だけが二人の間に横たわっていた。


「それで、先ほどなんと申したか聞き逃してしまった

 もう一度言え、信長」


もはや信長を兄とも呼ばない。

その態度を改めさせる力を信長は持っていない。

右膝をついた姿勢のまま、兄は弟を見上げる形でもう一度、聞き入れてもらわなければならないことを言葉にする。


「ワシが助からぬのは覚悟の上・・・

 だが天守にいる帰蝶をはじめとした女子供は助けてほしい」


先程と大差ない物言いに信勝は一瞬表情を強張らせるのだが、一つため息をついたら平静な表情へと戻っていた。


「うつけには言葉遣いもわからぬか

 まぁいい

 もう話すことはないのだ

 秀貞、次は腕だ」


信勝の指示に従うように再び矢が信長を襲う。

次に突き刺さったのは刀を持つ腕。

その衝撃と痛みに信長は刀を手放してしまい、甲冑腰身にまとってはいるが丸腰の状態となってしまう。


「あまりにも愚かすぎて苛立ちが収まらぬ

 この手でその首をはねれば、少しは心が落ち着くか・・・」


二本の矢を体に受けてすでにほとんど動けなくなった信長のもとへと信勝が足を進める。

そして真正面から一度信長を見た後、信勝は兄の背後に回って刀を抜いた。


「織田家の面汚しをようやくこの手で討てる

 愚かな男を任したこのわしの手で死ねるのだ

 せめてもの手向けだ、冥府への土産として構わんぞ」


信勝はそう言うと刀を高々と振り上げる。

そして全身の力を込めて信長の首をめがけて刀を振り下ろした。

清洲での戦いはここに織田信勝の勝利で幕を閉じるのだった。


「・・・さて、何名かついてこい

 天守へと向かう」


信長を討ち果たしたことに対する感情の変化はほとんどなかったのか、信勝は家臣にそう命じると一人で先に天守への道を歩いて行ってしまう。


「お、お待ちくだされ」


「と、殿!」


柴田勝家が慌てて追いかけて行き、林秀貞がひとまず目についた数人を連れて信勝の後を追い、残りの者は待機となった。




清洲城の天守閣で家臣の家族達と身を寄せ合う濃。

そこに信勝軍の兵と共に信勝がやってくる。

それを見るなり濃はすぐさま天守に集められた家臣の家族達を身を挺して守るように、信勝らとの間に立った。


「わしがここへ来たということは、すでにどういう結果かおわかりでしょうな」


「ええ、わかっております

 我が殿は・・・討たれたのですか?」


「つい先ほど、この手で」


信勝は自らの手で信長の首をはねたことを濃に告げる。

濃は信長を勝たせるということにまたしても失敗したことで、その表情は暗く悔しさがにじんでいた。


「そう悔やむことはないでしょう

 尾張の先を考えれば誰が当主として才を振るうのが一番なのかは誰もがわかっていること

 この結果が織田家の当主が誰であるのか、それを証明しているのです」


勝敗こそが全ての戦国の世で、信勝は信長に勝って織田家当主の座を手に入れた。

これより尾張国内では信勝の命令が絶対であり、彼の意に背くことはこの尾張では生きていけないことを意味していると言っても過言ではないだろう。


「それで、私達の処遇はどうするおつもりですか?」


天守閣に集まっているのは信長についた家臣の家族達。

濃を含めた彼ら処遇は信勝の一存によってきめられるが、その一存がどのようなものになるかを先に見聞きして十分熟知している濃には、結果のわかり切っている答えを言葉とさせて言質を取るという意味のこもった問いとなった。


「帰蝶殿

 我らはこれより尾張国内をまとめなければなりません

 その間は斎藤家との同盟関係が必要不可欠

 そのためにはあなたには尾張にいてもらわなければならない」


「・・・なるほど

 わかりました

 それでここにいる方々は?」


「兄に味方した者の家族故本来ならば一族郎党打ち首・・・と言いたいところではありますが、それはあなたがお許しにならないでしょう」


「よくご存じで

 私は殿にこの者達のことを託されておりますから」


「尾張に居を置き、斎藤家との同盟を再び締結するのに一役買うこと

 その交換条件として天守にいる者達の命は助けることを約束いたしましょう」


「・・・敗者に対する処遇の寛大さに感謝いたします」


想定通り、濃の存在によって信勝は天守にいる者達の命を安堵した。

ここまでは予想通りで、そしてこれから先の彼の言動もすでに知っている。

故に信長方の将の家族を救った時点で濃のこの歴史における役目は終わったことになる。

信勝は濃の存在の有無は斎藤家との同盟を締結するのに必要としているのではなく、締結した後の同盟期間の決定について織田家が主導権を握るために必要としている。

彼はいずれ斎藤家との同盟を一方的に破棄して美濃へと攻め込む。

故に、濃の存在の有無はこの歴史においてさほど意味のないものとなる。


「すみません、信勝様

 皆の命が救われたことにより急に緊張が和らいだせいか急に疲れが出てきてしまいました

 少し休む時をいただくことをお許し願えますか?」


「ああ、かまわぬ」


「ありがとうございます」


信勝の即答に濃はぺこりと首を垂れる。

そして天守閣にいる家臣達の家族を天守から出て行くように促し、濃も家臣の家族達に続いて天守を後にする。

後は前回とほぼ同様。

侍女達を遠ざけ、一人自室に籠ってタイムマシンに触れる。


「出陣策もダメ、籠城策もダメ・・・ですか

 ならばどうすれば勝つことができるのでしょうか」


タイムマシンを操作しながら頭の中で解答を模索する。

濃は歴史を変えるということを、史実と違う選択肢を選ばせれば自ずと歴史に変化があると考えていた。

確かに出陣策と籠城策では多少の違いは出たが、歴史の大きな道筋を変えるには至らなかった。


「もしかして・・・どれだけ頑張っても織田信長は弟に勝てないのではないかもしれませんね」


そもそも兵力差があり、家臣達をまとめる力にも差があり、家中における求心力にも差があり、現状を打破する能力などにも差がある。

織田信勝が歴史の上で織田信長を破って尾張を治めていたのには全く違和感がない。

しかしそれでは叶わない未来がある。

それをなすべきために濃はどうしても歴史を変える必要があるのだ。


「全軍での出陣と籠城がダメなら兵を分ける・・・いえ、それではダメです

 そもそも数が少ないのにさらに数を減らしても勝ち目はないでしょう

 そうなると奇襲などで覆す他がないのでしょうが、奇襲となるとどうしても野戦になってしまいますね」


野戦では特に兵の数がものをいう。

さらに尾張のように比較的勾配の少ない地形であれば、より一層数の多い方が有利となる。

その数の大小を覆すには兵器で勝るか作戦で勝るかしかない。

兵器で勝ると言っても今の織田家にはこの時代の最先端の兵器である鉄砲を数多く揃える財力はない。

ならば消去法で必然的に作戦に頼る他ないのだが、織田信長よりもはるかに優れた弟を打ち破る作戦となれば実に難しい。

戦場に置いてその局面ごとに的確な状況判断と指示が出せるかどうかが大将の資質であり、織田信勝はその全てを織田信長以上で上回っている。

ならばその補佐を濃がするとしても戦場に出張っていいものかどうか、戦場に出てもしものことがあれば歴史改変は行われることが無くなってしまう。


「・・・手詰まり感がすごいですね」


あの手を考えこの手を考え、しかしこの二度の戦いを経て勝ち目のなさに次はどうしすればいいのか、案さえ浮かばなくなってしまっていた。


「そもそも織田信長に着目したことが間違いだったのでしょうか

 他に有力な大名は・・・」


今川義元の上洛へのルートを考えると、最強の国力を持つのはどうしても美濃の斎藤家。

その斎藤家と手を結ぶことが可能でなおかつ協力関係が築けそうなのが織田家だけだった。

しかしその同盟関係も既に崩れてしまっているため、織田家にそもそも固執する必要はない。

固執する必要はないのだが、斎藤道三とも短い時間での思い出、織田信長とのちょっとした日常のやり取り、そういったものが記憶の中にあるせいか濃はどうしても織田家に固執してしまうのだった。


「・・・考えてばかりいても始まりませんが、考えないと打開策が見つからない

 出陣策も籠城策もダメとなると、残されたのは野戦ですか

 奇襲を仕掛けて大敗させることができればいいのですが、尾張の地形上それは難しいのが現状ですね

 そうなると清洲城以外の立地の良い場所に城があって・・・と、そもそも城を作る時間などありません

 ありませんが・・・ん?

 時間・・・ですか」


濃は独り言を呟いている時に一つ、新たな情報に気が付いた。


「出陣策をとった時、すでに信勝軍は防衛戦の準備はある程度できていました

 籠城策をとった時、信勝軍が攻めてくるまでに数日の猶予がありました

 つまり野戦をするとしてもこの数日の猶予というものは、もしかしたら結果を左右する極めて大きな要因になるかもしれませんね」


信勝軍が城の外で戦うために必要な時間がだいたいわかっている。

その時間までは実は安全に事をなすことができる絶対安全な時間と言える。

その時間を使って駆け引きができれば、野戦で敵を退けることができるかもしれない。

一度退けることができれば信勝の求心力を大幅に削ぐことができる。

それは信長の勝利に等しい。


「・・・やってみる価値はあるかもしれませんね」


濃は再び家督相続の戦いをやり直す。

その次の作戦の方向性はある程度定まった。

しかしこの時代の戦に関しての事細かな常識を濃は全てわかっているわけではない。

よって次は濃が作戦を誘導するのではなく、織田信長とそれに味方する者達が勝つための作戦を考えて実行するという方向にもっていくのが最上かもしれない。


「失敗は覚悟のうえです

 何度でもやり直しましょう」


後はワンタッチで過去へと飛べる状態でスタンバイがされているタイムマシンに、彼女は最後の一手を触れる。

何度失敗してもやり直すことは覚悟の上だが、次こそは成功して見せるという意気込みを胸に、濃は再び過去へと戻って行った。



信長が一人で考え込んでいる部屋に濃が侍女を数人引き連れてやってくる。

手にはお盆、そのお盆には湯気が立ち上る茶碗がいくつも乗っていた。


「殿、軍議はもう終わってしまわれましたか?」


集った味方の武将達に白湯を持ってきた濃だったが、部屋には信長が一人だけで他には誰もいない。

軍議が終わったと思うのも無理はない。


「・・・いや、まだだ」


「まだ?

 ではなぜお一人で?」


「籠城か、出陣が、選択を迫られているのだ」


「・・・そうでしたか」


苦悩する信長の表情を見て、濃はこの状況を察した。

そして侍女たちには部屋から席を外した者達へ白湯を届けるよう指示を出し、濃は軍議が行われた部屋で信長と二人きりとなる。

二者択一の選択に信長は家臣達に席を外させて、一人で悩みながらも難問と真正面から向き合っている。

総大将として決断しなければならないのだが、その決断が信長にはできないのだった。


「どうするべきか・・・

 選択を誤れば間違いなくワシは負ける

 いや、誤らなくとも負けるかもしれぬ

 信行はワシの二倍の兵を率いているのだからな」


信長には勝つ自信がまるでない。

二倍の兵力を相手に戦うことは恐怖でしかない。

その恐怖にどうやって打ち勝てばよいのか、そしてそのためにはどのような選択をすればいいのか、どれだけ悩んでも答えが出ることはないまま時間だけが過ぎて行っていた。


「殿、籠城と出陣

 双方の長所と短所を話していただけますか?」


濃は信長の傍らに座り、信長の悩みに耳を傾ける。

一人で苦しみながら選択を迫られていた信長は妻の登場に少しだけ心の苦しさが取り払われた気がした。


「籠城の長所は信行を討ち取れる公算が高いことだ

 だが信行に主導権を握られるため、信行次第で討ち取れる公算はなくなると言っても過言ではない

 打って出て信行の兵を倒すのも難しいかもしれんな

 出陣は信行が動く前に先手を取って信行を謀反人として攻撃することで、ワシの味方に付いていない者達を仲間に引き入れ信行の求心力を落とすことができる

 欠点は二倍の兵力を相手にして必ず勝たなければならないということだ」


出陣策は身を守る城から出て敵の近くにまで接近して敵を打ち破らなければならない。

籠城策は信行次第ではあるが時と場合によれば信行自身を討ち取れる可能性がある一方で、信行の考えや行動一つで水泡に帰してしまうため良い賭けとは言えない現状が待っている。

どちらを選択しても一長一短、成否の可能性はどちらともいえない。

そのため、信長は決断することができなくて悩んでいるのだった。


「では、殿はどうなさりたいのでしょうか?」


考えがまとまらず判断がつかない時、多くの人は直感を信じるか、賽を振ったりくじを引いたりする運に任せるか、そういった論理的な部分から離れたところで背中を押してもらい決断に至る他ない。

ましてや彼は尾張の大うつけという異名を持つ男。

自らの直感に従ってやりたいことをやりたいようにやってきた。

ならば今日この時も彼らしく決める、決断がつかないのであればそれが最善である。


「ワシは・・・

 亀のように閉じこもっておくのは好まぬ」


「そうですか

 ならば、そのお心のままに動いてみては?」


どの道、勝率は高くない。

迷った挙句選択した戦い方で中途半端に戦うよりも、決断したうえで戦いに専念する方が僅かでも勝率の向上に役立つ。

どの選択が正しいかわからないどころか、そもそも選択肢の中に正解があるのかもわからないのだ。

ならば一つの選択肢に全てを懸けるしかない。

今の織田信長にはそれ以上のことができないのだから。


「・・・そうだな

 迷っていては勝てる戦いも勝てなくなる

 帰蝶、礼を言うぞ」


信長は決断したのか、今まで根が生えた大木のように座り込んでいたところから、大空へ飛び立つ鷹のように床を蹴って飛び上がる。

一瞬だけ浮いてしっかりと部屋の床に着地した信長は、覚悟を決めた引き締まった表情のまま、堂々と足を踏み出して部屋を飛び出して行こうとする。

その信長に濃はさらに声をかけた。


「・・・と、申したいところですがそれではよろしくないと思います」


「なに?」


つい先ほどまで己の直感を信じて思うままに戦えと言う進言をしていた濃。

しかし彼女は信長が決断したそのすぐ後にその進言を覆した。


「殿のお心のままに戦うということ、それも重要だと思います

 ですがそれは殿のお考えをよく知っている方々には見透かされているではないかと危惧しています」


「信行が・・・ワシの考えや行動を読んでいると?」


「わかりません

 ですが否定はできないと思います

 そうなれば城から出て倍の相手と対峙するという策は無謀ではないでしょうか」


仲は良くなかったが、強大として共に織田家で育った間柄だ。

品行方正な信行に対して、自由奔放な信長。

そんな信長ならばじっとしていることが苦手というくらいのことは、強大である信行ならば察して当然のことと言える。

ならばその裏をかくのもまた、戦略戦術の一つと言えよう。


「信行はワシが出てくると読んでいる、故に裏をかいて守りに徹するということか」


「はい

 それに信行殿を討ち取るだけが勝利ではないと私は考えます」


「・・・と、言うと?」


二者択一の選択肢の中で、勝利を掴むのが難しい籠城策。

その籠城策に信行を討ち取る以外の勝利の道筋があると言う濃の言葉に信長は耳を傾ける。


「今は9月、米の収穫などがちょうど終わった頃です

 籠城をするのに必要な食料の備蓄に問題はありません

 数の多い敵を相手にするには籠城をして時間を稼ぐのも手です

 さらに時が経てば間もなく冬となります

 城内で過ごす冬と城外で過ごす冬では寒さや疲れは格段に違います

 士気が下がれば城攻めどころではなくなるでしょうし、城攻めを断念せざるを得ない状況になれば我々の勝ちとなります

 多くの将兵を味方につけていながら城を攻めきれず落とせなかった

 その事実は城攻めを断念した敵が一度退いて、再び攻めてくるまでの間に味方を増やす要因ともなります」


守り切るということで負けなかったという状況を作り出し、籠城戦にて勝ったという事実をもとに尾張国内のどちらの派にもつかない者達を味方に引き入れる材料とする。

信行側は攻めきれなかったという事実から求心力の低下を招きかねず、戦力を維持することも難しくなるはずだ。

更に彼の性格や言動を考えれば、一度の躓きは大きな勝因にもなり得る。

打って出た時に得られる勝利と同じだけの効果を籠城で守り切ることでも得られるのだ。

ならばリスクの高い出陣よりもリスクの低い籠城戦の方がまだ勝率は高いように見える。


「なるほど・・・

 冬の到来まで耐えられれば勝ち目はあるということか

 籠城しつつ相手の隙を突くことばかり考えていたが、時間をかければ違う形での勝利も得られるということだな」


今までなかった考えを聞いたことで信長の心は一気に籠城戦へと傾いた。

本能と直感に従う出陣策よりも、理性と理論で導き出された籠城策を選択することになる。


「帰蝶、良い進言に感謝する

 我らはこれより清洲城にて籠城を行う!」


信長は帰蝶に宣言するように強く自らの判断を口にすると、方針が決まったことを諸侯に伝えるためか急ぎ足で部屋を飛び出して行こうとする。

その信長の足を止めさせるためにも、濃は再び彼に声をかける。


「・・・と、申したいところなのですが、それでも勝つのは難しいかと思われます」


再び心を決めて出て行こうとする信長を呼び止めるかのように彼の決意に否定的な意見を述べる濃。

信長は再び足を止めて彼女の方へと向き直る。


「帰蝶、お前は一体どうしたいのだ?」


「どう・・・と、申されましても困ります

 私はただ、殿に勝っていただきたいだけです

 それには出陣して敵のもとへと攻め寄せる策も、籠城して敵を討ち払う策も、どちらも効果的ではないのです」


濃の言いたいことは信長にもよくわかっている。

そもそも数的不利の状態にある信長方だ。

勝つにはもとより厳しい条件がいくつも立ち並び、明るい未来には勝利という難しさが依然として立ちふさがっている。

信長方の将も決して信行方の将に劣っているわけではない。

劣っているわけではないのだが、勝っているわけでもない。

双方の力量が拮抗しているがゆえに、数という目に見える力が勝敗を決してしまう。

その目に見える力をどのようにして討ち破るのか、それが難題となっていた。


「ならばどうせよと申すのだ?」


出陣策を推したと思えば翻して籠城策を推す、しかしまたしてもその意見を彼女は翻した。

話を聞いている信長はどうすればいいのかわからなくなるのも無理はない。


「奇をてらう、ということは相手を惑わします

 王道を貫く、ということは味方に安定をもたらします

 その良いところ取りをするのはいかがかと」


「良いところ取り?」


「はい

 清洲城でも末森城でもない場所で戦うのです」


出陣しても末森城まで攻め上がってもダメ、籠城して徹底抗戦してもダメ。

ならばそれ以外の道を模索するほかない。

そしてそれは最も信長方にとって不利だとみられる野戦という選択肢に至るのだ。


「野戦をすると言うのか?」


「はい

 相手もまさか野戦を仕掛けてくるとは思ってもいないでしょう」


「確かにこの兵力差で野戦はないと考えるのが普通であろうな

 しかしそれならば余計に勝ち目がないのではないのか?」


「勝ち目は確かに薄いと思われます

 しかし籠城して相手がこちらの想定を超えた行動に出た時は対応が難しく、末森城にまで攻め上がったとしても少数では効果的な戦果は挙げられず反撃されるのが関の山

 ならば過去の、異国も含めた歴史上の戦いで最も逆転劇が多い野戦に全てを託すのが良いのではないかと思います」


野戦に絶対の自信があるわけではない。

しかし攻めても守ってもダメなら、それ以外の策を選ばなければならない。


「しかいし数の差はどうしようもなかろう」


「はい

 ですが今すぐに動けば相手が動き出すまでに多少時間があり先手を取ることができると思います

 戦いやすい立地、戦いに有利な陣の設置、それくらいはする余裕がありましょう」


野戦をするからと言って真っ向から大数を誇る敵にぶつかるわけではない。

要は攻めるが攻め切らず、守るが守り切らない。

末森城へと兵を進めながらも途中で立地条件の良い場所に拠点を築いて守る。

簡単に清洲城へと迫られるよりも守る側としては時間も稼げる可能性があるし、こちらが先に動くことで相手よりも有利に物事を進めるための主導権を握りやすい。

攻めた先で守り、守りながらも相手の嫌なところをついて攻める。

後は時間をかければ冬の到来を待つこともできるし、奇襲や奇策が功を奏せば一気に攻勢に出て末森城にまで攻め寄せることができる。

しかしもちろん絶対的な安心感のある確かな防衛拠点がない野戦では、戦いが始まると同時に壊滅するまでやられる可能性も拭い去れない。

確実な勝利は見込めないが、確実に負けるとわかっている未来を避けるという意味でも、濃にとって野戦と言う選択は新たな道を切り開くのに必要な決断であった。


「・・・野戦か

 確かに逆転を狙うなら野戦も考えに含めるべきだな」


信長は濃の言葉を聞き入れ、真面目に野戦の可能性について考え始めた。

しかし野戦にするとなれば信長一人だけの考えでは至らない点が多くなる。

信長よりも年上で経験豊富な将もいる。

彼らの意見は非常に重要となるはずだ。


「帰蝶、皆をここへ集めてくれ

 野戦が可能かどうか、皆の意見が聞きたい」


「かしこまりました」


信長は野戦を選択する方向でおおむね気持ちが固まっていた。

後は軍議を行い、諸将の判断や考えを聞き、最終的な決断に至れるかどうかという段階に来た。

侍女達に指示を出して再び部屋に諸将を集め軍議を再開する。

集められた諸将は信長が末森城まで先手を打って攻めるか、清洲城で籠城する作戦に出るか、その判断の心が決まったかと思い彼の言葉を待つ。

沈黙が包み込む軍議の場を信長の言葉が静寂を打ち破る。


「野戦はできぬか?」


諸将に意見を求め、なおかつ自らの考えの方針を言葉にしたことで軍議の場は一瞬騒然となる。

攻めるか守るかの二択から、真っ向勝負という第三の選択肢を選んだのだからそれも当然の反応と言える。


「こちらに清洲城から末森城までの地形を記した絵図がございます」


濃はちゃっかり軍議の場に居座り、会議の補佐をするかのように大きな紙を信長と諸将の前に広げる。


「野戦にはどこが適しているか、どうすれば勝ち目があるのか、皆様のご意見を伺いたいと殿は申しております」


信長の意を代弁しているかのように振舞いながら濃は軍議を滞りなく進めていく。

勝敗を分けるのは時間的猶予をどのように使うかにかかっている。

よって驚きや戸惑いなどはあるかもしれないが、諸将には素早く頭を切り替えて軍議に集中してもらわなければならない。


「・・・この辺りに堅牢な陣を敷けばそう簡単には破られないのではないかと」


丹羽長秀が絵図を見て真っ先に意見を出した。

場所は清洲城から川を越えた先の名塚と言う場所。

川を背後にしているためいわゆる背水の陣となるのだが、川自体は雨が降らなければ普通に渡河できるため、逃げ場がなくなるという危険性は薄い。

更に陣を張ることによって川の近辺は見通しが良く、敵の不測の行動にも対応しやすい。

撤退するときも川の浅瀬などを調べておきさえすれば、先に川を渡ってしまえば川が相手の足を鈍くするため逃げ切りやすく、川に足を取られている敵を逆に攻撃することも不可能ではない。

もちろんその全てを実現するとなればそれなりの準備がいるため時間は必要となってしまうのだが、川を利用した戦い方と言うのは古今東西とてもポピュラーなものである。


「しかし堅牢な陣を築いたとして、相手が乗ってくるのだろうか」


森可成が悩ましい表情を見せている。

いかに堅牢な陣を築いても、その陣がいかせなければ防御と言う意味では役に立っていないのと同じだ。


「いや、必要なのは相手の足を止めることではないか?

 ならば川の手前に陣を敷くのが良い

 もし破られてもすぐ城まで引き返せる」


「いや、川を挟んで二つの陣を張るのがいい

 そうすれば二段階で相手の足を止められる

 後退して清洲城に籠城する頃には冬がやってくるだろう」


「それならば末森城にもっと近い場所がいいのではないか?」


「移動と資材を運ぶのに手間がかかる

 それに陣を敷いている間に敵の襲撃があっては意味がない」


軍議では野戦に関する様々な意見が飛び交う。

そしてしばらく紛糾する軍議も各々が意見を言い合う中で徐々に方向性が決まっていった。


「あい、わかった

 最優先で名塚に陣を敷き、その後に川のこちら側にも陣を敷く

 名塚で一度戦い、川を挟んで二度戦い、最後は清洲城まで引き下がり、冬まで持ちこたえれば勝ち目が見えてくる

 むろん、勝てば末森城まで突き進む

 此度の戦、一度の敗北が我らの死と同義

 後退は敗北ではなく、あらかじめ用意していた作戦との位置づけだ」


信長方の方針は決まった。

堅牢な陣を敷いて時間稼ぎの野戦を行い、相手の士気が下がりやすい冬に籠城策をとる。

信勝は信長を攻めきれなかったという事実を作り、信長方の仲間を増やす。

それは相手に押されることが前提の方針であり、もちろん野戦で相手を退けることもあり得る。

その時はどちらの派にもつかない者達を味方に引き入れて数を増やしながら末森城へと攻め上がる。


「皆の者、信行に目にものを見せてやろうではないか」


「はっ!」


信長の最後の締めの言葉により作戦は決定した。

皆が主君である信長の勝利を勝ち取るため、知恵を出し合い策を練り上げた。

一枚岩となった信長方の諸将は、以前の出陣策や籠城策の時以上に結束しているように濃の目には映っていた。


「盛重と信盛は名塚への陣の設営を任せる

 信行が攻めあぐねるほど堅牢な陣を築いて驚かしてやってほしい」


「かしこまりました」


「長秀と可成には川の検分はそなたに任せる

 浅瀬と、兵糧や武具などを運ぶ際の手はずを整えてくれ」


「かしこまりました」


数の少ない信長方にはできることは少ないが、やれることはたくさんある。

小さな可能性を探り、勝利を勝ち取るために努力する。

一枚岩となった信長方はそこに一切の抜かりはなく、諸将が出せる全ての力を賭して野戦の準備が始まる。


「頼んだぞ」


軍議が終わり、信長方の諸将は急ぎそれぞれの役目を全うするために動き出す。

信長もこの野戦に全てを懸ける決意の表情で、慌ただしく動き出した諸将を見送っていた。

その信長の傍らで、濃は次こそはと言う思いで、まだ自分に何かできることはないかと頭を絶えず働かしているのだった。




信長方が清洲城を出て陣を張るという動きに出たことはすぐに末森城の信行のもとに伝わっていた。


「なに?

 兄上が野戦の準備を?」


報せを受けた林秀貞が主君信行に報告していた。


「どうやら名塚に陣を張るようでございます」


「名塚?

 背水の陣か?」


「背水の陣と言うには川の流れは少々穏やか過ぎるかと」


「ふむ・・・

 狙いはなんじゃ?」


報せを受けて信行は考える。

信長がなぜ不利な野戦を挑もうとしているのか、その野戦を挑むことで信長にどのような利点があるのか、その野戦にはどういう意味が含まれているのか、今考えられることを全て考えていく。


「時間稼ぎ・・・か?」


そして信行派一つの答えにたどり着いた。


「兄上は野戦を行い、川を挟んで対峙し、籠城することで時間を稼ごうとしているのではないか?」


「確かに・・・

 言われてみれば、我らは攻める側であることに変わりはありませんが、陣を張る敵を倒しても川の向こう岸で待つ敵と戦わなければならず、それをまた倒しても籠城する敵が待ち構えている三段階の守り

 価値に近づいているとはいえそんな状況が遅々として進まぬ展開となれば兵の士気や疲労にも関わってきましょう

 そこに冬が訪れれば、戦うことが困難になりまする」


ただ簡単に籠城するだけではなく、籠城戦までに段階を踏ませようという小賢しい手だ。

小賢しい手ではあるが、時機を考えれば時間稼ぎと言うのはそこまで悪い手ではない。

大うつけと呼ばれる信長にしては思い切った手を打ったものだと、信行は感心さえしていた。


「だが、それは向こうの算段が野戦で実ればの話だ

 野戦である以上、我らの攻勢が相手を総崩れにすることもある

 そうなれば敵の数は大幅に減る

 籠城されても清洲城ならば簡単に落とすことができる」


籠城戦に不向きな平城の清洲城は少人数で籠城しても守り切れるものではない。

この野戦はつまり、籠城が可能な数を活かしたまま信長が時間を稼げれば信長の勝ちとなり、信長が籠城をするのに必要な数を残させないだけの攻撃をすることができれば信行の勝ちとなる。


「秀貞、出陣の準備だが少し変更だ

 野戦の準備をした兵だけを用意せよ」


「野戦のみでございますか?

 それでは敵方に籠城されたときの初手が遅れてしまいますが・・・」


「かまわん

 満足に籠城できぬだけの損害を与えてやればいいだけのこと

 それに素早くこちらも動けば向こうの備えも万全ではない

 完璧な陣を敷かれる前にこちらから攻勢に出て叩く

 さすれば城攻めの初手が遅れることくらい些事に過ぎなくなる」


「かしこまりました

 では早急に部隊の編成と装備の変更をいたします」


林秀貞は信行の命令を遂行するために素早くその場を立ち去る。

残された信行は信長の行動に思うところがあるのか、無言のままボソッと独り言を呟いた。


「十中八九籠城かと思っていた

 奇をてらって出陣して攻めてくることもないことはないと思っていた

 だが、まさか野戦を望まれるとは思いもしなかった

 兄上、それは何故だかお分かりですか?

 少数が大数に平地で野戦を仕掛ける

 それは無謀だから、そんな愚策はさすがにうつけでも取らぬと思っていたからでございますよ」


野戦をするにあたって少数で守る側となれば完璧な陣を築かなければならない。

侵入を防ぐ柵や、撃ってくる矢を防ぐ設備、味方が自由に動ける空間と通路に、物資の補給路や手段の確保。

それらの準備が整う前に電光石火で勝負を決める攻撃を仕掛ければ、少数の兵などいとも簡単に破ることができる。

陣を張って守る時間を与えなければ、これほど簡単に戦いはない。


「さぁ、兄上

 己の無力さを思い知らせて差し上げましょう」


勝利に対する絶対の自信を持つ信行の表情は終始余裕の笑みに満ちているのだった。




信長方が名塚に陣を敷き、守りを固めるために急ピッチでの作業が続いていた。

信長も自ら名塚を訪れて兵士達や作業をする大工達にねぎらいの言葉をかけて回っていた時、急な報せが信長の元へと届けられた。


「申し上げます!

 末森城より二千の兵が出陣!

 こちらへ向かっております!」


その報せは陣を城のようにより堅牢なものとするために作業をしていた全ての者達に恐怖を与える。


「盛重、陣はどれくらいできておる?」


「七割方と言ったところでしょうか

 ある程度の数ならば戦えますが、敵の全軍ともなればこの陣では心もとないかと」


「そうか

 大工達には時の許す限り作業を続けさせよ」


「はっ!」


「それと川を検分している長秀と可成を至急呼び戻して支度をさせよ」


「かしこまりました」


佐久間盛重は命令を受けてすぐに部下に指示を出す。

敵が動き出した以上、もう時間の猶予は残されていない。

兵士達は戦うために武装し、大工達はギリギリまで作業をしたのち、陣にとどまって工具を武具に持ち替えて戦う。

これより一瞬の油断も許されない、小さな失敗が即座に敗戦に繋がる、名塚にいる信長を中心に緊張した時間が流れるのだった。


名塚で信長方が臨戦態勢を整えている時、名塚に続く道での途中で織田信行改め織田信勝が一度兵を止める。


「殿、いかがいたしましたか?」


突然の進軍停止の命令に前方を進んでいた柴田勝家が馬を走らせて中央にいる信勝の下へとやってくる。


「勝家、これより少し進んだところに我が本陣を置く

 そこでわしは指揮を執り、勝家と秀貞は二手に分かれて兄上のいる名塚を襲撃せよ」


「これより少し進んだ先・・・

 稲生原でございますか」


「うむ、あそこは見通しも悪くないのでな

 奇襲に気を削ぐ必要もない

 わしの本陣の守りを少々手薄にしたところで危険は少ない」


「それは危険では?」


「問題ない

 勝家に千の兵を預ける故、東から稲生原を突っ切って名塚へ迎え

 秀貞には七百を率いさせ稲生原を通り迂回、南より名塚を攻める

 わしは稲生原に三百の兵と共に戦勝の報を待つ」


陣を張り敵の攻撃を受けることを想定している信長方。

そこに攻撃を仕掛けるとなれば多少的のペースにハメられることは想定しなければならない。

それでも信長方を打ち負かすだけの策として、名塚の陣を二手に分かれて攻めるという作戦を信勝は考案した。


「どうした?

 わしに戦勝の報を届ける自信がないのか?」


「まさか、何をおっしゃいます

 この勝家、必ずや名塚の陣を攻め落として御覧に入れましょう」


「うむ

 期待しているぞ、勝家」


柴田勝家との会話のさなかに林秀貞も到着し、信勝は自らの作戦を伝える。

そしてその作戦に柴田勝家と林秀貞の二人は従事することを決め、指示通りに千七百の兵を連れて名塚を目的地として進んでいく。

信勝は稲生原に三百の兵と共に残り、伝令から伝わる報告で戦いを見守ることとなった。




その頃、名塚にいた信長軍も信勝軍の動きを察していた。


「殿、どうやら敵は二手に分かれてこの陣を攻め落とそうとしているようでございます」


「二手・・・か

 数はどうなっておる?」


「柴田殿が東より千、林殿が南寄り七百、と言ったところでございます」


「千七百の兵で二手から攻めてくるのか」


七百しかいない信長方の兵では千七百の兵を迎え討つのは難しい。

陣もまだ完璧に設営が終わったわけではなく、守りの要ではあるが頼りになるかと言われれば心許ない。


「陣に引きこもっても負けるだけなら、片方だけ打って出て相手をするのはどうだ?」


「確かに、千七百を相手に陣に引きこもっていても勝ち目はございませぬ

 半数で一方向からならば、しばらくは持ちこたえられましょう」


「ふむ、ならば先に少ない林勢から追い返すとするか」


柴田勝家率いる千の敵兵を相手に陣を用いて守りながら少数で耐え、先に林秀貞率いる七百を何とかして退けることを考える。

しかしそこに森可成が口を挟んできた。


「殿、逆の方がよろしいかと」


「なに?

 なぜだ、可成

 少数を先に退ける方が容易いのではないか?」


「いえ、柴田殿は力攻めも得意としております

 林殿はどちらかと言えば策を弄してじっくりと攻める性格にございます

 柴田殿の力攻めを受ければ、陣があっても少数では抗うのは難しいかと

 逆に時間を稼ぐだけならば林殿を相手取った方がまだ幾分か容易いと考えられます」


柴田勝家は尾張国内では右に出る者がいないほど武勇に秀でた武将である。

その男が千の兵を力攻めで陣にぶつけてきた時、耐えるには今の信長方の兵力では足りないと彼は考えていた。

ならば力攻めではなくじっくりと攻略していく性格の林秀貞を陣におびき寄せた方が時間稼ぎは確実に成功しやすい。

柴田勝家を退けられるかという問題が浮上するが、それは相手が林秀貞であっても同じだ。

数で劣っている以上勝つのは困難。

ならば一つ一つの目的を事細かに見て、より多くの目的を達成できるやり方を選択する方が利口だ。


「・・・よし、わかった

 盛重、この陣で七百の林勢を相手にしばらく耐えるとしたらどれだけの兵がいる?」


「・・・二百ほど」


「わかった

 長秀、可成、信盛はワシと共に五百を率いて柴田勢を何とかして退ける

 それまで耐えてくれ」


「かしこまりました」


丹羽長秀、森可成、佐久間信盛らがすぐさま兵を編成して出陣の準備を整える。

向かう先は稲生原。

織田信長は五百の兵を率いて名塚の陣を飛び出し、稲生原にて柴田勝家率いる千の兵とぶつかることとなった。




清洲城を本拠地に置く織田信長と末森城を拠点に置く織田信勝の戦いが幕を開ける。

反旗を翻した織田信勝側はおよそ二千。

一方で織田家当主の織田信長に味方する兵力は現在総勢七百名。

数にしておよそ二倍以上の差が開いていた。

信長はその総勢を率いて清洲城より目とはあの先にある川を渡った先の名塚に陣を張り、迫りくる弟の信勝を迎え討つ形となった。


「殿、前方に信行様の軍勢が見えました

 事前の報告の通り柴田殿率いる千の兵でございます」


「わかった

 利家、配置に戻れ」


「ははっ!」


信長に報告を終えた織田軍の若武者、前田利家は前線へと向かう。

五百の兵を率いる信長と千の兵を率いる柴田勝家は稲生原で対峙。

互いに相手の初手を見極めている緊張の時間が続く。


「数的有利と言えど二倍程度

 一人が二人を斬れば互角ではないか

 さして恐れることもない」


信長は戦が始まる直前に至って、死を覚悟して戦いに挑むような心が決まったのか、大将らしくどしっと構えて動かない。

しかし言っていることは極めて無理難題に等しく、うつけと呼ばれた彼らしい言動であった。


「可成、先鋒は任せた

 勝家の軍は強いだろうが、我らも強い

 奴らの気勢を挫いて参れ」


「ははっ!」


指示を受けた森可成が最前線に立ち、互いの出方を見て動かないでいる両軍の膠着状態に終止符を打つ。

柴田勝家率いる織田信勝軍の先方へと、先手を打って攻撃を仕掛けたのだ。

無論その攻撃は攻めてきた柴田勝家にとって、膠着していた戦いの火蓋を切って落とすよ願ってもないこと。

後に稲生の戦いと呼ばれる織田家の家督争いは、双方の大将に心から忠誠を誓っている豪傑同士の激突で幕を開けた。

戦いが始まった序盤、信長方の森可成の奮戦もあってある程度の打撃を与えることができた。

しかし数で劣る信長方を柴田勝家は数的有利を生かして奮戦。

森可成が作った序盤の勢いを少しずつ抑え込み、徐々に戦局を五分にもっていく。


「数的不利を勢いで覆そうとしているのは見事

 しかしそれだけでは勝てぬぞ、森殿

 もし勝てると思っているのであれば、このわしもなめられたものよ」


戦局が五分になれば数的有利な方が勝つ。

五分といっても徐々に数の差が出てきて信長側は苦戦を強いられるようになってきた。


「そろそろ頃合いか

 部隊を二つに分ける!

一隊はこのまま敵を制圧せよ

 もう一隊はわしに続け!

 織田家の恥、うつけの首をこの手で上げるのだ!」


柴田勝家の号令により部隊は二手に分かれる。

信長の本陣へと突き進む一隊は柴田勝家が直々に率いて先陣を駆けている。

故に勢いはすさまじく、行く手を阻もうとした信長方の兵達はいとも簡単に破られて突破されていく。


「むっ、いかん!

 殿のお命が危ない!

 丹羽殿!

 ここはお任せいたす!」


奮戦する森可成は丹羽長秀に前線の指揮を任せて信長の元へと馬を走らせる。

戦いの激戦地はぶつかった両軍の合間から信長のいる場所へと移っていった。

その様子を見守ったまま動かない信長。

自らを目指して突き進んでくる柴田勝家の一隊、そして全体的な苦戦。

信長はその全てを目にしていながら動くに動けない。

今後退したところで名塚の陣に戻っての防衛戦になるだけだ。

そうなれば完成していない名塚の陣は二方向から攻められてあっけなく陥落することだろう。

それも苦戦を考えた算段に入っているとはいえ、簡単に名塚の陣を手放すわけにはいかないのが信長側の事情。

戦いが始まってあっけなく陣を奪取されたとなれば出陣した意味がなくなる。

ここは是が非でもこらえたいところだった。


「殿!

 急使にございます!」


「なに?」


苦戦を見守るしかできない信長の元に一通の手紙が届いた。

差出人は帰蝶。

内容は「遅ればせながら私自ら援軍を率いて向かうので今しばらくの我慢をお願いします」とあった。


「・・・援軍?」


手紙の内容に信長は眉をひそめる。

それもそうだ。

尾張の大うつけと呼ばれた信長。

尾張国内で彼を支持する者は少なく、先代の織田信秀の後継者指名がなければ信長方はもっと数が減っていてもおかしくはない。

そんな信長に援軍が来るなどありえない話だった。


「帰蝶め

 我らの士気高揚のために策を弄したか

 まったく、抜かりの無い女よ

 さすがは蝮の娘と言ったところか」


信長に援軍など来るはずがない。

来るはずがないからこそこの援軍と言う言葉が記された書状が、味方の戦意を高揚させるための彼女の策略であると即座に判断したのだ。

即座にそう判断した信長だが、だからと言ってその手紙を無視していいわけではない。

援軍と言う言葉を味方に投げかければ士気高揚となり、相手にぶつければ少なからず動揺を誘うこととなる。

ならば使わない手はないが、それをどのタイミングで使うかが重要になってくる。

最も効果が高いタイミングで使えば戦況を覆すきっかけを作ることもできるだろう。

しかし遅すぎれば立て直しが間に合わなくなり、早すぎれば効果はいまいちで終わる。

そのタイミングを見計らい今か今かと思っていた信長のもとに、再び急使が駆け込んできた。


「申し上げます!

 帰蝶様、ご到着にございます!」


「ああ、そう・・・は?」


急使の報告を聞いた時、信長は一体何を報告されているのかわからなかった。

しかし聞くところによればどうやら戦場に妻がやって来たらしい。

それを聞いて先ほどの書状の内容が頭に蘇る。


「我らに援軍がいるというのか・・・」


ありえないはずのことだが、そのありえないはずのことがあり得たのではないかと、淡い期待をどうしても信長は抱いてしまう。

そして援軍の到着を待ちながらそわそわする信長のもとに、彼の妻が到着した。


「帰蝶

 援軍とはどういうことだ?」


妻の到着と共に彼は即座に彼女を問いただすかのように強い口調で問う。


「文字通り、我々の味方にございます」


濃は信長の問いにニコッと笑みを見せる。

その表情を見て援軍の知らせは事実だということがわかった。

しかしその肝心の援軍の姿は影も形もなく、濃は一人で信長の元にやって来ていた。


「して、その援軍とやらはどこにおる」


信長方は苦戦を強いられている。

柴田勝家の強行突破がいつ信長の元に到着するかわからない。

時間の猶予がない信長は焦りから、すぐに援軍の姿を確認したい旨を濃に告げた。


「えっと、あの辺り・・・でしょうか」


濃がそう言って指をさしたのは稲生原の傍らを通る川の反対側というすぐ近くの場所。

木々が生い茂っており、人が隠れることができそうな茂みがそこにある。

そこにあるのだが、人の姿は一切見えない。

それどころか戦が始まってから人の動きらしい動きは一切なかった場所だ。


「あのような場所に援軍が?」


「はい

 戦の前から潜んでおります

 よって敵も味方も誰も気付いていないかと」


最初から潜んでいたのであれば確かに見落としてしまっていてもおかしくはない。

しかしそのような気配は微塵も感じられない。

そもそも最初からいたのであれば早く出てきて助けてくれればいいのに、なぜ一向に動かないのか。

信長は疑問に思うことばかりだった。


「ちなみにその援軍は戦う力を有してはおりませんので、戦力にも兵数にも数えないでください」


「なんだと?

 もはやわけが分からぬ

 そもそもそれは援軍と言うのか?」


「はい

 おそらく、千の兵を味方につけるより有意義かと思われます」


濃はそう言いながら一枚の紙を信長に渡す。

そこには何やら台詞のようなものが書き連ねられていた。


「これは何だ?」


「そこに書かれていることを大声でお願いします

 そうすればこの戦、一気に形勢は逆転するかと思われます」


「・・・仔細を申してくれ」


「そうしたいのはやまやまですが、もはや時間がございません」


濃の言葉を聞いて信長は前方に目を向ける。

するとそこには鬼気迫る勢いで信長軍の兵を蹴散らし突破してくる柴田勝家の一隊の姿があった。

信長の前を守る兵士はその進撃を止めようと奮戦するが、数的不利は変わらず徐々に押し込まれていく。

そして信長の目と鼻の先にまで柴田勝家率いる一隊が迫ってくる。

信長と濃の周囲を固める守備兵はもう残り五十名を切り、もはやここからの逆転は不可能。

誰もがそう思う局面に至り、信長は細かいことを考えるのをやめた。

まるで吹っ切れたかのように威風堂々と立ったまま、突き進んでくる敵から目をそらさない。


「わけがわからぬが、今回はこれに賭けてみよう」


信長は手に持った紙を広げて書かれている内容に瞬時に目を通す。

しかし時間はないため理解は一切しない。

書かれている内容をただ言葉として発するのに必要な『見る』作業を瞬時に行う。

そして文章をある程度見終えたところで迫りくる柴田勝家の一隊、さらにはその後方の信勝軍全体に向かって大きな声で言葉を発した。


「この愚か者どもが!」


信長の大きな声に優勢だった信勝軍は驚いて足を止めてしまう。

信長の声はそれだけ大きく、広く戦場に響き渡っていた。

その声の大きさは戦場を伝令の報告で高みの見物をしている本陣にいる信勝にまで届くほどだ。


「美濃の斎藤、駿河の今川がこの尾張を虎視眈々と狙っているというのに貴様らは何故尾張内でこのような愚行に走る!

 兵は失われ国力は疲弊し、外敵に付け入る隙を与える愚行は己の身のみならず親類縁者全てを苦境に陥らせる!

 貴様らの愚行はこの尾張と織田家を滅亡に導くための謀反に他ならない!」


信長の大声は攻め寄せる信勝軍を躊躇わせるのに十分な効果がある。

大きな声は威圧となって戦闘経験の薄い雑兵の士気を削ぎ、兵の足が止まればいかに勇将と言っても勝利など掴めない。

そこに周辺諸国が尾張を狙っているという情報を加味することで、信長は尾張のことを考えているというアピールをしつつ、この戦いを起こした信勝は己の地位をまず第一に考えているという印象を植え付ける。


「織田家の恥である尾張の大うつけが何を言うか!

 信勝様こそ織田家、そして尾張を統治するに相応しい御仁だ!」


信長の大声にひるむことなく柴田勝家が大声で返す。

しかし怯んでいないのは柴田勝家のみ。

付き従う兵士達は信長の首をもう少しでとれるという距離にいるというのに、あと一歩が踏み出せない。


「ならば問おう!

 そこにいる者共の中で我が弟の顔を知るものは何人いる!

 声を聞いたことのある者は!

 話をしたことのある者はいるか!

 ましてや同じ釜の飯を食った者など一人もいまい!」


そこで信長は右手の拳を高々と手を天に向かって突き上げる。

それが合図で会ったのか、濃の指示で傍らにいた兵士の一人が、弓を構えて鏑矢を手に取って素早く天に向かって放つ。

鏑矢の笛の音が戦場に響き渡ると同時に、戦場は新たな局面を迎える。

鏑矢の音が合図となって稲生原の傍らにある茂みより突如、大勢の人が現れる。

その数は柴田勝家が率いる千の軍どころか、信勝軍の全数よりもはるかに多い。


「なっ、援軍・・・いや、伏兵か?

 だがしかし、これは・・・」


突如出現した大勢の人にさすがの柴田勝家も一瞬怯む。

しかしそこに現れたのは武士でもなければ兵士でもない。

どこにでもいる農村に生きる農家の者達だ。

それも戦に駆り出されなかった戦力外の者達。

しかし戦力外とはいえ老若男女の全てがそろっており、赤子も含めればその総数は計り知れない。


「ただの農民だ!

 案ずるな!

 我らの勝利に揺るぎはない!」


現れたのが軍隊ではないということに柴田勝家は勝利を信じて疑わない。

しかし、それは柴田勝家だけだ。


「たわけたことを申すな!

 民こそ国の宝よ!

 ワシはここにいる全ての者と言葉を交わし、共に飯を食った

 いかんせんうつけ者故、戯れる時間は十分すぎるほどあった」


信長の合図で茂みより飛び出した農民達はみんな信長の顔を知り、声を知り、話したこともあって、同じ釜の飯まで食べたことがある者たちばかりが集まっている。

つまり織田信長という人間をよく知っている民衆ということになる。

この時代、戦場へと出向く兵士達の多くは寡兵と言い、農民などを徴用して兵力として用いていた。

この場で信長を討とうとも、信長を統治者として認める民衆は信勝に従わない。

さらに尾張が信勝の支配下となっても、その民衆同士で争ったという遺恨が残れば農村同士での諍いも起きやすくなる。

信長は柴田勝家やその家臣に話しているのではなく、彼らが率いるその下の軍の大多数を占める寡兵として集められた者達に対して話していた。


「我が弟は邪魔になれば民までも簡単に切り捨てるのは先の勝家の言葉でわかったであろう!

 故に今ここでそなたらに問う!

 この尾張の正義はワシにあるか否か!

 その答えをこの場にて行動で示せ!」


指揮官の言うことを聞いていればいいという雑兵の立ち位置に、無理矢理選択肢というものを突き付ける。

そして大勢の農民達が信長を支持する光景も見せつけた。

農村同士の諍い、尾張国内の争い、ひいてはその弱みが他国からの侵略のきっかけを作り出す。

さらに寡兵として集められた農民達は同じ国内の同じ農民を相手取って戦っているという現実を無理やりにも見せつけられる。

家に帰れば家族がいる農民達。

それは敵も同じだ。

現れた農民達の中には若い女性や赤ん坊の姿もある。

それを見て、これを聞いて、心が折れない寡兵の雑兵などいない。


「う、うわぁーっ!」


雑兵の一人が混乱したのか声を荒げる。

そして手に持っていた槍を放り投げ、戦場を放棄してその場から逃げ出していく。


「なっ!

 貴様、逃げるでない!」


柴田勝家は逃亡兵を許しはしない。

勝利を目の前にして逃亡するなど『武士では』ありえない話だ。

しかしその一人を皮切りに、大勢の雑兵が次々にその場から逃げ出していく。


「そんな、バカな・・・」


その光景に柴田勝家は何が起こっているのかすぐに理解することができなかった。

信勝方として集められたほぼすべての雑兵が逃げ出す中、取り残された柴田勝家とその家臣は少数。

つい先ほどまで圧倒的優位に立っていたのが一転、兵の数だけでなく士気や勢いまで完全に逆転してしまった。


「くっ!

 こうなれば我らだけでも・・・」


少数になっても信長を討とうとする柴田勝家だが、そこに森可成が駆けつけて柴田勝家の行く手を阻む。


「ぬっ・・・」


「これより先にはいかせぬぞ!」


同じ織田家の武将であるがゆえに柴田勝家は森可成のことをよく知っている。

武芸に優れた信長方きっての猛将であり、そうやすやすと打ち破れる相手ではない。

少数となってしまった柴田勝家は乱戦に持ち込まれれば数的不利から敗北に至るのは必至。

故に雑兵がいなくなってしまった今、柴田勝家に勝機などない。


「くっ!

 引け!」


柴田勝家はここでの勝負を諦め、家臣を連れて信長の前より撤退した。


「殿、ご無事ですか」


ひとまず安全が確保された信長。

森可成が主君の身を案じて駆け寄るが、当然信長は無傷のままだ。


「大事ない

 それよりも敵は勝家だけではない

 すぐに部隊を整え、林勢への攻撃を開始しなければならない

 盛重にいつまでも我慢させるわけにはいかん」


「御意!」


「その際には先ほどと同じように寡兵を先に逃亡させるのがよろしいかと」


信長の傍らにいた濃が進言し、信長は勝機が見えたとばかりに笑みを見せる。


「そういうことだ

 抜かるなよ、可成」


「はっ!」


数的不利による苦戦から一転、反転攻勢に出た信長軍。

そのまま名塚の陣へと取って返して林勢の雑兵を戦わずに散り散りにしたのち、抵抗する残りの軍も蹴散らし、二倍以上の敵を相手に奇跡的ともいえる勝利を収める結果となったのだった。


「・・・あり得ぬ

 いったい何が起こっているというのだ・・・」


伝令を通して飛び込んでくる現状に加え、目の前で見える光景を信じられない信勝。

二千人もいた自軍は気がつけば信長方を下回る少数となってしまっており、今信長方に攻撃を仕掛けられれば動揺や士気の低下からあっけなく敗れ去るのは必定。

冷静な彼ならば即座にそう判断したのだろうが、信勝はしばらく現状を飲み込むことができず呆然と立ち尽くしていた。


「殿!

 ここは一度末森城へと引き上げましょう!」


撤退してきた柴田勝家に声をかけられてそこで信勝はようやく我に返った。


「勝家!

 いったい何が起こっている!

 なぜわしの軍が・・・このような・・・」


我に返っても動揺を隠しきれない信勝は言葉が上手く出てこない。

ただただい自らが感じている憤りを怒りに任せて言葉として吐き出すが、その言葉も頭の中でまとまらず、結局は言葉を失って苦い表情のまま歯を食いしばっているだけとなってしまっていた。


「うつけが・・・うつけであることを利点といたしました

 信勝様は優れた武士であり織田家の主となられる力のあるお方でございます

 ですがそれを逆手に取られましてございます」


民衆は民衆から距離の近い主に親近感を抱く。

信勝は優れた人間であり織田家の当主となる高位の地位に生まれたがゆえに、民衆との距離が遠く人心を掴み切れていなかった。

一方の信長は尾張のうつけと称されるほど尾張国内の町や村を毎日のように訪れていた。

それにより民衆は信長を手と声の届く領主と認識していたのだ。

ただ高貴な地位にいて、ただ多くの過信がいれば国がまとまるわけではない。

その現実を突き付けられた結果が、稲生原での敗北であった。


「わしは・・・負けておらぬ!

 わしはまだ、負けてはおらぬはずだ!」


敗北を受け入れられない信勝はこの期に及んで負けていないことを言葉にして強調しようとする。

しかしその言葉はあまりにも空しく、惨めささえ感じさせる。


「殿!

 気をお確かにお持ちください!

 動揺して安易な行動に出れば身を亡ぼすだけにございます

 ここは一度退いて体勢を立て直すことが肝要

 この苦境を乗り越えてこそ織田家当主としての実力を示すことができます」


柴田勝家にそう言われて少し冷静になった信勝。

敗北は受け入れられないが、このまま戦いを続けたとしても勝機はない。

退かざるを得ない状況に追い込まれたのは間違いなく、信勝は悔しさを抑え込んで何とか頭を冷静にしようと努める。

そこに林秀貞が一軍を率いて帰ってきたのだが、その数はあまりにも少なかった。


「林殿・・・」


「やられた

 まさかあのような手で来るとは思いもよらなかった」


林秀貞が率いていた軍の寡兵もほぼ全員が戦場を放棄して逃走した。

戦いを続けることが困難だと察した林秀貞は即座に引き上げることを決め、本陣まで少数だけを従えて引き返してきたのだった。


「ここは一度・・・末森城へと退く

 兄上、この屈辱は必ず晴らさせていただきます!」


信勝は無理やりにでも現状を飲み込まざるを得ない。

表情はただ一度も晴れることはなく、ただ一度も緩むことはない。

ただただ悔しさと不満を表情に見せたまま、信勝は数少なくなってしまった兵を率いて末森城へと引き上げて行った。




撤退する信勝軍を追うように信長軍は進み、そのまま織田信行の居城となっている末森城へと迫る。

最初は信長の敵であった信勝軍の雑兵達も、一度逃げた後に今度は信長軍の一員となって末森城を包囲した。

そしていつの間にか籠城する末森城の信勝軍をはるかに上回る数を信長は率いており、その数は末森城を十分力攻めで陥落させることができる数であった。


「これだけの数がそろっていれば簡単に城も落ちましょう」


逆転した兵力差はそれほど大きい。

今までの苦境とは打って変わって諸将の表情も明るくなっている。

森可成は自信をもって信長が有利であると告げていた。


「そうですね

 ですがここは取り込むのが得策です」


戦いの大一番を終えたところで、信長の傍らにいる濃が自らの意見を述べた。


「取り込むと言いますが・・・信勝殿は降伏いたしますでしょうか?」


森可成の見立てでは信勝の降伏は恐らくあり得ない。

それには濃も同じ意見だ。


「ですがこのまま城が陥落すれば敵大将と重臣は斬首、もしくはその前に討ち死になる可能性があります

 あの城にはそれを最も嫌い、なおかつ降伏を進言することができ、兄弟間の諍いを諌めるのにうってつけの人物がおります」


「・・・母上か」


濃の言葉の中にあった兄弟と言う単語でその相手が誰なのか、それは簡単に察しがついた。

うつけ者と称される信長よりも、品行方正で知られる信行を溺愛している兄弟の母親。

特に信勝が処断されるという可能性は避けたいと考えるはずだ。


「それに信勝殿の配下には柴田勝家殿をはじめ、有力な人材が多くいます

 今の織田家に有能な人材を切り捨てるだけの余裕はございません

 味方にできる全てを味方にする必要がございます」


濃の意見に森可成、丹羽長秀、佐久間盛重、佐久間信盛ら信長方の重臣から諸将に至るまで全員が納得する。

戦場でぶつかってみて初めてわかった敵軍の強さ。

その強さが味方にあれば心強いのは言うまでもない。


「ならば今は待つだけか」


「はい、必ず降伏を申し出てきます」


信長は全軍に末森城を包囲したまま待機するように命じ、実の母親が動き出すのをじっと待つことにした。

そしてその降伏の申し出を待つ間、濃の頭の中にはさっきの稲生原で集まった農民達の助力があったことを思い返していた。

するとそこに信長が濃の考えを読んだかのように質問をぶつけてくる。


「ところで帰蝶

 あの援軍は一体どこからどうやって連れてきたのだ?」


大人数の農民。

戦う力はなくても民衆の力は優勢を劣勢にも帰ることができ、劣勢を優勢にすることもできる、そんな力を見せつけた例だ。


「彼らは自らの意志で集まってきていただけたのです」


「自らの意志?」


「はい

 何でも、信勝殿より殿の方に統治してほしいようです」


「そうなのか

 そのような褒められ方をするとなんだかむず痒いな」


うつけと呼ばれてきた信長はめったに褒められることはなかった。

故に自分の行動が民衆に指示されたことが特にうれしかった。


「名塚に陣を作ったことで殿が名塚で戦うということを察した者達が自ずと集まって来たようです

 そう彼が申しておりました」


「・・・彼?」


「はい

 殿が先日、面白いから小姓にしてやるなどと言って取り立て、草履取りにした彼でございます

 なんでも家族や親類、友人がみんな殿を支持しているのを聞き、名塚に集まってきていたのを知らせてくださいました

 私は彼にどう動いてほしいかをみんなに伝えるように頼み、そして殿にあの書状をしたためて名塚へと向かったわけでございます」


「なるほど、そうであったか

 ならば、奴は確か・・・藤吉郎と言ったか

 尾張平定後は出世させてやらねばならんな」


「はい、それがよろしいかと」


民衆に指示されての大勝。

濃にとっても信長にとってもこれ以上嬉しいことはない。

その最上の喜びをもたらしてくれた人たちへの感謝は尽きないのだった。




末森城に籠城する信勝は甲冑姿のまま周囲の物に盛大に当たり散らしていた。

末森城は信長の軍によって包囲されており、その包囲軍の大多数が今まで家督争いに加わらなかった中立の地侍や信長を支持する寡兵で構成されている。


「何故じゃ!

 何故、このわしがここまで追い詰められなければならぬ!」


一方、末森城に籠城する信勝側からは集められた寡兵達が逃げ出してしまい、家臣団が従える数少ない武家の者達だけとなっていた。

一時は信勝が圧倒的に優位に立っており、数の上でも二倍以上と圧倒していた。

しかし野戦での敗北と撤退により状況が一変したことにより、ありとあらゆる優位性を信長方に奪われてしまう結果となった。


「どっちつかずの者共もわしの敵に回りおった

 この責任をどうとるつもりじゃ!

 先の野戦での敗北の責任は重いぞ、勝家!」


信勝の怒りの矛先が重臣の柴田勝家へとむけられる。

その出来事により柴田勝家の心中は複雑な気持ちでいっぱいになった。

今まで主君の座に相応しいと思っていた織田信勝。

品行方正で周囲の評価も高かったため、柴田勝家自身もそれを信じて疑わなかった。

しかし状況が一変して苦境に追い込まれた瞬間、怒り散らした上に部下の不出来にただ怒りをぶつけるだけになってしまった。

苦境に立たされた時に打開策を考えようとはせず、自らの悪手を受け入れられない人間に果たして主君としての資格があるのか。

柴田勝家は今まで自らが抱いていた忠誠心にさえ疑いを持つようになってしまっていた。


「信勝、怒り散らすだけでは何も始まりませんよ」


「は・・・母上・・・」


母親の言葉でようやく信勝の怒りが少し落ち着いてくる。


「私は兄弟で殺し合いなどをしてほしくはありません

 もちろんうつけと呼ばれた信長よりも、皆に愛された信勝の方が主君として相応しいと今でも思っています

 けれども勝敗はもう揺ぎ無いところにまで来てしまっています

 信勝、母の言葉を聞いて降伏してください」


母親の思いに信勝の心が揺れる。

うつけと呼ばれた兄の下につかなければならないという屈辱、そしてうつけにも劣るという事実を一生背負って生きていかなければならない事実。

しかしすでに状況を好転させる術はない。

尾張にはもう、信勝の味方をする者は多くないのだ。


「・・・はい」


信勝は悔しそうな表情を浮かべながら、ゆっくりと首を縦に振った。




末森城を包囲する信長軍のもとに使者が来て信勝軍は降伏した。

末森城を接収した信長はそこで一夜を過ごして清洲城へと帰還する。

その一夜、尾張を完全に掌握した信長を中心として簡単ない宴が催された。


「まずは尾張平定ですね」


宴を傍らで見ている濃はとりあえず一息つけた。

そこに信長と信勝の母、土田御前がやってくる。


「帰蝶殿、少し時をいただけますか?」


「はい」


宴の傍らで濃と土田御前が隣り合わせで座る。


「此度の戦・・・何故に信勝は敗れたのであろうか」


「信勝殿の敗因のお話でしょうか?」


「ええ、聡明なそなたなら私のわからぬことも聞けるのではないかと」


土田御前は敗北を受け入れた。

しかしなぜ敗北したのか、その点が理解できず納得できない部分もあった。


「民こそ国の礎です

 信勝殿は織田家家中こそまとめ上げることができました

 しかし民には信勝殿を慕うものが少なかったのです

 逆にうつけと呼ばれた殿は民の前にためらうことなく姿を現しました

 時に遊び、時に学び、その民との距離が勝敗を分けたといえます」


「うつけであったことが功を奏したと?」


「いえ、それまで各々が積み上げたものをどう生かしたか、の違いです」


「そなたは戦いの前にそれがわかっていたのですか?」


「いえ、ですがそれは自然と湧いて出てくるように機会が現れました

 そしてその機会を逃すまいと、必死になった結果でございます」


濃との会話で土田御前がしばらく黙り込む。

そして席を立ち、立ち去る前に一言だけ言い残した。


「聡明な妻を得たかどうかが勝敗だったのかもしれぬな

 良き伴侶は侮れぬ」


その言葉を残し、土田御前は宴の席から立ち去っていく。

濃はその背中を見つつ、小さく頭を下げた。




尾張統一を果たした信長は清洲城へと引き返して再び政務に励む。

しかし政務に励む前に体調を崩して床に就いていた。


「仮病ではありませんか?」


「・・・(ぎくっ)」


床に就く信長が濃の言葉に体が一瞬だけ動く。

それを見て濃は深いため息が漏れる。


「はぁ、何をやっているのですか?」


「少しくらい休んでもよいではないか

 正直、勝家の一軍が迫ったときは生きた心地がしなかった」


(心的ストレスによる精神的疲労といったところでしょうか

 無理に何かをさせるよりも休みがあった方が良いかもしれませんね)


信勝との戦いで敵兵を目前にした演説は相手の戦意を削ぎ落した。

しかしそれを実行するのに信長も気力を大いに使用した。

今は休息が必要な時だと濃も呆れつつも休むことを咎めはしなかった。

その時、森可成が信長の寝所まで何かを報告するためにやってきた。


「殿、お休みのところ申し訳ありませぬ

 少々お耳に入れておきたいことがございます」


「なんだ?

 急ぎの用か?」


「はい、火急の用件にございます」


「では手短に頼む」


「ははっ」


信長は特に病気になっているわけではなかったが、とりあえず建前上は病になっている。

よって重臣の森可成に対しても長い時間を割こうとはしなかった。


「信勝殿の配下、柴田殿より一報が入りました」


「ん?

 勝家から?」


「はい

 信勝殿が病に臥せった殿の見舞いに参ると」


柴田勝家から入った一方はお見舞いの連絡であった。


「その連絡は急を要するものなのか?」


受けた報告の内容が普通のもので信長は森可成の行動に首をかしげる。


「はい

 勝家殿いわく信勝殿は謀反を企てている可能性があるとのことでございます」


「謀反・・・」


その言葉を聞いて濃も表情が変わる。

信長に敗北したとはいえ、信勝はまだ織田家当主の地位を諦めていないようだ。


「森殿、腹心の柴田殿が密告とはどういった経緯なのでしょうか?」


「どうやら勝家殿は一度敗北を喫した信勝殿の行動に不信を募らせているようでございます」


敗北して従うことを約束した。

しかしその舌の根が乾かないうちに謀反を考える。

戦国の世ではそれほどおかしなことではないが、家臣が見限る原因となるのもわからなくはない。


「・・・殿、いかがいたしますか?」


森可成から話を聞いた信長は少し考え込む。

そして濃に目配せをして丸投げする。


「・・・はぁ

 見舞いとなれば拒めません

 とりあえず迎え入れて様子を見ましょう」


濃の言葉で信勝の見舞いが認められた。

しかし不穏な動きがあるという報せがある以上、ただの肉親の見舞いとして安易に済ませるわけにはいかない。

万が一のことがあったと仮定して、その対応策をどうするべきかが重要だった。




清洲城、信長の寝所にやってきた信勝。

周囲に信長の警護をする者達がいるのみで、兄弟の間に人はいない。


「兄上、病と聞いて心配いたしましたがお元気そうで何より」


普通に見舞う信勝だが、柴田勝家からの一報に警護は神経をとがらせている。


「わざわざ清洲まですまぬな

 少々疲れが出ただけだ

 数日もすれば元通りとなろう」


見た目はごく普通に兄弟の会話が行われている。

このまま何事もなく終わればよかったが、そもそも仲が良い兄弟ではない。

会話の材料はあっという間になくなり、二人の間に気まずい微妙な空気が流れ始める。

会話の内容に困った信長はどうしたものかと悩むが、話すこともなかったことと信勝の真意が知りたかったためか、信長が二人の間の空気を一変させた。


「それより信勝

 一つ小耳に挟んだことがあってな

 問いたいことがある」


「はぁ、何でございましょう」


「・・・謀反を考えておるのか?」


探りもなければ前置きもない。

直球に、それも歯に衣を着せない単刀直入すぎる質問。


「あ、兄上?

 いきなり何を申されます

 私は先日、兄上に破れて降伏したばかりでございます」


「そうだな

 しかもその舌の根が乾かぬうちだ

 だがそれゆえにワシが油断していると考えるのも策と言えるかもしれぬな」


信勝にとってみればここまで大胆不敵に謀反のことを問いただされるとは思ってもみなかっただろう。

虚を突かれて驚いたのか、少し動揺が見られる。


「兄上

 いったいどこからそのような話をお聞きになったのでございましょうか?」


「隠しても仕方なかろう

 そなたの重臣、勝家からじゃが?」


「なっ!」


信勝は見舞いに来た時に付き従っている柴田勝家へと目を向ける。


「勝家、貴様・・・」


「失礼ながら寛大なご処置をいただいた身でございます

 斎藤と再び通じて尾張を奪い取るご算段には乗れませぬ

 今、織田家は織田信長様を中心として尾張を固める時期にございます

 その時期に私利私欲私怨によって国を乱すのは領主の器にあらず

 申し訳ございませぬが信勝様の命にはもう従えませぬ

 此度の見舞いも斎藤に差し出す有用な情報を得るための偵察

 後の処置は信長様の思うままにお願いいたしたく存じ上げます」


重臣の柴田勝家の裏切り行為に信勝は周囲に目を向ける。

信長の寝所にいる信長の護衛の者達の鋭い視線が自分に突き刺さっている。

異様なまでの警戒した雰囲気に信じていた重臣の裏切り。

信勝は清洲城でたった一人、信長の敵と見定められていたのだった。

周囲から向けられる敵意に信勝の表情は険しくなる。

そして不穏な雰囲気が漂う中、何かを決意したかのように信長を見据える。

そして間髪入れることなく腰にある刀に手をかけ、一気に引き抜いた。


「信勝殿!」


周囲の声と止めに入ろうとする警護の者達。

しかしそれよりも前に信勝は信長に殺意をもって刀を振るう。


「信勝!」


しかし間一髪、仮病の信長は信勝の刀が自身を切り裂く前にその手に掴みかかって刀を押しとどめる。

そこで警護の者達が詰め寄って信勝を羽交い絞めにして動きを封じた。


「尾張のうつけに従う気など毛頭ない!

 たまたま長兄に生まれたがゆえに家督を譲られた男の下になどつけぬ!」


刀を振り回そうとする信勝を警護の者達が床に組み伏せて刀を奪う。


「信勝殿!

 家督争いでの蜂起を許されたにもかかわらずこの蛮行、許されませぬぞ!」


柴田勝家の怒りの言葉も信勝の説得には至らない。


「わしこそが織田家を継ぐのだ!

 うつけでは尾張はまとめられぬ!」


この期に及んでも信勝は信長を蔑み自らを持ち上げる発言をやめない。


「殿、いかがいたしましょう」


警護の者達が信勝をどう処分するか、信長の言葉に注目が集まる。


「・・・信勝殿、あなたは先の戦で勝てていました」


しかし信長が言葉を発する前に濃が言葉を挟む。


「しかしあなたは勝てていた戦をみすみす逃しました

 それどころか籠城の際も降伏の決断はお母上様に説得されてのことことです

 そして降伏して間もなくのこの愚行

 言ってもわからないであろう方に言って伝わるとは思っていませんがあえて言わせていただきます

 この場にいる誰もが、あなたに尾張並びに織田家を統治できるとは微塵も思ってはおりませんよ」


「黙れ!

 女が政に口を挟む出ない!」


濃の言葉を聞いて勢いが収まるどころか罵詈雑言がさらに増す信勝。

もはや冷静な判断など期待できない。

兄である信長を恨むがゆえに歪んでしまった性格はもう取り返しのつかないところにまで来てしまっていた。


「見苦しいな、信勝

 これ以上はお前が最も嫌う織田家の恥よ

 そしてお前を生かしておけば尾張に平穏などない」


それはその場にいた全員が一致する見解。

信勝に説得や和解は通用しない。

尾張の外へと追放しても敵となるのはわかっている。

ならばもうできることは一つしかない。


「・・・斬れ」


そして信長は、実の弟を処断する決断を下した。

その表情は少し悩ましく、できればしたくないことを織田家の当主として銘じなければならない苦渋に満ちていた。

部屋から連れ出された信勝は警護に当たっていた河尻秀隆によってその首を討たれ、その生涯を終えることとなった。

信勝の騒動があってから信長はもうしばらく休みたいのか、部屋で一人にしてほしいとなって濃も家臣達と同じく人払いされた。


「うまく立ち直れればいいのですが・・・」


織田信長の手によって尾張は統一される。

しかしそれは濃にとっては通過点。

彼女の真の目的は今川義元の上洛の阻止。

今この瞬間、その下準備がようやく終わっただけにすぎない。


「しかし尾張統一だけでここまで疲れるとは・・・」


濃もこの尾張の家督争いにただならぬ疲労を感じていた。

彼女もまた自室へと戻り、敷いた布団の上に転がる。

仮病で病と言う信長の気持ちがわからないわけではない。

濃もまた精神的にひどく疲れ切っている。


「私も少し・・・休ませていただきましょう・・・」


ひとまず目の前の危機が去ったことから来る安心感からか、濃は安堵感からくる心地よい眠気に身を任せ、今までこれほど深い眠りについたことがあるのかと問いたくなるほど深い眠りにつくのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る