第14話 面会
信長に振り回される形で尾張国内を毎日のように駆けまわる濃のもとにある日一通の手紙が届いた。
それは義父である斎藤道三からの手紙であった。
「道三が面会を求めてきたのか?」
「はい
殿は美濃の同盟国、尾張の正統後継者として名指しをされました
よって一度顔合わせをしたいとのことです」
「ふむ、道三の頼みとあらば断わるわけにもいかぬな」
「そうですね」
「じゃが、ただの顔合わせとは思えん」
「・・・はい
顔合わせと言いつつ、器量を見極めるつもりと思われます」
濃は義父の斎藤道三がなぜこの時期に顔合わせを申し出てきたのかをよくよく考える。
美濃の未来のことを考えればその国の国主たる人物の器の大きさや思慮深さなど、国を治める当人の実力は極めて重要である。
斎藤道三はこの面会で織田信長が同盟国の次期当主として信頼に値するかどうかを見極める気でいるのだろう。
「相変わらずマムシのやることはいちいち手が込んでおる
避けて通れぬ話とあれば動かざるをえないわけだ」
「これより先のことを見極めたい、そのために良い一手をお父上様は打ってきたようです
ですがこちらはそれを逆手にとるのがよいかと」
「これを逆手に取る?」
「はい
織田信長という人間の器量の大きさを見せつけるのです」
濃の言葉に信長はため息をついて肩を落とす。
「ワシにそのような器量などないわ
日々、次期当主とならぬよう城を空けてばかりであったのだ
道三であればワシの至らなさなどすぐに見抜くであろう
だが、お前のことだ
何か考えがあるのだろう
正直、当主となる気もなく気は進まぬが一応聞いておこう
いかようにする気じゃ?」
信長は未だ織田家の当主となることに気が進まない。
それでも父親に指名されてしまった以上、その道を避けて通ることはできない。
そのためか、濃の考えに興味を示してきた。
「ではまず面会をする場所と日時の摺り合わせからいたしましょう
少々日時をいただき、その間に小道具を揃えます」
「・・・小道具?」
濃の考えが読めない信長だが、元来遊ぶのは大好きな性格である。
何か面白いことを考えていると読んだのだろう。
気は進まないが面白いことは好きだというかのように、信長の表情には少し笑みが浮かんでいた。
「面白そうだな
仔細を聞かせよ」
信長は濃の企てた作戦に乗り気のようで、妻の話に耳を傾け、作戦会議を兼用した夫婦の会話がしばらく行われる。
斎藤道三から手紙が届いてからしばらく時が経ち、尾張と美濃のほぼ中間地点にある寺にて顔合わせをする日がやってきた。
「若、そのような格好で道三殿とお会いになるおつもりですか?」
那古野城を出るときの信長の姿はとても一国の主と顔合わせをするとは思えない。
着崩した着物に整っていない髪、その姿は一国の後継者どころか一部人として見ることもできないほどほど遠いもの。
失礼千万としか言えない格好だった。
「爺、そういきり立つな
道三も着飾ったワシを見るよりも本来のワシを見たかろう」
言っても聞かない信長に平手政秀はため息が漏れる。
「ほれ、皆の者行くぞ」
信長の声に従い、一行は那古野城を出立する。
信長に付き添い徒歩で同行する織田軍の兵士は総勢五百ほど。
ただの面会にしては大人数を連れていく様子に平手政秀も眉をひそめている。
しかし信長はもう織田家の正統後継者である。
身の危険を思うのであれば、人数は多いに越したことはないため、平手政秀は眉をひそめつつもそのことに関しては口をつぐんでいた。
「ところで若
後ろの者達はいったい何を持っているのですか?」
人数の多さには口をつぐんでいる平手政秀だが、彼に付き従う兵士達の装備に疑問を持った。
その疑問は織田家に仕える物として当然のように質問として指示を出した信長当人に問いかけられる。
信長の供をする家来が持っている物は布に包まれた細長い物。
その数は人数と同じおおよそ五百。
付き従うほとんどの者が布に包まれた細長い物を持っていることになる。
「ん?
鉄砲じゃ」
「て、鉄砲・・・
鉄砲?
あ、あんな量をで・・・ございますか?」
南蛮人から伝わった鉄砲はまだ国内では生産技術がようやく確立されてきた頃。
鉄砲一丁の値段は驚くほど高い。
それが信長に付き従う家来五百人全員に鉄砲が行き渡っている。
それを実現しようとするのにかかるお金は並大抵の金額ではない。
尾張一国の財政を締め付け、国を傾けることにもなりかねないような大金が信長の一声で使われた。
その事実に平手政秀は驚きを通り越して唖然、もはや次の言葉が出ずに頭の中は真っ白になってしまい、信長を見送るどころか呆然と立ち尽くしていることしかできなかった。
「はっはっはっ・・・
道三も爺のように目を丸くするであろうな
これは今から道三と会うのが楽しみだ」
信長は大声で笑いながら、号令を出して一行と共に顔合わせの寺へと進んでいく。
残された平手政秀は正気に戻るまでまだしばらく時間を要するのだろうが、そのような時間はないというかのように信長に声をかけられて我に返る。
「どうした、爺
留守番をするのか?」
「・・・あ、いえ
お供致します」
事態がまだ呑み込めていない中、平手政秀は頭の整理が追い付かないまま、信長と共に斎藤道三との面会の場となる寺へと向かう。
信長が城を出て少し経った頃、那古野城から顔合わせの場所として選ばれた寺へと続く道中には本来その場にいないはずの人間が息を潜めていた。
その本来その場にいないはずの人間とは美濃国の領主、斎藤道三。
その道を眺められる小屋に彼はいた。
「殿、間もなく信長の一行が来るそうでございます」
斎藤家家臣の猪子兵助が道三へと知らせを届ける。
「ふむ、そうか」
知らせを聞いた道三はそう返答をすると、小屋の窓から見える道を眺める。
信長の居城から面会に使用される寺へ向かうのであれば確実に通る、その道の片隅にある小屋に彼は身を隠していたのだ。
「しかし殿、寺で待っておれば信長はやってきます
道中で信長の姿を見る必要があるとは思えませぬが・・・」
猪子兵助は道三の考えと行動に納得がいっていないようだ。
「信長がどれほどの大うつけかを見ておきたいのだ
寺で会う時はそれ用の格好と立ち振る舞いをしよう
なるべくやつの本性をこの目で確認しておきたい」
「道中と寺では人が変わるとお考えでございましょうか?」
「うむ、そうなれば同盟相手としては不服よ」
「はぁ・・・」
道三の考えがわからず、猪子兵助は返答に困って言葉に詰まる。
面会を前にして先に信長の風貌を自らの目で確かめ、その情報をもとに面会の場での会話の内容を構築しようという考えだ。
先を見て情報を手に入れ、それを生かして実利をとる。
実に商人出身の斎藤道三らしい行動であった。
「わからぬか?
わしの前でだけよい格好をするような男はいらぬ
腹の内を全てさらせとは言わぬが取り繕うだけの小者に重きはおけぬ」
「なるほど、そういうお考えでございましたか」
「もし信長が小者であれば、儂も出方を考えねばなるまい
しかし帰蝶との約束もある故、織田との同盟の破棄などはせん
儂がすべきこと、それが織田と手を携えるのではなく、織田を斎藤に従属させることになる
帰蝶の望み通りの未来を斎藤家が単独で行う、その考えが重視されるかどうかだ」
猪子兵助はようやく道三の考えに納得がいったようで、先ほどよりも表情が明るくなる。
「さて、尾張の大うつけの顔をしかと拝見させてもらおうか」
しばらく待つ道三の視線の前を織田信長の一行が間もなく通過する。
その織田信長の格好は着崩し、大うつけと呼ばれる姿そのものであった。
その姿を見て斎藤道三は何を思ったか、付き添いの猪子兵助には何も語ることなく、信長の一行が通り過ぎた後に人知れず小屋を後にして、待ち合わせの寺に先回りをするのだった。
斎藤道三が人知れず信長を観察した後、顔合わせの寺へともう間もなくという道の途中にある農村で濃は信長の到着を待っていた。
そこに五百の兵を引き連れた尾張の大うつけが颯爽と現れる。
「おお、帰蝶
言われた通りにしてきたぞ」
「い、言われた通り?」
信長の言葉に供をしている平手政秀は何が何だかわかっていない。
五百丁の鉄砲の件にしても、五百人と言う大人数の供にしても、信長の出で立ちにしても、なにも納得がいっていないのだ。
「はい、こちらも予定通り必要なものを調達し終えて参りました」
濃はそういうと腰に下げていたきんちゃく袋の中身を信長に見せる。
それは黒い小さな玉のようなもの。
見たところただの丸薬にしか見えない。
「そうか
なら後は任せた
ワシは道三のもとへ・・・」
寺へ向かう道を馬で行こうとする信長の行く手に濃が立ちふさがる。
「殿、身なりは整えていただきます」
「別によかろう」
「いえ、蝮と呼ばれる男のことです
おそらくここへと来る途中の殿を見ていたか、誰かに見させていたかと思われます」
「ならなおのことこのままでよかろう
すでに見られているのに変える必要もあるまい」
「そうはいきません
ここはあえて正装に着替えてゆくべきです」
「蝮の前で取り繕うのが正しいのか?」
濃の言葉に信長は納得がいかないのか眉をひそめる。
「理想と現実、想定と真実、その間隙を突いて心を掴むのも作戦です」
「作戦?」
「はい
正装に着替えただけではその場で取り繕っているだけとなってしまいますが、そこで用意したこの小道具が生きるのです」
「ふむ、なるほど
お前はよく頭が回るな
ワシの着替えを持て」
信長は納得したのか馬を降りて正装を持ってこさせる。
一国の正統後継者が農村の傍らの屋外で堂々と着替えるなど、この時代では彼にしかできない芸当かもしれない。
「では、外のことはお任せください」
「うむ、驚く道三の顔を見られるのがワシだけというのは実に特別な気分だな」
正装へと着替えた信長を中心に一行は寺へと向かう。
寺が目視できるところで一度一行は足を止め、そこからは平手政秀など数人を引き連れ寺へと向かい、濃は残された五百の兵達と共に小道具を使用する準備に取りかかる。
寺の一室で待つ道三とその家臣達。
そこに信長が家臣を引き連れ正装で現れる。
その信長を見た道三は娘婿に合う父親としての笑顔は見せるものの、一国の主が信頼のおける同盟者に対する笑顔は見せなかった。
(ふむ、尾張の大うつけと聞いていたがやはり小者であったか)
道三は同盟国として利用はするものの頼りにはしない。
信長を一目見た時点でその結論を下していた。
「こうしてはるばるご足労いただいたのだ
道三殿には一つ余興を見て・・・いや、聞いていただこう」
「ほう、余興とは何か、楽しみではあるな」
部屋の中に座る道三に対して、信長は部屋の入り口から中には入らない。
「爺、弓を持て」
「ははっ」
平手政秀が信長に弓と一本の矢を差し出す。
「ワシはうつけと呼ばれるほど遠出が好きでな
時に狩りもよく楽しむ
今鉄砲をよく使うのだが、若い時分から弓も好んでおった
腕前は天下でも自慢できるものだと自負しておる」
信長はそういうと弓に矢をつがえ、寺の外の空に素早く狙いを定めた。
そして矢は空へ向かって放たれ、その瞬間から矢が地面に落ちるまで笛の音が寺の周囲に響き渡った。
「鏑矢・・・か」
武器としての矢ではなく合図として用いられる矢である。
音を鳴らすことで戦場などでも合図としての役割を担う。
「これが余興の聞かせるというものか?」
何をしてくるのかと表立って態度では見せてはいない者の、心の中では何が来るかと身構えていた道三。
しかし拍子抜けと言わんばかりに一つ息をついた。
「まさか・・・
これからでございます」
道三の拍子抜けをあざ笑うかのような信長の表情。
その信長に対して道三が何かの感情を抱く寸前、本当に聞かせたい音が寺の外で鳴り響いた。
寺の外から聞こえてくるのは強烈な轟音の連続。
それはまるで大量の爆竹を一気にさく裂させたかのようだった。
「な、何事だ!」
強烈な轟音の連続に斎藤家家臣の猪子兵助をはじめ、多くの家臣達が浮足立つ。
「慌てるでない!」
しかしその浮足立った家臣達を道三は一喝して黙らせる。
「鉄砲か
しかもかなり数を揃えたようだ」
この時代、鉄砲一丁の値段は恐ろしく高い。
それをこれだけの数を揃えるというのは並大抵のことではなく、それは財力に加えて鉄砲を入手する経路を確立して持っているということ。
さらに言えば入手経路は一か所からではなく複数と言うことになる。
言葉にすることなく、鉄砲の連続した轟音がそれを物語っていた。
(尾張の大うつけが近江の国友に鉄砲を五百ほど買い付けに行ったという噂を商人から聞いたことがあったな
馬鹿馬鹿しい話だと一笑に付したが・・・)
道三は到底真実ではないと思われていた情報が思わぬところで真実であると告げられたことに驚きを隠せない。
そしてその真実は美濃の斎藤家の全力をもってしても困難なもの。
それを未だ尾張一国さえ統一できていない織田家の、まだ家督を継いですらいない信長がやってのけてしまった。
その真実を目の当たりにして道三は信長を見る目が変わった。
(この尾張の大うつけは小物などではない
必要に応じて必要な手の内だけを見せているのやもしれぬ
もしそうならばこの男はこれから先、もっともっと大きくなる)
道三は織田家との同盟が結ばれていたことに今日ほど安堵したことはなかった。
「少々うるさくして申し訳ない
さて、何から話しますかな」
信長はここでようやく部屋の中に足を踏み入れ、道三の前に腰を下ろした。
「・・・皆の者、ワシを信長殿と二人きりにさせよ」
「し、しかし殿・・・」
「言うことを聞かぬか」
「は、はぁ・・・」
道三の命令で斎藤家の家臣達が全員部屋を出ていく。
「爺、人払いをせよ」
「ははっ」
そして信長も平手政秀に命じて部屋に信長だけが残った。
これによりこの部屋は斎藤道三と織田信長の二人だけとなり、ほかの誰にも水を差されることなく話ができる空間が出来上がった。
二人きりでの会話の後、斎藤道三は先に席を立って寺を後にした。
それを見て信長も席を立ち、寺を後にする。
寺での顔合わせを終えて信長は那古野城へ、道三は稲葉山城へとそれぞれ帰っていく。
(織田信長・・・か
尾張の大うつけとはよく言ったものよ)
帰り道、道三は信長と話した内容を思い出して小さく笑みを浮かべる。
「殿、いかがいたしましたか?」
家臣の猪子兵助が道三の異変に気づき声をかける。
「・・・我が子達は愚鈍ではない
しかし信長ほどの大器でもない
いずれ織田の門前に馬をつなぐことになろう」
猪子兵助はその言葉に返答をすることができなかった。
道三のその言葉は斎藤家の跡取りとなる子供達は誰一人として信長に勝っていないと敗北を認めたようなものだ。
主君がいきなり自ら敗北宣言をするなど普通はありえず、さらにそれを聞かされた家臣はどう対応していいのかさっぱりわからない。
稲葉山城への道はそれ以降ほぼ全ての会話がなくなり、長い道のりをただひたすら静寂が支配するという異様な光景が続いていた。
本来なら慎重な道三がそのような軽率ともいえる発言をすることはないのだが、信長と言う人間を計り知れなかったことによる心の乱れと敗北感から、ついそのようなことを言ってしまった。
そしてその道三が漏らした本音が後に、斎藤家を大きく揺るがす大事件へと発展する要因の一つになるのだった。
稲葉山城へと引き上げていく道三とは逆の道を行く信長の一行。
帰路に就く信長の馬に濃も同乗して那古野城への道を進んでいた。
「それで、何をお話になられたのですか?」
「大した話はしておらぬ
帰蝶の近況や道三の下剋上話などだったか」
「そうですか
もっとこれからのことを建設的に話したのかと思いました」
一国の首脳同士が出会い言葉を交わす。
その国同士の関係にもよるが、国の未来にかかわることが会話の中で出なかったとは驚きだ。
「そういえば最後に一つ聞かれたな」
「何をです?」
「お前はどのような国を作りたいのか・・・とな」
「以前私が言ったことと同じですね
それで何と答えたのですか?」
「なに、戦のない国を作りたいと言ったまでだ」
濃は信長のその返答の内容に驚きを隠せなかった。
「戦のない国・・・ですか
それはまた壮大なことを考えられましたね」
「ん?
壮大なこと?」
「戦というものは争いが起こる要素があることで起きます
一国だけがどれだけ平和を訴えても隣国がその意に沿わない行動をとれば思いの外簡単に戦となってしまいます
故に戦のない国を作るということは、戦が起こる可能性を全て取り払うか、もしくは支配下に置いてしまうという意にもつながります」
そう、それはまさしく天下統一という志を持っているといってもいい。
「な、そ、そんな意味になっていたのか?」
もちろん信長はそんな意味を持ってその言葉を発したわけではない。
彼はただ、自らが生まれ育ち、ともに遊びまわった者達が戦に巻き込まれない国であればいいと願ったまで。
しかしそれも一国の主ともなれば意味合いは大きく変わる。
信長はそれに気づくことなく思いのたけをぶちまけていたのだった。
「ふふっ、もしかしたら殿は私が思う以上の方なのかもしれませんね」
道三相手にとんでもないことを言いきった。
その事実に固まる信長と、そんな信長を見て笑う濃。
二人は馬に揺られながら那古野城へと帰っていく。
那古野城の一室で平手政秀の目は大きく見開かれ、顔は完全に硬直していた。
「爺、驚きすぎじゃ」
「そうですよ
ただの小道具と小細工の話をしただけではありませんか」
道三との顔合わせで信長と濃が一体何をしたのか、それを平手政秀は気になって仕方なかったため、面会を終えて帰ってきた後に二人に聞くこととなった。
その結果、帰ってきた答えに驚きを隠せないどころか、驚きすぎて平静な表情に戻すことができなかった。
「各地の商人に鉄砲五百丁を仕入れるのに必要な代金と運用するにあたって必要な資金の話をしたまでです
これで情報の早い商人の方々ならばすぐに織田家が鉄砲を五百丁揃えようとしていると思い込みます
もちろん鉄砲を五百丁も揃えられる商人はそうそういませんから商人達も鉄砲の件で我らに接触してくることは少なくなります
後は布にくるんで鉄砲のように見える偽物と、鉄砲を用いるのに必要な火薬を丸薬のように丸めたものを用意すればいいだけです
頃合いを見計らって火薬を焚火の中に適当な数を放り込んでいけば鉄砲の連続音の完成となりますからね」
「そ、そのような駆け引きが行われていたとは・・・
この爺、感服いたしました」
織田家に鉄砲五百丁を揃える資金もなければ伝手もはない。
しかし鉄砲を五百丁も保有しているように思わせることは可能だ。
存在しない鉄砲を火薬の音と偽物という小道具だけで存在していると道三に信じ込ませることができた。
これにより斎藤家は織田信長という人間を無視することはできなくなり、それは濃が思い描く斎藤家と織田家の固い同盟をより強固なものにしていく。
そしてその先にあるのは濃の最大の目的である今川義元の天下統一の阻止。
そこまでの道のりを今はまだ、想像以上に順調に進んでいけているのだった。
しかしことはそう簡単に、思っているほど順調に進んでいるだけではなかった。
少しずつ状況は変わってきており、それが大きな変化となることに発展することはそう珍しいことではない。
「・・・早く行かなければ始まってしまいますよ」
白い喪服を着た濃とは真逆にいつも通り着崩した格好の信長。
その信長は部屋の片隅を見つめるように座り込んだまま動かない。
「後継者となったからには家臣達にも亡きお父上様にも立派な主君となれる片鱗の一つや二つくらい見せつけることをしなければなりませんよ」
濃の言葉を聞いても信長は動こうとはしなかった。
信長が道三との顔合わせを大成功に収めたそのすぐ後だった。
信長の父、織田信秀が病に倒れた。
何度か持ち直しはしたものの、回復には至らずそのまま他界してしまったのだ。
尾張の虎ともいわれた男はまるで、信長が織田家の当主として同盟国の斎藤道三との顔合わせの成功を待っていたかのように、病によって没したのである。
「父上は・・・何故ワシに家督を譲ったのだ?」
「織田信長こそ、織田家の当主にふさわしいと判断したからでしょう」
「だがワシはただの大うつけ者だ」
「ならば大うつけのまま家督を継げばよいと思います」
「家督を継いでワシに何ができる?
家中の者共もワシを慕っておるものなど少ないではないか」
「ではこれから当主としてなすべきこと、やらなければならないことを一つずつ乗り越えて行けばいいでしょう」
「それで当主としてワシに国をまとめられるのか?」
「殿が一人で全てを行うわけではありません
一国の政務を全て一人で行えるものなどおりません
殿がなすべきことは一国の主として、その国が進むべき道を示すこと
そしてその道を行くのに適したものを適した役職に置くこと
それが一番大切な仕事です」
「ワシに務まるか?」
「少なくとも、私は全てを懸けて支える気でいます」
「そうか・・・」
濃の言葉を聞いて信長はしばらく黙り込む。
そして何かの決心がついたのか、スッと勢い良く立ち上がった。
「ワシに務まるかどうかはわからんが、道三にも知らずのうちに大見得を切ってしまっていたようだ
これ以上、望まぬといつまでも言うてはおれんな」
決心と言うわけではないが、信長にも織田家当主として立たなければならないという思いが少なからず心に芽生え始めていた。
それが織田信秀の後継者指名、そして斎藤道三との面会、さらに妻である濃の支えの確約を通し、織田家当主という地位に立つことを受け入れる心構えができつつあった。
「父はワシに家督を譲った
うつけのワシに、うつけと知ってだ
それはワシの生き方を父が認めたも同然であろう
ならば、ワシなりに父上を見送らなければならんな」
「ええ、どうぞ
心の赴くままに・・・」
信長は大きく深呼吸をすると、今まで岩のように頑として動かなかったところを一転、素早く立ち上がると勢いよく部屋を飛び出していった。
この日、信長は次期当主として一番に焼香をすることとなる。
しかしそのやり方は一掴みした焼香を位牌に叩きつけるという後世に語り継がれるほど強烈なものだった。
その立ち振る舞いを見て頭を抱える者、怒りを覚える者、蔑む者など家臣達にも十人十色の思いがあった。
そんな家臣達の思いを知ってか知らずか、織田信長は堂々と胸を張って父の葬儀の場を後にするのだった。
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