第13話 後継者指名
夫婦となった織田信長と濃。
その夫婦生活は居城となっている那古野城にいるよりも外を快活に動き回る方が格段に多い気がした。
早朝から供の者を連れて馬で駆け、山や川へと繰り出していく。
山菜取りに狩猟、釣りに農村の若者達との相撲。
毎日遊び歩いていると言っても過言ではない織田信長の傍に濃はなるべくつき従って彼を観察していた。
「これは・・・平手様の頭痛の種の理由がわかりますね」
連日城を抜け出している織田信長はどう見ても武家の男とは思えない。
書物に目を通すのは気が向いた時や目に留まったものだけ。
しきたりや礼儀作法などの教育にはそれほど関心を持っていない。
尾張の大うつけと呼ばれるだけの異常性は短時間で十分に理解できるほどだった。
そしてその異常性の根幹は家督を継ぐことに興味がないことが一番大きな要因だ。
織田信秀は嫡男に家督を継がせたいわけだが、当人は当主となる気が一切なく、この時代の武家として当然の勉強なり鍛錬なりを行ってきた弟が下剋上ですげ変わるのは何ら不思議ではなかった。
歴史とはなるべくしてなるものなのかもしれない、と濃は思い始めていた。
「はっはっはっ・・・
なかなかやるがまだまだワシには及ばんな」
今日も尾張国内の村で農作業の合間に休息をしていた若者達と相撲を取って遊んでいる。
「その意欲を勉学に向ければ、と思うのですが・・・」
相撲に熱中する織田信長を見る濃の目は呆れを半ば通り越してしまいそうでもあった。
しかし、思わぬ収穫もあったのは事実だ。
「織田の若様はオラ達の話をよく聞いてくれる」
「他のお武家様は見向きもしねぇのにな」
遊びまわっている織田信長だが、この時代の農民達からすればそれはただ遊んでいるだけには見えないようだ。
完全なる階級社会とでも言える時代に、格下とされる者達のもとに躊躇うことなく飛び込んでいける織田信長という人間は異端でありながらも、その異端さが多くの人に評価される稀有な現象がここで起こっていたのだ。
「真実は小説よりも奇なり、百聞は一見にしかず、ですね
実際見て見なければ長所も短所も見えません」
目の前に広がる思わぬ人の和は濃を驚かせるだけでなく、濃が目指す理想に近づくための要素となりうる心強さもあった。
「よし、次はお前だ
見事ワシに勝ったら褒美をくれてやるぞ」
「ほ、褒美?
相撲に勝っただけで?」
「はっはっはっ・・・
欲しいものがあれば何でも言え
ただし、ワシに勝たなければならんがな」
褒美という言葉で村の青年達の雰囲気は盛り上がり、織田信長との次の一番はこの日最大の盛り上がりを見せるのだった。
今日も一日遊び倒した織田信長は馬に濃を乗せて那古野城へと戻る。
「間もなく日が暮れるな
急がねばならん」
馬をいつも以上に早く走らせる様子は普段の遊びほうける様子とは少し違っていた。
「何が急用でも?」
「今日はいい山菜と川魚が手に入った
あいつにくれてやろうと思ってな」
「・・・あいつ?」
「帰蝶は会ったことがなかったか?
なら紹介しよう」
「あ、はい
お願いします」
走る馬は那古野城へと入っていくと、織田信長はいつもとは違う道を進んで城内の離れにある家屋へと向かう。
「こちらにそのお方が?」
「ああ、人質だがな」
「人質?」
家屋の引き戸を思い切り開き、ずかずかとためらうことなく侵入していく織田信長。
その後を濃は小走りで追いかける。
すると家屋の中で書物を読んでいる一人の少年が侵入者に気づき、濃と視線が交錯する。
「竹千代、今日はいい山菜と川魚が手に入った
特別にお前にも食わせてやろう」
「吉法師殿、また遊びに行かれていたのですか?」
「そのおかげでお前もこうしてうまいものが食えるのだ
喜べ、そして感謝せよ
あと、幼名で呼ぶのはもうやめよ
ワシは信長だ」
「失礼しました、信長殿
ですがそうたびたび遊びに行かれるのは武家の嫡男として問題がおありなのでは?」
「問題とはなんだ?
どうせ城におっても退屈なだけよ
ならば気持ちの赴くがままに駆けるのも一興だ
それにそのおかげでこういう美味い物を自らの手で手に入れ、その日のうちに食える」
「進物として民に差し出させずにご自分で採りにいかれるところが信長殿らしい」
「褒めておるのかどうかわからぬがまぁいい
竹千代、料理番は不在か?」
織田信長が家屋の中を覗き込んでキョロキョロして、家屋の奥にも人がいないかと迷うことなく奥へと突き進む。
共通の知人である織田信長がいなくなったその間に、少年と濃はまた視線が交錯した。
「信長殿に嫁がれた斉藤家の帰蝶様、でしょうか?」
「あ、はい
お初お目にかかります」
「私は松平竹千代と申します」
「松平・・・」
「松平家は今川の庇護を受けている小国です
織田家と今川家の境にありますのでどうしてもどちらかと手を組まなければなりません
本当ならば今川家のもとへ人質へ出されるはずだったのですが、わけあって織田家に人質としていることとなりました
人質ですから、客人相手のような堅苦しいご挨拶は不要です」
ニコッと笑った松平竹千代は礼儀正しく年齢以上に大人びて見えた。
その爪の垢を煎じて織田信長に飲ましてやりたい、と濃は率直に墓場まで持っていくであろうことを思ったのだった。
「料理番がおらぬではないか」
家屋の中を歩き回った織田信長は不機嫌な様子で戻ってきた。
「あの・・・では私が何かおつくりしましょうか?」
せっかくの食材は今日獲れたばかりの新鮮なものでこれ以上鮮度を落としてまずくしてしまうのも、時間をおいて腐らせて無駄にしてしまうのは忍びないという思いから、濃は自らが料理を作ることを二人に告げた。
「なに?
お前、料理できるのか?」
織田信長の明らかな疑いの目が濃に向いていた。
驚き三割、疑い七割といった割合の表情だった。
「これでも女の身ですから多少は心得があるつもりです」
濃は自信満々に言うが、そもそもこの時代で料理ができる女性はかなり多い。
しかしその全てではない。
除外される項目の中に必ず存在するのが『姫』という地位にいる者だ。
濃は斉藤道三の娘として織田家に嫁いできている。
故にその地位や扱いは間違いなく姫なのだ。
故にいくら女の身であり料理の覚えがあるといったところで信用されないのは当然のことであった。
「や、やはり料理番が戻るのを待つ方がよろしいのでは・・・」
松平竹千代まで濃が料理をすることに否定的な意見を口にする。
姫である女性が料理を作る。
それ自体がこの時代の常識ではないため、どのような結果になるのかを恐れての回避策だ。
「大丈夫です!
少しお待ちください!」
そこまで疑われたなら濃も後には引けない。
川魚と山菜をひったくって家屋の台所へと足早に向かう。
「絶対においしいと言わせてみせます
腕には自信がありますし、今まで不満を言われたことは一度もないのです」
元の時代で国定奉公人として散々訓練を受けてきて、全く文化や生活スタイルが違う国の人達にも認められた料理の腕を存分に振るおうと、台所へ向かった濃は食材と向き合う。
残された信長と竹千代は顔を合わせて沈黙の時が流れる。
そして信長が一言、つぶやいた。
「姫が作ったものをまずいと言えるものか」
「ど、同感です」
二人はあくまで濃を斎藤家の姫として生きてきたという認識であるため、彼女が作った料理を彼女に対して不評を言える人が今まで食したことがなく、彼女は今まで不満を言われなかったのは姫と言う立場があったからなのではないか。
二人の心の中には大きな不安が渦巻いていた。
「竹千代、急用を思い出した」
「の、信長殿!
私一人を置いて逃げないでください」
人質がおかれている家屋からそそくさと出て行こうとする信長に、竹千代は縋り付くようにしがみついて逃がさない。
「おい、竹千代!
放さぬか!」
「信長様の奥方です!
責任はお取りください!」
「えぇい、放せ!
毒見はお前一人でもできるであろう
ワシを巻き込むな!」
「そもそも信長殿がお持ちになった食材ではございませんか!」
家屋の出入り口で押し問答が続く中、台所では濃が料理に取り掛かっていた。
「・・・あれ?
醤油がない・・・と、もしかしてこの時代はまだ醤油がないのでしょうか?」
濃にとってポピュラーな調味料である醤油が見当たらなかった。
未来からやって着た濃にとってはごく自然な調味料だが、この時代ではまだ生まれていないのか、それとも広く知られていなかったり普及していなかったりするのだろう。
当初予定していた料理を別の調味料で代替えして作るか、そもそもメニュー自体を変更するかという選択に迫られる。
「みりんは・・・時代でしょうか
味が異なりますね
香辛料もほとんどない・・・あれ?
もしかして今、かなりまずい状態なのではないでしょうか?」
濃が誇る料理の腕前は濃の頭の中にある知識がフル活用され、その知識が生かせる数多の調味料や香辛料を使用できるからこそ生まれる。
国は同じでも様々なものが大きく違うこの戦国時代では、濃が持っている常識がそっくりそのまま当てはまるほど甘くはなかった。
さらに言えば濃は未来では大英帝国の上流階級の中でも指折りの人間の家に奉公に出ていた。
それほどの権力と財力を持つ人であれば、世界中の珍しい調味料も全てそろえることなど難しいことではない。
その多くの調味料を使える日常が当たり前になっていた少女にとって、限定的な状況と言うのは未だかつて経験したことの無い不自由な状況でもあった。
「なぁ、竹千代
食えるものができると思うか?」
「わ、わかりませぬ」
食材を見て思いついた料理が調味料不足で断念しなければならないことで焦る濃の後姿を押し問答をやめて遠目に台所を覗く織田信長と松平竹千代は不安そうな眼差しで見守っているのだった。
調理を終えた濃は料理を盛った皿を二人のもとに運んで差し出した。
「どうぞ、川魚の三種と山菜の和え物です」
川魚の切り身が三つに分けて盛られており、その傍らに山菜が彩りを持たせている。
見た目はどこか芸術的な盛り方だが、信長と竹千代はその料理を食べるのに少々抵抗があった。
「竹千代、食ってみよ」
「なっ!
私がですか?」
「毒見だ」
「奥方殿の料理故、信長殿が食べられるのが良いかと・・・」
濃の料理の腕を知らない二人は、料理ができない姫が料理を作ったという先入観から食べるのをためらっている。
腕に自信のある濃は一つ溜息をつき、川魚の切り身の一つを箸で持ち上げる。
「どうぞ」
そして満面の笑みで夫の目の前に差し出す。
「くっ・・・」
しばらく睨めっこをするように魚の切り身を見ていた信長。
そして意を決したように魚の切り身に食らいついた。
「・・・うまい」
味わった瞬間、今までの躊躇いや抵抗が嘘のように表情が晴れていた。
「竹千代、食うてみよ
いや、食わぬならすべてワシが食うぞ」
進められて竹千代も魚の切り身を一つ口に運ぶ。
そして同じように表情が一変した。
「切り身は味噌煮、塩焼き、酒蒸しで三種の味と食感が楽しめるようにしました
お気に召していただけたようで何よりです」
濃は二人にぺこりと頭を下げた。
「料理番よりも美味しゅうございます」
「うむ、確かに・・・」
二人は濃の料理を絶賛しながら次々に口に運び、瞬く間に皿は綺麗に何もなくなってしまった。
「帰蝶に料理の才があったか」
「これほどの腕とは驚きです」
「お褒めいただきありがとうございます
また機会があればおつくりいたしましょう」
竹千代と初対面の濃だが、料理がきっかけで思いの外早く打ち解けることができた。
人質として那古野城にいる松平竹千代。
その後人質交換で今川家に引き渡されることとなるのだが、それまで三人でこういった席を幾度か儲けて交流を深めるのだった。
それが後々の織田家のための強固な同盟関係を築く礎になるなど、この時この場にいる三人の誰もが思いもしていなかった。
濃が織田家に嫁いでからしばらくたった頃、父の織田信秀のもとへ信長とともに呼び出された。
信長は人の指図を受けたくない性格だが、父の呼出には思いの外素直に応じて素早く那古野城を出たのが濃にとっては驚きだった。
「いつもなら文句を言ってすぐに動かないはずですが・・・」
普段とは違う夫の素早い行動に濃は首をかしげていた。
するとそこに体格の良い配下の武将がやってくる。
「若の動きが意外ですか?」
「あ、森殿」
織田信長の臣下として織田家に仕える森可成。
今回は護衛として付き従っている。
「尾張の大うつけと呼ばれる方が素直に言うことを聞けば意外、と思ってしまうのは失礼ですよね?」
「ははは、帰蝶様のお考えは何も間違ってはおりませぬよ」
森可成は濃の疑問を笑い飛ばしてしまう。
「ただ、若と殿は親子だということでしょう
我々にはわからぬ何かがその間にあると思われます」
「親子だからこそ親の言うことを聞く・・・ですか
当然のことのように思えて意外にしか見えないのは私の見方が偏っているのでしょうか」
「確かに普段のお姿からは想像できませぬな
ですが大うつけと呼ばれようとも殿だけは若を我が子として接しております
実母や兄弟から疎まれようとも殿だけはお変わりない
若はそんなお父上を慕っておられるのでしょう」
森可成から聞いた織田信長の意外な一面。
納得できなさそうだが、聞けば聞くほど納得できる気がする。
型にはまった退屈な日々よりも自由で楽しい日々を求める彼は、織田家の嫡男という枠の中にいたくないというわがままを言っている。
それを個性として親が見てくれるなら、何よりも大きな心の支えになるのかもしれない。
この時代の異端を異端ではなく個性としてみる。
織田信秀という人間も想像以上に大きな器の人間なのかもしれない。
警護の者や付き人達と共に織田信秀のもとへと向かう。
なんとなくあった不安は森可成に聞いた話のおかげでほとんど払拭されていた。
濃の旅路はありがたいことに心が軽かった。
城に到着した濃は用意された一室で休息を取っていた。
静かな空気に落ち着いている時、小さな足音が聞こえてそちらに目を向ける。
するとそこには廊下から顔だけを出して中を覗き込む幼い少女の姿があった。
「・・・」
無言のまま観察するように濃を見つめ続ける少女。
濃は少女に何かをすることなく少女に視線を移しただけで、ただ静かに部屋の中でじっとしていた。
すると少女は何か興味を持ったのか、トコトコと部屋の中に入ってくる。
そして濃の傍らに正座し、濃をじっと見つめている。
「か、かわいいですね
私は帰蝶と申します
あなたのお名前は何というのですか?」
小さな女の子の行動に心が癒され、もっとその少女と仲良くなりたいという思いから名前を問う。
「市ともうします」
「市?」
「はい!」
少女の言動がかわいらしく、濃はもっと少女と仲良くなろうと話しかける。
「私は織田信長様の妻になりました
あなたは?」
「あにうえさまの?」
「あら、妹様でしたか
これは失礼しました」
「こちらこそしつれいしました」
幼い女の子と一緒に頭を下げる姿はどことなく笑えてくる。
そして同じ行動をとったことで親近感がわいたのか、市は濃にもっとすり寄ってくる。
どうやら慕われたようだ。
「おや、仲睦まじい
まるで長く時を共にした姉妹のようじゃのう」
濃が市と戯れている時、その部屋に一人の女性が姿を現した。
「ははうえさま、市にあねうえさまができました」
現れた女性は信長と市の母だ。
濃は信長とは一緒にいるが婚姻の儀に母親が姿を現すことはなく、父親の織田信秀以外の信長の肉親と顔を合わせるのは今日が初めてだった。
「お初お目にかかりますお母上様、ご機嫌麗しく存じます」
濃は即座に義母へ礼儀正しく挨拶をする。
「なるほど、挨拶を見ればわかる
実にできた女子のようじゃな」
「お褒めに預かり光栄です」
婚礼の儀で顔を合わせると思っていたがそうならなかった義理の母親。
文のやり取りもなかったため、細かいコミュニケーションを交わすのも今日この時が初めてだった。
「しかしそなたのような女子がうつけの嫁とはもったいない
弟の信行との夫婦であれば織田家も盤石であったであろうに」
織田信長は実母に好かれていない。
嫁いでから聞いた情報はどうやら想像以上に正確だったようだ。
「あねうえさま、市とおはなししてください」
「これ、市
義姉上様は長旅でお疲れじゃ
またの機会にしなさい」
濃に親しみを込めた視線を向ける市だが、その申し出は母親によって濃の意思にかかわらず棄却された。
「はーい、ではあねうえさま
しつれいいたします」
市はぺこりと一礼をして、母の下へトコトコと駆けて行き、共に部屋を後にする。
「い、癒しの時間だったのですが・・・」
幼い女の子との触れ合いが癒しになっていたのだが、長旅を憂う義理の母親の気遣いという皮肉により、その癒しは濃の手元から飛び立って行ってしまったのだった。
織田信長は森可成を従え城の廊下を歩いていた。
すると対面から大柄な男を引き連れた青年がやってきて廊下で鉢合わせする。
「これは兄上、お元気そうで何よりです」
鉢合わせした青年は信長を兄と呼んだ。
彼こそ、濃の生きた歴史で織田家の当主となった弟の織田信行である。
「此度、我らが集められた理由をお聞き及びですかな?」
「さぁな
興味もない」
兄の態度に弟はムッとしながらも平静を装いながら会話を続ける。
「どうやら家中の者に織田家の後継者が誰であるかをつげるそうです
今日、父上が誰の名を上げるかで織田家の今後が決まるようですな」
「ほぅ、そうであったか」
織田家の未来にかかわることを話しているのに、信長は一切の興味を示さないどころか話にも乗ってこない。
その様子に弟の織田信行の怒りは徐々に込みあがってくる。
「織田家の当主は織田家をまとめ上げられるものでなければなりませぬ」
織田信行の背後につき従っていた大柄な武将が口を挟んでくる。
「森殿、付き従うべき主君を間違ってはなりあせぬぞ
帰って平手殿にもそうお伝えくだされ」
「柴田殿!
そのお言葉の真意次第ではこの可成が命に代えても許しませぬぞ」
嫡男織田信長の後ろにいる森可成、二男織田信行の後ろにいる柴田勝家。
二人の武将が火花を散らすかのように睨み合うただならぬ雰囲気が辺りを包み込む。
しかしその一色触発の状態も織田信長の無関心という態度が水を差す。
「ふわぁ・・・
それで信行、言いたいことはそれだけか?
まだ着いたばかりで父上にも会っておらぬ
他に用件がないのであればもう行くがいいか?」
信長の思わぬ言葉に他の三人はあっけにとられる。
しばらく待って弟から何も言葉が出ないのを確認した後、信長は弟を一瞥することもなく早々にその場から歩き去っていく。
「わ、若!
そ、それでは失礼する」
森可成は歩き去っていく信長の後を追いかけてその場からいなくなった。
「勝家・・・
なぜ父上はあのような兄が後継者だと指名する気なのだ?」
「さぁ、私には皆目見当もつきませぬ」
「これでは織田家はいずれ総崩れじゃ
嫡男がこれでは先が思いやられる
だがそうならぬためにも次男がいるのだ
勝家、いつでも動けるように準備だけは怠るでないぞ」
「はっ!」
不穏な空気を纏う織田信行と柴田勝家。
その思惑は絶え間なく燃え続ける野心の炎となり、なりはひそめてもその炎が消えることはないのだった。
その日、織田家家中に激震が走る。
織田家当主の織田信秀は嫡男織田信長を後継者として指名した。
家中の者達は品行方正な織田信行を推す者が七割を超える中、織田信秀の当主としての決断がその反対派の意見を完全に黙らせたのだった。
織田家の主だった諸将の半数は納得がいかないと言った様子の中で解散することになった。
部屋を後にする諸将たちのざわつきが遠のいていく中、後継者として指名された信長と指名されることはなかった家中一番人気の信行も、そのざわつきと共に部屋から遠ざかっていく。
渦中に激震を走らせた集まりがあった部屋には織田家主君の織田信秀と、彼に絶対の忠誠を誓い嫡男の守り役を任された平手政秀が残った。
「殿、本当にこれでよろしいのですね」
「無論だ
信長が織田家の後を継ぐのにふさわしい」
「若が織田家の当主にふさわしい・・・
私はそう思ったことは一度もございませぬ」
「ほう、では政秀
お前は信行が適任と見たか?」
「適任かどうかは判断しかねますが、どちらが良いかと問われれば返答に悩むところでございます」
「ふむ、なるほど
確かに信行に悪い印象を持っている者は少ない
だが、それでは国は治まらぬ
信長はうつけと呼ばれているが、わが目から見れば信長の方が織田家の当主に適している」
「殿は一体、若の何が見えておられるのでしょうか?」
平手政秀は織田信秀の判断の要因が知りたくて仕方がなかった。
長く時を共にした尾張の大うつけ織田信長。
守り役として一番長い時間共に過ごしてきた平手政秀に見えていない者が織田信秀には見えているようだ。
ならばそれを知りたいと思うのが、最も長い時を共にした人間の本音だろう。
「信行は少々誇り高すぎる上に、優秀な武士としての型にはまりすぎている
好機であれば成果も残せようが、劣勢に立たされてしまえば平静さを失ってしまいかねない危険性をはらんでいる
さらに言えば劣勢時でも常識に囚われてしまう
一方、信長は誇りも地位も全く気に留めない
好機は好機として思うがまま動き、劣勢に立たされれば常識にとらわれない道を容易に選ぶことができる
足場固めには向いていないようだが、一国を案ずるなら信長の方が良い」
全く正反対の兄弟の性格や考え方などを考慮した結果、織田信秀は拓南信長を後継者に選んだのだった。
「信行は武士としては優れている
奴は一国の長たる器ではないが、一人の将としてなら大いに期待できる
信長は主君として信行よりも適してはいるであろうが、一人の将としての活躍となれば周囲の誤解も招き渦中に混乱を招く
信長にも信行にも向き不向きがあるのだ」
父親としての目だけではなく、主君として後継者をしっかりと分析して判断した結果の後継者指名。
織田信秀はこの選択が最良であると信じて疑わない。
「しかし・・・
家中の者は納得していないものも多いように見受けられました」
「わかっておる
そのために蝮の娘を嫁にしたのだ」
「斎藤家の同盟の要、それが若の後ろ盾ということでございますか」
「それもあるが・・・
信長の手綱を引ける女子であることが大きいな」
「若の手綱・・・で、ございますか?」
「そうだ
最初は斎藤家との同盟のための最良の選択として婚姻同盟を申し込むためにお前を斎藤家へ使者として送った」
「一度目は良い返答はいただけませんでした」
「うむ、場合によっては信行に嫁がせることも考えた
しかし忍びを放って稲葉山城内の噂話を聞いて考えを改めた
帰蝶は極めて評判が良く頭も切れる
暴れ馬の様な信長の手綱を引くには帰蝶以上に適した女子はおらぬ」
「では、二度目の使者として稲葉山城を訪れる際、織田家の危機的な内情を言ってでも話をまとめて来いと言われたのは・・・」
「信長の嫁として適していたからに他ならぬ
信長と帰蝶、この二人であれば織田家を繁栄させてゆける
そう確信しているのだ」
濃にとって渡りに船であった織田家へ嫁ぐ話。
それを取りまとめる際の織田側の内情にも思惑があってのことだった。
そして話が思いの外早く進みまとまったのも、織田信秀の判断のおかげであった。
「まだ隠居する年ではない
信長も信行もこれから多くの戦に出るであろう
父であり主君である儂が残りの人生をかけて家中の者に兄弟の向き不向きを実際の戦場での働きをもってして知らしめ、二人自身にもその自覚を植え付けねばならん
これから忙しくなる
政秀、お前には苦労を掛けるかもしれぬが、織田家のために尽くしてくれるか?」
「もちろんでございます
この平手政秀、この命を織田家のために、信長様のために賭すことをお誓いいたします」
「心強い
頼りにしておるぞ、政秀」
那古野城の一室で固い主従の絆を確認し合うかのように、首を垂れる平手政秀を無言で織田信秀は見つめていた。
誰もいない二人だけの一室での会話。
この会話は誰にも知られることはなく、故に歴史に刻まれることもない。
しかし織田信秀の思いと平手政秀の忠誠はこの会話を経た後にも、確かに織田家の礎として生きるのだった。
後継者指名の集まりになど興味はないと言うかのように、重要な要件が済めば早々に城へと引き返す織田信長一行。
濃も早々に帰ることとなり、最低一泊はして市と遊べると思っていたので早急な帰還を残念に思っていた。
「まったく、父上も何をお考えなのだろうか」
自らが後継者となったことに不満を抱いているのか、織田信長は絶えず愚痴のような言葉を漏らし続ける。
「後継者と名指しされたのは不満ですか?」
「いらぬしがらみが増えるだけではないか」
「そうですか
確かに殿にとってはそうかもしれません
ですが、織田家にとってはそれだけではないと思います」
「なに?」
濃は嫁いでから見てきた織田信長という人間について考え、織田信秀の決定に一定以上の理解を示していた。
「民とは国の礎です
いかに強力な軍隊を持っていても民の意に反していれば国は長続きしません
逆に弱小国でも民と一体化すればそう簡単に国が亡ぶこともありません」
「どういうことだ?
何が言いたい?」
「民意というものを侮るなかれ、です
日々遊び歩いているように見えますが、殿はその遊びを通して民衆の生活をよく見ております
お父上様はその点を重視したのだと思います
それに尾張は未だ多くの争いを抱えています
家中をまとめられても民衆を敵に回せば元も子もありません
この世で最も大きく国力を損なうのは一揆ですから」
「ワシの望まぬ結果ではそれでも長続きするかどうかわからぬぞ」
「なりたいからなるのではなく、なるべくしてなるのではないでしょうか
今は織田家の当主としての力はなくとも、家臣や民衆に支えられながら多くを学べばよいと思います
それこそ、殿が思い描く国を作ることもできましょう」
「ワシが思い描く国・・・か」
濃の言葉に信長は珍しく深く考え込んでいるようだった。
「帰蝶様は若にとって最良の伴侶でございますな」
森可成の褒め言葉に濃は少しむず痒い気持ちもあったが、信長の心境に少しでも変化が見られそうな場面もあってかその言葉は率直にうれしかった。
難問も少なくはないが、濃には先の展望が少し見えてきた気がした。
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