第12話 尾張のうつけ者 織田信長
縁談の話がまとまったことで後は祝言の日取りを決めてその日を待つだけという状況にこぎつけた。
その日が来れば斉藤家と織田家の強固な同盟が実現し、濃が望む対今川義元の布陣の礎が築き上げられる。
斉藤家は織田家と同盟を強固に結んだことと土岐の勢いが衰えたことにより、国内情勢が整えば美濃を完全に平定することはそう難しいことではなくなった。
ならば濃が次に着手するべき事柄は今川義元が進軍してくる際、最大の戦場となる尾張国内の戦闘準備に他ならない。
「帰蝶様?」
「うわぁっ!」
そんな状況の中、稲葉山城内で人目を盗んでこそこそと廊下を忍びのように歩く濃を見かけた侍女が声をかけてきた。
「あの・・・どちらへ?」
「ちょっと外へ出かけようかと思いまして」
「外・・・で、ございすか?」
「こう、ずっと城の中にいると息苦しいのです
ですから蝶という名を持つだけに羽を伸ばしに行きたいわけです」
濃は満面の笑みの中に懇願するような表情が入り混じっている。
それを知ってか知らずか、侍女は即座に濃の願いを突き放す。
「いけません
婚姻も決まってこれから大切な時期なのです
そんな時に単身で外へ行こうなど何をお考えなのですか」
「そ、そんなに怒らないでください」
もともと濃はこの時代に来る前からよく屋外を出歩いていた。
アウトドア派、というわけではない。
あくまでも買い物など仕事の一環で屋外を出歩くケースが多かっただけだ。
しかしそれが適度なストレス発散と気分転換になっていた。
もちろん歩く場所によってはストレスどころかトラウマさえ植え付けられるような時代と世界であり、また危険が伴う地域なども多く歩ける場所も限られてはいたのだが、それにさえ気を付ければ屋外の散策は少女にとっては欠かせないものであった。
知らない間に自らのライフスタイルというものが決まっていたわけであり、婚姻を前にした姫として城の中に籠っているのは彼女の性に合わない。
「では城内を散歩することで我慢します」
がっくりと肩を落とした濃は稲葉山城内の散策という、すでに済ませてしまっていることでなんとか窮屈な思いを発散しようとしていた。
稲葉山城内を歩く濃は威勢のいい声に導かれるように城内の開けた場所へとたどり着く。
そこでは斉藤家家臣団の重臣をはじめ、武闘派の武将達が剣や弓や槍の稽古に励んでいる。
「おぉ、これは帰蝶様」
濃の登場に皆が訓練の手を休めて一礼する。
「私のことは気にせず続けてください」
濃の言葉にもう一度一礼をして皆が再び稽古を始める。
「・・・何とも猛々しい光景ですね」
「お褒めに預かり光栄でございます」
濃の傍らで訓練をする者達に大きな声を出している一人の男は、斉藤家家中の中でも指折りの実力者として知られている稲葉良通。
「何人かは目の見張るものもおりますがまだまだ甘いですな」
「手厳しいのですね」
「なに、戦となれば日々どれだけ己を鍛えていたかが肝要となります
これは斉藤家の先のことを考えれば当然のこと」
「なるほど、手厳しいとは思いますが心強いお言葉ですね」
濃の言葉に稲葉良通は少し照れたのか一瞬だけ視線をそらした。
「・・・そうですね
そんな稲葉殿に少々お願いがあるのですがよろしいでしょうか?」
「お願い?
何を頼まれるのかは存じませぬが、できることならこの稲葉良通
全力でご期待に応える覚悟でございます」
「ありがとうございます
では早速なのですが・・・」
濃は小声で稲葉良通に耳打ちするように伝える。
「はぁ?
帰蝶様?
正気でございますか?」
「しーっ、静かに
聞かれると止められてしまいます」
「しかしいきなり尾張に行く護衛をしろと言われましても・・・」
「ダメでしょうか?」
「帰蝶様、今は重要な時期にございますので・・・」
「はぁ・・・
ダメですか」
濃はがっくりと肩を落とす。
「籠の中の鳥と同じで蝶も籠の中にずっといるのは窮屈なのです」
「ふむ・・・」
濃の率直な気持ちを聞いた稲葉良通は少し考え込む。
そして、なぜか濃の願いを少しだけ叶えてくれることになった。
「わかりました
尾張までとはいきませぬが、国境までなら私が何とかいたしましょう」
「本当ですか?」
「帰蝶様のお気持ちもわからなくはございませぬ」
「気持ち?」
「尾張に行く、つまり織田の嫡男が気になるのでしょう
噂に聞く大うつけとの婚姻が不安で尾張まで様子を見に行きたい、そのお気持ちは重々理解できます」
「・・・はい?
大うつけ?」
「それではすぐに支度をしてまいります」
稲葉良通は濃を残して準備をし始める。
「・・・大うつけ?」
出立の準備に取り掛かる稲葉良通の姿を呆然と見ながら、濃は彼が言った言葉を復唱するように言葉を漏らす。
濃は結婚することによる斎藤家と織田家の強固な同盟のことと結婚した場合の妻としての在り方や嫁と言う役目の内容しか考えておらず、結婚した相手との生活のことについてはそこまで気にしていなかった。
むしろ政略結婚に自ら臨むという選択肢から相手のことはあまり気にしてはおらず、稲葉良通に言われて初めて相手のことを意識したくらいだ。
その初めて相手を意識した言葉が「大うつけ」ということで、濃は今まで脳内の占める割合が一番であった歴史改変を結婚相手の人物像が初めて超えるのだった。
出立の準備を終えた稲葉良通の馬に濃は同乗させてもらい、その周囲を護衛の馬に乗った若者たちが固める。
稲葉良通と若者数名の護衛と共に濃は美濃国内の尾張との国境へと馬を走らせていた。
「あの・・・大うつけとは・・・」
稲葉良通の馬に同乗している濃は先ほど聞いた大うつけの話を聞く。
「おや、姫様
尾張の大うつけに話が聞き及んでおりませなんだか?」
「小耳には挟んではいたのですが、実はよく知りません」
「ふむ、知っている限りをお話いたしますと・・・
尾張の大うつけの話は尾張の近隣諸国では有名でございます
常に城を空けては領国内を馬で駆け回り、畑で盗みを働き、街の若者とケンカもするような者でございます」
「なるほど、大うつけ・・・ですか」
濃は今回の婚姻の話を飲む際に、織田家の誰に嫁ぐかという話を明確に聞き出していた。
その際にわずかではあるが今川義元に敗れることで歴史に名を遺した織田信行ではなく、新たな歴史を作るという意気込みも込めてその兄である織田信長へと嫁ぐことで合意した。
そもそも織田信秀の命令を受けて婚姻の話を持ってきた平手政秀が織田信長の守り役を務めていたということ、そして織田信長が織田家の嫡男であるということなども踏まえ、家中の政治的な意味合いも込みで織田信長との縁談が進められたのだろう。
その政治的な思惑はさておき、織田信長との婚姻の話は濃にとっても渡りに船の様な話であったため、相手を変えることを望んだり織田信長を拒んだりする選択肢を考えるということはなかった。
少女は少しでも自分の知る歴史を消し去りたいと考えているのがよくわかる。
しかしその時点で濃は織田信長の噂を聞いたことがあるくらいでほとんど知りはしなかった。
そもそもこの時代の人間ではないことと、織田家は今川義元にあっけなく敗れ去る歴史しかない。
ましてやその家督争いで弟に敗れた兄の詳細な歴史的な史実や逸話など知るはずもなかった。
故に家督争いに敗れたのなら勝てばよい、それくらいの甘い考えでいた。
しかしここにきてなぜ家督争いで敗れたのかを察し、考えれば考えるほど話を聞けば聞くほど事細かに書き連ねられるようになってしまったのだった。
「それでは家中の者達も信頼を置けないでしょうね」
「その通りでございます
聞くところによれば家中の多くは次の織田の後継者には弟の信行がふさわしいと推挙する者が多いと聞きます
しかし家督は嫡男が継ぐものとされております
故に兄の信長を推す声もあり、織田家家中は後継者争いで二つにわかれております」
「外に敵、国内に謀反、家中で後継者争い・・・最悪ですね」
現在の織田家の状況は負の連鎖のオンパレードと言ったところだった。
「使者としてやってきた平手政秀は嫡男織田信長の守り役でございます
領主の織田信秀は嫡男の信長に後を継がせる気なのでしょう
そうでなければ二男の信行の守り役が使者として来ていたことでしょう」
「つまり嫡男が斉藤家との繋がりの重要な役目を婚姻同盟と言う形で担うことで、織田家の跡継ぎにふさわしいと家中に示すことも今回の婚姻の目的の一つということですね」
「さすがは帰蝶様
聡明であらせられますな」
様々な思いや利害が交錯する斉藤家と織田家の婚姻による同盟。
濃が思い描いている理想には近づいてはいるものの、障害は少なくはなさそうだと一つ溜息が漏れるのだった。
稲葉良通に連れてこられたのは幅の広い大きな川。
そこがどこだか言われなくても濃の頭の中にはその川の知識がある。
この戦国時代から遠い濃が生まれ育った時代になってもこの川は存在する。
「この木曽川を渡った向こう側が織田の領地、尾張になります」
幅の広い川は渡るだけでも手間と時間がかかる。
よって斉藤と織田が真っ向から争う時は多くがこの川を隔てて向かい合う形になる。
渡河する敵を矢で射貫くのは通常の野戦より容易い。
よってこの木曽川は美濃と尾張を隔てる国境線となっており、お互いにとって天然の要害となる堀でもあるのだ。
「向こう岸へ渡るには船が要りそうですね」
「水位が下がっている時であれば浅い場所を探せば歩いて渡ることも可能です
ですが安全を考えれば徒歩以外の渡河する方法を考える方が良いかと」
木曽川が戦場になれば悠長に川を渡るのに濡れない方法を探している暇はない。
稲葉良通の言葉はそういった経験則から出たものだった。
「やはりここを渡るのは・・・」
「申し訳ありませんが容認できませぬな」
即答で稲葉良通に渡河を禁じられた。
濃はどうしても一日でも早く尾張の様子を見ておきたかった。
しかしそれはどうやら今日叶うことはなさそうだ。
「ですが川を見ることができてよかったです」
「羽は伸ばせましたかな?」
「はい、それと川を渡るためには橋、もしくは船か浅瀬を探すなどの手間も必要だというのもわかりました
同盟が強固なものとなれば橋一つで両国の関係性はもっと深まりますし、万が一の場合はこの川を天然の要害とすることも不可能ではなさそうです」
人の往来は国の成長に一役買う。
金を落とすことで経済が回り、人が移動することで交流が生まれ、交流から新たな発明や発想が誕生する。
近隣の国と言っても国民性や常識が大きく違ったりする。
それらを国の成長につなげるための良い循環を生み出すこともまた、濃の目標を達成する一つの要因となる。
それらが全て成った時、濃の生まれ育った世界とはまた違う日本がそこにあることだろう。
しかしそれは全てが長所だけしかないというわけではない。
戦国の世であれば、移動が容易いということはいつでも外敵に侵入される危険性を帯びているということ。
長所は見る角度を変えれば短所となるが、短所もまた見る角度を変えれば長所となる。
その典型例が目の前にある木曽川で在り、斎藤家と織田家の同盟締結後にはこの川をどのように扱うかが重要になりそうだ。
今から濃の頭の中は忙しく考えがめぐらされている。
頭の中は忙しく働きながらも、時がゆっくりと流れている中で木曽川を眺めている濃と稲葉良通、そしてその護衛達。
静かな川のせせらぎは時の流れを忘れさせるほど穏やかだったが、その静かな空間を完全に破壊するような轟音が川の対岸で鳴り響いた。
「この音は・・・」
濃はその音に聞き覚えがある。
そしてこの時代にそれは日本に伝来してきたことも知識にある。
稲葉良通の馬に乗せてもらっている濃の視線は音が鳴った木曽川の対岸へと向けられていた。
「鉄砲の音ですな」
稲葉良通も音がした木曽川の対岸に目を向けている。
濃の頭の中には銃声の記憶がある。
それは決していい記憶ではない。
銃声が鳴り響く時は何かしらの悪意や殺意が満ちていることがほとんど。
そして銃器を持つものは持たない者よりも優位に立つ。
大航海時代に銃器を持たない新大陸へと上陸した冒険者などと呼ばれている彼ら、その実は征服者であるコンキスタドール達がそのもっともな例に当てはまると言っていいだろう。
文化文明の進化の遅れは中世以降最悪の結果をもたらす。
そう考えれば、今この時代に日本国内で銃声の音が鳴り響くのはそう悪いことではない・・・のかもしれない。
「あの方は?」
木曽川の対岸にいる火縄銃を持った若い男。
まるでボロを纏っているのではないかと思えるほど汚れが目立つ着物をさらに着崩している。
一見すればただの貧困者にも見えないことはないが、火縄銃を所持していることから考えてそれはなさそうだ。
この時代の最先端の火器であるマスケット型の銃は一丁だけでも恐ろしく高い価格設定がなされている。
どのような経緯であれ、それを所持して弾を撃てるだけで只者ではない。
「私も初めて見るので確証はございませぬが、おそらくあれが織田の大うつけでしょうな」
「あれが?」
濃は驚きを隠せず一度大きく目を見開く。
その眼に映るのは侍や武士とはどこか一線を画した存在。
いわば『異端者』だ。
対岸にいる若い男は何やら周囲に声をかける。
すると数人の若い男が草むらなどの陰から現れ、先ほどまで火縄銃の銃口が向いていた方向へと駆けていく。
そして声を張り上げて高々と掲げたのは狩られた鳥。
織田の大うつけと思われる男は国境で恐れることなく、対岸にも聞こえる銃声を気に留めることもなく、火縄銃で自由気ままに狩りを楽しんでいるのだった。
「異端者は常に味方が少ないものです
ですが環境さえ整えばこの世で最も大きな存在となり得ます」
「は・・・はぁ?」
稲葉良通は濃が言った言葉の意味がまるで分からなかった。
「あの方と直にお会いする日が楽しみになってまいりました」
異端であるが故の弱点を克服することさえできれば状況は大きく変えられる。
濃はもともとあった不安が一回り大きくなるとともに、それ以上の新たな希望を胸に抱くのだった。
稲葉山城に戻った濃は自室で一人静かに次の段階への思考に入っていた。
「これで織田家と斉藤家の同盟関係は決定的になりました
問題は織田信秀死去後の家督争いですが斉藤家との同盟は有効ですから、今川義元に敗れた弟の織田信行が家督争いで挙兵する確率は大きく下げられるはずです
そこで兄の織田信長に主君としての器量があれば完璧なのですが・・・」
尾張の大うつけと呼ばれている織田信長がどれほどの異端者なのか、それともただの向こう見ずのバカなのか、それは会ってからでないとどうしても判断がつかない。
しかしどんな道具や状況も経ち回り次第使い方次第でいくらでもやりようはあるもの。
人間社会が構築されている以上その常識から外れるような事柄はまず起こり得ない。
多くの書物や社会勉強から培った少女が持つその常識が心の支えでもあった。
「不確定要素は今のところそこだけでしょうか
もっとよく考えて何か出ればその都度対応策を考えるというのが普通ですが、後手を招くまずい展開とならないかが心配ですね」
今はなくとも状況が変わって見えなかったものが見えてきたり、新たな状況や局面に入って欠点が浮き彫りになることは多々ある。
要はいついかなる時も臨機応変にその状況に対応できるかどうかが肝要なのだ。
「帰蝶、少しいいか?」
「・・・あ、はい」
自室で考え込む濃の元に斉藤道三が訪ねてくる。
「お呼びいただければこちらから伺いました」
「いや、それには及ばん
呼びつけるのはあくまで斉藤家の当主である時だけだ」
その言葉で濃の目の前に現れた斉藤道三の用事が私用だということがわかる。
「・・・なんと言うか、すまぬな」
「え?」
斉藤道三の私用の第一声は思わぬものだった。
「何も覚えておらぬということをいいことにこちらの都合よく扱ってしまった」
どうやら濃を織田家との婚姻同盟に差し出したことを悔やんでいる部分があるようだ。
「戦国の世で拾われた身です
これはご恩返しです」
「それはすでに先の戦いで果たしておろう」
加納口の戦いで自軍の被害を最小限にとどめたまま、織田軍を完璧に叩き潰した。
さらに増援としてやって来ていた朝倉勢が引き返すことで美濃の安全は確保されるという結果まで手に入れたのだ。
それは濃のおかげであって他の誰の功績でもない。
それだけでも十分恩返しは終わっていると斉藤道三は考えている。
「いえ、私は命を救われましたのでその命は斉藤家のものと考えております」
「それは嘘であろう」
斉藤道三が濃の言葉を否定した。
それは先ほどまで気遣いと優しさが見えていた義父の斉藤道三ではなく、斉藤家当主の斉藤道三としての目利きを用いた直感が吐き出させた言葉だった。
濃は当然出たその言葉に一瞬だけ、小さなその体がビクッと震え心臓が大きく鼓動する。
「帰蝶、そなたはいったい何を考えている?
何が目的だ?」
斉藤道三の追及に濃は即座に返す言葉が見つからない。
彼はここに私用としてやってきた。
よってこの場で濃が何を話そうと濃の身に危険が及ぶことは少ないはずだ。
しかし事と次第によっては斉藤家と織田家の同盟が強固なものにならない可能性もある。
そうなれば濃の思い描く理想の形が脆くも崩れ去る確率が上がる。
それは運命や歴史を変えることができず、ただ歴史に記憶する価値がない人物の存在の一行が足されるかどうか以外に変わることのない未来がやってくる要因となる。
「・・・未来を・・・見ました」
「なに?」
濃は言葉を選びながら慎重に話を始める。
あくまで疑われたり敵視されたりしないように、しかし信頼関係や絆は強固な状態で今後も維持できるように、濃は頭をフル回転させる。
「過去を失う代わりに未来が見えました
その未来は私が受け入れられるものではありませんでした
だから、その未来を避けるために生きようと誓ったのです」
与太話で笑い飛ばされてしまうかもしれない。
異常な人物としてまともに取り合ってくれないかもしれない。
もっとまともな嘘もあっただろう。
しかし濃はなぜかこの場で完全な嘘はつけなかった。
しかし完全な真実も話せない。
よって自分が許せるまでの嘘と話せる真実を織り交ぜて次の言葉を続ける。
「私には過去がございません
よって受け入れられない未来を避けることに全力を注ぎたいと思っています」
「・・・帰蝶が見た未来とはどのようなものだ?」
当然斉藤道三はそこを聞いてくる。
濃もそれは覚悟しており、その先も当然考えられていた。
「隷従と支配・・・とでも言いましょうか」
「隷従と支配?」
「多くの人は少数の人に隷従します
それは我が国も例外ではございません」
「我が国・・・美濃がか?」
「いえ、この日の本の国全てです」
「な・・・んだと?」
濃の言葉に斉藤道三は一瞬言葉を失った。
しばらく沈黙が続く。
その沈黙を作ったのは濃であり、持続させているのは斉藤道三。
しかしその時間はそう長くは続かない。
「考えたこともなかった
この日の本全体のことなど・・・」
この時代、群雄割拠の戦国時代の常識は自分の領土や国土が全て。
特に島国の日本は過去の歴史を見てもほとんど外国からの攻撃にさらされていないため、多くの思考がまずは国内で完結することが多い。
言葉の全く通じない異民族との戦いなどは基本的には完全に想定外であり、戦国大名が言う天下統一とは日本国内の実権を完全に握ることにほかならない。
海の向こう側は考えに含まれていないのだ。
「誰かに話して信じていただけるとは思っておりませんので、ただ何も覚えていないとしか言いませんでした
それをお許しください」
濃は深々と頭を下げる。
その姿を見た斉藤道三は一つ息を吐く。
「帰蝶、頭を上げよ
そなたの判断は何も間違ってはおらぬ」
常識では考えられないことをあえて言わなかったというのは何もおかしなことではない。
斉藤道三は信じるか信じないかではなく、濃がどこまで腹を割っているかという点で彼女を観察していた。
そして完全に信用できるとは言い切れなくとも、裏切るような行動に出る人間ではないということをその目と経験が確信めいた答えを出していた。
「そなたの言う最悪を避けるために斉藤家にいるとするならば、いかにしてその最悪を避けるというのだ?」
「・・・まだ欠点のない答えは見つかっていません
ですが大方の考えはまとまっています」
「それを申せるか?」
「他言せぬとの確約をいただけるのであれば・・・」
濃が思い描く最悪を回避するシナリオは未だ起こり得ていない未来を知っているからこそ対応することができるもの。
よってその未来が広まってしまえば、関係者の誰かが小さな行動を一つ変えるだけでもその計画は役に立たなくなってしまうかもしれない。
よって他言無用という確約が欲しかった。
「義理とはいえ親子であろう
わしを信じよ」
「・・・では、少々お時間をいただきたく思います」
濃はゆっくりと、しかし真剣に、最悪の未来を脱するきっかけとなる考えを話し始めた。
今川義元は隣国の武田と北条の三国で同盟を結び、背後に敵がいなくなった状態を作り上げて上洛を目指す。
その際に通過する行軍路は尾張から美濃へ、そしてそこから近江を通って京へと突き進む。
その間にまともに対抗できるのは難攻不落の堅牢な城を持ち、豊かで広い美濃という国土を持つ斉藤家のみ。
よって斉藤家を主軸に対今川義元の作戦を作り上げる。
そのためにはなるべく今川義元を勢いに乗せてはいけない。
よって尾張の陥落はどうしても避けたい。
美濃での防衛戦で美濃に同盟を結んだ他国の兵士を呼び込んでも、尾張陥落後では勢いに押されてしまう可能性がある。
戦力に大差がありどう転んでも劣勢でしかない織田軍の力は今川義元の力をそぎ落とす意味を持たず、大した役にも立たずに次なる侵攻を許してしまうことになる。
そうなれば木曽川を利用した地の利の優位は大した優位ではないのだ。
よってまず尾張で今川義元を迎え撃つ必要が出てくる。
そこに大軍を派遣できるのは隣国で兵力がある程度確保できて移動も容易い斉藤家しかいない。
それに同盟国の援護、そして自国領内での戦闘回避は家臣団を説得するのに十分すぎる理由となる。
尾張は開けた場所が多いとはいえ山河も確かに存在し、国境沿いは山や丘などもあり地の利も十分に確保できるはずだ。
まだ詳細な地形は把握できていないが、これから織田に嫁ぐことで完全に地形を把握することでその地の利を十分に生かすことができる。
そうすれば地の利を生かす戦術に加え、同盟国同士がお互いに手を取り合って戦えば士気の上昇や人の和の形成につながる。
近代的な兵器がないこの時代は特に、戦いに大事なのは『天の時』『地の利』『人の和』と言われている。
今川義元が三つのうちのどれだけを手にして上洛を目指すかわからないが、地の利を自らの手にしたまま人の和も勝ることができたなら、いかに天の時を得た大軍でも対抗しすることが可能なはず。
確実な勝利などないとしても、少しでも勝ちを確実に近づける努力は怠らない。
そのためにはさらに地固めや兵力の増強、国力の増大を最優先事項で進める必要があり、濃が織田侵攻を棄却して美濃国内の安定を狙ったのもそれが理由。
そうすることで一度は確定してしまった運命や未来を相手取っても必ず勝機は見えてくる。
濃は自身の頭の中でそう確信しているのだった。
「・・・そうか」
濃の話を聞いた斉藤道三はまたしばらく沈黙の時を作り出す。
しかしそれもそう長くは続かない。
「女子の身でそれを背負うてしまったか」
まるで運命とは残酷なものだと言いたげな斉藤道三。
「尾張の大うつけに何ができるかはわからぬが・・・
帰蝶がその決意を持つのであればわしもそれに応えねばなるまい」
「え?」
「織田家との同盟が確実なものとなればわしはすかさず美濃を平定する
そして国内を固めて有事に備えるとしよう」
濃にとってそれは嬉しい言葉だった。
見知らぬ時代と場所にやってきて孤軍奮闘を覚悟していたとはいえ、いざ実際にその戦いに身を置くとつらいことも多い。
それを完全ではなくとも理解してくれる人がいてれくれる。
これ以上心強いことはない。
「信じて・・・いただけるのですか?」
「まぁ半信半疑でもある
しかし、わしの目には少なくともそなたがわしを騙そうとしているようには見えぬ」
商人時代から下剋上と出世を重ねて戦国大名に名を連ねた斉藤道三。
その人を見る目には確かな実力がある。
「ありがとうございます」
濃は感謝の思いから深々と頭を下げた。
「これ、止めぬか
親子の間にそのような堅苦しい挨拶は無用だ」
斉藤道三は濃の肩に触れて下げた頭を上げさせる。
そして小柄でまだ子供の濃の頭を優しくなでてやる。
(あっ・・・温かい・・・)
斉藤道三の手のぬくもりに濃は心を動かされるものがあった。
幼少の頃より厳しい国定奉公人になるための訓練を受け、認定されるや否や異国での従者としての生活。
その間に身近な人の体温というものとの交わりが少なくなっていた。
斉藤道三は義理とはいえ親子の間柄になった相手。
その手の温もりは濃の心を優しく包み込んでくれているかのようだった。
長らく忘れていた実の親の温もりというものはこんな感じなのだろうかと、濃は少し涙がこぼれそうになるほど嬉しい瞬間だった。
「そなたはそなたがやれることをやればよい
わしはわしのできることを成し遂げるまでじゃ
その結果がそなたの見た最悪を避けているとよいな」
「・・・はい」
隠していた思いがあるまま義理の親子となった。
しかし今日この瞬間、実の親子同然の固い絆のようなものが二人の間に結ばれることとなったのだった。
それからしばらくして選ばれた吉日。
濃は稲葉山城内で出立の前に行われる「おいとま請いの儀」を終え、「出立の儀」として織田家からやってきた迎えの者達に籠で運ばれて尾張へと向かう。
長々と籠に揺られてようやく尾張に到着した濃。
尾張那古野城の一室を与えられ、そこで今日の移動の休息を取っていた。
「さて、明日が婚礼の儀となるわけですが・・・」
濃にとってこの斉藤家と織田家の同盟は望むべき結果だ。
この二国の強固な同盟こそ、理想の未来を作り上げる第一歩となるはずなのだ。
しかしそこに至るまでに一つ、どうしても越えなければならないことがある。
「確か婚礼の儀の後は固めの儀でお酒を酌み交わし、そのあとは宴となりますので要は宴会が開かれるわけですね
そしてその後・・・」
濃は部屋の中で一人、顔をうつむかせて耳まで真っ赤に染めている。
「お床入りの儀・・・ですよね」
結婚した男女が一つの布団で眠る、いわゆる初夜である。
お床入りの儀の翌日には織田家の重要な家臣達の挨拶があるお披露目の儀があり、それまでに夫婦としての契りを結ぶことになるのだ。
「か、覚悟はしていたはずなのに・・・急に心臓が・・・」
考えれば考えるほど心臓の鼓動が早くなっていくような気がする。
火照った顔や耳の熱は一向に冷めず、明らかに今の自分が正常でないことが自分自身でもよくわかる。
「脱ぐ・・・
異性の前で脱ぐ・・・
それどころか夫婦・・・
あわわわ・・・」
思考停止に陥りそうな濃は覚悟を覆して逃げたいという思いと、覚悟を貫き通さなければならないという思いの板挟みに右往左往していた。
「お、落ち着かなければ・・・」
大きく深呼吸をしながら、逃げたいという思いを覚悟を貫き通すという思いで上書きしようと努力する。
本能を理性と信念で抑え込んで再び覚悟を決めようとしていた時、部屋の外が何やら騒がしい。
「若様!
婚礼の儀は明日故今宵は・・・」
「平安の時代でもあるまい
夫婦となる相手の顔くらい見させよ」
ドタバタと聞こえる足音が部屋に近づいてくる。
そして部屋の前でその足音が止まったと思いきや、部屋と廊下の仕切りとなる障子戸が何の躊躇いもなく勢いよく開かれた。
『バンッ!』という音と共に勢いよく開け放たれた障子戸。
廊下と部屋を分け隔てる障害は取り払われ、一人の青年と濃はまっすぐ目があった。
もともとラフな格好ともいえるほど身軽な着物をさらに着崩しており、どう見ても一国の主の後を継ぐ嫡男とは思えない。
「ほぉ、お前が道三の娘の帰蝶か」
「では・・・あなた様が織田信長様でございますか?」
まるで近くに用事があったからついでに友達のところに寄った、それくらいの気軽さでこの時代の一般常識を軽々と打ち破ってくれた。
型にはまらない異端児というだけでなく、思い立ったら即行動となる豪快さも持ち合わせているのだろうか・・・と、濃は織田信長を観察する。
「・・・ふむ
まぁ、これならよいか」
「・・・はい?」
織田信長の突然の言葉に濃は意表を突かれた気がした。
「容姿は悪くない
醜女であれば明日は狩りにでも出かける予定であったがよかろう
平手の爺の言うとおり婚礼の儀に出てやろう」
「は・・・はぁ?」
この政略結婚は自国を守るためのものだ。
それを妻となる女の美醜と気分次第で決めるなど常識を逸脱しすぎている。
「しかしあの蝮とも呼ばれる道三の娘にしては器量よしと聞く
意外過ぎて今日は一本取られたな」
「ま、蝮?」
「城に引きこもっていると思いきや一気に打って出て敵を蹴散らす
的確だが正々堂々というよりもどこか陰湿な気配からそう呼ばれておるわ」
(・・・そ、それは私の考えた戦術ではないですか
義父上様、申し訳ございません)
思わぬ斉藤道三の評価を耳にして濃は自分のせいだと心の中で謝罪する。
そんな彼女をよそに、織田信長一人笑いながら濃の部屋の前から立ち去っていった。
彼が立ち去った後でここへ織田信長の到着を許してしまった侍女達が濃に頭を下げて謝罪をするが、そんなことは濃にとってはどうでもよかった。
「尾張の大うつけ・・・ですか
想像をはるかに超えていますが・・・今後、大丈夫でしょうか」
織田信長という人間と初めて面と向かって言葉を交わした。
想定していた異端者としてのレベルがいくつかあるが、それでもこの時代の常識から考えれば一族や領土を重視する考えに重きを置かれるはずだった。
しかしその想定を一瞬であの男は覆してしまった。
それはいろいろと先を見据えて考えて行動する濃にとって、少なからず不安要素となるものであり、濃の望む未来へと導いても素直についてきてくれるのかどうか、この局面に至って予想を超える異端ぶりに悩みが増えるのだった。
翌日、那古野城に集まった織田家の親族達との顔合わせの宴が無事終了した。
しかし親族と言っても全員が来ているわけではなく、織田信長と近しい親族は織田家当主の織田信秀のみ。
顔合わせの宴はそもそも荒れる様子がないまま始まり、そのまま何事もなくすんなり終わっただけである。
そしてその後、覚悟はしていても踏ん切りがつかないことをしなければならない時がやってくる。
夫婦の契りを交わす時間が刻一刻と近づいてきているのだ。
那古野城の一室。
すでに寝間着に着替えて部屋で待つ濃の心臓は今まで感じたことがないほどバクバクと大きく拍動している。
緊張がこれほど極限にまで達するのは元いた時代でもなかった。
なぜなら今までの仕事として様々なことを覚悟して受け入れるのとはわけが違う。
仕事という強制性が皆無な中、いまだ恋愛すらしたことのない少女が一大決心から婚姻に踏み切ったのだ。
決意とは裏腹に自らの身に近づいてくる妻というものへの変化はそう簡単に受け入れられるものではない。
「いや、はじめだけ乗り越えれば後は何とでもなるかもしれません
・・・というか、もし本当に子供でもできてしまったらどうしましょう
この時代では好き嫌い関係なく政略結婚が普通だったのですから致し方ないとはいえ子供となると・・・
私の時代の結婚観や貞操観念は捨てなければならないのですがそんなこと簡単にはできませんし、子供ができて生むことにこの時代の医療技術では不安も・・・
いや、タイムマシンを使って子供ができる前に戻るという手段もあるのですが、しかし子供ができて愛着などもあったり・・・」
がっくりと肩を落としながらどうすれば自分が納得できるのか、そもそもどうすれば相手を受け入れられるのか、最終的にどうなるのが最も良いのか、いろいろ考えはするものの頭の中がすっきりするときは訪れない。
完全に混乱状態に陥ってまともな思考を保てない少女の悩みは尽きない。
「子供を産まなければ女として出来損ないと言われても致し方のない時代です
肩身の狭い思いはしたくありませんがそもそもいきなり子供となると心の準備ができていません
出生率よりも生存率が重要ですから子供を何人も生む女が重宝されるわけですから一度では終わらないでしょうし・・・
そうなると何度も夜を一緒にするわけで、それまでに慣れるのでしょうか
しかし・・・」
頭を抱えて敷かれた布団が視界に入るたびに頭を振る。
間もなく行われる床入りの儀を想像するだけで羞恥心が最高潮へと達する。
頬から耳まで真っ赤に染めながら落ち着かない濃。
そんな彼女がいる部屋の障子戸が昨夜と同じように一気に開け放たれる。
「待たせたな」
「いえ、待ってませんから!」
現れた織田信長の一言に濃はなぜか即答していた。
「ん?
少々時がかかったと思ったがそうでもなかったか?」
「あ、いえ、待っていないのは時間ではありません・・・」
「なんだ?
よくわからん奴だな」
布団の傍に座って硬直する濃の隣に全く動揺していない織田信長がドカッと座り込んだ。
この日、二人の距離はもっとも短く、そして初めてその体が触れた。
心臓は高鳴り、状況はもう後戻りができないところにまで来ている。
それにもかかわらず踏ん切りがつかない。
羞恥心以外にも恐怖に似た感情をどう処理すればいいかわからない濃は、もう間もなくといったタイミングで織田信長の傍らから俊敏な動きで距離を置き、床に額が着くほど深々と頭を下げる。
「どうした?」
「申し訳ございません
覚悟したつもりでしたが、まだ心の準備ができておりません」
このような言葉が受け入れられるとは思っていない。
しかし隠したまま相手に不快な思いをさせるくらいなら正直に言ってしまえば、その後にことが起こっても事前に言っておいたことが生きる。
濃の本心としては決意の時を先延ばしにしたかったが、それは叶わずともなんとか自分が掲げる目標の達成だけは守ろうと、とにかく不仲にだけはなるまいと考えに考えた末の言葉だった。
「あの蝮の道三の娘も普通の女子・・・というわけか」
覚悟できていないということを頭を深々と提げて正直に言った少女を前に織田信長は何を思ったのか、少女に迫る様子もなければ夫婦としての契りを結ぶように説く様子もなく、何かを考えるようにしばらく沈黙を守る。
そして彼が次に発した言葉に濃は驚いた。
「そうか、それなら致し方あるまい
今日は堅苦しい席で疲れたであろう
もう寝るがいい」
「・・・え?」
しかし思いの外に濃の意見はあっさりと受け入れられた。
織田信長は敷かれた布団に寝転がるだけで、特に何か行動を起こそうという動きが見られない。
「き、気に障りましたか?」
「気に障ることなど何もなかろう
気が進まぬことをしたりさせられたりする
それが気に入らぬのは当然のことよ
夫婦の契りなどいつでもよかろう
心の準備とやらができたら申すがよい」
織田信長はそういうと仰向けの姿勢のまま大きなあくびを一つする。
「しかしまだ宵も深くはない
夫婦の契りをせぬ間、何か暇つぶしに話でもするか」
「は、はい」
濃にとって安堵の瞬間だった。
それと共に尾張の大うつけと呼ばれる織田信長は意外にも心優しい人間だったりするのではないか。
そう思えた瞬間だった。
「帰蝶、何か話せ」
「な、何かと申されましても・・・」
「ならば何を話すか考えをまとめておけ
先にワシが話そう」
「あ、ありがとうございます」
「そうだな、では少し前に領内の村へ立ち寄った時だが・・・」
織田信長との床の間での話は思いのほか楽しく弾む。
眠気に襲われ話が間延びしてくる頃にはもうかなり時間が経つほどだった。
恋愛というものに経験がない濃だったが、話しながらこの男ならいずれ自らの体を許せるようになるかもしれない・・・と思えるほど、この一晩の時間は楽しく有意義なものであった。
夫婦の契りを結ぶことなく夜が明ける。
朝日が差し込む中、夫婦というよりもどこか兄弟姉妹の間柄を思わせるように仲睦まじく眠っている。
朝日に瞼を刺激されて濃が起きた頃、織田信長はすでに起きていた。
「お、おはようございます
それと・・・昨夜は申し訳ありませんでした」
「気にすることはない
望むことと望まざること、多くはあれど望むことばかりが手元にあればよいと思うことは少なくなかろう」
濃の気が進まない夫婦の契りは早々に後回しにされた。
それは彼にも何か望まない何かを強要されていることがあり、それ故の気遣いだったのかもしれない。
「さて、帰蝶
準備せよ」
「お披露目の儀の準備にはまだ早いかと思いますが・・・」
「何を言うておる
今日は釣りに行くぞ」
「・・・はい?」
今日は織田家の家臣団に織田信長と濃の婚姻がつつがなく終了したというお披露目をする日。
そんな重要な日にもかかわらず、朝から釣りに行くと彼は言い出した。
「お披露目の儀はどうなさるおつもりですか?」
「そんなことこそ後回しでよかろう」
「織田家の嫡男、そして跡継ぎとしてさすがにそれはまずいのでは・・・」
「ん?
ワシは織田家の家督など継ぐ気はないぞ」
「・・・へ?」
織田信長の突然の宣言のような言葉に濃は思考が停止した。
「望まざる家督などというものに縛られるのはまっぴらじゃ
家中の者も弟の信行を推す者が多い
ならワシは早々に後継者から外れておればよい」
「ま、まさか・・・」
尾張の大うつけと呼ばれる織田信長。
彼がなぜ常識にとらわれない非常識な人間だったか、濃は今ようやく理解した。
自ら周囲の評価を下げ、自分を織田家の跡継ぎとして認めさせないようにわざと振舞っていたのだった。
「さて、何が釣れるか楽しみだな」
「いえ、お披露目の儀に出るのが良いかと」
「いきなりどうした?
ワシもそなたも望まざることを強いない
それが昨夜の共通点だったはずだが?」
「そ、それはそうですが・・・」
濃はどう返すべきか考える。
濃にとって織田信長が織田家の次期後継者にならなければ嫁いだ意味がない。
織田信長の思わぬ言葉に濃はいきなり苦しめられることとなった。
「えっと、あの・・・釣りですが、今は釣れません」
「なに?」
「魚が良く釣れるのは夜明け前後と日没前後と聞いております
故にお披露目の儀を終えてから釣りに行くとよく釣れるかと・・・」
濃は釣りに意欲を見せる織田信長をいかにしてお披露目の儀に出させるかを考えた時、より効率的に釣りが成功しやすい時間帯を指定することでそれまでの時間を織田家嫡男として行動させようとしていた。
「ふむ、言われてみれば以前立ち寄った漁村では確かに漁師は朝早くに出ていたな」
織田信長は尾張の大うつけと言われているが、決して人の意見を聞かない頑固者という様子ではない。
これなら何とかなるかもしれないと濃が思った矢先、そう簡単にはいかない。
「なら日中は狩りだな
国友筒の鉄砲をもう少し撃っておきたい」
「か、狩りは鉄砲よりも弓矢の方が効果的です
鉄砲はその音で獲物が逃げてしまいますので数多くは獲れません」
「なら町に出て相撲でもとるとするか
最近は腕に覚えのある者も増えて楽しめる」
「そ、それならなおのことお披露目の儀が終わった後でよいかと
お披露目の儀が終われば私も織田家家中を気軽に出歩けますので」
「ん?
お前も町を回りたいのか?」
「は、はい」
織田信長の遊び人以上に苦労させられる行動範囲の広さと責任感の無さに、濃は苦労しながらもとにかくお披露目の儀に出るよう持っていこうと必死だった。
織田信長が嫡男として家督を継ぐことで、今川義元に敗れ去る未来の要素を一つでも多く排除できる。
そのためには頭をフル回転させて織田信長の遊び人気質を理論的に、そして理性的に諭していた。
もっとも、彼の言動を見る限り弟の織田信行以上にあっけなく今川義元に敗れ去る可能性が小さくないことを否定できないのがつらいところではあった。
「帰蝶がそこまでいうのならよかろう
堅苦しくて好かぬがお披露目の儀に出てやるか」
「あ、ありがとうございます」
織田信長の意思が決まったことで濃は一息つけた。
しかしお披露目の儀一つでこの苦労。
濃はこれから先のことを考えると頭が痛くなりそうだった。
しかしかなり前からこの道を選択して準備し、頭の中でも多くのことを考えている。
その全てが功を奏するかどうか、史実と異なる歴史の「if」の可能性を全て確認するまでは、この選択肢を破棄するという選択をするわけにはいかない。
タイムマシンを使うのは今ではないとなれば今はもうこの状況から逃げられない。
逃げられないならとことんこの大うつけを何とかするしかない、もしくは子の大うつけと何かをしていくしかないと、心に一つ大きな決意が増える濃であった。
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