第10話 初采配 加納口の戦い

濃は帰蝶という名をもらい、晴れて斉藤道三の娘として斉藤家の稲葉山城に居を構えることとなった。

そして城内を歩き回ると目に留まったものを逐一指摘して改良改善させる。


「籠城用の矢玉はそちらの倉庫に固めずに少数を複数の倉庫に固めてください

 緊急時に即座に手に取って行動できる速さが重要です」


「馬の手入れの仕方が悪いですね

 これでは病気になってしまいます

 私が手本を見せるのでやり方を変えてください」


「兵の訓練は何よりも規律です

 怠惰と蛮行は絶対的な敵としてください」


稲葉山城へとやってきたばかりであるにもかかわらず、濃の指示や行動の速さに斉藤家家臣団は目を丸くしていた。

その驚きは養父の主君斉藤道三も同じだった。

しかし斉藤道三と家臣団の思いには少々ずれが生じていた。


「指示が的確で迅速じゃな

 反論もすべて明確に諭すように納得させている

 女子であることが惜しい才気じゃ」


濃の働きぶりを見る斉藤道三はため息を深くつく。


「あれが男であれば・・・わしは間違いなく家督を譲っていたであろうな

 そうは思わんか?」


斉藤道三の傍らにいた不破光治は即座に肯定の意を示す。


「家督を譲るに値するものと存じます

 わが目で見つけましたがまさかこれほどとは・・・」


「しかしその才気は時に仇となりそうじゃ」


「もうお聞き及びでしたか」


「地獄耳でなければ商人から大名になどなれぬわ」


斉藤道三、彼はもともと油売りの商人である。

商才を発揮して商人として成功したのち、槍や鉄砲の訓練を行い武士となる。

その後主君に気に入られ実権を握ると、近隣との争いの中で混乱に乗じて美濃国の大名にまで上り詰めた。

その下剋上の男が濃の実力を高く評価している。


「女の言うことなど聞けぬと騒ぐ者も多かろう

 帰蝶の言動をみなが評価するには時期尚早よ

 いずれ多くの者が判断する時が来るであろう」


「ではいましばらくは静観する構えで」


「うむ」


斉藤道三は自らが評価した濃の実力を確かめてみたいとも思い、さらに斎藤家の家臣団にも彼女の実力を認めさせたいと思っている。

故に今は口出しをすることなく、養女の好きにさせてやろうとただ見守るだけにとどめていた。

斎藤道三が静観している間に、濃の指示により稲葉山城の内部には大小様々な変化が訪れていた。

しかしその変化とともに家臣団の中には不満を募らせるものも少なくはない。

女の言うことと愚痴を漏らすものもいれば、外から来たどこの馬の骨とも知らぬ者という声もあり、目に見えた大きな成果はないものの小さな功を奏しているためその不満は表立って斎藤家家中を揺るがすことはなかった。

しかし不満は時間と共に蓄積していくものである。

少女の一言一句が賛否を分けていることにより、斎藤家の中の人心は少しずつゆがみが生じてきていた。

その積もり行く不満はそのまま蓄積を続ければ大変な事態に発展することはまず間違いないのだが、時は戦国時代の真っ最中である。

その不満を一気に蹴散らす出来事が起こるのはそう遠くはなかった。


稲葉山城にきても相変わらず城内や城下町を見て回ってはあれやこれやと口出しする濃。

今日も変わらず城内で口出しをしていた時のことだった。


「伝令!

 申し上げます!

 織田軍が国境を越え美濃へ侵攻中!」


隣国尾張において多大な力を持つ織田信秀が直々に軍を率いて美濃へ攻め入ってきたのだ。

急遽重臣達が城の広間に集められる。


「織田軍の数はおよそ五千だそうです」


「かなりの大軍を連れてきたようだな」


「さらに土岐、朝倉と手を組み総勢ともなれば二万五千を超えるとみられております」


「美濃の元国主の土岐家の一族が織田と朝倉にそれぞれ助けを求めて落ち延びたという知らせがございます

 今回の示し合わせたかのような行動は織田と朝倉の両家は勢力拡大、時の一族は美濃での復権、そのような思惑があっての動きでございましょう」


方々から入ってくる情報を聞けば聞くほど広間の空気はざわめき立つ。

その軍議を広間の外で聞くように指示された濃は黙って耳を傾けていた。


(私の知る史実ではこの戦いで斉藤家は美濃を守りきることに成功します

 けれども損害は大きくその後は内政に力を入れざるを得なくなり、そして国力が万全となる前に今川義元の上洛作戦が始まってしまいます

 ここで重要なのはいかに被害を抑えて戦いに勝つかということに尽きますね)


斎藤家の軍議はいかにしてこの戦いに勝つかということが議題になっている。

しかし遠く先を見据えている濃は勝つ以上の成果をこの戦いに求めなければならなかった。


「帰蝶、そなたはよく口出しをするが此度も何かあるか?」


斉藤道三が軍議を部屋の外で聞いていた濃に意見を求める。


「口出ししても?」


「かまわん」


「では・・・」


濃は軍議が行われている広間に足を踏み入れる。

そして集まった家臣団を見渡し、ゆっくりと口を開いた。


「この戦いは短期決戦が要かと思われます」


「短期決戦?」


いかにして戦いに勝つかという議論がなされている中、濃は戦いの決着をつける期間までを考慮していた。


「今領内にいるのは織田軍のみです

 これならば敵の総勢は五千と考えてよいでしょう

 後続で二万が来るまで待つのは愚かな考えかと思います」


「ならばいかにして五千の敵を討つというのだ!

 打って出て五千の兵とまともにやり合えばその後の籠城もできなくなるわ!」


家臣団が濃の言葉をいかにして現実のものにするかを問う。


「はい、それには一計案じる必要がございます

 幸運なことにこの稲葉山城は籠城に向いている山城の上に堅城です

 ですので全軍を引いて籠城の構えを見せます

 味方の全軍での籠城となれば織田軍も手は出せないでしょう」


「それでは長期戦になるではないか!」


「はい、ですが向こうは籠城を嫌うはずです

 先ほども言った通りこの稲葉山城はそう簡単には攻め取れません

 今は十一月、季節は間もなく冬を迎えようとしています

 山城を相手に越冬となればある程度の勝算が見えていなければ士気は下がるだけです

 織田軍は我らをおびき寄せようと何らかの策を講じると考えられます

 そこで私たちはその隙を突きます」


濃の言葉を聞けば聞くほど家臣団の異論は小さくなっていく。


「城から誘き出そうとするとどうしても軍隊の隊列や陣形に無理が出ます

 相手の策には乗らず、相手が来ないと判断して油断したところを総勢で叩き一気に勝負を決めます

 そうすれば残りの二万は到着前に敗北の報を聞かされます

 織田という先鋒のあっけない敗北は自軍の被害が大きくなることを意味する上に士気が高い籠城兵が相手となれば分が悪いと考えるでしょう

 冬も近いため、おそらく戦わずに二万は引き下がると思われます」


「二万が引き下がるなど机上の空論ではないのか?」


「もちろん条件はあります

 それは織田軍との戦いを早々に決めて被害が極めて軽微だということです

 そしてそれは可能だということをご理解ください」


「だが織田軍が我らの籠城策に乗らずに援軍を待てばどうするというのだ?」


「織田軍は援軍を待たないでしょう

 朝倉との共闘で美濃を取り戻したとしても織田には利益がありません

 朝倉との共闘は美濃での土岐家の復権を意味します

 織田から見れば美濃を手中に置いた状態で土岐家を従属させる形が最も望ましい結果であり、勢力拡大策の大成功の結果となります

 斎藤は織田とたびたび国境沿いで争い、今も敵対する間柄です

 織田が美濃を取りに来るのは確実と言ってもいいでしょう」


濃の言葉には説得力がある。

自分達の理想とする戦局を考えだし、敵の立場やあり方や望みや欲までも考えに組み込み、それを実現するために事細かに考えられた戦略にはもう誰一人として異論を唱える者はいなかった。


「決まりだな」


斉藤道三は異論がなくなったことで濃の言った作戦の採用を決める。


「皆の者、準備に書かかれ」


「はっ!」


家臣団が足早に広間を後にする。

濃にとって戦国時代での初めての戦が始まろうとしていた。

しかし結果は斎藤家の勝利で終わることはほぼ確実に未来が待っている。

その結果の中の数字をいじる行為が今回の濃の目的。

織田や朝倉の行軍や行動理念に狙いなどは歴史の勉強をしていれば自然と頭に入ってくるものであり、少女自身がこの時代の現状を読み解いて考え付いたものではないのだが、この戦国時代に生きる人がそのようなことを知るはずはない。

少女の言葉には説得力があるとこの時代の人間は思って首を縦に振り、それこそが濃の望むべき未来を手繰り寄せる結末へと繋がるのだった。




美濃国内に進軍した織田軍総勢五千。

国境を越えてから美濃国内の農村を支配下に置きながら稲葉山城へと兵を進めていく。

しかしその動きに対して斉藤軍は稲葉山城に引き入れることが可能な最大数の兵力を城に引き入れて籠城の構えを見せる。


「申し上げます!

 斉藤勢、いまだ動かず籠城の構えの模様」


偵察に向かわせた者から入ってくる情報は全て斉藤軍の籠城策を決定づけ確信させるものばかり。

その報を聞き続けた織田軍総大将の織田信秀も斉藤軍は籠城作戦で間違いないという確信に至っていた。


「道三め・・・

 稲葉山城の改築をしていたようだがよほどその城に自信があるようだな」


斉藤道三は美濃の国主になるころに稲葉山城に大規模な改修を施していた。

大改修明けの本格的な城攻めは今回が初めてとなる。

故に斉藤道三が籠城を選択したのは改修した城に自信があるからだと考えるのが普通であり、織田信秀もまたその普通の答えに容易に考え至った。


「ここは朝倉、土岐の援軍を待つのが上策かと・・・」


「たわけが

 朝倉と土岐の力を得て城を落としても美濃は我が物にはならん

 朝倉と土岐は斉藤を攻め落とすための手駒に過ぎぬ

 あくまで我が織田の功績により美濃を斉藤の手の中から奪い取るのだ

 そうしなければ美濃は以前の領主である土岐のものになるだけよ」


織田信秀は領土拡大の野心に燃えていた。

もともと尾張織田家の中でもそこまで地位が高い血筋ではなかった。

外交策や近隣との争いを制して尾張国最大勢力を保ってはいるものの尾張全域の支配には至っていない。

故に織田信秀はどうしても確固たる領地を確保したかった。

そこで度々争っている隣国の斉藤家の領地を、奪われた土岐家の元へ取り返すという口実で朝倉と土岐の援軍を呼ぶことに成功していた。

しかし内心は燃え上がる領土拡大の野心のみ。

うまく稲葉山城を手に入れて、そのまま美濃を手中に収める考えであった。

そのため織田信秀としてはこの戦い、朝倉と土岐の援軍が到着する前、つまり短期決戦にて大勢にある程度の決着をつけておきたかったのだった。




稲葉山城では緊迫した空気が張りつめていた。

山の麓にまで迫った織田軍がいつ攻めてくるかという状況。

そして攻めてこないにしてもいったいどのような行動に出るのか、織田軍の一挙手一投足を斉藤軍は目を見開いて凝視していた。


「申し上げます!

 織田軍が山を登ってまいります!」


「なに!」


織田軍の先鋒部隊が山を登り始め稲葉山城へと進んでくる。

堅牢なる稲葉山城はそう簡単に陥落することはありえない。

それを承知で山を登っているとなれば織田軍が何を仕掛けてくるかわからない。


「ちっ!

 女の言うことなどあてにならぬわ!」


籠城策をとっている斉藤家家臣団の一人が悪態を吐く。

そう、濃の読みでは織田軍が稲葉山城への攻撃を仕掛けてこないはずだった。

しかし織田軍は稲葉山城へと進行を始めている。

それは濃の読みが外れたことを意味していた。


「攻め寄せてくる織田勢を追い払え!」


守備に当たる斉藤家家臣団。

籠城用に濃が作らせた小さい倉庫から次々に矢や石を運んでくる。


「・・・なぁ」


「あ?」


「思ったより楽じゃねぇか?」


「まぁ、確かにな」


「前は向こうの方まで取りに行ってたからな」


読みは外れようとも濃が作るように指示した倉庫は守備兵達の疲労度を大幅に軽減していた。


「来たぞ!

 投石を準備しろ!

 弓も構えよ!」


指揮官の言葉に兵士たちが従順に従っていく。


「放てっ!」


そして合図とともに一斉に石と矢が城壁から放たれる。

合図とともに放たれた石や矢による攻撃は層も厚く突破するのは困難極まりない。

その攻撃力によるものなのか、稲葉山城に接近する織田軍の先鋒部隊はあっけなく下山して退散した。


「なんだ?

 あっけないものだな

 やはり女の読みはあてにならんぞ

 織田の動きは朝倉と土岐の援軍を待つまでの時間稼ぎに違いない」


守備に当たる斉藤家家臣団からは再び濃に対する不信感が募りだす。

寄せた波が引いていくように、一度だけ押し寄せたわずかな時間の攻撃もあっさりと引き下がる。

その動きは斎藤軍を稲葉山城に封じ込めるような状態にさせて動き出させないようにしているようにも感じられる。

守備に当たる将達が攻防の駆け引きの中で感じる感覚が濃の立てた作戦に対して疑問を持ち始め、不信感は時間を経るごとに増殖していく。

しかし、彼らが抱いたその不信感は織田信秀の次の一手にて一蹴されることになる。


織田軍の攻撃が引いてしばらく時が経ち、稲葉山城の中で織田軍の動きに目を光らせていた守備に当たる兵士達から声が上がる。


「み、見ろ!」


「町が燃えている!」


織田軍の先鋒を蹴散らして少しの間を置き、稲葉山城から見える山のふもとの町や村からは黒い煙が燃え上っていた。


「信秀め

 町に火をつけよったか」


稲葉山城の天守閣からもよく見える黒い煙に斉藤道三の表情は怒りで歪む。


(この時代には戦時国際法のような規定がないのは心が痛みますね

 ですがあっても適用される人たちが限られていては意味がありませんが・・・)


斉藤道三のように表情にこそ出さないが、濃は心の中で被害にあっている一般民衆に申し訳なさを感じている。

そしてその被害に遭う人々をかつていた時代の弱者たちと重ね合わせてしまい、この時代に限らず被害に遭う人たちを思う気持ちが濃の心を締め付けた。


「だが、これで信秀が我らを誘き出したいという考えがあることが明白になったわけじゃな」


「・・・そうなりますね」


山の上にいる者を山の下に引きずりおろすには、山の下に降りてこなければならない理由を作るのが一般的だ。

それには国民への攻撃による被害がもっとも簡単だ。

非戦闘民を手にかけることは既定として禁止されていなくとも、この時代の武士や武家や侍という地位の者が持つ誇りからすれば認めるわけにはいかない行為となる。

故に誘因の策の定石として選ばれやすく、多少の汚名を着てでもこの一戦に勝利したいという考えがあればその作戦は決行される。

織田信秀はこの戦いにどうしても勝ちたいという必死さを持っていることも、この行動から読み取れる。


「先ほど先鋒が山を登ってきたがお前はどう見る?」


「初手で負けたように見せかけて追撃をさせようという算段でしょう

 一度山を下ってしまえば山を登って城に戻るには時間がかかります

 失策は命取りになるので山を下りる機会は逃さず一度で仕留める必要があります

 それは織田軍の先鋒を追い返した時ではありません」


「ほぉ、なるほど」


濃の言葉に道三は感心するように何度かうなずく。

そんな道三をよそに濃は守備に当たっている斉藤家家臣団に次の指示を出す時だと主張する。


「ではそろそろ攻め手に回る準備に取り掛かる時だと思います」


燃え上る煙はまだ勢いを増し続けている。

今はまだ織田軍が斉藤軍を誘き出すための作戦を実行している最中だ。

そのタイミングで方々に濃の指示が飛ぶため、募った不信感も合わせて命令を出す側と受ける側で小さな諍いが起きるのは必然であった。


次なる行動のために城内で開かれた軍議に斎藤家の家臣団が急いで招集される。

憤りと不満が蓄積された家臣団は不穏な空気を漂わせており、そんな面々が一堂に会せば爆発寸前の危険な爆弾が一か所に集められるようなもの。

軍議と言いつつも一色触発の張り詰めた空気が一室を支配していた。


「今はまだ織田軍が我らを誘き出そうとしている最中なのか?

 先ほどの先鋒部隊の侵攻といい、信用ならぬぞ」


斉藤家家臣団からは不信感が怒号となって濃に飛ぶ。

しかし濃はそんな怒号にも一切怯まない。


「絶好の機会の時に完璧な状態で兵を動かせるようにしておくのです

 機会が目の前にきてから準備をしていては遅いのです」


「織田がもう一度攻めてくるやもしれぬではないか!

 織田の先遣隊が迫ってきたのはなかったことにはならぬぞ!」


「あれもまた誘因のための作戦で、追撃を呼び寄せるための一手です

 ですがこちらが動かなかったので町を焼くという次の手に出たのです

 一手目から二手目に作戦を切り替えるのは想像以上に早かったと思います

 織田信秀という方は決断力と行動力がある方とお見受けしますね」


「敵を褒めるなど言語道断だぞ!」


「褒めるのではなく認めているのです

 勝算ではなく油断しないためのものです」


まだ少女の年齢である濃だがその人生経験は豊富。

また中世時代では習得することや知ることも難しいことも元いた時代で学習してきた。

この時代でしか知り得ないことはしかたないが、それ以外の学べる多くのことを彼女は知識として習得している。

そしてさらにその知識を生かして、いついかなる時も的確な答えが返すことができるように訓練がされている。

戦う力を持たない濃の武器はこういった言動や頭の回転の速さになる。


「それに山を下り始めてから下山し終わって攻撃開始となればさらに時間がかかります

 敵は決断力と行動力に長けています

 ならばひそかに山を下りて本来相手が対応するのにかかる時間を削るのも有効な一手でしょう」


軍議の場を言葉で完全に支配し、主導権を握るや否や次の手段に移る。

少女が出した指示は、早々に攻める準備を整えひそかに手勢を城外に出して待機。

そして下山を始めるときには大勢が同時に行動できる体制を整えさせるため、脇道や獣道など通れる場所を利用しての下山計画の指示を出す。

攻撃開始の合図から城門を通過して下山を始めることができるのは毎秒限られた人数だけ。

その無駄ともいえる時間のタイムロスを削るためにも今すぐ準備が必要だと濃は言う。


「殿の養女となったからと言って次から次へと好き放題言いおって・・・」


斉藤家家臣団は濃のことをいまだ認めてはいない。

しかし、濃のことを認めているものも少なからず稲葉山城内にいた。


軍議を終えた家臣団の将達がそれぞれも持ち場に戻って出陣の準備を始めることになる。

しかしそれよりも前に通達でこれより攻勢に転じるという方針は伝えられていた。

その詳細をそれぞれの持ち場の現場指揮官である将達が指示を出して人が動くのだが、今の稲葉山城内の守備兵達にはその命令系統をすっ飛ばして行動が始まっていた。


「いつでも行けます」


現場に戻ってきた指揮官に向かってそう声を上げたのは守備兵の一人。

その守備兵の後ろにはいつでも城を出て戦うことができる準備が整った兵士たちがずらっと並んでいた。


「貴様ら!

 まだ何の命令も出してはおらぬではないか!

 何故出陣の準備を整えている!」


上司である武将の怒りが兵士達の身を縮こまらせる。

しかし兵士達は出陣の準備をわざわざしたわけではなかった。


「ですがすぐそこに必要なものが置いてありますんで・・・

 話が聞こえたので急いで準備した方がいいのかと」


「ん?

 なんじゃと?」


兵士達は濃が指示して作らせた小型の倉庫から必要なものを取り出しただけに過ぎない。

守備のための準備の時間を削減できる施設は、攻撃のための準備の時間を削減できる施設でもあったのだ。


「攻防どちらにせよ、戦う前に疲れを溜めるのは無駄なことです

 手間暇を嫌うわけではありませんが、不必要なら切り捨てるのがいいでしょう」


効率化を求める指示を出していた時の少女の言葉が脳裏をよぎる。

指揮官は基本的にはいかに命令を下すのが仕事だ。

兵士は指揮官の命令に従って攻撃なり防御なりをするのが仕事だ。

しかし指揮官は兵士のそういった準備を行うまでの疲労を意外と軽視しがちである。

命がかかった現場であるため多少は目をつむるのもしかたはない。

しかしそれは兵士の士気にかかわり、行動の速さなどにも関わり、結果的には損耗率や勝敗にまでかかわってくる。

そこまでを兵士の一人一人が理解しているかどうかは定かではない。

しかし目に見えて楽ができたということは、少なからず濃を支持する要因となったのだった。


「すまぬが此度はわしの命だと思うてくれぬか?」


「と、殿・・・」


現場にまで出てきた斎藤家当主の斎藤道三に、守備兵だけでなく家臣団の者達が背筋を正して主君の話を聞く。

これは道三が濃の指示を容認して少女の後ろ盾となっていることを意味する。

これでは稲葉山城内にいる斉藤家の面々は誰一人として逆らうことはできない。


「・・・わかりました

 者ども、打って出る準備をせよ!」


号令とともに兵士たちが迅速に動く。

既にほぼ準備を終えていた兵士達はそこから出陣準備完了までに要する時間は微々たるもの。

そして斉藤家家臣団の誰もが驚くほど速く攻撃の準備が整ったのだった。




稲葉山城の麓の町や村に火を放った織田軍は斉藤軍が出てくるのを待つ。

しかしその時は訪れないまま日没が近づいてくる。


「殿、これ以上敵の近くに滞在するのは危ういかと」


「そうだな

 どうやら待っても道三は出て来ぬらしい

 明日には別の攻め手を考えねばならぬな」


織田としては短期決戦で決着をつけたい相手であった。

城攻めは難しい山城を相手取っての短期決戦は極めて難しいため、誘い出して一気に叩くという策の成功が望まれた。

しかし斉藤道三はその誘いには乗ってこなかった。

これにより織田軍は攻撃の手法を変えて挑まなければいたずらに時間を費やすだけという状況になってしまった。


「一筋縄ではいかぬと思っていた

 しかしこれだけ麓に火をかけられても動かぬとはな

 よほどの豪胆な者か、はたまた臆病者か・・・」


織田信秀は山の上に堂々と立つ稲葉山城をじっと見上げる。


「あの城はまるで道三そのものよ

 高い位置から堂々と我らを見下ろしておる

 備えも完璧なのであろうな」


先遣隊としてためしに攻撃を仕掛けた一隊は城に接近をさせてもらうことすらできなかった。

そもそも安全策で負けて引くことが作戦であったため城に近づく必要性はまるでなかった。

それでも城に近づけまいと抵抗する防御側の士気や備えはある程度様子見をすることができる。

斉藤道三自らが改修の指示を出した稲葉山城。

その堂々たる姿は斉藤道三という人間の恐ろしさを織田信秀に伝えてくれている。


「引き上げるぞ」


織田信秀は部下に命じて一時引き下がるために稲葉山城の麓を後にする。

敵の懐近くに長居をするのは危険だ。

敵との距離をとるという意味においても、膠着した戦局に変化を求めるという意味においても、一度引いて陣を構えるのは仕切り直しと言う戦争の定石である。

織田信秀は次なる戦いを明日と定め、夜に向け傾きつつある太陽を一瞥して後退し始める。




織田軍が日没の前に稲葉山城に背を向けて後退を始めたその時であった。

電光石火とでも言おうか、神速を尊んだ結果とでも言おうか、斉藤軍は待ちに待った絶好の機会を逃すまいと山から飛び出していく。


「かかれっ!

 敵は戦う態勢にない!

 今こそ織田を討つ時だ!」


斉藤家家臣団の号令に多くの兵士が一斉に織田軍へと目掛けて攻撃するために突撃していく。

素早い準備に迅速な行動で山を密かに下っていた斎藤軍。

あらかじめ決められていた作戦のため、斉藤軍には一切の迷いや戸惑いが存在しない。

さらに城下の町や村に火を放ったことで織田軍に対する怒りは最高潮に達している。

斉藤軍はいまだかつてないほど高い士気と完璧なタイミングで織田軍への攻撃を開始した。




一方、織田軍は今日の戦いは終わりと気が緩んでいた。

さらに敵が打って出てくることはないという状況判断による油断と、その油断に付け込まれたことにより動揺と混乱が全軍に広がる。

瞬時に反転して応戦するように指示を出す織田信秀だが、彼と同じように一瞬で状況を判断して頭の中を切り替えられる兵士達はそう多くはない。

ほとんどの者が精神的不利の状態で戦わざるを得ない状況に追い込まれる。

さらに後退するために戦闘用の隊列でもなかった。

そのため斉藤軍はいとも簡単に織田軍の前線を突破し、圧倒的優位な状況で織田軍を徹底的に蹂躙していく。


「くそっ!

 まさか道三め、この時をねらっていたか!」


軍の末端にまでシンプルかつ確実な命令を行き届かせていた斉藤軍と、油断や読み違えにより末端以前に指揮系統が不完全にしか機能しなくなった織田軍。

その勝敗は明らかで、瞬く間に織田軍は敗北を悟って全軍が撤退を始める。

斉藤軍は深追いをせず、ある程度織田軍を討ち果たしたところで軍を止める。

今回の戦いの目的である防衛戦に勝利したため、これ以上の戦いは無用と織田軍が逃げていくのを待って軍を反転させて城へと帰還していく。

意気揚々と美濃へと攻め入った織田信秀だったが、結果は斉藤道三の圧勝でこの戦いは幕を引くこととなった。

更に日没直前の襲撃により敗北して逃げ出す織田軍はこの後、慌てて川を越えて尾張へと帰ろうとして暗闇の川に多くの兵士達が溺れるという二次被害まで出してしまい、美濃侵攻どころか国力の大きな低下まで引き起こしてしまう大敗北という結果に終わったのであった。




勝利の美酒に酔いしれる稲葉山城内。

飛び込んできた報告によれば織田軍は大きな被害を受けて敗走し、さらに川を越える際に混乱もあったことから多くの将兵がその命を落とした。

壊滅的な打撃を受けた織田信秀は城に帰還する際の手勢は数えるほどしかいなかったという報告も入っている。

圧倒的ともいえる、斉藤家の完全勝利だった。


圧勝に盛り上がる酒盛り。

その場に立役者となった濃の姿は主演の席になかった。

彼女が目指す勝利はこの戦ではなく、この勝利は彼女にとって通過点以外の何物でもない。

濃は酒盛りが激しい城の中央から外れ、城内に設けられた自室へと足を進めていた。


「・・・あれ?」


その途中、明かりの灯った部屋を見かけた。

城内にいる物はほとんどが戦勝の宴に参加しているため、部屋に人がいることに違和感を覚えながらも気になってしまい、少女は音をたてないように静かに明かりの灯った部屋へと近寄って中を覗き込む。

そこでは不破光治が机に向かい何やら書をしたためている。

巻物に筆でいったい何が書かれているのか気になった濃はその部屋へと入る決意を固める。


「失礼します」


濃は部屋のふすまを開けて不破光治の元へと歩み寄る。


「これは姫様」


「養女です

 姫と呼ばれるほどの者ではありません」


ついこの間まで使用人として働いていた濃。

しかしここにきて斉藤道三の養女となった。

皆認めないという様子が強かったが、今回の戦いで大きく風向きが変わった。

その第一段が皆から姫と呼ばれるようになったことだった。


「ところで何を書いているのですか?」


「此度の戦の記録です

 帰蝶様の采配と我が軍の大勝利

 めでたき記録は残しておくべきかと思いまして」


濃は不破光治が記す内容を覗き込む。

そこには斉藤道三の姫の知が勝利を確たるものにした、などという内容がある。

それを見るなり、濃はおもむろにその書を取り上げた。


「な、何を・・・」


「私のことは書かなくてもよろしいかと思います」


「しかし・・・」


「斉藤家の武勇が示された、それだけでよいのです」


「それでは帰蝶様が・・・」


「当人の私がそうしてほしいとお願いしています

 どうか私のことよりも斉藤家、並びに斉藤道三の手柄としてください」


濃の必死な様子に不破光治は一つ大きなため息を吐く。


「わかりました

 そこまで言われるのでしたらそういたしましょう」


「ありがとうございます」


濃の目的は戦国時代での自身の名声ではない。

ましてや彼女はこの国だけでなくこの時代でも部外者。

故に自らの名が記録に残ることを今後も頑なに拒み続けるのだった。


なんとか自分の名前が記録に残ることを阻止した濃。

自分の部屋に戻ると敷かれた布団に倒れ込み、そのまましばらく微動だにしなかった。

小さな呼吸音だけが部屋にこだまする。


「き・・・緊張した・・・」


濃は多大なストレスから一時的に解放されたことをその身に感じていた。


「人の生死を左右する戦の采配・・・

 なんとか最初の関門はクリアできました」


戦は時に敗北はその場での死を意味する。

今回も作戦が失敗に終わり稲葉山城が攻め落とされてしまった場合、濃は斉藤道三の娘として打ち首の目に遭っていたかもしれない。

それを考えれば今回の大勝利はうまくいきすぎて怖いくらいのいい結果だった。

だがそれと同時に胸には一つの不安が生まれる。


「人の生死を変える・・・

 もし私の祖先にあたる人の生死まで変わってしまったら・・・」


ここに存在する濃はそのまま存在していられるのだろうか。

濃自身命を懸ける覚悟はできている。

しかし祖先が誰かわからないような過去にまでやってきて、そこでの歴史の変化によって自分が生まれる未来がなくなってしまった場合、志半ばで濃という存在がこの世から消滅してしまう可能性も考えられる。


「難しい問題ですね

 探しようもなければ解決のしようもない・・・」


目の前に突き付けられた歴史の変化による人の生死の変化。

今回の勝利だけを見れば歴史的には大きな変化はないのかもしれない。

しかし今後も濃は歴史を改変していくつもりでいる。

そこで濃という存在にかかわる過去との接触は十分考えられる。

しかもそれを少女は察しすることができない。

何かが起こっても事後の後手でしか対応することができない。

その恐怖が新たに濃の心の中に生まれる。


「ですがやらなければなりません

 どのような結末が待っていたとしても、私が生きていたあの世界よりは良い世界を・・・」


濃は自分に言い聞かせるように独り言を言いつつ、その意識はゆっくりと微睡の世界に沈み込んでいく。

生まれて初めて殺し合いにかかわったストレスが精神的疲労となって悲鳴を上げていたことによる急激な眠気に身をゆだねたのだ。

これからまだまだ先は長い。

その長い戦いに備えるという考えも含め、濃はひとたびの休息を貪るのだった。

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