第156話31-7.夜と霧

「ここに座って」

「良いですけど、今はそんな気分じゃ無いですよ」

「ハニーをその気にさせるのは私の役目でしょう? それよりも、今は貴方に訊きたいことがあるの。もしも、犯されている男たちがハニーの知り合いだったら、彼らを助けていた?」

「状況次第でしょうけど、多分助けてますね」

「それだけの力が無かったら?」

「それは……力が無いんだから無理でしょうね。どうしてそんなことを?」

「私が経験したことだからよ」

「どんな経験ですか?」

「話すとそれなりに長いわ。聞いてくれるの?」

「もちろんです。僕は過書町さんと違ってメイルレイプを見たくないですからね。ここから外に出るのも嫌ですよ」

「解ったわ。私の生まれは知っているわね?」

「ドイツですか?」

「そう。正確にはベルリンよ。ユダヤ系の両親は質屋を営んでいたわ。キリスト教社会の中で、ユダヤ人ができる仕事は制限されていたからよ」

「知っています」

「ところが、私が生まれてから四~五年して、アドルフ・ヒトラーという男がドイツの政権を握ったの。彼の率いていた国家社会主義ドイツ労働者党、いわゆるナチスはユダヤ人迫害を政策目標として掲げていたわ」

「それも聞いたことがあります」

「ドイツに住んでいたユダヤ人は、早くから国外へ逃げる選択肢があったから、一説によると約七十%がドイツから逃げ出せたとされているわ。残念だけど、私の一家は三十%の方だったの」

「…………」

「私は十四歳の時に警察に捕らえられ、ポーランドにあるアウシュビッツ収容所という場所に連れて行かれたわ。同い年の女の子たちは、その日に殺されたみたいよ。私が生き残れたのは、背が高くて働けそうだったから。たったそれだけのことが、人の生き死にを決めるような場所だったのよ」

「アウシュビッツの名前も知っています」

「正確には、私がいた場所はビルケナウという隣の村だったわ。元々は湿地帯で環境が悪かった上に、収容所の数に比べて人の数が多すぎたの。だから、凄い勢いで人が死んでいったわ。まるで、氷を真夏の日光に当てたように、人間が溶けていったのよ」


 クレアはそこで口を閉じ、深呼吸をしてから話を再開する。


「私はそこで生き残るために何でもやったわ。食糧は恒常的に不足していたから、他人の分も奪った。収容所では、緑のバッジを付けた犯罪者が幅を利かせていたから、彼女たちにも色々と便宜を図った。私が何かするたびに、周りの女性が死んだわ。でも、私は〝自分じゃなくて良かった〟としか思えなかったのよ。そんな私に目を付けた男がいたの。名前はフランツ。親衛隊の少尉だと名乗っていたわ。女性の囚人は女性の看守が見張っていたのだけれど、彼は収容所のルールを無視して女性たちのいる場所まで来る力があったわ」

「ひょっとして、悪魔だったとか?」

「そうよ。察しが良いわね」


 背の高い白人女性は、そう言うと志光をベッドに押し倒した。彼女は少年に跨がったまま、昔語りを続ける。


「フランツは私に目をかけたわ。目的のために手段を選ばない性格を気に入ったみたい。ある日、私を一人だけ連れ出して〝ユダヤ教を捨てるならお前をここから連れ出せるかもしれない〟と言ってきたの」

「それが悪魔化の誘いだったんですか?」

「そうよ」

「疑問に思ったことを言っても良いですか?」

「何かしら?」

「悪魔化するにも、悪魔としての力を発揮するにも邪素が必要ですよね? どこで手に入れたんですか?」

「収容所の中よ。ゲートがあったの」

「アウシュビッツって、当時のポーランドでも田舎じゃないんですか? そうでなければ、強制収容所を造るのは難しいですよね?」

「ええ。田舎よ。ゲートは収容所が建てられてから発見されたの。発見したのはフランツ本人よ」

「え! じゃあ、フランツという悪魔がわざわざアウシュビッツまで来てゲートを発見したんですか?」

「その通りよ」

「何のために?」

「ドイツには、ナチス以前からドイツ東部への領土拡大という野望を主張する人が多かったの。当時、それは〝東方生存圏〟と呼ばれていたわ。ヒトラーはポーランドと戦って勝つと、フランスを下した後でイギリスとの戦いに行き詰まってソ連、今のロシアを攻撃した。その流れで、軍部と一緒になってドイツ東部の土地にやって来た悪魔たちがいたのよ。フランツはその一人だったわ」

「じゃあ、その悪魔はドイツ軍の命令で来たわけではなかったんですね?」

「ええ。フランツは〝親衛隊〟と呼ばれているヒトラーの私兵になりすまして、アウシュビッツに来ていたわ。名前も嘘だった。本名はヨハン・ヘラルト。でも、私にとってそんな些細なことはどうでも良かったの。だって、私を助けてくれたんだから」

「そこで邪素を飲んで悪魔化できたんですね?」

「だから、ここにいるんでしょう?」

「すぐにアウシュビッツを抜け出したんですか?」

「いいえ。一九四四年の冬まで収容所の傍で見つかったゲートから魔界に入って様子を伺っていたわ。丸刈りにされたのが嫌だったの。少ししか戻らなかったけど。その間に、ヨハンから悪魔としての振る舞い方を教わったわ。その間にドイツの敗戦が濃厚になったから、アウシュビッツを出ることにしたの」

「どこに行ったんですか?」

「歩いてベルリンに戻ったわ」

「え! アウシュビッツからベルリンまでって遠いんじゃないんですか?」

「直線距離でだいたい五五〇キロよ。徒歩で行軍するなら二十日以上かかるけど、悪魔なら二日よ。実際には迂回しなければいけない場所もあったから三日だったわ。そんな大した旅行じゃ無いのよ」

「ああ……なるほど」

「問題はベルリンに戻ってから起きたわ。四月にソ連軍が攻めてきたの。五月にはヒトラーが自殺してドイツが負けたわ。ヨハンと私は、今度はベルリンのゲートを使って魔界に逃げ込んで、戦火をやり過ごしたのよ。いただくものはいただいたけど」

「戦争に巻き込まれた人たちから、何かを盗んだとか?」

「兵士からもよ。今でもそうだけど、戦車の主砲に撃たれたら悪魔でも死ぬわ。人間の巻き添えにならないようにするには、それなりに上手くやり過ごす必要があったの」

「なるほど」

「それで、戦争が終わると西側諸国とソ連が対立して、ベルリンの支配権を巡って争いが起きたわ。それと並行して、ドイツ系の悪魔たちの間でも諍いごとが起きたのよ」

「何が原因だったんですか?」

「悪魔化を選択しやすい人にも色々いるけど、政治的には反政府活動をしているタイプに多いのは何となく解るわね?」

「はい。既存の政府と対立している以上、現実世界では肩身が狭い思いをするはずですからね。魔界日本だと、高橋要蔵さんがそのタイプですよね?」

「その通りよ。それじゃ、ナチスが政権を握っていた時に悪魔化した人達は?」

「反ナチスが多かった?」

「正解。では、次の質問。ドイツが戦争に負けて、ナチスが消滅した後は?」

「親ナチス的な人が悪魔化する確率が高かったんですね。それじゃ、争いが起きるのは仕方ないと思いますが」

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