第86話17―1.連打の効用

 大工沢美奈子のヒキで彼女の部下達に会って親睦を深めた地頭方志光は、銭湯からドムスに戻って一眠りすると、受け身だった態度をかなぐり捨てて動き出した。


 彼はまず幹部達と個別に会って、新棟梁就任式の日取りを遅らせる手はずを整えてから、正式な会議でなんと八〇日間の延長を勝ち取った。これで、時間的な余裕を得た少年が没頭したのはボクシングの練習だった。本物のタイソンと顔を合わせたことで、それまでにないほど危機感が高まったのだ。


 志光のトレーナーを務める門真麻衣が彼に教え始めたのは、左右のストレートの組み合わせだった。最初はインステップしての左ストレートを打ってから、右左のワンツー。このコンビネーションには、インステップの左ストレートが相手に当たった時に、続けて強いダメージを与える目論見があった。


 左ストレートを打ちつつ前に踏み込み、右ストレートで肩を回し、二度目の左ストレートでも肩を回す、つまり最初は体重移動、二発目と三発目は上半身の回転でパンチパワーを確保すれば、強打を連続で打つことが出来る。


 二番目は、やはりインステップしての左ストレートを打ってから、左右のワンツー。この練習の狙いは、相手をパニックに陥れ、姿勢を崩させることにある。ボクシングにおける基本のコンビネーションは左右、あるいは右左のワンツーなので、左が二回続くだけで予想外の事態が起きたことになるからだ。しかも、これに通常のワンツーを混ぜれば、同じフォームから違った攻撃が繰り出されるので、より相手を混乱させられる。


 三番目は、同じようにインステップしての左ストレートを打った後で一旦バックステップし、そこからもう一度踏み込んでの左右ワンツー。この練習で想定しているのは、最初の左ストレートが空振り、もしくはガードされて相手にダメージが無かったケースだ。バックステップをするのは、相手の攻撃を空振りさせる目的がある。


 赤毛の女性は、ボクシングにおける最も基本的な防御はバックステップだと少年に言い聞かせた。


「相手のパンチが当たる距離で防御をするにはコツがいる。初心者のキミには難しい。最初はとにかく相手の攻撃が当たらない距離まで下がる癖をつけろ。本当はパンチを鼻先で躱せるのが理想だけど、無理ならもっと下がって良い。それができるようになったら、今度は頭だけ後ろに引いて下がったふりをするんだ。そうすると、相手はバックステップをしたと思って攻撃を止めてしまう。ところが、これはフェイントの一種で、キミは手を伸ばせば相手を叩ける位置にいる。こういう〝細かい動き〟がボクシングの神髄だ」


 志光が彼女の言いつけをどうにか守れるようになると、次に始まったのがダブルパンチの練習だった。ダブルパンチとは、同じ手で二回続けてパンチを打つ技術だ。左ストレートを二度続けて打つのもダブルの一種だが、少年が教わったのは右ストレートのダブルで、一発目は最初に習ったように上半身を回す力で打ち、二発目は右脚を内旋させず、右足の踵を跳ね上げることで打つ方法だった。つまり、一発目の右ストレートを打った後に、拳を顎の位置に戻したところで右の踵を地面につけてしまい、これを跳ね上げる力で二発目の右ストレートを打つのだ。


 右のダブルパンチを左右のワンツーと組み合わせれば、左、右、右の三連打、ステップインしての左ストレートから左右のワンツーと組み合わせても、左、左、右、右の四連打になる。


 連打の効用について、麻衣は次のように説明した。


「連打というと、次々とパンチを当てて相手にダメージを蓄積させることによってノックダウンを狙うと考える人が多いが、これは間違いだ。人間は歯を食いしばって筋収縮をすれば、脳を揺らされない限り打撃でノックダウンすることはまず無い。耐えられてしまうんだ。ところが、長時間にわたって筋収縮を続けることは出来ない。最初にパンチを食らいそうだと思って歯を食いしばったとして、三発目、四発目と続くといずれ緊張が解けて筋肉が緩む。そこにパンチを食らうと、もう耐えられない。それほど強い力で無くても効いてしまう。実際に試してみよう」


 赤毛の女性は少年に腕をまっすぐ伸ばさせ、手首の下あたりに拳を軽く、しかし連続で振り下ろした。彼女の説明は正しかった。最初の二発までは、歯を食いしばって筋肉を強ばらせることで耐えられたのに、三発目が入る直前でその状態を続けられなくなってしまったのだ。


 もしも本当の戦いだったら、四発目ががら空きになった顔に放たれていただろう。また、これが前腕部を地面に対して垂直に立ててガードする理由でもあった。腕を伸ばした状態でいると、老獪なボクサーならこの方法で手を強制的に下げさせられるのだ。そうさせないためには、前腕部を垂直に立てて上から叩かれないようにしなければならない。


 連打の効用を理解した志光は、右ストレートのダブルを比較的早期に習得した。こうして、彼は練習を始めて四ヶ月ほどで四種類のパンチを習得した。その内訳は、右ストレート、左ストレート、ステップインしての左ストレート、最後に右のダブルだ。これらは、それぞれ膝を曲げた状態でボディにも打てるので打てるので、八種類のパンチと見なすこともできた。


 麻衣はそれらを組み合わせて、実戦に近い方法で使うための練習を志光に課した。また、それに先だって彼女は想定される状況を弟子に説明した。


「レスリングや柔道、柔術などの組技系の選手が打撃を習うと、優秀なフッカーになる場合がある。理由は、フックが腕を曲げた状態で打つパンチだからだ。組技系の試合では、相手を掴んで自分に引きつけるための力があることが重要だ。腕の部分に限って言えば、それは相手を掴んだ状態で肘を曲げることを意味する。そのためには、上腕筋や上腕二頭筋が発達していなければならない。それらの筋肉が、フックを打つ時に使う筋肉と一緒なんだ。タイソンも比較的優秀なフッカーだ。そして、フックはボクシングのパンチの中でも、最も破壊力があると言われている」

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