第85話16―2.道徳が矛盾する理由(後編)
「人種差別をしてはいけないことが、マナーになる問題点は?」
「マナーさえ守っていれば、内心で何を思おうが勝手だと言うことですね。たとえば、黒人が大嫌いな白人も、マナーが適用される場所では人種差別をしなければ問題にならない。だから、差別がいけないと幾ら言ったとしても、差別は温存されることになる。もっとも、真に道徳的な社会を作ろうとしたら、道徳に沿わない人間をただそれだけで罰するようになってしまうので駄目ですが」
「確かにね。それで、大将はどういう指針をとるつもりなんだい? 道徳的な解決がお望みなのかい? それとも礼儀作法を守らない連中を叱責するつもりかい?」
「どちらもしないですよ。僕達は悪魔だ。道徳的に振る舞う必要は無いし、そもそも二元論という論理的に間違った根拠の規範を遵守するなんて真っ平です。マナーも同様。でも、だからといって根拠の無い人種論を真に受ける気もない」
「となると?」
「人種差別は結構。所詮はフィクションだ。言いたいだけ言えば良い。ただし、僕が相続する土地からは出ていって貰う」
「方法は? 話し合って穏便に解決って方法も選択肢に入れているとか?」
「僕を何回も殺しに来た相手にですか? 冗談じゃ無い。話し合いはしません。勝つためなら何でもやるし、暴力的な手段も使います。何か問題でもありますか?」
「ないね」
大工沢は丸太のように太い腕を伸ばし、少年の肩を抱いた。
「気に入ったよ。悪魔らしくて良い。それと、二元論の話が出たが、あれは誰かから教わったのかい?」
「初めて悪魔になった時、クレアさんから試されました」
「試された?」
「はい。〝胡蝶の夢〟の説話が、数学的に間違っていると言われました」
「荘周の夢でも蝶の夢でもないケースが考えられるって事かな?」
「そうです」
「ノーヒントだったとすると、ずいぶん意地悪な質問だな」
大工沢はそう言うと、クレアのいる場所に顔を向けた。背の高い女性はすまし顔で返答する。
「悪魔ですもの。それに、新棟梁がバカだったら、計画そのものを見直す必要があったかも知れないでしょう?」
志光は湯船の中で肩をすくめてみせる。
「酷いスパルタですよ」
「クレア。そのテストは、遺言状に入っていたんじゃないか?」
大工沢は珍しく考え込むような素振りを見せた後で、クレアを問い詰めた。しかし、背の高い女性は微笑を浮かべたまま回答を拒絶する。
「その質問には答えられないわ」
「それが答えだな」
熊のような女性は口をへの字に曲げて頭を掻いた。置いてけぼりを喰らった志光がきょとんとした顔をしていると、ソレルが事情を説明してくれる。
「今までの話は〝要素がn個あった時に、その組み合わせは二のn乗になる〟、という組み合わせ問題から来ている話でしょう?」
「うん。たとえば、善と悪なら、要素は善と悪の二つになるから、その組み合わせは二の二乗、つまり二×二で、答えは四通りになる。だから、善と悪の二通りしか無いという考え方そのものが間違えだ。もしも要素が四あるなら、その組み合わせは二の四乗だから、二×二×二×二で一六通りなければいけない。要素が増えるだけ組み合わせも増えるから、単純化は出来ない」
「それ、イチローが幹部候補にやっていたテストなのよ。私も受けたわ」
「父さんが?」
志光が絶句すると、大工沢が彼を眺めながら物思いに耽るような面持ちになる。
「前の大将が幹部候補にこのテストをしていたのは、論理的思考が出来ない奴を排除するためだった。当然、跡取りである大将にも同様の素質を要求していたんだろう。ただ、テストのやり方がちょっと厳しすぎる。普通、一八歳の子供に、そこまで機転を利かせる能力を要求するかね?」
「もしも、あの質問に正解しなかったら、僕はどうなっていたんですかね?」
「よくてお飾りの扱いだろうね。悪ければ……」
熊のような女性はそこで口をつぐみ、クレアに視線を向けた。志光もソレルもつられて彼女を見る。
「あら。その先を知りたいの?」
背の高い女性は、微笑みながら周囲を見返した。志光は彼女に深く頷いてみせる。
「僕は当事者なので知りたいですね。それとも、遺言状で父さんに口止めされているんですか?」
「いいえ。魔界日本は合議制で運営を続け、ハニーは私が自由にして良いことになっていたわ」
「自由って……」
「一応言っておくけれど、ハニーを殺したりするつもりは一切なかったわよ。ただ、麻衣やソレルにお手つきはさせなかったと思うけど。伝わりづらいでしょうけど、これでも私はハニーのことを好きなのよ」
クレアの回答を聞いた少年は気の抜けた面相になって、顔を半分ほど温泉に浸けた。大工沢とソレルも大きな溜息をつく。
「良かったな。魔界で五本指に入る猛女に愛されて」
熊のような女性に慰められた志光は、湯船から疲弊した顔を出すと思いの丈を口にする。
「愛が重い!」
「あら。私の体重のこと? 失礼ね。じゃあ、今日はハニーが上でする? 後ろからでも良いわよ」
「その話じゃないですよ。分かっていてわざと言ってるでしょう?」
「もちろんよ。話は変わるけど、彼の見解は大工沢的にはどうだったの? 黒鍬組の構成員の評価も知りたいわ」
少年をいなしたクレアは、真顔になると大工沢の言葉を待った。熊のような女性は一度首を縦に振ってから軽く笑う。
「さっきも言ったように気に入ったよ。お前の言った通り、大将は馬鹿じゃ無い。それに、麻衣に言われたトレーニングを続けているのも評価の対象だ。コツコツと同じ事を繰り返せるだけの忍耐力もある」
「ありがとうございます」
大工沢の月旦を聞いた志光は、彼女に向かって頭を下げた。すると、少年達を露天風呂に案内した男が親分に呼応する。
「カントクが大将を気に入ったんなら、俺達もついていきますよ。もっとも、ここを出た後で大将に酒を奢って貰えるかどうかで忠誠心が変わってきそうですが」
男の煽りに風呂場にいた面々がどっと沸いた。
「もちろん、奢らせて貰いますよ。幾らでも飲んで下さい」
志光は片手を挙げると、彼らにただ酒を約束した。
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