第84話16―1.道徳が矛盾する理由(前編)
魔界銭湯の露天風呂は、内風呂からサウナの脇を通って屋外を出た場所にあった。邪素の雨を避けるために、風呂の上には寄棟屋根が設けられているが、現実世界の露天とは異なり、外は真っ暗な上に気温が高く、甘ったるい匂いに満ちている。
地頭方志光は歩きながら温泉に入っている悪魔たちを見た。男女比は七対三ぐらいで男性の方が多い。ほぼ全員が頑強そうな体つきをしている。話し言葉は粗野だが、お互いが争っているような感じはしない。
「こっちです」
座湯で少年を誘った悪魔が、一番奥にある風呂を指した。そこには大工沢美奈子が全裸で浸かっていた。
クレアやソレルよりも大きな乳房を備えた女性は、同時に全身が筋肉の塊で薄暗がりの中でも首から肩が盛り上がっているのが分かる。また、彼女の傍らには防水モニターが設置されてあった。
「よお、大将。入りなよ」
志光の姿を認めた大工沢は太い手を振った。露天風呂に足を入れた少年は、熊のような女に質問する。
「どうしたんですか? 大工沢さんとは、いつもドムスで会ってるじゃないですか」
「子分達を紹介したかったんだよ。いけないか? それに、大将の見解を聞きたい事件があってね」
「事件?」
「見なよ。現実世界で録画したニュースだ」
大工沢に促された志光は液晶画面に目を向けた。そこには、外国のニュースらしきものが映っている。
「これは?」
「アメリカの殺人事件ですね」
横から覗き込んだ過書町茜が解説すると、熊のような女が後を継ぐ。
「そうだ。去年からドクサーが次々と殺害されている。これで十六人目だそうだ」
「ドクサー?」
志光が首を捻ると、茜が驚いた素振りを見せる。
「あれ? ヤリチンさん、ドキシングについて勉強してなかったんですか? ホワイトプライドユニオンについてもっと詳しく知りたいって言って、白人至上主義者に関する研究論文や雑誌の記事を読んでませんでしたっけ?」
「ああ! ドキシングをする人をドクサーって言うんだ」
「そうですよ。ネット上で個人情報を暴露するのがDOXで、DOXする人がドクサーです。スラングですけど」
「そのドクサーだが、殺された全員が反差別主義者で、白人至上主義者の個人情報をネットで暴露していた。殺害は紐らしきもので首を絞めるというやり方で行われ、被害者が拳銃で反撃した例も幾つかあるが、犯人の血痕すら残っていないとさ」
大工沢はにやっと笑って志光の目を覗いてきた。少年は顎先を親指と人差し指で挟む。
「犯人は……ホワイトプライドユニオンの悪魔? 少なくとも、普通の人間じゃ紐で拳銃に勝つのは無理でしょう」
「私もそう思うね」
「動機は報復、ですかね?」
「それもあるだろうが、もっと別の理由も考えられる」
「たとえば?」
「ドキシングされると困る立場の人間を守りたいとかだね」
「一流企業の社員とか、議員とか?」
「後は公務員だね。たとえば警察とか」
「警察に白人至上主義者のシンパが増えたら厄介ですね」
「それで、だ。大将の人種差別に対する見解を聞きたかったんで、ここに呼んだんだ。大将の考え方は、当然のことながらウチの組織の指針になる。私の子分共も話を聞きたがっている」
「人種差別の……ちょっと待って下さいね」
志光は目を閉じて十数秒黙考してから、口を開いた。
「ここ三ヶ月ぐらい、ボクシングのトレーニングをしつつ、新棟梁に就任するための挨拶回りもしていたんですけど、その合間に悪魔のことや白人至上主義についての勉強もしていました。まず、そうした勉強をする前から思っていた事なんですけど、人種という概念自体がフィクションだから、人種主義を政治に反映させるのは間違いだと思っていました」
「人種がフィクションだという根拠は?」
「自然条件下で交雑が出来るからです。たとえば、白人男性と黒人女性が結婚して子供が出来るなら、違う人種とは言えませんし、生まれた子供は〝白人であり、かつ黒人である〟ことになる。つまり、どちらでもあるので分類は出来ません。たとえば、白人至上主義者がよく利用するネット上の掲示板で、遺伝的に一〇〇%の確率で欧州人の血族だと証明できたのは、推定で約三〇%だったというニュースが出て話題になりました。ところが、白人至上主義者達は残りの七〇%を排除しなかった。遺伝的に証明されているのにですよ」
「フィクションを政策に反映させてはいけない根拠は?」
「宗教と一緒です。あるフィクションを国家が優先させれば、他のフィクションが抑圧される上に、現実とフィクションが乖離した時に正しい政策決定が出来なくなる。でも、今の人種主義や移民差別に対する反対活動は、人種という概念がフィクションだという理由を根拠にしているわけではないみたいなんですよね。はっきりと書かれているケースは希ですけど、恐らく道徳(モラル)が根拠でしょう」
「人種差別主義に反対する根拠が、道徳ではマズいのかい?」
「正確には善悪論ですね。正義と悪と言っても良い」
「善悪論が駄目な理由は?」
「たとえば、人種差別が倫理的に悪だとします」
「人種差別に反対している人達は、みんなそう思っているだろうね」
「ところが、その差別されている人種に括られた人達の中に犯罪者がいた場合はどうなるでしょう? つまり〝差別されている人種であり、かつ犯罪者である〟というケースは現実にあり得るわけです。法律的には、犯罪者にも人権はありますが、道徳的にはどうでしょうか?」
「犯罪者を庇うのは悪だろうね。しかし、特定の人種だからと言う理由で、差別してはいけないと考えるのは善だ」
「その通りです。つまり、善悪が二元論であることが問題なんです。よく勘違いされますが、正義と悪、善と悪が相対的か絶対的かという問題では無い。それ以前の段階で間違っているんです」
「もっと詳しく教えて欲しいね」
「善悪論では、ある行いや考え方が、善か悪かに二分されてしまいます。でも、善と悪という形で要素が二つある以上、その組み合わせは四通りになります。善、悪、善でありなおかつ悪である、善でも無ければ悪でも無い、です。今のケースでは、人種差別はいけないと思うのは善だけれども、犯罪者を庇うのは悪になるので〝善でありなおかつ悪である〟ケースに該当しますが、〝善か悪か〟の二分法を信じていると、道徳的に辻褄が合わなくなります。だから、最終的に人種差別をしないのが礼儀作法(マナー)である、ということに落ち着くはずです。マナーであれば、マナーを守るか、守らないかになるので、先ほどのような矛盾は起こらない」
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