第48話8-7.おにぎり屋での食事
そこは初めて大塚駅に来た志光が、クレアに抱かれて走った場所だった。確認のために背後を振り返り、少年の顔つきが変わっていることに気がついた大蔵が彼に声を掛ける。
「どうしました?」
「最初にここへ来た時、敵の魔物に追跡されて、この場所をクレアさんに抱えられて通ったのを思い出したんです。まだ悪魔になっていなくて……」
「ということは、大塚近辺は全然歩いてないんですね?」
「はい」
「なるほど。それなら、今日の昼食は俺に任せていただきましょうか」
「何を食べるつもりなんですか?」
「おにぎりです」
「おにぎりって……あのお米を握ったやつですか?」
「ええ。夏の米は傷んで風味が落ちやすいですが、そのお店のおにぎりは美味しいですよ」
「でも、悪魔って邪素さえ摂取していれば生きていけるんですよね?」
「その通りです。そして食事をしなくなると、人間性を喪失する」
「ああ……食欲、大事ですもんね」
「今日もですが、貴方は俺と一緒に現実世界で人間と折衝する機会が多くなる。そこで人間性を喪失するのを避けるために食事は大事になってくるんですよ」
「その本部って、何の本部なんですか? 今の話からすると、悪魔じゃ無くて人間の組織っぽいですが」
「それは着いてのお楽しみ。先方も貴方に会えることを心待ちしていますよ」
大蔵はそう言うと意味ありげに笑って会話を打ち切った。志光は仕方なく彼の後を付いていく。
おにぎり専門店は、縦穴からほんの数分歩いた場所にあった。白い大きな看板に青で『おにぎり ぼんご』と書かれている。手動の引き戸を開けて中に入ると大きなL字カウンターの中で、三角巾を被った三人の女性が忙しそうに働いている。
まだ正午になっていないのに、カウンターは既に半分ほど埋まっていた。一行は奥から志光、大蔵、茜、クレア、麗奈の順番に座る。ポニーテールの少女が入り口に近い席を取ったのは、道路から襲撃された場合、楯になるつもりだからだ。
「温かいお茶にしますか? それとも冷たいのが良いですか?」
全員が着席すると、店員の一人が志光に語りかけてきた。
「冷たいのをお願いします」
少年が返答すると、白い湯飲みに入った冷茶が運ばれる。
ラミネートされたメニューを見ながら、志光は大蔵を盗み見た。少年の視線に気づいた中年男は、笑いながら無難な答えを返す。
「どれでもお好きな具をどうぞ」
「大蔵さんのオススメは?」
「値段の高いおにぎりなら、明太クリームチーズに卵黄、牛すじ、値段の安いのなら、肉そぼろ、じゃこマヨネーズ、味噌にぎり、ままけはですかね?」
「ままけは?」
「青唐辛子の麹漬けです」
「辛いのは苦手なので……それなら、肉そぼろにじゃこマヨネーズで」
「味噌汁は? 豆腐となめこがありますが」
「豆腐で」
「分かりました。俺が頼んでおきます」
大蔵は女性店員に、自分と志光の分を注文をした。女性陣はこの店に来慣れているのか、めいめいが店員に具材の名前を告げている。
五分から一〇分ほど経つと、四角い皿に乗ったおにぎり二つと、木の椀に入った豆腐の味噌汁が運ばれてきた。おにぎりの頂点部分には、具材が少しだけ添えられているので間違いにくい。
割り箸を割って味噌汁をすすった志光は、しばらく考えてからじゃこマヨネーズに口をつけた。
……信じられないぐらい美味い。
魔界に行ってから邪素しか摂取していなかったので、胃の中が空っぽだという事情もあるのだろうが、それを差し引いても今まで食べたおにぎりとは、明らかにお米もにぎり方も違うような気がする。
「美味しいですね!」
大蔵に食事の感想を告げた志光は、一個目のおにぎりをあっという間に平らげた。
「そりゃあ良かった。連れてきた甲斐がありましたね」
大蔵はそう言いながら、味噌おにぎりを頬張っている。
二つ目のおにぎりに手を出そうとしたところで、志光はクレアが号泣しながら食事をしている光景を目撃した。ただでさえ背が高く目立つ女性が、涙を流しながらおにぎりに口をつけている姿は異様で、店員も客も彼女の様子をうかがっている。
「クレアさん、何か辛いものでも食べたんですか?」
志光は小声で大蔵に質問した。大蔵は味噌汁をすすってから首を振る。
「いや。彼女はいつもあんな調子ですよ」
「嘘ですよね?」
「本当です。先代と現実世界に来た時、食事のセッティングをするのは俺の仕事だったから間違いない。どこへ行っても号泣しながら食べてました」
「理由は訊いたことがあるんですか?」
「いいや。でも、先代から聞いたところによると、人間だった時分に閉じ込められて飢える経験をしたことがあるそうです」
「クレアさん、棄教する前はユダヤ人だったと聞いてるんですが……」
「俺もそう聞いています」
「ユダヤ人が閉じ込められて飢える経験って、一つしか思いつかないんですけど」
「俺も。でも、相手が話さない限り過去を詮索しないのが魔界のマナーですよ」
「分かりました」
志光は意識をクレアに向けないようにしながら、海苔で巻かれた大きな握り飯を口に含み、味噌汁で胃に流し込む。
……やはり美味い。おにぎりを固く握りすぎていないお陰で、米粒の感触を堪能できる。甘辛く煮た肉そぼろも良い。マヨネーズで和えたジャコも良い。食べ始めると手が止まらない。
志光は瞬く間に食事を平らげた。彼が何気なく入り口に視線を向けると、食事待ちの人が列を作っている。早く席を立たないと営業妨害になりそうだ。
幸いなことに、数分も経たず残りのメンバーもおにぎりを食べ終わった。会計を済ますため、大蔵が店の一番奥にあるレジに移動している間に、残りの四人は店を出た。
昼食時の通りはそれなりに混んでいた。麗奈は四方に顔を向けて安全を確認しようとする。
遅れて店から出てきた大蔵は、スマートフォンの画面を見下ろした。彼は小さく頷いてから、クレアに状況を報告する。
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