第36話6-5.右ストレートの打ち方(前編)

「分かったかな?」

「はい。さっきと同じです。僕が前進している間に、麻衣さんは攻撃されない距離まで逃げてしまうんですね?」

「そういうこと。キミのとった姿勢は、組技系の格闘技なら正しいこともある。相手から体当たりされて、転んだら不利だからね。でも、ボクシングの試合でもみ合いになる時間はそれほど長くない。だから、大事なのはいつでも相手の攻撃が届かない距離に逃げられることなんだ」

「でも、逃げてばかりじゃ攻撃できないですよね?」

「そうだね。だから〝出入り〟が大事になる」

「出入り?」

「自分が届く距離にステップインして攻撃し、相手の反撃が来る頃にはバックステップして逃げる。この繰り返しを〝出入り〟というんだ」

「ああ、なるほど」

「組技系の格闘技では、動いて隙を作ろうとする方が格下で、動かないでどっしり構えている方が格上とされるけど、ボクシングは概ね反対だ。細かく動いて相手の攻撃を空振りさせ、その隙に自分の攻撃が届く距離に入って相手を叩ける方が強い。それが上手くいけば、相手の攻撃は当たらず、こちらの攻撃が当たり続けることになるんだからね」


 麻衣はそう言うと、志光の前で前後に素早く動いてみせた。


「一回のステップで、どれぐらい動くものなんですか?」


 少年は短い距離を細かく動く赤毛の女性の動きを眺めながら、新たな質問を口にする。


「それは身長やシチュエーションによって違うから何とも言えないなあ。そういえば、キミの身長は?」

「百七十センチぐらいです」

「アタシと同じぐらいか」

「そうですね」

「じゃあ、四十センチから七十センチぐらいかな?」

「え? 以外と距離があるんですね」

「あるよ。四十センチなら前腕部、肘から手ぐらいまでの長さだ。それだけ下がれば、相手の攻撃は余裕で空振りさせられる」

「言われてみれば確かに……」

「逆にこちらは伸ばした手が届く距離までステップインすればいい」

「どうして伸ばした手なんですか?」

「それが一番強く左ストレートを打てる距離だからだよ。でも、今のキミに教えたいのは逆手のパンチだ」

「右ストレートですか?」

「そうだよ。それがボクシングを象徴するパンチだからね」

「どうしてですか?」

「打ち方が他の打撃系格闘技と少し違うんだよ」

「他のと言うと……空手とかですか?」

「その通り。ただ、違いを説明するには、最初にボクシングのやり方を覚えておいた方が楽だ」

「はい」

「じゃあ、おさらいから。ボクシングは相手に打たれないために、胴体を捻って正面から見た身体の面積を減らす。だから、オーソドックスタイルの場合は左肩が前に出て右肩が後ろになる。ここまでは解るね?」

「解ります」

「この姿勢でパンチを打つのであれば、普通は左の距離の方が右の距離よりも長くなるはずだ」

「左肩が前に出ているから、当然そうなるはずですね」

「ところが、ボクシングの打ち方なら、右ストレートを左と同じ距離まで届かせることができる。この点が、他の打撃系格闘技とは少し違うところなんだよね」


 麻衣はそう言うと、志光の前でファイティングポーズをとった。


「ボクシングの右ストレートは、背骨を軸にした回転力を、拳に伝えることで打つ。だから、よく漫画にあるように、大きく前に踏み込んでパンチを出すことはない。打つ時には、止まった状態で打つんだ」

「はい」

「右ストレートの初動は腰の回転から始まる。オーソドックススタイルの場合は、腰をぐいっと左側に捻る。そうすると、同時に右脚の太股も左側に回って、その前側が左脚の太股の内側に密着する。下品だけど、キン×マを挟むとかオシッコを我慢すると言われる格好だね」


 赤毛の女性は腰を捻り、右脚の太股の前面を左脚の太股の内側にくっつけた。正面から見ると、膝から下をハの字にした格好で、オシッコを我慢している姿に見えなくもない。


「この動作からコンマ何秒だけ遅れて上半身も左側に捻る。胸を張った状態なので、背骨に近い胸、肩、腕の順番に回る感じだね。大事なのは、ここまで腕の力はほぼ使わずに動いていると言うことだね」

「どうしてそれが重要なんですが?」

「腕の力を利用してパンチを打ち続けていると、疲労で腕が上がらなくなるからだよ。そうなったら、後は一方的に打たれてオシマイだ。だから腕の力は最低限しか使わず、できるだけ身体についている筋肉を利用するんだ」


 麻衣は再び腰を捻ると同時に、今度は上半身も同時に動かした。彼女の顔よりも後ろにあったはずの右肩が、背骨を中心に回転して前に来ると、右腕がまっすぐ伸びてパンチングミットを志光の鼻先に突きつける。


 まるで、ミットがいきなり大きくなったのかと錯覚するような動きだ。ゆっくりだったにもかかわらず、避けることが出来なかった。


「凄い。いきなり手が大きくなったのかと思いました」


 志光は素直に脱帽した。赤毛の女性は口角を上げると、伸ばした手を元の位置に引っ込める。


「弧を描く運動の先を予測することは容易なんだ。でも、自分に対してまっすぐ伸びてくる攻撃の距離を正確に認識するのは難しい。ストレートに限らず、刀や槍の突きが攻撃として有効だと言われている理由だね」

「でも、このパンチを覚えるのは難しいんですよね?」

「そうだね。普通は半年かかるかな?」

「一日にどれぐらいの練習量で半年なんですか?」

「それも個人差があるからなあ……アタシがキミのために立てた計画では、一日の練習時間は九十分、休息も入れるとだいたい二時間ぐらいだね」

「できない……とは言えない量ですね。もっと多いと思っていました」

「新棟梁就任までに、こなしておかなければならない様々な手続きがあるから、生活の全てをボクシングに捧げるのは無理だよ」

「でも、その練習を百日こなせば、左右のストレートを覚えられるんですよね?」

「アタシはキミに一日千発ずつ左右のストレートを打たせるつもりだよ。百日で十万発だ。それだけ繰り返し同じパンチを打てば、運動の自動化が起きる。後はセンスだね」

「運動の自動化?」

「博学なキミにしては珍しいね」


 おやっという面持ちになった麻衣は、興味を示した少年に簡単な説明をする。

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