第35話6-4.ボクシングの構え(後編)
「足がちゃんと捻れているかどうかは、上から見下ろせば分かる。足先と膝が同じ位置にあるなら駄目だ。膝が身体の内側に入っていれば正しい構えだよ」
「分かりました。こうですか?」
「そうだね。じゃあ、次は手の位置だよ。左手は肘から先を地面に対して垂直に立てつつ、拳を目の位置まで上げる」
「こうですか?」
「いや、駄目だね。肩まで一緒に上がってしまっている。肩は下げた状態で、拳だけ上げるんだ。これも難しいよ」
「本当だ。腕を上げようとすると、肩も一緒に上がっちゃいますね」
「最初は焦らず、ゆっくり上げて」
「こうですか?」
「そうだ。次が一番難しい右腕の位置だ。鏡で見た時に、両手は顔を挟むような位置になければならない。ところが、身体は左肩が前に来るように捻っている。つまり、右腕は顔よりも後ろの位置にある」
「分かります」
「これを顔の位置に持ってこようとすると、右腕の二の腕、要するに肩から肘までの部分で自分の右乳首を上から押さえつけるようなポジションに置かなければならない」
「ああ……これは難しいですね。二の腕がパンパンになってます」
「最初はみんなそう言うよ。でも、正しい位置に来ている。それで、拳を顎のあたりにまで上げるんだ。左腕と同じように、肘から先を地面に対して垂直に立てるんだよ」
「こうですか?」
「…………うん。最初にしては、だいぶ良い感じかな? 最後に拳の握り方だ。人差し指から小指までの指を内側に曲げて、親指を人差し指と中指の第二関節に添える。強く握っては駄目だ。打撃は人差し指から小指のつけ根から次の関節までの部位で行う」
「こんな感じですか?」
「そうだね。後は練習中に嫌でも覚えるだろうけど、あまり小指を相手に当てない方が良い」
「どうしてですか?」
「人差し指に比べると小指は力が弱いから、パンチ力に負けて傷めやすいんだ」
「ああ、なるほど」
「当てるなら、できるだけ人差し指と中指の部位が良いね。後は親指のつけ根が相手に当たらないように注意すること。これはフックを打つ時に起こりやすい怪我だから、今回はそれほど気にしなくて良いかな?」
「はい。これでいいですか?」
「OK! 良い感じだね」
志光に細かい駄目出しをしていた麻衣は、彼のとった構えをじっと観察してから、ようやく首を縦に振った。少年は安堵のため息をつきつつ、ボクシングの構えの異様さに驚愕する。
まず、足先と顔以外は常時右側に捻っている状態なので、普通に動けない。また、右の上腕を右の乳首に押しつけ続けるため、筋肉をずっと硬直させていなければならない。比較的自由に動かせるのは左肩から先のみだ。こんな格好でどうやって戦えるのか、皆目見当も付かない。
「これ、凄く不自由な格好ですよね」
「そうだね。よく柔道や合気道の構えの一つである自然体と比較して、不自然体と呼ばれているよ」
「どうして、不自然な格好をするんですか?」
「ボクシングは殴り合いだから、こちらの身体をできるだけ敵に晒さない構えが望ましい。ただ、だからといって真横になってしまうと相手に簡単に攻略されてしまうし、それに右腕が使えない」
「攻略されるってどういうことですか」
「知りたいかい?」
「はい」
「じゃあ、構えを解いて、今度は普通に真横を向いて」
「はい……こうですか?」
ファイティングポーズを止めた志光は、続けて左肩を麻衣に向け、彼女から見て真横の姿勢になった。すると麻衣は伸ばした腕で大きな弧を描き、パンチングミットを彼の喉元に強く押しつける。
そうされただけにもかかわらず、志光はバランスを崩して後ろに引っ繰り返った。麻衣は少年を見下ろしながら、不敵な笑みを浮かべる。
「どうだい? 分かっただろう?」
「こんな簡単に転ばされてしまうんですか?」
「両脚が揃っているからね」
「ああ……平均台の上に乗っているのと一緒なんですね?」
「そういうこと。これが試合なら、もうキミは一回ダウンをしたことになるよ」
「分かりました」
「それじゃ、最初に教えた格好になるんだ」
立ち上がった志光は、時間をかけて最初に教わった構えに戻った。だが、やはり普段は絶対にしない姿勢に違和感を覚えずにはいられない。
「あの……質問しても良いですか?」
「何かな?」
「相手から攻撃されないように、身体を斜めにして正面から見える面積を減らすのは分かったんですが、どうして足を軽く曲げる必要があるんですか?」
「それは凄く良い質問だ。それじゃ、逆のことをしてみよう。膝を伸ばしてまっすぐ立つんだ。両方のかかとは床に着けていい」
「はい」
志光が両膝をピンと伸ばすと、麻衣は次の指示を出す。
「じゃあ、その姿勢で前進してごらん。ただし、足を交互に出しちゃ駄目だ」
志光は言われたとおり膝を伸ばしたまま前進しようとした。しかし、まず後ろにある右足に全体重を乗せ、次に軽くなった左足を宙に浮かせて股関節を開いてから、左足を床に下ろし、最後に右足を左足に引きつけて股関節の角度を元に戻さないと、身体が前に進まない。
「どうだい? 膝を伸ばして前進するのは?」
麻衣はニヤニヤ笑いながら、少年が悪戦苦闘する様子を見ていた。
「面倒臭いですね」
志光は首を振りながら元の姿勢に戻る。
「その間に敵はどうすると思う?」
「……すみません。ちょっと分からないです」
「じゃあ、アタシが敵役をしてあげるから、もう一度同じ動きをしてみてごらん」
少年が両膝を伸ばすと、赤毛の女性はわずかに膝を曲げた。そして、彼が後ろ足に体重をかけて前足を上げている間に、短いスタンスでススッと二歩ばかり後退してしまう。
「分かったかな?」
「分かりました。僕が前に進もうとして、後ろ足に体重をかけている間に、攻撃されない距離まで逃げられるんですね?」
「そういうこと。膝を曲げた姿勢で前進するコツは後で教えてあげるよ。他に質問は?」
「足の幅です。どうして肩幅以上に開かないんですか? さっきされたように、押されても倒れないようにするなら、足を肩幅よりも開いて膝を曲げて腰を落として踏ん張った方が良いですよね?」
「それも凄く良い質問だね。実際にやってみよう」
「分かりました」
麻衣の前に立った志光は大きく脚を広げ、深く膝を曲げて腰を落とした。赤毛の女性は先ほどと全く同じポーズになる。
少年は前進しようとするが、今度は最初に前足に体重をかけ、軽くなった後ろ足を前足に引きつける形で足の幅を狭め、続いて後ろ足に体重を乗せて前足を軽くして、ようやく前進ができる有様だった。その間に、麻衣は先ほどと同じように、短いスタンスでススッと二歩ほど下がってしまう。
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