第37話6-6.右ストレートの打ち方(後編)
「運動の自動化というのは、運動学習の一種で、何も手順を考えずに身体を動かすことができる段階を指す。たとえば、靴紐を結び慣れたら、どうやって結び目を作っているのか考えなくても、指が勝手に動くようになるだろう? あれだよ。正確には、運動学習を認知段階、連合段階、自動化段階に分けて考えるんだ」
「認知段階というのは、身体の動かし方のパターンを覚えると言うことですよね? 連合段階というのは?」
「認知段階で言語化して覚えた運動を、どのように行うのか試行錯誤する段階だね」
「そして、最後に運動が自動化する?」
「そういうこと。敵をぶん殴る時に、いちいちパンチの出し方を言葉にして確かめていたら負けるからね。戦っている時は、相手の様子を観察したり、自分の状態を確認するので精一杯だ。とてもパンチの出し方なんて考えているだけの心の余裕がないんだよ」
「それは確かに」
「そこで、靴紐の結び方のようにパンチの打ち方も覚えて、いざという時に何も考えず拳を突き出せるようにするわけだ。それじゃ、右ストレートの練習を始めようか」
麻衣から練習を促された志光は、最初に教わったファイティングポーズをとった。足首から上が捻れ、右腕の上腕部がパンパンに張り、両脚の踵を浮かせているので、常に姿勢が不安定なあの格好だ。
こんな窮屈な姿勢で、一体どうやって強いパンチなど打てるのか?
少年は疑念を抱いたまま腰を回し、右腕を正面に突き出した。だが、何回か同じ動作を繰り返していると、赤毛の女性は大きく首を振って練習を中止させる。
「駄目だ。全然なってないね」
「どこが違うんですか?」
「姿勢が窮屈だから、肩を上げてパンチを打ってるじゃないか」
麻衣は志光の真似をして、身体を横に曲げると左肩を下げて右肩を上げ、そこから腕をまっすぐ伸ばす動作をした。
「ああ……確かにそうなっていましたね」
「キミのやっていることは、人体の構造的には正しい。もしも、人間が自然に拳をまっすぐ突き出そうとしたら、肩を上げてパンチを打った方が楽だ。でも、これじゃ駄目だ」
「理由を教えてください」
少年の疑問に、赤毛の女性は右肩を上げる動作を繰り返した。それから彼女は最初の構えに戻り、肩を上げずにやはりストレートを打つ動作を繰り返す。
「これで解ったかな?」
「何となく解りました。肩を上げてパンチを打つと、肩が上がった瞬間に、相手にパンチを打つことが伝わってしまうんですね?」
「正解だよ、志光君。やっぱりキミは頭が良いね。肩を上げて打っても良いのは逆手のパンチだ。右肩を上げたなら下がった左肩でパンチを打つのはありだし、逆もまたしかりさ。でも、今はその練習はしていない。説明したたとおりのフォームでパンチを打つんだ」
「はい」
志光は日常生活では決してとらない姿勢になり、右ストレートを打ち始める。しばらくすると、またしても麻衣が大きく首を振る。
「駄目だ。足の幅が広がりすぎている」
「強いパンチを打とうと思ったら、下半身が安定している方がやりやすいと思って……」
「その通りだ。足をより大きく開いて腰を落とした方が、安定してパンチを打つことが出来る。しかし、最初にやってもらったように、その姿勢だと短い歩幅でチョコチョコ逃げる相手には追いつけない。それに、もう一つ大きな問題がある。拳が届く距離だ」
「拳が届く距離?」
「これも実際にやった方が分かり易い。まず、さっきやっていたのと同じように、脚を大きく開いた状態で右ストレート打ってごらん。ただし、打ち終わりの姿勢で身体を止めるんだ」
「はい」
志光は言われるまま脚を大きく開いた状態で右ストレートを打った。麻衣は彼の前まで歩いてくると、突き出した拳の先端から少し離れた位置にミットを固定した。
「じゃあ、今度は足幅を狭くした状態で右ストレート打ってごらん」
「はい」
肩幅まで足を窄めた少年は、同じように右拳を放つ。しかし、その先端はパンチングミットに当たり、大きな破裂音を起こさせた。
もしも、スタンスが広い時と拳の到達点が一緒なら、起こりえない現象だ。ということは、歩幅を狭くした方がパンチが伸びているということになる。
「どうだい? 解ったかな?」
「……足の幅が狭い方が、パンチが伸びるってことですか?」
「ちょっと違うかな。脚を大きく広げるというのは、その分だけ脚が前にも後ろにも伸びると言うことだ。つまり、足の位置が同じでも、スタンスが狭い時より胴体が相手から遠ざかっているんだ」
「ああ……」
「だから、同じ背格好で大きく脚を広げた選手とスタンスが狭い選手が打ち合ったら、後者の方が遠くまでパンチが届くので有利になる。もっとも、相手の背が高かったり低かったりしたら、今の話は当てはまらないけどね」
「いや、でも理屈は解りました。直します」
「OK! じゃあ、続きを始めよう。これからは時間を計っていくよ。ボクシングらしく、一ラウンド三分の後に一分の休憩を挟む形で、今のパンチを千発繰り返すんだ。アタシが出したミットに当てて」
麻衣はやや膝を曲げるとパンチングミットを構えた。
「はい!」
大声で返事をした志光は、ミットにめがけて右ストレートを放つ。
背骨を軸に左側に捻った身体を元に戻す勢いで拳をまっすぐ突き出す、という動作を短い間隔で延々続けていた少年の前身から汗が噴き出した。しかし、麻衣という監視が目の前にいるせいで、運動のペースを落とせない。合計十ラウンド、時間にして四十分近く同じ動作を繰り返していると、息切れと筋肉痛で意識が朦朧としてくる。
そこに階段を上って麗奈が現れた。ポニーテールの少女は眠そうな顔で脱衣用の籠が置かれている棚まで歩いて行くと、その場で制服を脱いで下着姿になった。色は薄い水色だ。
右ストレートの練習を自主的に中止した志光は、麗奈の胸と股間を凝視した。そこに麻衣の腕が伸びてきて、パンチングミットを彼の顔にグリグリと押しつける。
「ぶぶっ!」
不意を突かれた少年はその場にしゃがみ込んで顔面を押さえた。赤毛の女性は手を腰に当てて志光を罵倒する。
「志光君。もう童貞じゃないんだから、いい加減に女の下着姿ぐらいでいちいちガン見するのは止めなよ」
「気になるんですよ! 麻衣さんだって男が下着姿だったら気になるでしょ?」
「まあ、アレの大きさは確認しておきたいよね。後は尻の大きさも……」
「それと一緒ですよ! 無意識のうちにやってるんだから、放っておいて下さいよ!」
「いやいやいや! 練習中に着替えをガン見するのは駄目に決まっているだろう」
志光と麻衣が口角泡を飛ばしてやり合っていると、騒ぎを聞きつけた麗奈が二人の側にやって来た。
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